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見ようとしないと見えない ・・・創るために必要なこと

三千院の庭を歩くと、特に雨上がり、目の冴えるような緑の美しさに、生命力の鮮やかさが肌から染みてくるような感動に浸される。もちろんお寺や仏像も心を鎮めて対峙する空間として素晴らしいが、この澄んだ空気感に惹かれて何度か足を運んでいる。この場所が1200年も前から人々の心を癒し、大切に人々に守られ、互いに寄り添って成立してきたことには、本当に考えさせられることが多い。

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上の画像は真夏の京都三千院、3年前の写真。何度か訪れている中で庭苔を手入れされている方に出会ったのは初めてだった。細々と手を動かし、塵取りに摘みとった部分を寄せていく。足の踏み場に気を遣いながら腰をかがめ、少しずつ後ろへ移動する。その一挙一同に迷いや無駄がない。苔は水やり加減が大事なのかな、くらいに思っていた私はもう一度庭を見渡して、これは手のかかった美しさなのだと気づいた。その日は人も少なかったので、30分ほど遠くから窺って見たが、2m四方も進まない。他に手入れしている人も見当たらない。この苔庭全体を手入れするのに一体どれくらいかかるのだろう・・。私は何も知らない(見ようとしない)で、そこにある美しさは当たり前にあるものだと、上っ面だけ見ていたことを恥ずかしく思った。背景や中身を見ようとし続けることは、本当のことに近づくために欠いてはならないと刻んだ、一つの記憶だ。


このことを思い出したのは、8月に入って、自分たちが目指す教育のグランドデザインをつくっている時だった。《しあわせをつくる人》を育てるという学校目標に、全ての学びや生活・行事などがそこへ向かえるよう、必要な項目を検討している。しかしその項目の表現は目に見えづらい。例えば〈やりなおせる人〉。なので、その項目を具体的にするフレーズをつくろうということになり、目指す像を具体的にした。具体的にはするのだが、芯を探り当てていくような感覚で、どちらかと言えば削ぎ落としていく作業だと言える。「やりなおしができるためには前を向くことかな」「前を向くためには、視点を変えることが必要」「まず自分自身の位置を知ることが大事かも」「落ちるところまで落ちれば上がるしかない」等々、少しの笑いを混ぜながら対話を繰り返し、発言者それぞれのバックグラウンドを持ち寄って、全体の核心にあたるものを創っていく。本来は年度当初に行う予定で、コロナ対応を優先させたため夏休み開催となったのだが、その結果、面を合わせて表情や湿度を受け取りながら進めていくことができ、感覚にとても響いているなぁ、と感じた。参加者は自分のイメージを伝え、他の視点を受け入れ、フィードバックをもらって、全員で根本に向き合う。目的との整合性を測りながら創っていく3日間、脳の疲労感を感じながらも密度のある感慨をもつことができたようだった。「すごい疲れたけど、すごい充足感!」「いろんなみかたを知るって楽しいね」「日本語って難しいけどそれだけいろんな感情を表すってことだよなぁ」「これ創ること、本当に大事だよね」「ここに参加できてよかった・・・」そんな言葉が皆から漏れていた。


これまでの自分にとって大きなストレスとなっていたものの一つに、AとBの意見があったとき、どちらが正か悪か、プライドや立場や人柄の優劣に意識が向くような、対立した議論があった。議論が好転しにくいことはもちろん、とても苦しく、辛い、人間関係にもいや〜な気持ちを生み出してしまうことが多いので、参加者は「関わらないでおこう」と思う。そうすると議論がどこか他人事、積極的に参加したとて「どちらの味方なのか」が最終的な視点に持ち出されることが多く、どう足掻いてもその後の活動に悪影響がもたらされていた。一体何のための議論なのかがわからない。

「AとBの意見から、Cの答えを導き出せばいいのに・・」いつもそう感じていた。そう主張し、信じ続けていたことに嘘はないが、反感を買うことが多かったのは、議論を始める以前の最低条件が満たされていなかったこと、そして、きっと私は配慮に欠けていたのだろうと今なら思える。

年齢・立場・職種関係なく、互いの良さやバックグラウンドの違いを生かしてより良いものを創っていける、対等な関係を築けること。目標と手段を冷静に判断して積み上げられる集団こそ、組織としての価値を創ることができるのだと思う。そうあることは決して特別なことではないと信じ、これからもこの仲間たちとどんなものが生まれるかを期待して、創る楽しさを感じ、自分を律して努力したい。


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