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目の前に転がった1円玉を拾うべきか

病院での診療が終わった後、薬をもらいにロビーを出てすぐ左の薬局に入った。

順番を待つ間に座った席は、受付及び会計カウンターのすぐ後ろ。
ソファに座りながら本を読んでいると、会計をしているおばあさんが財布から小銭を落とした。
その小銭は一枚だけで、僕の目の前にコロコロと転がって、止まった。1円玉である。

おばあさんは、小銭の在処を見つけられないでいる。
僕からすれば、座ったままでは届かないので、一歩踏み出して拾い上げる必要があった。

僕は逡巡した。

「この1円玉は拾うべきか?」と。

1円玉を拾うコストは1円玉以上のコストがかかるから、拾わない方が良い・・・と聞いたことがある。
ソースは不明だったが、後から調べると評論家の竹田恒泰氏のブログが引っかかった。

以下はその引用である。

一円玉を拾うときに膝を曲げてしゃがむと一定のカロリーを消費するのであるが、そのときに消費したカロリーを食物で摂取する場合に平均的に4円50銭かかるという。
従って、5円玉を拾う場合は50銭の利益を得られるが、いざ1円玉を拾ってしまうと、なんと3円50銭の損失がでるのである。
(竹田恒泰公式HPより)

さらに、僕の場合は座って本を読んでいたので、本を一旦閉じて、置いて、立ち上がり、一歩踏み出し、しゃがんで拾い上げることになる。
およそ倍のカロリーだ。
なので、自分の都合だけを考えると、拾わないことがベターである。


次に、おばあさんの都合を考えた。
おばあさんは、小銭を落としたことは気づいているが、「それが何円か」は知らないだろう。
どこに転がったかもわからないので、自分の足元だけをキョロキョロと見回している。
サッと拾ってやれば、おばあさんの問題はすぐに解決するだろう。
しかし、もし自分が落とした小銭が1円玉だと知った時、おばあさんはこちらに対する申し訳なさを抱いてしまうのではないか?
これが僕にとって一番の懸念だった。

「たった1円のために申し訳ない」と、帰り道で罪悪感に苛まれないだろうか。
逆に「1円玉を拾ってもらっただけで頭を下げなきゃいけないなんて癪に触る」という過激な方である可能性も捨てきれない。
しかも、頭を下げてお礼を言う時に生じるカロリーもおそらく1円玉以上のコストだろう。

そんなことは親切の押し売り、小さな親切大きなお世話でないだろうか?

そんなことを考えている間に、隣のソファに座っている女性がサッと1円玉を拾い、おばあさんに手渡した。

おばあさんは、ニコッと「ありがとう」と言い、女性も笑顔で返事をした。

その時、僕は大きな損をしたことに気がついた。

まず、おばあさんの「ありがとう」と笑顔には、間違いなく1円以上の価値があったと感じた。
また、女性の親切は決して押し付けがましくない。というかよく考えたら押し付けがましいわけがないのだ。真心からの親切とは、反射的なものだから。
だからこそおばあさんも「すいません」ではなく、素直に感謝を述べたのだ。
そのやりとりには、間違いなく1円以上の価値があった。

さらに、その空間の中で、僕は「近いのに小銭を拾わない不親切な奴」という耐え難いマイナスイメージを得ることとなった。これは、1円を拾うカロリーどころではない、とんでもない損失である。
もちろんその場に知人はいなかったが、不親切だと言う事実は変わらないし、なにより自分自身が僕に対してそのレッテルを貼ることになるのだ。

・・・というか、人が困っている時に損だ得だと考えたり、相手の意図を勝手に想像したり、とにかく行動に出ない自分が恥ずかしかった。いい年してなにしてんだおれ。

結論。
目の前に転がってきた1円玉は拾った方がいい。
困っている人がいたら、あれこれ考えずにサッと助けてやる。
これは損得ではない。人間として大切なことだ。

当たり前すぎることだが、一人であれこれ考える癖が招いた、恥ずべき出来事でした。

おわり

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