
女を演じるのは男性だった時代に新風を送り込んだ女優〜水谷八重子〜
皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。
ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。
先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。
長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。
楽しんでいただけたら、嬉しいです。
8月1日は、大正から昭和にかけての女優、初代 水谷 八重子が生まれた日。
(1905年8月1日 - 1979年10月1日)

新劇から新派に入り、
戦後は新派の屋台骨を支える大黒柱として
日本の演劇界に重きをなした。
神楽坂の時計商であった松野豊蔵・とめ夫妻の次女として誕生。
五つのときに父が死去したため、
八重子は母とともに姉、勢舞と
義兄劇作家の水谷竹紫のもとに身を寄せ、育てられた。
竹紫が劇団芸術座を設立したこともあり、
八重子もごく自然にもその舞台に立つようになった。
1918年(大正7年)、雙葉高等女学校(現在の雙葉高等学校)に入学。
在校しながら活動をしていたため、
「覆面令嬢」という匿名で、女優の道を歩んでいった。
新劇の舞台で女優としての地位を固めた後、
八重子が大きく開花したのは新派だった。
旧派である歌舞伎では、
女性役は女形といわれる男性が演じていた。
新派では、その名の通り新たな演劇、
女性を女優が演じるという当時型破りな演劇だった。
当時の女優は地位が低く、
興味本位に見られがちだった。
八重子は、男性に負けない、
同等の演技ができるよう研鑽を積んでいった。
新劇で身につけたモダンなセンスと、
新派の伝統の芸を併せ持った八重子の華やかな舞台は
いまだに語り継がれています。
私生活では、1937年(昭和12年)には
十四代目守田勘彌と結婚し、
2年後に一人娘の好重(のちの水谷良重(二代目水谷八重子)をもうけている。
従四位に叙された。
墓所は築地本願寺和田堀廟所、戒名は水月院釈尼春光。
