『それでも僕は、「評価」に異議を唱えたい。』のあとがき
『評価圧力』、いかがだったでしょうか。
この文章を書くために、僕はかなりの量の学習評価本に目を通しました。はじめの頃は「学習評価なんて辞めてしまえ」と思っていた僕ですが、勉強する中で「これは教員の資質能力の開発」のヒントになる部分もたくさんあるのではないかと思うようになってきました。アトキンが唱えた「羅生門的アプローチ」はその一つです。
僕は以前から「即興性」という言葉に授業改善のヒントがあると思ってはいたのですが、上手く言語化できずにいました。その中で「工学的アプローチ」という言葉に出会い、現在の授業の多くが抱える「教科書という台本を演じる教師と子ども」といった「広がりが生まれにくい授業」を変えるためのヒントを「羅生門的アプローチ」から得ました。
しかし「即興性」ばかりを説いたところで、そこには「教材への深い理解」だったり「教員の資質能力」だったりと、改善には時間がかかる部分もあり、若手教員が増えつつある現状では、「工学的アプローチ」によって「授業の型を学ぶ」という視点も忘れてはならないなとも考えています。結局、有体に言えば「両輪を回していく」ということなのでしょう。
僕は常々「教師のパフォーマンスを最大化するためには」ということを考えています。教育という複雑な営みをしていくためには、教師一人一人のパフォーマンスを高めていくことが必要不可欠だからです。教育崩壊と言われている現状ではなおさらでしょう。しかし、まえがきにも書いた通り、現状の教育現場は忙しさの極みとも言われており、なり手もどんどん減少しています。日々の授業さえ、前日に教科書を確認する程度しか教材研究ができない教師に「学習評価」を適切に運用することを望むのはかなり酷なことなのです。
それでも、我々は教師をしていく以上、学習評価からは逃れることはできません。仮に通知表は無くせても、指導要録は無くせません。さらに、子どもたちの「学びの現状」をとらえないと、それこそ「子ども不在」の授業になってしまいます。「指導と評価の一体化」とは、本来、「指導の質的向上」という文脈で語られるべきなのです。それならば、少しでも「有益な方法で」学習評価ができないものか。そういうことを日々考えながら実践している、一人の教員が考えたことを本書には書きました。
最後に、本書をはじめ、過去の著作でもお世話になった東洋館出版社の編集者である北山さんにはお礼を申し上げないといけません。「あとがき」では通常、お世話になった方々へのお礼を述べるという常識を知らないくらいに本を読まなかった僕が、これだけ本を読んで、執筆ができるようになったのは、北山さんが僕の送る原稿を、いつも「おもしろいです」と言ってくれていたからです。北山さんの励ましなしには、僕は執筆をすることはできなかったと思います。「読んでくれる人がいる」というのは執筆における最大のモチベーションでした。いつも「最初の読者」であった北山さん、これからもよろしくお願いします。
2022年12月 雪が舞降る大阪にて めがね旦那