家族のセレモニー&イベントのプロデューサー+ダンス好きが東京オリンピック開会式・閉会式を見てみたら
東京オリンピックの開会式・閉会式がすったもんだの末に行われました。
小さいながらもセレモニー&イベントを取り仕切る仕事をしているのと、ダンス好きとしてパフォーマンスがどんなものになったのかという興味とで、どちらもTVで視聴したので、それについて書いてみました。
演者の皆さんはとても素晴らしかったです!
前日まで(いや当日までか)きっと大変だったことでしょう。
まずはねぎらいを込めて、そして誤解のないように述べておきます。
何がしたいんだろう?としか思わないバラバラ感
こういうセレモニーの場では、大会テーマなどをコンセプトに作るものだと思うのですが、それが全く伝わらない。コンセプトないんじゃないか、という印象でした。
個々はそれなりに楽しめるが、既視感のある組み合わせもあれば、なんでこの組み合わせ?というものもあって、次のシーンに移ると「?」が飛ぶ。各界の第一線で活躍する演者が集まっているからこそ気の毒になってしまいました。
例えば、歌舞伎はなぜ「暫」だったのか、なぜジャズピアノとのセッションになったのか?
いわゆる”ヒーロー”だからかなぁ、いや実は衣裳が大きいからだったりして、と思うくらい、意味を感じられなかったんですよね。
そして、「復興五輪」はどこに行ったんでしょうね?
被災地の子どもたちが登場したりもしましたが、それこそ取ってつけたようでした。
コンテンポラリーダンスが利用されちゃった感
開会式では森山未來さんが、閉会式ではアオイヤマダさんが「追悼」のダンスを踊りました。
ダンスをやっていた人間としては、いいように使われちゃったなぁと、悲しくなりました。
最も難しいテーマをコンテンポラリーダンスに託したようですが、それは最もふんわりさせたい箇所だったんだろうなと。
ダンスの中でも、コンテは想いとかテーマとかを入れ込みやすい。でも、表現の幅も広いので、わかりにくいものと考える人も多いはずです。
それ故に賛否が分かれやすい。ただし、統一した見解も生まれにくいものだと思うんです。
だからこそ、踊るほうも全ての人に理解してもらおうと思ってやっているわけではなく、引き受けたほうも賛否はあるものと覚悟して受けたはずです。(それは作家やアーティストすべてに言えることだと思いますが)
でも、アオイヤマダさんは誹謗中傷を受けてSNSアカウントを削除されたそうではないですか!
若い踊り手が叩かれて、万が一ダンサーとしての活動に支障が出てしまったらどうするんだ。
私は機会があって6月の舞台「未練の幽霊と怪物」を鑑賞しました。
この舞台の『挫波(ザハ)』のパートで、シテ=ザハ・ハディドを演じたのが森山さん。画面に登場した時は違う意味でびっくりしました。
「未練の~」は新型コロナの影響で昨年の予定を延期して上演された作品でした。演出側がそれを知らずにこの追悼パートを託したのだとしたら、どんだけリサーチせずに依頼したんだろうと思ったし、知っていたのなら炎上商法もいいところだなと。
森山さんも見えないところでいろいろ大変だったと思うのですが、彼くらい名前も知られ、確固たる地盤を持った人ならダメージも力にできるかもしれない。
やっぱり彼の今の立場だからできた「掛け持ち」です。
原爆の日に黙祷をすることはしないが、開会式と閉会式では追悼の舞を踊らせる……一貫性を感じないどころか、ごまかしに使われたとしか思えない。考えれば考えるほど、怒りを覚えます。
舞台芸術としての批評はプロがまとめていらっしゃるのでぜひこちらを。興味深い記事でした。
開会式直前に「マツケンサンバ」にしようという声がネットで巻き起こりました。
閉会式の直前にも「今度こそマツケンサンバ!」と話題に。
閉会式では「東京音頭」とともに盆踊りが踊られ、真似して踊る選手が見受けられましたが、あながちマツケンサンバ待望論も間違いではなかったように思います。
盆踊りとマツケンサンバに共通するのは、頭に残るメロディに乗って、簡単に真似できる歌詞と踊りだというところ。そして、老若男女が楽しめるところ。
キモノを着て、和太鼓を叩いて、日本らしさも十分あって、ホッとした空気感にしたい閉会式にぴったりでした。
フィールド向けなのか画面向けなのか中途半端感
個人的にも開会式のピクトグラムは面白かったし、ドローンの演出もよかった。数少ない肯定できる演出だったように思います。
ただ、どちらも画面向け、フィールドの人からはどう見えたんでしょう。
閉会式の光の演出も、開会式のドローンのようにてっきりフィールドでも見えているものと思い、これはすごい!と思ったら、画面だけの演出だったようですね。
この演出にそこそこ尺を取っていたので、じゃあフィールドにいる人たちはどうしてたの?とまた疑問が。
演出の中身について考えると、開会式って誰のもの?という潜在的な命題が浮かんでくるのですが、五輪の利権についていろいろ報道されると、結局オリンピックって画面向けが中心なんだなと感じざるを得ません。
おもてなしされるべきは選手の皆さんだと思っていたけど、結局はIOCやアメリカの視聴者がメインなのね。
その割に、画面で見て、見せるレベルのものになっていない個所が多かったのが気になりました。
準備不足のせいなのか、詰めが甘いせいなのかはわかりませんが、やっぱり中途半端。
スピーチだったか、ハンドオーバーセレモニーだったか忘れましたが、途中で段のうしろを横切るスタッフが写りこんでいました。
TVで放映するなら、正面から撮るのは当然想定されているはずなのに、その後ろを突っ切っていくとは。
それがプログラムの合間ならまだ仕方ないなと思うのですが、進行中だったからびっくりです。
導線がそこしかなかったとは思えないんですが、万が一そこを通るしかなかったとしても、少し待ってなさいよと。
まあ、突貫工事で全体のオペレーションもひどかったんだろうなぁと思いますが、セレモニーは台無しです。
バタバタな空気感
オリンピックのような中継では、いつもさすがだなと思うNHK。
変にテンションの高い盛り上げはせずに、きちんと明るい雰囲気を醸し出すはずのナレーション(それも和久田アナ)のはずが、実に取っ散らかっていたんです。
例えば、サプライズ的な演出を紹介するのに、登場する前に説明が入ってしまったり……。
あまりに早いので、バリアフリー放送だっけ?と思ったくらい。
カメラワークも見やすいとは正直思えず、台本が直前まで定まらなかったからかなぁ、大変だったんだろうなと感じました。
アナウンスで言えば、フィールドの日本語MCは聞きにくかった。
あれはドラフト会議の司会の方だったんですね。
ふくよかな響きがあって、素敵なお声とは思いますが、フィールドでは聞き取りにくくて、向いてなかったなと思います。
Stay Homeと言っている割に花火を打ち上げる
花火、必要でしたかね?
千駄ヶ谷にたくさんの人が集まっていて、デモ隊も含めてかなりの密ができていたそうですが、そりゃ、外から見えることをしたら集まりますよね。
開会式を見て、閉会式で出掛けることにした人もいたでしょう。
一定数、人が集まることも想定内でしょうから、集まりそうな場所を封鎖すればいいと思うんです。
ただでさえ批判も多い上に、スタジアムの中のことしか考えない運営では、自粛ムードも弱まりますよね。
演出から話が逸れますが、自粛せよと言うなら納得できる状況をつくるのも大会運営側の責任だと思います。
選手や大会関係者を安全にという言葉は何度も聞いたし、実際に行動していたのでしょうが、合わせて国民の安全も守られなければ、納得はできないでしょう。
選手が歓迎ムードの中で競技できるようにするためにも、それは大事なこと。おもてなしの一環であると思います。
自己防衛のために自粛する人もいれば、楽しみを優先して出掛ける人もいて、特に出掛けてしまう人が、ならば仕方ないと諦めるような仕掛けがなされていない大会でした。
パラリンピックでは、多少なりとも改善されることを祈ります。
「広告代理店」が牛耳っているからこうなった?
開会式直前のゴタゴタを見てふと思ったのが、他国のオリンピックに広告代理店のようなものは関わっているんだろうか?ということ。
巨大&国際的なイベントですから、手配やキャスティングにはコネクションも必要でしょうし、当日もディレクションに手慣れたスタッフも欠かせないとなれば、裏側でそれに手慣れた既存の企業なりが関わるのは仕方がないと思います。
そして、規模の大きい企業が関われば、金銭もそれなりに必要だということも。
でも、そもそも広告代理店って舞台を作ったりするんでしょうか?
映像ならまだわかるんですが、ステージアートの公演に広告代理店が関わっている印象はない。
イベントの全体指揮は取るかもしれないけど、制作はしませんよね。
アーティストの特性を生かして、各所との調整をするのが得意分野であり役割なのではないかと思うのですが、作品の根幹を担うのはちょっと違うような。
そこをはき違えたことでこういう完成形になってしまったんじゃないかと思います。
閉会式のパリ五輪の映像を見て、実にカッコいいなぁと思ったし、歴史的施設などを活用するというコンセプトを聞いて、これまたパリらしいと思いました。
でも、リオ五輪の閉会式での東京のパフォーマンスだって(土管からマリオは除いて)実にカッコよかった。
あれを見たときは、日本もこれだけカッコいいものができるんだ、と2020年の本番が実に楽しみになったものです。
このメイキングを見ると、更迭された方も写っていますね。
アーティストがいい作品をつくるための場を整え、周囲との調整を指示するのがこのチームの中でのこの方の本来の役割だったのではないかと。
適材適所のチームのままだったら、きっとこういう結果にはならなかった。この時期のいいバランスが保たれていれば、今回のようなぐずぐずな状況は生まれなかったと想像します。
天皇陛下のお席は別枠にすべき
実は一番びっくりして、一番のやらかしだったと思うのが、天皇陛下の開会宣言のときのこと。
首相も都知事も、陛下の開会宣言の際に起立をしそこない、それが全世界に配信されてしまいました。
バッハ会長の紹介のしかたが段取りと違ったような報道も見ましたし、台本がダメだったんじゃないかという疑惑もまたここで浮上しますが、いや、そこは感じ取ろうよと。
英語できない私ですら、「天皇陛下をお迎えしましょう」というスピーチは理解したし、それを聞いてからでも十分に立つ時間はありました。
常識として立つでしょう、普通。
今回は新型コロナの感染の危険性も考えて、ロイヤルボックスとして別にお席を設けるべきではなかったのか。
もしロイヤルボックスが別のところにあれば、首相や都知事の無様な姿も映らずに済んだわけですよね。
パラリンピックの開会式は、バッハ会長が隔離期間を置かずに参加するそうなので、お願いだから陛下のお席を別にして!と切に願います。
もう超シンプルでいいじゃないか
そぎ落とされていて、実に美しいなと思ったのは、国旗や五輪旗の掲揚でした。
縁のある人たちが旗を運び、訓練された人たちが受け取って掲げる。
ただそれだけのシーンであり、自衛隊の皆さんからすれば、いつも通りの掲揚の立ち居振る舞いだったのでしょうが、ひとつの儀式として成り立っている。
セレモニーってそうあるべきなんじゃないか。
結婚式についても同様なのですが、下手に趣向を凝らすより、シンプルであるほうが美しいし、わかりやすいんです。
国旗を掲げて、選手が入場し、開会宣言や挨拶があって完了!でいいと思いました。
選手の入場を見ていたら、自国の民族衣装を思わせるユニフォームあり、開催国に合わせて、日本らしいモチーフを入れたユニフォームあり。
あれは既に、素晴らしいパフォーマンスでしたよね。私はそれで十分楽しめました。
余談:詫びるのが下手になった日本の中心にいる親父たち
このオリンピック&パラリンピックは、ロゴ問題やスタジアム問題やジェンダー問題や、何かと謝罪や仕切り直しの多いものになってしまいました。
関係者のお詫びのシーンもたくさん報道されましたが、詫びるのが下手な人たちばかりでしたね。
本当に詫びる気持ちがあるならそれが間違いなく伝わるようにしなければ意味がないし、例え詫びる気がなくてもちゃんと詫びたように見せる。
それが謝罪のキモなわけです。
今は会見からSNSまで、謝罪の方法が多岐にわたるので、どの方法を選ぶかもなかなか難しいのだと思いますが、謝罪に成功した事例が思い浮かばない、つまり、どの人にもいいブレーンがいないんだろうなぁ。
(情報を切り取り、何かと煽るマスコミにも問題はあるでしょうが、それも乗り越えなければいけないわけで)
日本ではなんとなく謝ればどうにかなったジェンダーや差別の問題も、海外では大きく取り上げられるということを痛感する機会にもなりました。
これを今回限りのことだと考えずに、根付かせていくことができれば、難しい状況下でもオリンピックを開催した意義になりそうですね。
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