
「当たり前は価値を感じない」に違和感を抱いた結果まさかの大発見に至った!
売買が絡む「価値の交換」
経済において僕たちは価値の交換をしている。
例えば市場(主にお店、何かしらのやり取りがある場所全般。note有料記事ならnoteも市場の一つ)にて、僕が第三者の提供する商品(りんご1個)を買った。買う時、僕はお金を払った。
僕:お金 / 相手:商品
お互いの価値を交換した。この時、相手も僕のお金に価値を感じていないと交換できない。どれだけ1万円の札を渡したところで
「これ、この市場(店)では使えないよ」なったら価値がない。
価値の交換は経済の基本だ。基本を踏まえたうえで次の話に入る。
「当たり前」は価値を感じない?
例えば「走り方」という商品があった。
走り方のコツとかテクニックでない。ただ人が走っている姿を撮影した動画だ。
走るという行為は、二本足があるなら誰でもできる。
「当たり前」の行動だ。
……市場にて相手が言ってきたとき、あなたは500円を払って「走る」動画を手に入れるか?
大半は手に入れない。走る動画に価値を感じないから。
何も他人の走りでなくていい。自分や友人・兄弟の走る姿を動画で撮影すればいい。
走るなんて「誰でもできる、当たり前の行為」だ。
当たり前だからこそ価値を感じない。
もちろん例外もあるが、ここでは省く。
当然→価値無は現在の僕が向き合っている問題だ。
記事を通して、何かしらの見解・納得できる答えを見出したい。
改めて書き言葉をおく。
当たり前には価値を感じない。
そこで論理学を借りる。論理学の基本として高校数学にて「命題・逆・対偶・裏」を学ぶ。
p → qが命題だとしたら、
逆:q → p
裏:not p → not q
対偶:not q → not p
今、次のような命題を置いてみる。
p:当たり前 q:価値を感じない
not p:当たり前でない not q:価値を感じる
先ほどの逆・裏・待遇をやっていくと
命題:当たり前には価値を感じない
逆:価値を感じないなら当たり前である
裏:当たり前でないなら価値を感じる
対偶:価値を感じるなら当たり前でない
少しわけが分からなくなった(笑)
僕が重要と捉えた文章は裏「当たり前でないなら、価値を感じる」だ。当たり前には価値を感じない。一方で当たり前でないなら価値を感じる。裏を少し深堀すると、
当たり前でないって「いつ・どんな時」?
「走る」は2本足があるなら誰でもできる。もちろん四本足ならなおさらだ。
走る動画と言っても、多くの人には価値を感じない。
自分が当たり前に走れるから。
自分が書いた文章「自分が当たり前に走れる」をそのまま受け入れず、あえて疑ってみよう。
どんな時「自分にとって当たり前でなくなる(なので価値を持つ)」のか。
僕はCG制作をやっていた時だ。
走るアニメーションを作っていた。

普段走っているので、動作自体には問題がない。
アニメーションを作るにあたり、改めて走る自分を分析した。
右腕を前に出すと、右足が引っ込む。
当たり前の部分を言葉で表現すると、不思議な感覚に見舞われた。
同時にアニメーションを作っていたら、次の間違いを犯していた。
右腕を前に出すと、右足が前に出る。
ツッコミを入れた。
当たり前なのに、なんで間違えるんだ?
普段から右足を前に出したら、右腕を引っ込めるのに、どうして右腕を前に出したんだ?
自分の当たり前を言葉で表現していないから「言わなくてもわかってる」で捉えている。言葉で説明しろと言ったら、すごく難しいとわかる。
無意識でできている状態を言葉で表現するとき、うまく説明できない。くわえて別の何かで自分の走りを表現すると、思いっきり間違える。何も考えず完璧にできるのにね。
ここから一つの仮説が成り立つ。
「当たり前には価値を感じない」は、説明不要及び何かで扱う時以外は価値を感じない。
人に説明する状態でない
アニメの動作など別の形へ応用しない
2つの条件が「はい」なら当たり前には価値を感じない。
現時点で使わないし、他人or自分自身に教える項目でないから。
裏を返せば2つの条件において1つでも「いいえ」がある瞬間、当たり前には価値をもつわけだ。
僕がさっきまで悩んでいた「当たり前には価値がない」は、言葉が足りない(特定の条件を考えてない)からこそ生じた現象だ。
僕自身は一つの陰謀を明らかにした気分になっている。
ここまで読んだあなたに尋ねる。
ここまでの考察に価値を感じているか?
あなたが「価値を感じてない」場合、僕の考察は「他人に説明する内容でもない」か「人への教育/かっこよく見られたい雑学披露などの応用」と、何かしら使うところがないときだ。
「ああ、この現象を改めて自分の言葉で言いなおしてみよう」
「こういう条件なら、当たり前があたりまえでなくなり、お客様も反応するよなあ」
「何かしら使い道がある」気づいたとき、当然(あと、僕の考察も)は価値を持つ。
現在CGで「歩く・走る」をアニメーション表現しているとき、自分の歩き・走りを見直した。
歩く・走る動画を作った瞬間だからこそ、僕にとっての当然「歩く・走る」が当たり前にあるようで、実は当たり前でなかったと気づかされた。
むしろ複雑な動き(足を上げる+片方の足を下げる+腕を上げる+片方の腕を下げる+腰を下げる+首を少し上げるなど)を卒なくこなしたうえで、すべて当たり前にできていると感動した。
当たり前を分解すると創作になり、自分の手で再構築(当たり前を基に創作)すると感動が待っている。
だからクリエイターはやめられない。
でもって創造をキーワードにとんでもないアイディアが浮かんだ。
自分の生き方。思考停止で苦しかった状態をぶち壊す内容だ。
長くなるので別の話にて。
PS クリエイターに関し、前にこんな考察をした。
過去記事を読み直し、改めて自分ほど厄介な頑固者はいないと確信した。
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