結婚式の余興がダサすぎて痺れた
学生時代の友人の結婚式に行った。その結婚式で流れた余興動画があまりにもスベリすぎていて感動した。痺れた。ものづくりの原点を思い出した。自分はなんてつまらない大人になってしまったんだろうと心に刺さった。
余興動画の内容は以下のような感じだった。
新郎新婦の思い出的なムービーが流れる
「ちょっとまった!」的な文字が急に画面にでてくる
マツケンサンバの音楽が流れる
顔に白塗りした友人たちが踊る映像が流れる
完全に身内ウケの内容で誰一人笑っていなかった。画質の悪い映像、見たことない文字フォント、グダグダなダンス、変顔……などなど。会場にはただただマツケンサンバが大音量でフルコーラスで流れた。共感性羞恥心の究極体。
ただ、これが私にはひどく刺さった。創作とはこうあるべきだと痛感した。
映像はたしかに拙いが、「自分たちがやりたいことをやる」「おもしろいと思うものをつくる」「忙しい中でも自分たちの力でやりきる」という意志が感じられた。泣きそうになった。
もし、私が余興動画をつくるとなったら、感動的な映像をつくろうと考えてしまう。なぜなら結婚式というシチュエーションであれば、感動させるなんてのは簡単だからだ。来場者には感動の下準備ができている。逆を言えば、そこから笑いをとりくにいくのは非常に難易度が高いことなのである。
年齢があがってくると創作をするときに、funnyなものよりもinterestingなものをつくりがちになってくる。恥や怖さが増えてきて、周りの目が気になる。自分のためではなく、社会的な体裁を取り繕うために割く時間が増えていく。
自分がおもしろいと信じるものをつくる気持ちは創作の原点だ。挑戦することに年齢や立場を気にしてはいけない。創作は自由だ。
学生時代の友人たちは私よりもよっぽどクリエイターである。忙しい中で頭を捻ってアイディアを出し、慣れていない編集に悪戦苦闘をして、友情のためだけに1つの動画をつくりあげる。なかなかできることではない。
学生時代から変わらぬ友人たちの姿が見られてよかった。また10年経ってもマツケンサンバを踊っていて欲しい。
しかし、結婚式の内容よりも、まさかマツケンサンバで泣きそうになるとは思わなかったな。