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文学と愛〜須賀敦子〜
2月1日は、日本の随筆家・イタリア文学者・翻訳家だった須賀 敦子が生まれた日。(1929年1月19日- 1998年3月20日)
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皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。
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芦屋の恵まれた家庭に生まれ、読書が大好きだった彼女は、宝塚の小林聖心に入学。8歳で東京に引っ越してからも白金の聖心で学ぶ。そして、パリ留学後、さらにローマに留学。ローマからミラノに移り、イタリアの改革運動の拠点で文化発信サロンでもあったミラノのコルシア書店で、そこの中心人物ジュゼッペ(ベッピーノ)・リッカと出会い、32歳で結婚。夫の勧めもあり、谷崎潤一郎をはじめ、様々な日本文学のイタリア語訳を出版する。
イタリアでの生活は、決して裕福なものではなかったそう。そもそもペッピーノは、「鉄道員」の息子で、つまり労働者階級に属する。国は違うけれど、豊かな実業家の娘であった敦子との結婚は今でいう「格差婚」だった。
が、ふたりのあいだには、文章、そして。本があった。
協力して、文学の翻訳や紹介に努めたものの、結婚後6年あっけなく夫は病没する。
42歳の時に帰国してからは、大学で非常勤講師や、翻訳の仕事をしたりという生活へ。その後、61歳からエッセイストとして大輪の花を咲かせた。一躍世に送り出したのは、「ミラノ 霧の風景」だった。
没後25年近くたった今でも、その文章の美しさ、品格は多くの読者に愛されている。
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