フス戦争の解説と考察①
2022年7月17日
フス戦争〜開戦前夜①〜
フス戦争とは、1419年代から1437年にかけて、神聖ローマ帝国領内ボヘミア王国を起点として起きた戦役群の総称のことを言います。
「帝国」とは言っても、皇帝の力は古代ローマ帝国の時代よりもかなり弱体化しており、有力貴族の投票によって皇帝が選出されるというシステムが採用されていました。
その投票権を持つ諸侯を「選帝侯」と言い、ボヘミア王国を統治するボヘミア王も、その選帝権を持つ諸侯の一人でした。
その影響で、ボヘミア王国は神聖ローマ帝国の領土でありながらも半独立国家として存在することができたのです。
フス戦争にはいろいろな側面があり、一概に「何のための戦争だ」と言い切ることが難しくもあります。
ある側面から見れば、神聖ローマ帝国が国家再編のため、ボヘミア王国を皇帝の直轄領土にしようとして仕掛けた戦争でもありますし、もう一方の側面から見れば、ボヘミア人(チェコに昔から住んでいたスラブ民族)による独立自治を目指した、神聖ローマ帝国からの独立を掲げた戦争と言えなくもありません。
さて、この戦争の発端となったのは、宗教改革を論じた一人の聖職者です。
その人の名前こそ、この戦争の由来となった「ヤン•フス」と言います。
彼はプラハ(ボヘミア王国の首都)にある大学の学長を務めるほどの人物で、同時に神学に長けた聖職者でもありました。
そして、聖書に書いてある事と、現実の教会や聖職者があまりにも乖離していることを嘆き、カトリック教会に対して改革の必要性を強く訴えていました。
カトリック教会を主とするキリスト教は、神聖ローマ帝国が広大な領土を支配するのに大きな役割を持っていました。ローマ帝国軍が軍事力で異教の土地を征服したのち、カトリック教会が宗教の名の下に領民を支配して行きました。いわば、軍隊と宗教がタッグを組んで国家を運営していたようなものです。
しかし当時のキリスト教は、最大派閥であるカトリックの内部で権力闘争が盛んになり、キリスト教の最高権力者である「教皇」が2人ないし3人も立ち並ぶという異常事態が起きていました。これを教会大分裂と呼びます。
(ちなみに、遠く離れた日本でも、ほぼ同じ時期に天皇家が南朝と北朝に分かれて争っています。
この「分裂」が、この時代のブームなんでしょうか。フス戦争においても、至る所で組織や派閥の分裂が起き、そして戦争に発展して行きます。)
ヤン•フスは、聖職者による権力闘争ほど愚かなものはないと嘆き、特に権力闘争の資金源となる「贖宥状」の販売に憤慨し、強く抗議していました。
それは民衆の声でもありました。
民衆は、国への税金の他に、教会に対しても税金を支払っていましたし、聖職者はその金額が足りないと「お前は地獄行きだ」と脅したり、金品を巻き上げたりしていたからです。
金品によって死後の救いが買えるという贖宥状は、民衆にとっては宗教の名を借りた恫喝•搾取そのものだったのではないでしょうか。
ヤン•フスはプラハの礼拝堂で演説を行い、カトリック教会の腐敗や堕落と、民衆への横暴を非難しました。
その演説は人々の心を打ち、やがて庶民のみならず、貴族などの裕福層にもヤン•フスを支持する人が現れ、ムーブメントはチェコ全土に広まって行きました。
そしてヤン•フスを支持する人々は「フス派」と呼ばれるようになり、カトリックに次ぐ一大勢力となって行ったのです。
しかしその一方で、それまでフス派の存在を容認してきたボヘミア王は、ヤン•フスが贖宥状を非難することは許しませんでした。なぜなら、贖宥状の売上金の一部は、慣例としてボヘミア王の懐にも入る予定だったからです。
ボヘミア王はフス派に弾圧をかけ、フス派の支持者の若者を3名捉え、処刑します。これが、フス派で最初の犠牲者とされています。
ヤン•フスはプラハを追放になり、やがてボヘミア王国全土に「ヤン•フスを匿ったら同罪だ」というお達しが出ます。
それでも、ヤン•フスを擁護し、匿う領主が何名もいました。ヤン•フスは、それらの領主に守られながら数年生き延びました。
1414年の秋、亡命生活をしていたヤン•フスのもとに、ローマ王ジギスムントから宗教会議への参加令状が届きます。
身の安全は保証するから、会議で自身の説を訴えよ、とのことでしたが、ヤン•フスを匿う人々はそれは罠だと言ってヤン•フスを引き止めました。
しかし、ヤン•フスは例え罠でも行くのが使命であるとし、死を覚悟して令状に従うのでした。
そして案の定、会議はヤン•フスに対する異端審問の場となり、ヤン•フスはそこで有罪の判決を言い渡されます。
処刑は翌年の1415年に執り行われました。
ヤン•フスは焚刑にされ、燃え残った遺体は粉々に砕かれて河に捨てられました。
それは、聖人の遺体や遺品が聖遺物として信仰の対象になるのを防ぐ目的と、さらには「もし本当に聖人だった場合、遺体が残っていると復活するかもしれない」という迷信によるものだったとされています。
ヤン•フスの異端審問と有罪判決に際して、ボヘミア国内のフス派を支持する貴族たちは、処刑撤回の嘆願書を連名で提出しました。その署名数は450名とも言われます。
しかしその嘆願書も聞き入れられる事はなく、処刑は実行されてしまいました。
嘆願書に署名をした貴族らは「フス派領主同盟」を結成して弔い合戦の臨戦体制をとります。
カトリック勢力も、「カトリック領主同盟」を組んで対抗しますが、この時点では両者の武力衝突には至りませんでした。
というのも、フス派領主同盟の盟主を誰にするかで揉めたりし、また、盟主といえど主従関係ではないので命令権もありません。
そして450名の貴族をまとめ上げるための仕組みも制定できず、結局フス派同盟は有名無実の団体にとどまったというのが、カトリックとの武力衝突に至らなかった理由となります。
むしろ、この同盟に参加した貴族たちの中では戦争反対派と賛成派に意見が分かれており、数年後には二派に分裂して互いに攻撃し合うようになります。
フス戦争の序盤はカトリック軍VSフス派軍という構図になりますが、カトリック軍を撃退したあとはフス派の内部分裂による抗争が戦争の主流となります。
(ガンダムに例えると、ジオン軍を倒した地球連邦軍が、戦後ティターンズとエゥーゴに分裂して戦争をはじめる、と言った構図によく似ています。)
カトリック軍とフス派の軍が本格的な戦闘を開始するのは、1419年になってからです。
ヤン•フスが焚刑に処されてから4年後のことです。
ですから、この戦争がヤン•フスの死に対する報復戦争であるという解釈は成り立たないのではないか、というのが私の見解です。
戦争勃発の原因はヤン•フスの死そのものではなく、むしろ、戦争賛成派がヤン•フスの死を利用して起こしたものなのではないか、と考えております。
【フス戦争〜開戦前夜①〜終】