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古城は艶めかしいだけではなく(1)

 蝋燭持ちの天使たちの美童の目に映った饗庭薫あえば かおるは悪に恩義を尽くし悪を奉じてやまぬ弁護士で、その綺麗すぎる名前を裏切るように心根はドイツの傭兵隊長なみに老獪であり醜怪であり、外見は威圧を放って聳え立つ山岳城砦にどっしり取り憑く幽霊そのもので、城砦の銃眼から血の濁った悪臭をまきちらす心地を好んだ。
「根っこもろとも、その土地を、吸いあげていただきたいのです」
 依頼を受けてその土地に建つ、二ホンの多湿な気候には馴染まないはずのイギリス王朝ネオゴシックの荘厳美を冷質な彫石調度で呈して余りある館へと、アラベスク文様が渦巻くイスラムの専制君主城から走る絨毯を敷き詰めた道を薔薇園のまぼろしを輝かせる純白なロールスロイスの威圧車両で乗り込んでいく姿が血液あぶらでジグザグに走る先導オートバイ隊の悪鬼たちの背中にとどろいた。 

 来訪者を誰も迎えようとしない浮き彫のとびらが黙って開いた不審感を饗庭は館の奥にひろがる華奢と瀟洒のあらゆるを吞み尽す悦びで振り切り、邸内へ踏み込んだ。
 湿気に冒されず弦楽四重奏曲の小振りなメヌエットが理想の倍音で反響するのが目に見えるような清涼さ。天使序列的支配と従属のゆきとどいた邸内の気色にきものしっぽをつままれた。完璧ではないか。侵略者の腕前を試そうというのだな。
 行けども行けども邸内には誰もいない。どっしり歩く姿に怖気を震わせる優男に、残忍な眼光に泣き声をあげる子どもにいつまで経っても出遭えない。館の風趣が侵略者の体じゅうから生えるトゲの先端を優美につまんで柔らかく丸めるような甘い馨りになって纏いついた。
 足を止めた。深く息を吸った。体じゅうからスッと黒く固まった性根の重みが溶けていくのが心地よかった。甘い眩暈が腹の底から円周をひろげていくと足元が若い頃に美貌を謳われ名前を誰からも愛してもらっていた記憶を、所作の優美さの数々を嫌みなく披露してうっとりさせていた過去の自分を呼び戻した。おお。昔の自分をこんな場所で想いかえるのは悪くないな。どれ・・・
 当て推量に、右手前の扉に向かうと怪異な外見のまま玲瓏をうそぶく手付きでノブの浮き彫ひとすじ残らず愛撫しピアノのグリッサンドの情緒をただよわせると、ノブはみずから回転した。視界は、眼前に少年どれいたちが死屍累々とよこたわるのをギョッとする間もあたえずに饗庭を、ダンスホールの典雅な立派さで取りまいた。足は無言でホールの中央へ吸寄せられた。サウンド・オブ・ミュージックでマリアがトラップ家の城館のダンスホールで淑女の礼をかこつける仕草がいまの悪党図体ではもうできない、若き日の夜会礼服を優美にまとったダンスステップを脳裏に躍らせエナメル靴の先端の光を宙に弾き飛ばすと肺の奥を刺戟するような澄んだ声が背後から聞こえた。「もうここには誰もいらっしゃらないかと思っていました」
 声は華奢なマーブル装幀本のものがたりに添えられた挿し絵のようなドレスを纏い、饗庭のむねを悪徳人生ごと容易におしつぶす愛くるしさをたっぷりとたたえていた。淫靡のこもった荒い息がこみあげる。少女の前まで歩み寄って、跪いて、少女が細腕で妖精女王のように差しのべる長剣に右肩を三度打たせる思惑を一筆書きにして残酷に破り捨ててやろうとした。
 


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