第二話 偶然の再会と不思議な夜

 結局、職場に到着したのは就業時間の10分過ぎた頃だった。びっちゃびちゃの服を引きずりながら、遅刻の理由を伝えに行く。上司に遅刻の旨を話すと、全くお前はいつもギリギリで、ついに遅刻じゃないか。たるんでる、社会人なんだから早起きしろ。とまぁこんな感じでお叱りを受けた。

はぁ、ついてない。いつもならとっくに仕事を始めているのに、なんで説教を受けているのか。適当に相槌を打ちながら全力で現実逃避をしていたら、もういい、仕事に行けと呆れられた。

悪いのは僕なのか・・・とひたすらに考えながら自分の席に戻る途中、向こうの通路で女の人の声が聞こえた。ちらっと視線をやると、高いヒールとびっちゃびちゃのスカートが見えた。あぁ、あの人も転んだのか。可哀想になぁと思いつつも、今は積んである仕事を片付けなければと、急ぎ足に戻った。

ぼーっと仕事を消化しながら、さっきの女の人のことを考えていた。長めの黒髪、小さくて細い目、丸みを帯びたちいさな耳。結構可愛かったなぁ。でもびっちゃびちゃのスカートは可哀想だったよな。

ふと、今朝のことを思い出した。ぼくの隣でコケた彼女はスカートだった。そしていい音を奏でていたあの高いヒール。アドレナリン全開だったあの時のぼくは、ほかの特徴なんて見てる余裕はなかった。ましてや顔なんて覚えてるはずがない。

もしかして、と思い立ち上がり、振り返るとさっきの女の人が、うちの部長と話していた。うわーやべ、居たよ。どうしよう、話しかけるか?

そんなことを悩んでる間に、女の人は話を終え、部屋を出ていこうとしている。
まぁいいか。ぼくにはぼくの仕事があるし。
その時のぼくには、彼女を追えるだけの時間も体力も無かった。

仕事を終えた帰り際、ぼくの名前を呼ぶ女性の声がする。
振り返るとそこには、今朝の女の人が立っていた。

「ちょっと付き合いなさいよ」

そう言った彼女の目は鋭く、異論反論しようものなら殺すと言わんばかりのものだった。
言われるがままについて行くしか無かった。
並ぶことなく、常に一定の距離を取りついて行く。どこに向かうのか、これから何をするのか、何をされるのか。無駄に頭を回転させて考えるも、何も出てこない。そんなぼくには目もくれず。朝と同様、コツコツといい音をさせながら歩く彼女を見ていたら、次第に考えることも無くなっていた。

「着いたわよ」

そう言って立ち止まる彼女が指さしたのは、暖簾のかかった、昔ながらの居酒屋だった。
ほっとした。心底ほっとした。ぼくはずっと、怖いおじさん達のいる部屋に連れていかれ、全員から総叩きを食らうものだと思っていた。

そうだよね、そんなはずないよね、ははははは。心の中で笑っていると

「何にやけてんの。 気持ち悪い」

え、顔に出てた? 最悪だよ。何やってんだぼく。そうだよな。元はと言えばぼくは何も悪くない。悪いのは隣ですっ転んだ彼女だ。何も悪くないぼくが手を差し伸べたくらいでボコボコにされるなんて、そんな理不尽なことあるわけないよな。あってたまるか。

ぼーっとしていたぼくなんか気にもせず、ガラガラと音を立て店の戸を開ける彼女。

「大将こんばんわ」

いかにもここの常連ですというような挨拶をしながら中に入っていく彼女に、呆れるのを忘れポカンとしていると

「なにやってんの。 早く入りなさいよ」

と、急かされた。

「いらっしゃい!」

店に入るや否や、でっかい声で挨拶をされる。どうも、と小声で言いつつ入っていく。彼女はすでに、カウンターの席に着いていた。

カウンターに椅子が8つ。座敷の席が3つのこじんまりした、昔ながらの居酒屋。
とりあえず彼女の隣に座る。

「なんだなんだ? 今日は彼氏連れかい? いいねぇ」

「やだなぁやめてくださいよ。 会社の同僚です。 彼氏なんてそんなもんじゃありませんよ」

そんなもん。そんなもんか。たしかに気立てもよく、目鼻立ちの整ったこの子からしたら、モテるんだろうな。
どーでもいい事を考えながら下を向くぼくに

「よぅあんちゃん。 なんにする。 とりあえずビールでいいか?」

と声をかけてくれる大将。
愛想笑いをしながらじゃあそれでとぼく。隣で彼女は

「私はいつものやつ、宜しくね」

と注文する。あいよぉと大将の威勢のいい返事を聞き終わるころに彼女が話し始める。

「で、朝のことについてなんだけど」

わぁ、急だなぁ。だんまりきめこまれるよりいいけど急すぎるなぁ。
そう思ってるのもつかの間。彼女は話を続ける。

「あの時はごめんなさい。 その、私も転んじゃってテンパってて。 その上あなたが目の前でもっと酷いことになってるから余計にわけわかんなくて。 わけわかんないのにあなたが手を出してくるもんだからつい冷たい態度を取ってしまったの。」

はぁ。気づいてたんだ一応。それにしたってあの立ち上がり方はそういう風には見えなかったけどなぁ。

「へいおまちぃ! ビールね。 嬢ちゃんのはいつものね」

そう言ってぼくの前にビールと、彼女の前にはビールと枝豆を置いた。ビールと枝豆って親父くせぇ。そう思っていた矢先。

「ねぇ、今親父くせって思ったでしょ」

なんだこいつ、エスパーかなにかか。なんで今ぼくの考えてることがわかったんだ?

「あんたねぇ、わかり易すぎ。 顔に書いてあんのよ」

え、顔に? そう言って顔を触るぼく。

「ばーか。 本当に書いてあるわけないでしょうが」

で、ですよねー。わかってました。わかってましたけども。心の中で自分に言い訳をするぼく。かなしい気持ちになりながらビールをもつ。口をつけようとするまえに気づいた。こういうのってやっぱり乾杯からなのか? そう思って彼女の方を向くと

「ぐびっぐびっぐびっ。ぷはー! やっぱり仕事終わりのビールサイコー!」

「おう! 相変わらずいい飲みっぷりだな嬢ちゃん」

え、えぇ・・・・・・。
引いた。それはもう分かりやすく引いた。見た目とは裏腹に相当おっさんだなこの子は。なんだか調子狂うなぁ。

まぁいっかとぼくも一口ビールを飲む。せっかくだからぼくもなにか食べようかなとメニューを取ろうとすると

「大将、この人にもなにか作ってあげて」

「はいよ。 ちょっと待ってな」

まじかよ。何があるかも知らないんだけど。今あるぼくのこのお店の知識ってビールと枝豆しかないんだけど。常連っぽい彼女が頼むんだから相応のものなんだろうけど。不安になりながらも、もう一口ビールをごくり。

「それでね、今朝のお詫びということでここに連れてきたわけ。だから今日は奢り。好きなだけ飲んでいってね」

頷くぼく。初対面なのにぐいぐいくる彼女に圧倒され続けているが、そもそもぼくは女性に強いほうじゃない。なんならお酒もそんなに飲まない。見た感じ酒豪な彼女に、ついていける気なんてさらさらないが、奢ると言われたならそれは飲むのが礼儀。しょうがないので残りのビールを一気。勢いでお代わりを頼む。

「なんだにぃちゃん。いける口かい? おしできた。 うちの名物の天ぷら盛り合わせいっちょあがり。ビールちょっと待ってな」

そう言って出てきたのは出来たてホカホカの天ぷら。綺麗に盛られたその天ぷらは、まるで何かの宝石のようにキラキラして見えた。勢いよく箸を取りかぶりつく。じゅわっと油が溢れ、野菜の旨みが口いっぱいに広がる。

うっま。なにこれうっま。

余りのうまさに勝手に頬が緩む。

「お待ち。ビールね。なんだにぃちゃんそんなに美味いのか。そんな顔されたら作った方も嬉しくなるね」

はっ、また恥ずかしい所を見られてしまった。
ふと彼女の方に目をやると、顔を真っ赤にしながら、頬杖を着きニヤリとした顔でこちらを見ている。

「ふふふ。ここ美味しいでしょ。あんまり人には教えないんだよ? ほらほら、もっと食べな。 今日は奢りなんだから」

いやもう言われなくても食います。こんなにうまい天ぷら、自分、食ったことないっす。食べかけをぱくぱくっと口に放り込む。ごくりと飲み込みすかさずビール。これほど幸せなものはないってくらい、その日のビールは美味しかった。それだけ美味しいものを食べるぼくの頭には、もう今朝のことなんてさっぱり頭になかった。

「大将、枝豆お代わり。あとビールも」

「あいよぉ!」

ビール1杯ですっかり出来上がった彼女は、その後も勢いが衰えることは無かった。ぼくはぼくで美味しい天ぷらを食べながらしっかり飲んでしまった。

「ごちそうさまでしたぁ! 大将また来るねー」

「おう! 待ってるぜ」

大将かっけー。そう思いながらしっかり酔っ払った二人。ごちそうさまでした。彼女にもしっかりお礼を言い、さぁ帰ろうとしたところ、肩が急に重くなる。

「ちょっと飲みすぎちゃった。送ってってくれる?」

もうふらっふらなぼくは、今すぐにでも帰って寝たい。が、しかし、こんなにベロベロの彼女一人ほっといたら奢ってもらった手前申し訳ない。しょうがないので家までついて行く事にした。

おたがいフラフラで、まともに歩くのが精一杯の中、どさりと座り込む彼女。

「あー、だめ。もう歩けない。ここで寝るかー」

と、道の真ん中で倒れこもうとする彼女を抑える。おいおい待て待て、スーツが汚れてしまうじゃないか。それはまずいと思い、しゃがんで背中を向ける。倒れ込むのをやめ、ゆっくりと背中に乗る彼女。よっこらしょ。立ち上がると、以外にも軽くて驚いた。以外は失礼か。いやでもそれくらい軽かった。

「まったくさ、朝のことといい。あんたって優しすぎない? 転んだのだって私のせいでしょ? それなのに手まで貸してくれようとしちゃってさ。お人好しにも程があるでしょ」

と、いいながらぼくの背中をばしばし叩く。痛い。痛いです普通に。こんなに軽いのにどっからそのパワーが出てくるんですかね。

「でもありがと。正直嬉しかったんだ私。昔からおっちょこちょいだったからよく転んだんだけど、みんな笑うばっかりで助けてもらったことなんてないから。ちょっと照れくさかったんだと思う」

え、なに急に、口説いてる? 年齢=彼女いない歴のぼくだけど、勘違いはしてもそう簡単には落ちませんよ? なんて考えていると寝息が聞こえてきた。おいちょっと待て、寝られても困るんだが。家どこか聞いてないし、これからどうすんの? おーい、起きて。起きてくれないとわかんないから。ちょっとー!

揺すっても起きない。全くもう。どーすんだよこれ。知ってる人もいない道で、ただ呆然とたっていることしか出来なかった。

こうしてぼくの、どうしようも無い2月のスタートは、幕を下ろしたのだった。

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