見出し画像

神風と聞いて何を思いますか?

神風(かみかぜ、しんぷう、かむかぜ)は神道用語。 神の威力によって吹く強い風を意味する。 古くは日本書紀の垂仁紀において、「神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国なり。 この国に居らむと思ふ」という倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神から受けた神託などに登場する。

神風は、日本書紀の頃からある古い言葉です。

ぱっと思いつくのは、元寇か、神風特攻隊だと思います。神風特攻隊の悲惨な歴史は、悪いイメージになっているかもしれません。呪術廻戦の技名で最近ちょっと炎上してましたよね。

今日紹介したいのは、良いイメージを世界に与えた神風の話です。

飯沼正明をご存知でしょうか?

1937年 東京-ロンドン間の飛行に成功した人です。

このときに使った飛行機が純国産機の「神風号」でした。

「神風号」は、朝日新聞社航空部のエースパイロット・飯沼正明飛行士によって1937年(昭和12)、世界を風靡(ふうび)した飛行機です。「神風特攻隊」のイメージから、そして後には陸軍司令部の偵察機として使われたことからも戦闘機としての印象が強いのですが、実は朝日新聞社航空部が取材のために軍から譲り受けた試作機で、民間機です。名前も一般からの公募によるものでした。

神風号という名称は、一般公募でつけられたんですね。

1937年(昭和12)4月に、朝日新聞社によりイギリスのジョージ6世皇帝陛下の戴冠式を奉祝し亜欧連絡記録大飛行が計画されると、飯沼は「神風号」の操縦士に選ばれ、機関士の塚越賢爾と共に東京―ロンドン間1万5357キロを94時間17分56秒、実飛行時間51時間19分23秒という、当時としては驚異的なスピードで飛行し、日本初の航空世界新記録を樹立しました。

凄い記録を樹立された人でした。

https://www.city.azumino.nagano.jp/site/yukari/2374.html

画像1

↑純国産の民間機だった神風号

1940年、新開発の機体による東京 - ニューヨーク親善飛行が計画されたそうですが、1941年12月8日の太平洋戦争勃発で計画は中止になったそうです。戦争の直前まで日米が親善飛行の計画があるくらいの良好な関係だったことはもっと知られても良いと思います。短期間で日米関係は悪化したんですね。

日本はもちろん世界から称賛された、飯沼正明の最期は、壮絶なものだったようです。

1941年、東京~ニューヨーク間の記録に挑戦しようとするが、その矢先に真珠湾攻撃の報がもたらされ、絶句して色を失った飯沼は、プノンペンの飛行場の滑走路にふらふらと出て、軍用機のプロペラに挟まれ死亡した。プロペラの直撃で顔が激しく損傷し見分けがつかないほどに崩れたため、当初は一体この被害者が誰であるか、わからなかったという。数時間後、顔見知りの記者が遺体の確認に駆けつけて、持ち物の名前から、ようやく飯沼と判明した。

プロペラに巻き込まれて亡くなられたそうです。

どうして滑走路にふらふらと出てしまったのか、今となっては分かりませんが、飯沼正明の心中には、戦争への絶望感があったのかもしれませんね。

また、悲しいことに、死後も戦争に利用されたようです。

 彼の死は事故死ではなく戦死として発表され、「血染めの操縦桿」という美談が作られた。
“空の飯沼”壮烈の戦死「飯沼飛行士は十二月十一日某重要任務を受け北部マレー方面の作戦に出動。防空砲火の弾幕をくぐって任務を遂行中、不幸敵の一弾は機を貫いて飯沼飛行士に命中し重傷を与えた。致命傷を受けた飯沼飛行士は一瞬たおれかかったが、旺盛なる責任感に勇を振い起し、血みどろになった操縦桿をしっかりと握り、基地へ、基地へと飛翔し続けた。出血はなおも甚だしく幾度か、意識を失わんとしたが、その都度任務の重大さに決死の操縦桿を握りしめたのであった。かくて消えんとする意識を鼓舞しつつ辛うじて基地に帰還。鮮血に染まる飛行服で重要任務を報告。無事責任を果してばったり倒れ遂に壮烈護国の鬼と化したのであった」

享年29歳という若さでした。

亡くなられた経緯を知ると少し悲しくなりますが、その功績は素晴らしいものだと思いました。

いいなと思ったら応援しよう!