私たちがAIに問われたものをもう一度考える
昨今話題に上ることが多い「AI」
この登場と発展によって、人間社会の価値観や物の考え方が根本から問われているのは間違いないだろう。
人は科学やテクノロジーの発展とともに、それまでの常識や生活様式をがらりと変化させられてきた。古くは農業革命や科学革命、情報革命などがある。これによって「人間」のあり方自体が問われてきた。
今現在それにあたるのが、AI革命であるのは間違いないだろう。
「民主化」
インターネットが出てきたことによって「知識や情報の民主化」が起きた。誰もが簡単に最先端の情報にアクセスできるようになった。
昨今の生成AIの発展によっては「表現や技術の民主化」というものが起きている。誰もがプロ顔負けの作品やアウトプットを生み出すことができるようになった。
ここに将来的にはASIなる超知性が誕生してくるらしい。そうなると「思考や発明の民主化」といったことが起きてくる。これを使えば、誰もがこれまで人類が考え出せなかったアイデアを簡単に生み出すことができる。
そうなると、人間だけに残されているものは何があるのだろうか。ここまで来るとあとは「五感や魂」くらいしかないような気もする。
(「才能の民主化」と言うのは語弊があるかもしれない。才能というのはあくまで結果に至るまでのプロセスの中で躍動するものであって、最終的な作品や発明といったものはあくまでその副産物に過ぎないとも言える。それを可能にする知性や精神があるから、その人はすごいのだ。今現在、これまでの価値や才能といったものについての見解が根本から問われていることになる。人類はこれまで優れたアウトプットを出せる事が才能と考えてきたが、そこはAIの得意分野であったのは面白い)
働く意味
また人間のやることがなくなった場合、何が価値になっていくのだろうか。これは考えておいて損はない。(2045年くらいには機械があらゆる労働をしてくれるようになるらしい。いわゆるシンギュラリティ)
やりたくない事はやらなくていい。これは人が大昔から願ってきたことではあるが、ようやくそれがかなり現実まで近づいてきているのかもしれない。人間はやりたいことや楽しいことだけをやって、後の雑務や生きるために必要な事は、機械やAIに任せてやってもらうことができる。
もし仮にこれが実現して人間が働く必要がなくなったら、私たちはなぜ仕事をするようになるのだろうか。
仕事というのは自らの時間を売って、お金を稼ぐために、すなわち生きるために生活するためにやるものであると考えられていることが多い。仕方なく金を稼ぐために働くしかない。
そうした状況にある人は少なくないが、AIによって、こうした業務的な仕事がなくなっていくと、 人は途端に暇を持て余すようになるだろう。何もすることがなくなると退屈が募って不幸を感じてしまうのが、また人間の面白いところでもある。そうしてまた働き始めてしまうらしい。
これが顕現化してくるのも時間の問題だろう。結局人は自分の能力を発揮して他者に価値を提供したいと考えるのが常であるから、仕事はこれを達成するための機会であるべきとなる。今私がこうしてだらだらと文章にしているのも、そういうことなのだろう。
過程と動きの中にある喜び
過程の中にある動作や運動そのものだったり、その中で感じることができる楽しさや喜びのようなもの、結局それが大事になってくる。
仮にたとえ実際にその行為をせず同じ結果になるのだとしても、人は多分おいしいものを食べるし、散歩や運動をするし、読書をしてあれこれ考えるし、音楽を聞いたり映画を見たりするのだろう。
それで何かが得られるのかといったものよりも、シンプルにそれをしているのが楽しいからだ。こうした感情というか心の動き。結局人間に残されているところはここになる。人にはこだわりや偏愛みたいなものがどうしても求められてきそうだ。
だから自分は何が好きかというのはよく考えておく必要がある。結局「今」を生きるのが1番大事なのかもしれない。あまり考えず刹那的、動物的に生きることができれば、一周回って人生を最も楽しむことができる。今まで必要だと考えられていた、先読みだったり将来を見越した思考というのはAIがやってくれるのだから。逆転現象が起きているのかもしれない。ここでもやはり大きな転換といったものが見受けられる。
自分より賢い存在との邂逅
人間はものを考えなくても良くなるのかもしれない。なぜならAIの方が数千倍も優れた思考をできるようになるのだから。
そうなると人間のやる事は、解決するべき課題を見つけたり、AIが考えた道筋を実際に形にしていくプロセスを担当していくことになるのだろう。やはりAIの下で人間が動かされるということになる。(あくまでサポートしてもらっていうと考えることもできるが)
人間より頭の良い存在と言うものが生まれてくることになる。こうなった時に、人はそこで自らの価値をどのようにして保つことになるのだろうか。
これは人間の尊厳を毀損しないのか、考えものだ。AIによって正解やゴールが導き出されたとしたら、人はどういうことにやりがいや達成感を見出していくのだろう。すでに決まりきったルートの中を歩んでいくことになるから、未知のものを発見することによる快感のようなものは少なくなるのかもしれない。
「クリエイティブ」
いずれにせよこうしたことが進むと、人には自由に使える時間が生まれる。そこでまた楽しいことをする。このスパイラルだ。よくあることで、ここでも創造的な活動が増えるのかもしれない。余裕が創造を生み出す。でもそうしたことはAIが答えを出してくれるのであるから、なんだか八方塞がりな気もする。
しかしAIを使って創造的なことをするということが、人間の創造的な営みと捉えられ直すのであれば、あくまで我々は「クリエイティブ」なことをし続けていくことができるのかもしれない。全てを自分自身の手でやらなくてはいけないという事は無いのだ。(ここにはプロ棋士とAIの関係が応用できるかもしれない)
これを許容することによって、圧倒的なクオリティーと量を担保した思考や創作、発明が生まれていくことになる。より良い未来がやってくるのかもしれない。まずはすぐ目の前まで迫っているこのAI社会をポジティブに捉えることができれば、より良い人生を歩むことができるのだろう。未来には希望があった方がいい。
まとめ
こうした揺れ動きのようなものは、ここから数十年間、人間が大いに経験していくことになるのだろう。人類史上未だ誰も見たことがない領域だ。そこにはやはりまだ未踏の葛藤や苦しみ、マイナスの面といったものも出てくるのは間違いない。
しかしそうした時代の流れに反発したところで、大抵そのうねりの中で淘汰され、破滅することになるというのも歴史が証明している。だからこれには抗わない方がいいだろう。無駄な抵抗だからだ。それよりも自ら積極的に触れていって、自分で使いこなして味方にしようとする方がよっぽど生産的だろう。
人間はこれからどうなっていくのか。自分より「偉大」な存在を受け入れられるのだろうか。自分がこれまで見下していたような存在に、自らが成り下がるという状況に耐えることができるのか。(神の時代の再来か)あくまで人は掌握権を感じながら、この世界で生きていくことができるのだろうか。
そうした微妙で繊細な領域というか、未曾有の感覚を探っていくためにも、日々新しいテクノロジーを自分から能動的に使っていくのが大事になりそうだ。