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穴を塞ぐか 穴はあるものと捉える か

ノリが悪い人、だったんだろう私は。



「関西人なのに関西人ぽくないね」
・・・よく言われる。
これは東京に来てからの話ではない。


中学生の頃、同級生に怒られた記憶がある。
「オチないんかい」
「笑うのが早すぎる、まだそこは笑うとこやない」
友人は怒ったつもりはなくて、たぶん、ただのツッコミ。

求められるようにはできないことを
なんでそうなるかな(ダメだなぁ)って受けていて
でも
言われて意識したからってうまくできなくて
一人になるとよく考えてた。
みんなとの時間は楽しかったし、なんとなく笑顔でいたと思う。


小学校の同級生が突発的に亡くなって
お通夜に参列したときも
おじいちゃんが亡くなって火葬場に行ったときも
周りの人たちが声をあげて涙する様子と
瞼を閉じて横たわる近しかった人を見て
物々しい感じと静けさの間で

自分だけ水中に潜ってしまったような
うまく泣けない、うまく泣こうとしている自分も嫌で、
ボワーンとした、その場にいるような、
でもうまく馴染めないような感じというか。

会場に響く、制服を着た友人の重なる泣き声とか
火葬場に向かう道すがらの陽射しとか
帰り道の晴れた空とかそういうのは覚えている。



・・・

2024年に入ってから、試していることが2つある。

一つは習慣のこと。
一つは関係性のこと。


習慣は、運動を始めたこと。
自分の身体をもう少し知りたい、
そうして60になった時に健康でいたい、そんな感じ。

身体に関わり始めて自分の中にいくつか気づきがあった。

・理由(因果)づけをしないこと
継続するには、決めどころ・・もう、「行く」と決めてしまうこと
歯磨きに近いかもしれない

・ストレスに強くなったこと
少なくとも運動をしていると自分と向き合うことになる
それを重ねていくことはメンタルにも影響があるようで
ちょっとうーん、という場面がある前日に行っておくと効果あり

・結果が出ると嬉しいが、結果を目的にしては続かない
常に変わり続けている身体、
数値が変わったポイントはある1時点でしかなく
それを目的にして想像した効果を得られることもあるが
長期的に見ればそれは揺り戻しにつながることもあり
無理なく継続する上では「棚ぼた」くらいにしておいて
目的にしてはダメなんだな、と

ただ、結果は
自分の行動のクセを見つめる、意識と無意識の間を知る、
反応の前後関係をどう捉えるか、という機会にはなる



関係性は、主に母とのこと。

ありがた迷惑とはこのことで、
私たちはおそらく
幸せになってほしいと互いに願い
頼んでもいない良さそうなものを
押し付けあってきた時間が結構あるのだと思う
私も母も
(大前提として大事にされているという感覚は
それはもちろん受け取りあっているはずだけど
それ以外の部分の話です)


年始から始めたのは
特別な手紙や贈り物ではなくて
私の日常を葉書で週に一度くらい送ってみるというもの。


”散歩するときにプールの塩素の匂いがする通りを選んでしまう、
プールに通っていたあの頃はバスに乗るまで気が重くて仕方なかったのに”
とか

”天気をろくに見ずに天窓を開けたまま職場に向かい、
夕方からとんでもない嵐で
帰ったら家の中に水溜りができていました”
とか


そういうありふれた(?)日常を淡々と伝える感じ。

続けて少しした頃、
楽しみに読ませてもらっています、ありがとう
と返事が来た。

・・・


〇〇なのに、〇〇ぽくないね

穴を塞ごうとしてしまう行為
また、その意図はなくともそのように受け取ってしまうこと
因果関係を決めつけてしまうことの弊害はある
「穴」を「塞ぐと良い」というのは、誰が決めたのか。

穴はあるものと捉え
自分にも、関わる人にも、
ただ、ついていくという感覚
ありのままの静かな観察と、捉え方を見つめ更新していくこと。

ここには大きな違いがある。


と感じた気配や手触りは
それなりに価値を感じているのでたいせつにしたいと思っている。
流せない。


ノリの悪い、その私は変わらない。
でもどちらにスタンスを置くかで
捉えかたが大きく違うので、
行為・行動に変化が生まれると思う。



広告と情報に溢れた日常の中では
ついつい見えやすいものや反応しやすいものに
目や身体が反応しやすくなっている(受)
意識せずに選び取っているものが言動が重なってゆく(能)



長いなー。
でも、メモ。



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