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恋愛でも与謝野晶子のライバルだった女流歌人、山川登美子

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


7月19日は、明治時代の女流歌人、山川登美子(1879年7月19日 - 1909年4月15日)が生まれた日。
弟は小説家の山川亮。
与謝野鉄幹が主宰する文芸雑誌「明星」で一躍その名を歌壇に轟かせた。

福井県小浜市出身。

代々小浜藩主に仕えた由緒ある家柄に生まれ、
両親の豊かな愛情を受け何不自由なく育つ。

大阪の梅花女学校に進学した登美子は
知識と教養をさらに積み重ね、
短歌の師である与謝野鉄幹と
歌友である鳳(与謝野)晶子らと運命的な出会いを経て、
短歌の世界を知り充実した生活を送っていた。

実家からの縁談で、
師鉄幹への恋愛感情と歌に対する
限りない情熱を胸に秘めたまま、結婚。

しかし、その夫は結婚直後に結核に侵され、
登美子の懸命な看病の甲斐もなく2年後に亡くなった。

短歌の第一線から遠ざかった年月を経て、
登美子は再び新たな希望を胸に上京。

日本女子大学に進学し、『明星』に返り咲いた。

そして唯一の歌集『恋衣』を刊行。

『髪ながき 少女とうまれ しろ百合に 額は伏せつつ 君をこそ思へ』

その後、夫からの感染により結核を発病。
京都での療養生活を経て帰郷し生家にて1909年の死去。
享年29歳。

短歌の詩と仰いだ与謝野鉄幹に、
登美子は『しろ百合』、
晶子は『白萩』と例えられ、
雑誌「明星」だけでなく、
恋のライバルでもあった山川登美子と与謝野晶子。

『それとなく 紅き花みな 友にゆずり そむきて泣きて 忘れ草つむ』

晶子に鉄幹を譲った時の歌とされています。

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