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皇帝の遺志を継ぐナポレオン2世の悲劇的な生涯

3月20日は、ナポレオン1世の嫡男で、フランス帝国の皇太子、ローマ王であったナポレオン2世、ライヒシュタット公が生まれた日。(1811年3月20日 - 1832年7月22日)ハプスブルク家、始まって以来の美青年と謳われた。

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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【生い立ち】

父は、フランス皇帝ナポレオン1世、母は、ハプスブルク家オーストリア皇帝フランツ1世の長女マリー・ルイーゼ大公女。ナポレオン待望の男児、初めて喋った言葉は「パパ」であった。

【ナポレオン失脚後】

1812年モスクワ遠征失敗以降、ナポレオンは没落の運命をたどり、マリー・ルイーゼは、一人息子のローマ王を連れて、実家であるハプスブルク家に戻る。

【一家離散】

が、メッテルニヒらが中心となったウィーン会議で、ナポレオン後のヨーロッパ体制が決ると、マリー・ルイーゼとまだ小さなナポレオン2世は引き裂かれ、ナポレオン2世はウィーン、マリー・ルイーゼは、イタリアのパルマへ女王として赴くことになる。

自分の英雄として尊敬する父は流刑となりその地で亡くなり、自分の母とは一緒に住むこともかなわない。悲嘆にくれるナポレオン2世の姿は、周囲の人々の涙を誘ったという。

ナポレオンの息子とはいえ、オーストリアでは誰からも愛されたそう。さらにロシア皇帝からも、祖父であるフランツ2世からも可愛がられた。

【才色兼備を備えた少年】

父に似て、歴史、数学に非凡な才能を示したという。努力家で、将来を嘱望されたが、それはまたヨーロッパの火種となりかねず、メッテルニヒの頭を悩ませる。

【早すぎる死】

母にも会えない年月が長く続き、しかし頑張り屋のナポレオン2世は、病(結核)を抱えながらもいつか父のようになりたいと願い、軍隊で猛特訓をし、それがたたり、21歳で亡くなった。

【父と共に】

1840年、パリのオテル・デ・ザンヴァリッド(右の写真)にナポレオン1世の遺骸が移された。その100年後、ナポレオン2世の遺骸は、ナポレオン1世の傍に移された。現在は尊敬する父の傍で眠っている。

移したのは、ナポレオンを崇拝していたあのヒットラーだったそう。


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