中村キース・ヘリング美術館
山梨県北杜市小淵沢にある、中村キース・ヘリング美術館に行ってきました。
キース・ヘリングってどんな人?
キース・ヘリング(Keith Haring, 1958–1990)は、1980年代のアメリカ美術を象徴するアーティストで、ポップアートやストリートアートの分野で活躍。シンプルなライン、明るい色彩、そして人々に親しみやすいキャラクターが特徴で、社会的メッセージを込めたアートでも知られています。
キース・ヘリングとHIV/AIDS
1988年にHIV陽性であると知った後、エイズ予防や啓発活動に取り組むようになりました。キース・ヘリングのアートはHIV/AIDSへの偏見や無知をなくし、啓発するための重要な手段となりました。
また、1989年に設立した「キース・ヘリング財団」は、現在もエイズ予防活動や教育支援を行っています。
中村キース・ヘリング美術館の中村とは?
小淵沢のキース・ヘリング美術館の創設者の中村和男氏からつけられています。
中村氏は、キース・ヘリングの社会貢献活動や人道的なメッセージに共鳴し、彼の作品をコレクションする中で、美術館設立を決意しました。美術館では、ヘリングのアートだけでなく、彼が掲げた「アートはすべての人々のためにある」という理念を伝える活動も行われています。
(中村氏は、医薬品開発支援業務を行う会社を立ち上げ大きな功績をあげています。)
美術館の様子と作品
真っ暗な部屋に入ると
1982年に反核を訴える大規模なデモが行われた際には、ヘリングは自費でポスター2万枚を配布し、この運動への賛同を示しました。
1990年2月16日31歳でエイズの合併症により亡くなる数週間前に完成した最後の作品です。教会の祭壇のためのオルターピースとして現在世界の教会や美術館9箇所に収蔵されています。
天使や聖母子像、そして、手を挙げる人々。
生きることを肯定するような作品だと思います。
1986年、ヘリングはベルリンの壁にグラフィティアートを描くプロジェクトを行いました。このプロジェクトは、冷戦中の東西ドイツの分断を象徴する壁に、アートを通じて平和と統一を訴える意図が込められていました。
ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年11月9日であり、ヘリングがベルリンの壁にアートを描いてから約3年後のこと。
1987年10月、キース・ヘリングは東京都多摩市の「パルテノン多摩」でのワークショップのために来日し、500人の子どもたちと共に2点の壁画(平和1-IV、マイ・タウン)と5点の立体作品(サウンド・ツリー)を制作しました。壁画はヘリングが黒い線で描いたモチーフに子どもたちが色を塗り、立体作品はヘリングの指示でツリーが作られ、子どもたちが自由に絵やメッセージを描きました。
友人でもあるオノ・ヨーコはヘリングの死後、彼の遺志を継いで<オルターピース:キリストの生涯>の寄贈プロジェクトを始めました。彼女は広島市現代美術館をはじめ、世界各地の美術館や教会にこの作品を寄贈し、ヘリングの平和への願いを広めました。広島における展示は特に象徴的であり、ヘリングが計画していた壁画制作を広島で実現できなかったことから、この作品が広島で展示されることは彼の思いが形として残った貴重な証しとなっています。
ふう〜。パワーを浴びてなんだかお腹いっぱいです。
休憩スペースまでカッコいい空間。
外に出ました。
まとめ
カラフル、POP、アイコニックなモチーフといった漠然とした印象しかなかったキース・ヘリング。
改めてじっくり向き合って、31才という短い人生に詰まったメッセージをビンビン受け取りました。
希望、苦悩、残酷さ、平和への願いをストレートに訴える作品たちだからこそ、幅広い人種、年代の人々に届いたのだし、これからも届くのだろうと思います。
また、1980年代はゲイのアーティストが次々とAIDSに感染しました。
ヘリング自身も、ゲイ、ドラッグ、AIDSを公表し、AIDS患者に対する支援を始めます。
社会にメッセージを発信したり、コンドームを使用する「セーフ・セックス」のポスターを作成したり、AIDS予防啓発のチャリティーイベントのレコードジャケットデザインを手掛けたりしています。
まだ治療薬がなく、不治の病だったAIDS。絶望しながらも、未来に向けて活動する精神はどんなものだったのかと思います。
そのような側面も、今でも支持されている理由の大きなひとつですね。
お読みいただきありがとうございました!