漱石が死ぬまで恋い焦がれた女流歌人 ~大塚楠緒子~
8月9日は、明治末期に活躍した美人作家であり歌人だった大塚楠緒子(おおつか くすおこ/なおこ)が生まれた日。
(1875年8月9日-1910年11月9日)
才色兼備で夏目漱石が恋した人として知られる。
東京控訴院長・大塚正男の長女として東京市麹町区一番町で生まれる。
東京女子師範附属女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を卒業後、
佐々木弘綱・信綱の元で和歌を学んだ。
1895年、小屋保治と結婚(保治は大塚姓になった)。
夫が留学中、英語を明治女学校で学ぶほか、
絵画を橋本雅邦に師事、ピアノや料理なども学んだ。
雑誌『太陽』1905年1月号に
日露戦争に出征した夫の無事を祈る妻の心情を歌った
「お百度詣」を発表した。
夫(美学者・大塚保治)の親友、
夏目漱石に師事し、朝日新聞などを紹介してもらい、
連載小説も書いていた。
ゴーリキー、メーテルリンクなどの
翻訳も手掛けるなど、
当時、女性としてはかなり成功し、
マルチな才能を発揮した。
1910年、流感に肋膜炎を併発して
大磯の別荘で死去。享年35歳。
夏目漱石は、最後の連載随筆『硝子戸の中』の中で、
楠緒子とのやり取り、そして彼女の美しさに触れている。
さらに35歳で早世した彼女のために句を作っている。
「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」と。
芥川龍之介は、この句から漱石の恋心を感じ取ったようで
「何故もっと積極的な態度をとって、
姦通でも心中でもしなかったか」と歯がゆがったという。
そうして、龍之介は、漱石の一周忌に
「人去つてむなしき菊や白き咲く」という句を詠むのです。