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「あなたのためを思って」教育という名の虐待

教育も虐待になりえる。「あなたのためを思って」と行われる躾、勉強、習い事、それが暴力になるということ。これキツいなあと思います。

なぜなら、「あなたのため」と言いながら、実のところ主体は親や大人の側にあって、彼ら彼女らの不安やおそれを解消するためであったりする。そこに当の本人である子どもが存在していない。存在していないとは、お前なんていないくていい、あなたの気持ちや願いなんてどうでもいい、そうメッセージを発しているということだから。

ひとりの人間の尊厳を傷つける暴力に間違いないんだけれど、直接的な暴力、見える暴力ではないだけに長年に渡って自覚できないところに、この教育虐待のおそろしさがあるなと思うんです。

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つい先日、心に留まったのが、教育虐待の末に娘が母親を殺害したというニュースでした。記事の中で、拘置所のほうが気持として楽と語る彼女の言葉にドキリとして、何度も何度も読み返していました。

―お母さんの教育をおかしい、つらいと思ったことはありますか?
 「仕方ないと思いました。受け入れるしかありませんでした。浪人生活で囚人のような生活を10年近く送っています。拘置所はルールさえ守っていれば叱責を受けることはありません。今のほうが気持ちとしては楽ですね。細かいルールが煩わしいこともありますが、刑務官は私に対して『うざい』とか『死ね』とか言うことはありません」

この「教育虐待」というのは、程度の差はあれ日本社会に生きる誰もが受けていると思ったんですよね。医者や東大合格といったエリート養成だけでなく、それは「ふつう」を設定されることでも起こりうるとの指摘にうわあ本当それだなあと。

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それと、注目したのは、母親を殺害し拘置所に送られて、やっと自分は助けを求めるべき状況だったんだと気づいたこと。

―事件を起こさないためにはどうしていたら良かったと思いますか?
 「当時の自分は助けを求めるべき状況だったと気づきました。でも助けを求める発想もなかったです。自分がされていることが虐待と気がついたら何か変わっていたと思います。気づくためにはそういうことがあると知ることが必要なので、(自分の事件を知ってもらうことで)気づくきっかけを提供したいと思っています」

「あなたのためを思って」と行われるだけにそれが暴力だと認識できない。程度の差はあれ、まわりの子どももそういう環境に置かれているからなおさら。実の母親から暴力をふるわれていると認めることも子どもにはあまりに酷。

加害者から逃げのび、落ち着ける安全な環境を得たときになってやっと自分は暴力を受けていたんだ、異常な環境だったんだ、私は傷ついていたんだと人は気づけるのかもしれないなと。
胸が痛むのは、彼女が気づいたのは、親を殺した後だったということ。

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本当に「あなたのため」を思うのなら、私だったらどうするだろう?
目の前にいるあなたに、本人に、子どもに、聞いてみるかな。あなたはどう思う?あなたはどうしたい?って。

それと、親が大人が自分の満たされなかった想いを子どもに託していないかどうか、子ども以前に自分自身と問いを向けてみるんじゃないかな。

本当に「あなたのため」を思うのなら。

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