古代の地形を見れば、神社の役割がわかる?
僕は仕事柄、寺社仏閣に関わることが多いのだが、個人的にもそれらの歴史や背景を調べるのが好きだ。
専門家ではないが、素人でもない。いわゆる趣味の領域である。
信仰心ベースではなく、歴史ベースでそれらの宗教施設を巡ると、信仰心だけで参拝していると思いもよらない役割が見えてくることもある。
特に好きなのが「地形と寺社仏閣」の関連性だ。
有名なところで言うと、比叡山は京の都の鬼門を守るためとか、東照大権現は江戸の街の鬼門を守るためとか、そういった説が有名だ。
しかし、もっと現実的で、もっと当時の政権に直結するものが数多くある。
それが、古代の神社だ。
古代の神社と当時の朝廷の事情なんかを照らし合わせると面白い。
今回は、北関東の代表的な神社・鹿島神宮、香取神宮、そして大阪の住吉大社についてについて語ってみよう。
鹿島神宮、香取神宮は、それぞれ武甕槌命、経津主命という武神を祀っている。瓊瓊杵尊の天孫降臨説話で、武力をちらつかせて出雲の神々を脅して屈服させたバリバリの武闘派だ。
結論から言えば、両神宮の役割は古代に東日本の蝦夷を討伐・牽制することにあった。
大和から真東に進めば伊勢湾がある。そこから船を用いて三浦半島などを経由しながら関東に出て房総半島を回り込めば、北関東にまで多量の物資と人員を運び込める。こうして大和政権は、北方の蝦夷に睨みを効かせていたのだ。
しかし、海沿いばかりに拠点を置いていても仕方がない。ある程度内陸を占拠し、敵方の物資運搬を阻む必要がある。出なければ、逆に船に乗ってこちらが攻め込まれる恐れがあるからだ。海に出られては手遅れなので、内陸交通の要衝を抑えておく必要がある。
さて、その前提知識の上で、利根川流域に鎮座している両神宮を見てみると、現在の地図ではどこか中途半端な場所に建てられているように見える。
確かに内陸に食い込む霞ヶ浦から利根川へ出る要所を押さえてはいるのだが「どっちかで良くない?」と思ってしまう。
けれど、古代の地図を見てみるとその重要性がわかる。
かつてはこの地は香取海と呼ばれる巨大な内海があり、現在の茨城県から千葉県北部にまで広がり、川を通ればさらに内陸まで進むことができた。
両神宮は、その広大な内海の入り口に鎮座しており、内海から海へ進出する蝦夷の勢力を抑え込むために両岸を支配していたのだ。
大和朝廷が北方を征伐・牽制するために必要な物資や軍を運び込むための要衝で、関東の支配の重要な土地だったことが伺える。
次に、大阪で最も有名な住吉大社を見てみよう。
住吉大社の祭神は、住吉三神と呼ばれる底筒男命、中筒男命、表筒男命。読み方はググってね。
この神々は、伊邪那岐命が禊を行った際に海中から生まれたことから、古くより海の神、特に航海の神として関西の船乗りに篤く信仰されてきた。しかしこちらも、現在の地図を見ると、海沿いにあるようには見えない。
こちらは、古代の水位を示した地図を見てみよう。
かつての大阪の地は、内陸まで河内湖という巨大な内海が広がっており、住吉大社はその海岸線に鎮座していた。
ちなみに大阪の代表的な繁華街に難波、もしくは浪速とも呼ばれる場所があある、この河内湖の入り口を指しており、海流が激しく複雑に入り込むことからこの地名が付けられたそう。河内湖からは、大和川を登って奈良盆地にまで、淀川を通って京都にまで抜けることができた。
奈良や京都は内陸深くにあると思いきや、実は船で海に出ることができた。
それは、物資や人員を大量に送り込むことができると言うことだ。
つまり、古代朝廷から見ると住吉大社周辺は海路で日本全国、果ては外国へとつながる重要な出入り口だったのだ。
水の神である住吉三神が祀られてきたのは、朝廷にとって最も重要な大阪の海を守ると言う役割ゆえだったのである。
他にも、土地の特徴とその歴史から「なぜこの寺社が建てられたのか」を知ることができる例は無数にあるため、今後も思いついたら書き残していこうと思う。
おわり
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