ビリー・ワイルダー〜「いい仕事をする」約束を果たしたユダヤ人の映画監督〜
皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。
長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。
6月22日は、アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサー、ビリー・ワイルダーが生まれた日。(Billy Wilder、1906年6月22日 - 2002年3月27日)
50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。
代表作は、以下の通り。
『深夜の告白』(1944年)
『失われた週末』(1945年)
『サンセット大通り』(1950年)
『七年目の浮気』(1955年)
『情婦』(1957年)
『お熱いのがお好き』(1959年)
『アパートの鍵貸します』(1960年)
こちらに書ききれないほどの賞を授与されている。
オーストリア=ハンガリー帝国に生まれる。
父は、鉄道駅構内のカフェ・レストランを経営するユダヤ系のマックス・ヴィルダー、母もユダヤ系のオイゲーニア・バルディンガー。
母親から西部劇の主人公バッファロー・ビルやワイルド・ビル・ヒコックから取ってビリーとあだ名をつけられる。本名はサミュエル・ワイルダー。
もともとは新聞記者として、ベルリンに住んでいたが、21歳で映画の脚本を書くようになる。
以下、ビリーの受賞の際のスピーチです。長文ですが、時間のある時に。
ヲノサトルさんの2017年1月30日 06:29に書かれたnoteより
1987年 第60回アカデミー賞
アービング・G・タルバーグ賞
受賞スピーチ 1988年4月11日
受賞者:ビリー・ワイルダー
プレゼンター:ジャック・レモン
『どうもありがとう。最も威信ある賞をいただいたと理解しております。もちろんノーベル賞は別として。(観客・笑)
えーと、これをそっちに。(トロフィーをレモンに渡す)どうも壊れちゃいそうでね。
深く感謝いたします。アカデミーの理事やメンバーの皆さんに、そして世界中の何百万というファンの皆さんに。特に都市部の方々。(観客・笑)
とりわけ、ある一人の紳士には本当に感謝しています。彼の助けがなかったら、私は今夜ここに立っていなかったでしょう。
彼の名は忘れましたが、あの思いやりは決して忘れられません。メキシコはメヒカリ市のアメリカ領事でした。
さて想像してください。今は1934年。
ヒトラーの暴虐が始まった1年後です。我々はみんな亡命していました。チューリッヒ、ロンドン、パリなどに。
私はラッキーでした。ハリウッドに脚本が売れ、6ヶ月間の旅行者ビザが取れました。それでハリウッドに来て仕事を始めたんですが、6ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいました。
私は帰国したくなかった。アメリカにい続けたかった。
でも、それには移民ビザが必要だと言われました。そのために一度出国して移民ビザを取得し、正規の書類を持って再入国しなければならない。
そこで私はメヒカリに行きました。カリフォルニアから国境を越えて一番近いアメリカ領事館があったからです。
領事のオフィスに入る時は、汗びっしょりでした。暑かったんじゃありません。パニックと恐怖に襲われていたんです。
書類が山ほど必要なのはわかっていました。宣誓供述書、前の住居の正式な証明書、犯罪者や無政府主義者だったことはないという誓約書。
私は何ひとつ持ってなかった。 ゼロです。
あったのはパスポートと出生証明書、それに私が無害だと保証する何人かのアメリカの友人の手紙だけ。絶望的でした。
領事は、ウィル・ロジャーズにちょっと似てたなあ、彼は私の不十分な書類を調べました。
「これだけですか?」
「そうです」
説明しておきますが、ベルリンからは知らせを受けてすぐ逃げ出さなければならなかった。ほんの20分ぐらいで。
隣人がこっそり教えてくれたんです。制服の2人組が私を探してるって。スーツケースにわずかな物を投げ入れ、パリ行きの夜行列車に乗るのがギリギリでした。
領事は私をじっと見て、言いました。
「あのですね。たったこれだけの書類で、私にどうしろと?」
説明しました。ナチスドイツから書類を取り寄せようとしたけれど、返信がないのだと。
もちろんドイツに帰国すれば書類は手に入るでしょう。でも私はそのまま列車に乗せられて、ダッハウの収容所に送られるでしょう。
領事は長い間じっと私を見つめていました。理解してくれたかどうか、私にはわかりませんでした。
話には聞いていました。家族全員でビザを何年も待ち続けている人たちや、二度と入国できなかった人のことを。信じてくれ。私はアメリカに戻りたいんだ。まずいぞ、これは……
私たちはそこに座って、見つめ合っていました。
領事も私も、まったく口をききませんでした。
やがて彼は言いました。
「あなたは何をしているんですか? つまり、ご専門は?」
「映画の脚本を書いてます」
「そうなんですか?」
領事は立ち上がると、ゆっくりと私の背後に回りました。値ぶみされているように感じました。
それから彼はデスクに戻ってきて、パスポートを取り上げ、開いてゴム印を押しました。(バン!バン!と手で卓を叩いてみせる)パスポートを返してくれました。
そして言いました。
「良いものを書いてくださいね」
(観客・笑)
54年前のことです。あれからずっと私は、良いものを書こうとしてきました。
(観客・笑&拍手。しばらく止まない)
私は絶対に、絶対に、メヒカリのあの恩人を失望させたくなかったんです。それで…… まあ振り返ってみれば、幸運な人生を送ってこられた。
まったく予想もしていませんでしたよ。こんな、その、タルバーグ賞だなんて。皆さんは疑いなく、世界で最も寛大な人々です。
それから、I.A.L. 。(※ 訳注)きみも観てくれていると良いんだが。だって、この賞は、きみのものでもあるんだから。回復を祈っているよ。
本当に、どうもありがとうございました。
(観客・拍手)
※ 訳注: 脚本家 I. A. L. ダイアモンド。ワイルダーの長年の共作者だった。このスピーチの10日後に病没。
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