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自由意志という名の幻想:それでも自由になるには

「自由」は、誰しもが心の中で求めているものの一つかもしれない。

何もかもを自分で好きに決められるというのは幸せなことだ。(もちろん過度な自由は、退屈や責任といったこととも裏腹ではあるが)

逆に頭に浮かんでいることを自由にやれないというのはかなりの苦痛だ。それは忙しさや世間体、金銭的な問題にせよ、制限が生じるとまるで獄中にいるような感覚になる。

自由というのは人間の幸福に欠かせない。

人類はこれを獲得するために世界中で戦いや運動に明け暮れ、現在のそれなりに自由を謳歌できる社会を作り上げてきた。

だが「今の自分」があるのは、自らの自由意志や自身の選択の一つ一つによってのみであると考えるのは少しおこがましいのかもしれない。

例えば、暇な時にぼーっとしているとやりたいことが浮かんでくる。

これは自分一人の思考の中から生まれてきたものなのだろうか。それとも生物としての本能的なものだろうか。

我々は遺伝や家庭環境、社会状況や人間の本能といったものに根本的には支配されているとも言える。(人によっては因果の理やら波動といったものもあるかもしれない)

人の毎日の行動における約70%は、日々のルーティンによるものであるとも言う。

そう考えると自らの行動の一つ一つを自分で決めているとは到底思えなくなってくる。これが我々の一生にまで影響を与えてくると考えると恐ろしくもある。

(一方で自分の行動や人格を決めてくれることからは、安心感を得ることができるのも事実だろう。これは性格診断の結果を当てにしたり、暇になるとSNSの通知を求めることからわかる)

だが別に自分ひとりですべてを決められないからといって、それが「自由」でないとは私は考えない。

あくまでそれらの影響を受けていたとしても、だからといって自らの人生のすべてが決定されてしまったというわけではないだろう。

何事も自分で明確には把握することができない部分がある。そして得てしてそうしたものは、認知しないうちは自分にとって存在しないものであるらしい。人は自分の知らないものを反射的に否定すると言うが、やはりこれはいろいろと都合がいいのだろう。

そしていずれにせよ、まだ自分で決定できる範囲が少なからずあることにも気づける。多分これが残っているうちは、我々は「自由」を感じ続けることができる。何に対してもあくまでコントロール権を持っておきたいと考えるのが人間心理だ。(これが他者にも及ぶと、依存やDV、パワハラなどに変わるのだろう)

そう考えると我々が生きていく限りは希望がある。自分自身も含め、良くも悪くも人を完全に制御することなんてできないのだから。そこには自分が入り込む余白が必ず存在する。

一日の予定にしても人生全体の計画にしても、迷ったら自分の直感に従った方がいいと言われる。そうしておくと後悔が少なくなる。これも多分自分で選んだ感じが出るからだろう。

たとえ明るい未来が見えにくい不安な暗い状況にいたとしても、今の自分にできることに目を向け、あくまでその中で自己決定権を行使していく。この姿勢を持てれば、少なくとも身の回りのことに関しては希望を持つことができるに違いない。

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