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わたしの命は誰のもの?
健康には人一倍気をつけていた私だが、残念ながら早期発見にはいたらなかったがんを抱えて生きている。初期治療も終わり、今は経過観察中の身。
ふとした時に再発やもしもの最期が頭をよぎる。
あとどれくらい生きられるだろう。
もちろん誰にもわからないことだけど。
夫は元気に長生きするかな?
子供の成長はできれば長く見守りたい。
障がいを抱える我が子の成長を長い目で見守るつもりだった私のライフプランは、思わぬ方向から軌道修正をよぎなくされた。
夫よ。
手帳や障害年金、受給者証等、頼むから各種手続きはめんどうがらずにやってほしい。
「うちの子は大丈夫」と思わずに。
もらえるものはもらい、支援が受けられるならできる限り頼ったほうがいい。
障害や難病界隈の制度は複雑すぎたり、地域差があったり、どうしても情報戦になりがちだ。
申請主義なんて揶揄されがちな世界だけれど、これらは先達と政治と行政が築き上げた大事な制度。
どうか使ってほしい。我が子のために。後進のために。
とまあ、子供について将来あれこれ悩むのともう一つ、私には懸念事項がある。
「もしもの時に苦しいのはイヤだ」
夫も子供も大事な私だが、私は私のことも結構大事だ。
これまでがん以外にも「死ぬかもしれない」と思い、実際何度か危険な目にあってきたことがある私にとって、最大の関心ごとと言ってもよい。
経験上、声を大にして言うが。
「死ぬことより、死にたくなるくらいの苦痛がイヤだ」
【がんの告知段階からの緩和ケアを】と言われて久しい。
だが実際はまだまだ難しい。
私が告知段階で「Hey Siri!私の最期と死生観について話そうぜ!」と音声起動のノリで主治医に話しかけるわけにもいかない。
下手すると希死念慮を疑われるのがオチだ。
積極的に死にたいわけではない。
医療が発展して痛みに対処出来る手段が増えても、まだまだ個人の人権より家族の意向がなにかと反映されがちな日本の医療現場。
政治や行政の面からも、この問題は遅々として進まず、解決の光が見えてこない。
私が大学の課題で安楽死問題についてレポートを提出した頃から随分と時が経った。
今の30代が70代くらいになってようやく何か動きがあるのかな。肌感覚としてはそんなふうに思ってしまう。
最期を託す医療がガチャなのは…正直キッツイなあ。
愛する夫や子供に代弁させたり、何かを決断させるのは不本意なんだけど。
祖母は笑顔で亡くなった
我が家の祖母は大往生の末、老衰で亡くなった。
ギリギリまで在宅で過ごして、何の管にもつながれず。
最後は子供や孫やひ孫、乳兄弟に囲まれて。
本当に息を引き取る30分前までひ孫に笑いかけ、あやしている写真が残っている。
エンゼルケアも孫たちがした。
はたからみたら美しい理想的な死に方だ。
そこだけを切り取れば。
でも顔見知りが年々いなくなり。
連れ添った祖父と死に別れ。
認知症を抱えた祖母の苦悩、介護の悲喜交々はそのワンシーンからは見えない。
決して穏やかではない感情が祖母にも、私にも、家族にも渦巻いた日は確かにあったはずなのに。
最期の居場所を決めたのは家族だ。
そこにいたるまでの治療には祖母の意志より家族の意見が反映されてなかったか。
長生きを嘆いた祖母の言葉。
死人に口なし。
祖母にとって晩年が本意だったのかは聞くことができない。
だから最期の良し悪しを、本当に知ることはできないのだ。
さて、私の命は私のモノなのだと言えるときに、私は最期を迎えられるだろうか。