30年前のノートが教えてくれたこと
朝からとても天気が良い。まさに春と言った陽気で、起きてすぐに窓を全開にし、せっせとベッドを整えた。今日から毛布はいらないか。掛け布団の下から毛布を引っ張り出して洗濯した。新鮮な柔軟剤の香りを纏う毛布をたたみ、クローゼットの圧縮袋に入った春夏の服と入れ替える。いざ、クローゼットに圧縮した毛布をしまおうとするも、うまく収納できず。スペースを空けるために、急遽、断捨離をすることに。クローゼットで幅を利かせているストレージボックスの中身をガサガサと出しては、いるもの・いらないものを分け、ソファの上に山積みにしていく。断捨離は得意な方で、今の自分に必要ないと思うものはあっさり捨てる。いつか読み返すかもと取っておいた、起業時の苦労が詰まった仕事ノートも、容赦なく捨てた。いつだって「今の自分」が答えだ。過去があって今の私(現在)があるけれど、未来においては、過去じゃなくて、「今の私(現在)」が作る。そんなふうに考えるようになってから、いろんなものへの執着が薄れ、断捨離も得意になった。
テンポよく断捨離していたら、シミだらけでボロボロのノートが2冊出てきた。うっかり「いらないもの」の山へ積みそうになったが、なぜか思いとどまった。なんとなく、捨ててはいけない気がする。ノートの表紙に目をやると、私の名前と幼稚園時代のクラス名、「家庭連絡ノート」の文字。ああ、確か母が実家の荷物を整理していた時、アルバムと一緒に私に送ってきたんだっけ。ノートを開くと、そこには母の文字で幼稚園に編入して1ヶ月経った(年少時に一度、ガキ大将の男の子と大喧嘩をして転園した)、私の様子が書かれていた。丁寧に書かれたその文字の様子から、これは母の個人的な日記ではないと思った。さらにページをめくると、母が書いた私の様子に対して、幼稚園の先生からの返信が。どうやら、先生と母との間で園と家庭それぞれの日々の様子を共有するための連絡ノートらしい。およそ30年前のそのノートの中にいる母は、おそらく今の私と同い年。私と同じ歳の母が、新米母としてどうやって子育てしていたのか。私の知らない母の姿がそこにある気がして、断捨離はひとまず休憩。読み進めることにした。
男の子とのケンカが理由で転園したにもかかわらず、また転園先でも懲りずにケンカしている30年前の私に、30年後の私もハラハラドキドキ。懲りないやつだな、と思わず笑ってしまった。この後、小学校・中学校・高校と、母にはとびきりの苦労をかけることになるが、まだこの頃の母は露知らず。
私はこの頃から、自分のやりたいこと、嫌なことに対してハッキリと言葉にして表現していた。そして、そんな私に戸惑う大人たち。(この構図はずっと変わらない気がするが)なんとかしっかり向き合ってくれようとしている母や先生の姿に温かい気持ちになった。
納得いかないこと、理解できないことについて、大人に聞いて周り、自分なりに咀嚼して飲み込む。それを自分の言葉にして誰かに話したり、表現する。私は30年の時を経て、Podcastというカタチに変えて、同じようなことをしているのかもしれない。あの時の私がもし本当に周りのお友達にいい刺激を与えられていたのだとしたら、今のPodcast「ハダカベヤ」も同じように誰かの刺激になっていてほしいと思った。
ノートを読み進めていくうちに、いくつかのページが破り取られていることがわかった。これは母が意図的にしたことなのか、子供の私がうっかり破ってしまい抜け落ちた箇所なのか。真相はわからないが、大抵そのページの前後で母が「メグミにキョウダイをつくってあげたい」と書いていることに気づく。そして、ある日を境に1ヶ月近く「家庭連絡ノート」のやり取りが途絶えていた。久しぶりに書いたであろう母の日記は短く、要件のみが書かれている。なんとなく、元気がない。ふと、当時の記憶を手繰り寄せる。3歳か4歳の頃の母の姿。もちろん、子供だった私にはいつも通りの母のように思えたし、そこまで細かく何も覚えてはいないが、突然ある日の出来事がフラッシュバックした。
私は、いつものように夕食を作る母の気配を感じながら、リビングでディズニーアニメ「不思議の国のアリス」を鑑賞。昔から大好きな映画で、色彩豊かな世界観と絵本を開いたようなオープニング(当時のディズニー映画はどれもそんな感じだった気がする)に胸を躍らせながら、画面に釘付け。そこから先の記憶があやふやで、どんな流れだったか正確には書き記せないのだけれど。コマ送りのような感じで微かに残る記憶では、電話の前で座り込む母、それから程なくして、担架を抱え、ヘルメットを被った大人たちが家に入ってきた。今思えば彼らは救急隊員だった。何が起きているかわからない私は「不思議の国のアリス」を観たい気持ちと、何やら様子がおかしい母の姿への恐怖心とで、パニックになり思考停止。どうしていいかわからないので、とりあえずアリスを観続けることにした。(サイコパスか)
すると、救急隊員の一人が、膝を折って私の顔を覗き込み「僕と一緒に来てくれる?」と声をかけてきた。確かそんなような言葉だったはずだ。知らない人と、どこへいくんだ。怖すぎる。私はこの家から一歩も出ない。もうすぐパパが帰ってくるはず。それまではここに居座るんだ。そんなことを考えながら、恐怖心と泣きたい気持ちを抑え、動揺する様子を悟られまいとした。そして、彼に目もくれずテレビ画面を見つめながら「アリス観るからいい」と答えた。今でもその時のこと、感情の揺らぎのようなものを、ふんわり覚えている。当時の母の気持ちを考えるととんでもなくひどいことをしたと思うし、何よりその救急隊員はどんな気持ちで私を見つめていたのだろうか。考えれば考えるほど、自分の行動に後悔する思い出でもある。
次の記憶は、救急車の中。当時の母の様子はちゃんと覚えていない。私は怖くて見ていられなかったのだろうか。なぜだか母の表情が思い出せない。救急隊員の隣に座る私と、担架の上で横になっている母の記憶だけ。そこで私のその日の記憶は終わっている。それから何年も後になって知るのだが、母は当時妊娠初期で、子宮外妊娠だったことが、この日に判明した。つまり、母は当時妊婦(妊娠初期)だった。「メグミにキョウダイを作りたい」と願っていた母にとって、このことはきっと耐え難く、言葉にできないほど悲しい出来事だったはずだ。(父にとってもそうだったと思う)当時の私はそんなことを知る由もなく、自分に兄弟がいたかもしれないことを後になって知る。
約1ヶ月近いノートの空白は、もしかしたらこの時期とかぶっているのかもしれない。心の整理がつくまで、何も書けなかったのかもしれない。仕事で忙しく家を空けることが多い父の傍、ワンオペで私の子育てをしていた母にとって過酷な日々だったはずだ。30年前のノートの空白が語る、知る由もなかった母に涙が溢れ出た。
母は私には何も告げず、気丈に過ごしていたのだろう。父も忙しい仕事の合間を縫って私の世話をしていたことがわかる。仕事人間だった父との思い出は数えるほどしかないと思っていたけれど、そこにはちゃんと父との時間があった。
先生からの日記(2月)を最後に一冊目のノートは終わる。二冊目を開くと、4月で新学期が始まっていた。私は年中になった。
そういうことだったのか。私はこの時代、一世風靡していた「セーラームーン」をまともに見せてもらえなかった。友達の家で見る分には良いが、家ではだめ。「やる時は一対一じゃなきゃダメよ。セーラームーンはそうじゃないでしょう」よく母が話していたそのわけをノートを読んで初めて知った。母なりに真剣に、私の行く末を案じてそう言っていた。変わった母親だと思っていたが、変わっていたんじゃなくて、真正面から考えた結果のことだった。そして、これに対する先生からの返信が30年経った今も心に刺さる、素晴らしいものだった。
30年経った今においても言えることだ。社会情勢は混沌を極め、SNSでは1人の人間を大多数の人がよってたかって「正義」という名の下で攻撃する。匿名性が守られた中で、いそいそと祭り上げられた一人を責め立てて社会的に抹殺する。正義とは何なのか。そして、メディアから流れ出る戦争や紛争の映像は、まるでゲームかのよう。それが、誰かの命や未来を奪い、私たちの生活を脅かすかもしれないモノとして認識されづらい。時代が進むにつれて、私たちはあらゆる価値観をアップデートされたはずだけれど、今あるこの世界は果たして本当にそうなのか。今度、そんなことをPodcastでも話してみたい。改めて、考えさせられるやり取りだった。
私が父にしがみついて泣いたことは記憶にないが、交換日記のことは今でも覚えている。この交換日記はこの後、小学校低学年まで続く。仕事で忙しい父との唯一のつながりだった。今のようにLINEやメールがあったらどんなに良かっただろう。ふとそんなことを考えた。
それから、家庭連絡ノートには度々、私と父の交換日記のやり取りが登場する。それと同時に、仕事を休めない父に対する母の寂しさや葛藤が垣間見えるようになる。当時の父は仕事盛りの40代。テレビマンとしての実績を着実に積み上げている頃で、今のようなライフ・ワークバランスなんて言葉は通用しない時代。朝から晩まで、やもすれば、朝から朝まで仕事漬けだった父にとって、娘との交換日記はさぞ大変だったはずだ。今となれば、父の忙しさ、どんなに大変な仕事だったかはわかるけれど、当時の私からしたら理解できるはずもなく。返事を催促していた自分を諌めたい。(笑)
交換日記を始めてしばらくすると、ノートには父が私と母をディズニーランドに連れて行ったり、キャンプに行ったりする様子が書かれている。家族との時間を大切にしようと努力していた、父の姿が見えた。私の記憶の中の父親とそれは全く違っていた。仕事人間。家族を顧みる余裕もなく自分の夢に邁進する人。一人の仕事人としては尊敬するけれど、家族としてはどうだろう。そんなふうに、どこか父に対して抱いていたネガティブな気持ちが浄化されていくような気がした。
このノートの頃から数年後、父と母は離婚する。母が抱える孤独。父の努力と葛藤。夫婦として、父母として家族を守ろうと奮闘する二人の姿。それでもどうにもならないことがある。離婚は子供にとって良くないこと。世間一般ではそう言われるが、果たしてそうだろうか。子供を一心に愛する男女が、親としてはうまく行っても、夫婦として男女としてうまくいかなくなることがある。それでも、子供への愛情や、家族で過ごした時間の価値は何ら変わらない。離婚は問題ではなく、そこからどうやって新しい家族の時間・カタチを作っていくか、なのだと思った。
このノートに記されたこと、破り捨てられてしまったページ。そして、このノートには記されなかったこと。そのどれもが母と父と私の間にあった確かな「家族の時間」だ。記憶として薄れてしまっていたそれを、30年前のノートが、私に優しく語りかけてくれた。
幸いなことに、私と母と父の関係はそれぞれでいまだに続いている。父と母はとはいまだに仲が良く、電話やメールでお互いの近況を報告し合う仲だ。3人で食事に出掛けては2~3時間喋りっぱなし。最近見た映画、読んだ本の話、仕事の話、昔の思い出話。そして、それぞれの家族や子供たちの話をする。このノートの頃のような「家族の時間」とは少し異なるけれど、カタチを変えて、確かに繋がっている。というか、歳を増すごとに私の趣味嗜好が父にそっくりだと感じることが増えたし、母と私は友人から言わせるとよく似た親子らしい。私からすれば、父と母も似たもの同士。一緒に暮らした時間は9年間と短いかもしれないけれど、そんなことは大したことではないのだ。
いつだって「今の自分」が答えだ。過去があって今の私(現在)がある。未来においては、過去じゃなくて、「今の私(現在)」が作る。
私の知っている過去が、このノートによって少し塗り替えられた。今(現在)の私にとって、これは大きな変化だ。これから先の父との時間はきっともっといいものになる。私がずっと欲しいと思っていた「父と娘の思い出」は、さらに増えていく。もっと、もっと父と母との時間を大切にしようと思った。そして、今度父と母に会うときは、ノートに書いてあったアレコレの答え合わせをしてみようか。
突然始めた断捨離をきっかけに、自分の人生を改めて振り返り、さらにはこれからの人生をどう生きようか、そんなことまで考えさせたれた。私がずっと「家族で過ごした時間が少ない」と感じていたコンプレックスを断捨離できたのかもしれない。これからの人生において、そのコンプレックスは必要ない。「いらないもの」の山にそっと積み上げてしまおう。
そんなことを思いながら、noteをつらつら書き記す。いつか私がこれをまた読み返す時が来るかもしれない。今と同じように、30年後読み返していたりして。そのとき私は、何を思うだろうか。