「他者」概念を援用した倫理観の構築
前節ではポジティブリストによる「安易な教育実践」からの脱却を提案しました。教育はポジティブリスト的考え方よりも、教師の「葛藤」を生むようなネガティヴリストの方が教師の資質能力の開発には有効ではないかという提案です。その理路として、教師の「開かれ」という話をしました。教室には「理解不能な他者」としての子供がいる以上、教師にはさまざまな可能性を考慮に入れた上での高度な教育的判断が求められると考えているからです。
「他者」という概念は、ユダヤ人哲学者であるエマニュエル・レヴィナスの概念です。レヴィナスはその著書『全体性と無限』の中で、「同」と「他」という観点から、人が世界を理解するときには自分の世界である「同」の中に、自分以外の「他」を無理矢理押し込んで理解しようとし、その行為の「暴力性」を告発した人です。これは一体どういうことでしょうか。
学校現場には「子ども理解」という言葉があります。教師が子どもを理解しようというのですから、それは素晴らしいことのようにも思えます。しかし、一章でも示した通り「教師という職業を選ぶ人間には偏りがある」ということを鑑みれば、「自分の境遇と全く違う家庭環境に置かれた子供」に教師が思いを馳せることができるかといえば、それは難しいのではないでしょうか。
例えば「大卒の両親がいて、家が片付いており、宿題で困ったときには保護者に相談できる」という環境で育った教師は、「高卒の片親家庭で、家はゴミ屋敷状態で、保護者は基本的に留守である子供」の境遇に寄り添うことはかなりハードルが高いと言えます。というか、これはネグレクト(育児放棄)の可能性も十分にあるので、教育というよりはむしろ福祉の領域の介入が必要な事例だとは思いますが、こういう事例が福祉と繋がれているかというと、福祉は「申請主義」であり、本当に福祉のケアが必要な人は申請の方法にさえアクセスできないという問題から、教育が担わざるを得ない事例なのです。だから、そのような境遇の教師が悪いとも言い切れないのですが、とりあえずは教師が最初の窓口になりがちな現状の中で、教師はその境遇には寄り添いにくいという話なのです。
先ほどの「子ども理解」は、例えば、「子ども理解研修」として校内研修でなされることがあります。そこで話題になる子供というのは、例えば「忘れ物が多い」とか「暴言や暴力がある」とか「学校徴収金の未納がある」とか「虫歯などが未治療である」とか、そういう子供です。しかし、教師の多くは、まさにそういう子供の境遇が想像さえしにくい。そうなると、「忘れ物が多い」という事例を「子供自身の怠惰という特性」に帰して考えてしまうかもしれません。しかし、その子の忘れ物の主たる原因は「家が片付いていない」とか「保護者が家事を行わない」という部分にあるかもしれません。それは、わかりません。子供自身の「怠惰」の可能性もあるでしょう。「家庭環境」の可能性もあるでしょう。それらが複合的に関係していることもあるでしょう。いずれにしても、「ホントウのことはよくわからない」ということが真理なのです。人間のことですからね。「わかるはずがない」というのが穏当な回答であるはずなのですが、「子ども理解研修」では、「そういうこと」は認められません。「子どもを理解する」という目的で開かれた研修で「よくわからない」は認められません。だから、「偏った教師集団」による「暴力的な理解」がなされるわけです。
「忘れ物が多いAについては、毎日毎時間教師による口頭での確認、継続的な指導、保護者への啓発を含めて対応していく」という方向性が決定されるわけです。しかし、これらをしたからといって、その子の境遇は改善されるのでしょうか。家を留守がちの保護者の働き方は変わるのでしょうか。教師から毎日「せき立てられる」ことで、子供を逆に「追い詰める」ということにはならないでしょうか。いずれにしても、これらの「暴力的な対応」が良い結果を生むとは到底思えないのです。
もう一つ、事例を挙げましょう。「心の鏡」という実践があります。これはGIGAスクール構想で配備された一人一台端末を用いて、その日の自分の気持ちを「晴れ」「くもり」「雨」「かみなり」の四つから、子供たち自身に選ばせるという取り組みです。子供たちが選んだ「気分」はすぐに教師用端末でも確認することができます。そこで「雷」が2日以上続いた子供がいれば、教師は子供から何か悩み事がないかと、子供の話を聞かなければならないという方針が示されました。これは、いじめ対応という側面もありました。教師に相談ができない子供たちがパソコンやタブレット端末でなら答えることができると考えたからでしょう。しかし、実際に運用してみると、興味深いことに、この「心の鏡」は、「子供たちの気持ち」よりも「当日の天気」に影響を受けていることが多かったのです。例えば、天気が「雨の日」は自分の気持ちも「雨」を選ぶ児童が多かったのです。たしかに、我々も大人も、天候が雨の日は、なんとなく憂鬱になることはありますよね。別にすべての事例が「天気を示した」というつもりはありませんが、「自分の気持ち」なんて「あいまいなもの」を選ぶということで「子供の気持ち」を理解できると考えた、その「短絡的な考え」に対して辟易しているという話です。
本当に子供の気持ちを理解したいと思う教師ならば、画面に並んだ「子供が選んだ天気」ではなくて、「目の前の子供たちの顔」を見て判断したいと思うのは僕だけではないでしょう。
いずれの事例についても、「子供を理解したい」という思いが発端であることは間違いがありません。そういう意味では、教師側の「善意の判断」であることは疑えないのですが、その結果としての実践が「実態」と乖離しているのではないだろうかと感じてしまいます。
そもそも子供を理解することなどできるのでしょうか。レヴィナスは、他者を理解しようとすること、それ自体に潜む「暴力性」を看破しました。たしかに、さきほどの事例はそれぞれで「実態」と乖離していると言わざるを得ず、それは結果として子どもへの暴力になっているという側面があるでしょう。それは、いくら工程を丁寧に行なったとしても、同じです。どこまでやっても「他者理解」には暴力性が伴ってしまいます。その前提の上で話を進めないといけない、そういうことをレヴィナスの倫理観は教えてくれます。
しかし、それでは、教師と子供という「教育関係」はどこまでもいっても「暴力性」が内在することになります。そして、そこから導き出せる結論は「教育関係の放棄」しかあり得なくなります。教育関係には「暴力性」も「権威性」もある。それは、「何かを教える」という関係を作る以上は逃れられないものなのです。「知っている者」と「知らざる者」、「場を主催する者」と「場に参加する者」。いずれの関係にも多少なりとも「上下関係」や「権威性」は生じてしまうでしょう。教育関係は決して「対等」にはなり得ないのです。
さて、ここで手詰まりの感が生じてしまいます。レヴィナスの倫理観には「他者に対しての自己の絶対的な責任」を要求する側面があるのです。その困難な倫理観を少しだけ述べてみると、自分という存在がまずあって、自分の目の前に他者が現れるという順序ではないのです。「まず他者がいて」、その他者からの懇請によって自己が生まれるという、通常我々が思考するものとは異なる「順逆の逆転」が生じているのです。これを教育に引き付けて考えてみると、まず教師がいて、教師の目の前に子供がいる、ではないのです。まず子供がいて、その子供に対したときに教師は初めて「教師になる」ということです。教師はそれ単体では教師足り得ない。子供に対しての責任を感じるものがすべて子供の前で「教師になる」。これらはとても哲学的な言い回しですね。しかし、我々教師の心に刺さる言葉でもないでしょうか。教育は「目の前の子供たちが大切である」という言説も、まさにこのことを表しているのでしょう。
さてさて、そうは言っても、やはり手詰まりは手詰まりです。教育関係の持つ暴力性を理解しつつ、教師は、目の前の子供たちとの教育関係を築いていくためにはどうすれば良いのか。そこで「倫理」が求められるという話なのです。子供たちの心に土足で踏み込んでいくことは慎みつつ、それでも上がり込まないといけないのだから、せめて「丁寧に」踏み込む。履いている靴を脱いて、揃えて置く。大切な方のご自宅にお邪魔するときのような「敬意を持つ」。もちろん、毎回、そんなに懇切丁寧にはできないでしょう。しかし、その気持ちを忘れてはならないのです。教師は自分のもつ暴力性に対して自覚的であれという表現でもいいです。いずれにしても、教師の側に「倫理」が求められることは明白です。
そして、倫理は「ポジティブリスト化」ができない。倫理とは「形式化」が困難なのです。そもそも倫理とはなんなのでしょうか。倫理の「倫」には「人の輪、仲間」という意味があり、倫理の「理」には「ことわり、ルール」という意味があります。つまり、倫理とは「人の間で守られるべきルール」となります。しかし、これはとても抽象的です。「家庭」と「教室」では、その倫理観も異なるでしょう。お風呂上がりに裸でリビングに行くという行為も「家庭」では許されても、「教室」では許されません。このように倫理とは、場や関係性によって異なるものであり、明確に規定することができません。時代にもよるでしょう。昔の教室では、「悪いことをしたらゲンコツ」というのが当たり前でした。『となりのトトロ』では、授業中に横を向いていただけのカンタが教師から叩かれていました。現代ならば「体罰案件」になるような事象でしょう。
だから、「教室で守るべき倫理をリスト化してくれ!」という要求には答えにくいのです。そこでネガティヴリスト的な思考が求められるわけです。「子供を他者として尊重し傷つけないようにする」。こんな曖昧な言葉を十字架にして悩み葛藤する教師こそまさに「倫理的な教師」だと言えるのではないでしょうか。
このように「倫理的な教師」を定義づけてしまうと、やはり教師を追い詰めてしまうと感じます。僕自身も「こんなにハードルを上げすぎていいのか」と感じることもあります。だから、少しハードルを下げにいきます。そもそも全国に公立小学校教員は40万人もいます。中学高校も合わせたら100万人の教師がいるとされています。これは、日本の約100人に1人は教師であるとも言えるでしょう。そのすべてに「高い職業倫理を!」と言うのは現実的ではありません。
僕は「不適格教師」という言葉が苦手です。これは「モノサシ」の曖昧な用語です。この言葉は「俺はお前が嫌いだ」と似ています。例えば、僕のような「はみ出し者」は管理職に嫌われがちです。そういう管理職からすれば、僕みたいな「他と違う実践をする教師」は「同僚性を乱す不適格教員」と認定されるかもしれません。なんとも恐ろしいです。僕には僕のモノサシがあり、教室がぐちゃぐちゃで埃だらけにする教師が苦手です。僕が管理職なら「不適格教師」にしてしまうかもしれませんが、その教室にだって「その教師が大好きな子供」はいるはずです。教師を価値づけするモノサシは、できるならば多様がいいなと感じます。「教育に正解はない」のですから。もちろん、「子供を傷つける」は認められません。多様性とは「弱者である子供を追い詰める」ための詭弁に使われてはいけません。これも倫理観の話ですね。
さて、話を戻します。「倫理的な教師」という高いハードルを設定しましたが、それでも教師は間違うこともあるでしょう。僕だって毎日後悔の連続です。寝不足でイライラしていたら、いつもは笑って過ごせる事案にも余計に突っかかってしまうこともあります。でも、それでも、教師は毎日「教育実践」をしていかなければいけません。その責任も含めて教師はたくさんのものを背負いながらも「決断」していかないといけないのです。「ちょっと難しいからこの問題は明日考えるわ」ということも、ときにはできますが、教師の場合は、ほとんど「いま、ここ」での「決断」が迫られるわけです。AかBか。そこで教師は、いろいろな可能性や、自身の選択による子供への暴力性を考慮しながらも「未練込みの決断」が求められるのです。これは単なる「決断」とは違います。「未練込み」ということは、決断後にも教師の心には「モヤモヤ」が残るのです。そして、それはさらに教師を「悩ませ」、「葛藤」の渦の中に引き摺り込みます。そして、次なる決断の場面はいずれ近いうちにやってきます。そこでも「未練込みの決断」が求められる。この繰り返しこそが、まさに「教師の資質能力の開発」に資するのではないかと考えています。悩み、葛藤しながらも未練込みの決断をする教師については、たとえ、その場では間違ってしまい、子供への暴力につながってしまったとしても、つぎの場面では「倫理に対応」できるはずです。
「教室は間違うところだ」という言葉がありますが、これは子供だけではなくて、むしろ教師にこそ使ってあげたい言葉ではないでしょうか。教室において常に「間違う」危険性があるのは、子供よりもむしろ教師なのですから。