明後日はコロナワクチンを注射(小説)後篇
帰宅するとマンションの扉から、スロッピング・グリッスルの骨太な雄大ノイズがつたわってくる。
あれっ、姉貴は副反応の熱が下がったのかな。
きょうは...姉貴のヘルパーさんが来ない日だったか。
ノイズが生みだす妄念の鉄筆で、大胆で壮大な賭けのようにえがかれた宇宙、劇場、緞帳の波うち、天使、世界の涯、一角獣の金角、氷結の螺旋階段。黒い炎を揺らす蝋燭の連なり、黒象牙いろの霧、天使、羊飼いの相姦。星屑、天空、漆黒の森林、憑かれた蠟細工の花でおおわれた恐怖、畏敬、冷気の籠った部屋、色香、壁画、天使。異形の庭園。星、.....................ノイズをあびて、リビングのワイングラスのセットがまとめて微震するのが辰也の目尻にやきつき、更に....
辰也たちがまだ小学校の頃の出来事が、記憶の海面から浮かんできた。
その日は、雅江が体調をくずして、起き上がれないまま、まるでカサンドラの鋭い言葉で死都の出現を空中に描いた。辰也は姉を気遣って学校を休んだ。母と継父は姉弟に学校に行けと怒鳴りちらして殴りつけ、それぞれの、悪い仲間との悪い付き合いで遠出し夜おそくまで帰ってこなかった。姉エレクトラと弟オレステスはその日も、母クリュタイムネストラと継父アイギストスの共依存をのろい、虐待で先にころされた妹、クリュソテミスの無念を嘆いた。
午後になり学校が終わった頃、辰也とはクラスが同じで出席番号が隣り合う、底意地のわるい同級生が学校で配られたプリントを渡しに訪れ、「お前んちは玄関が暗いよなぁ」と言い放ったのだ。
翌日に辰也は学校に行くと、クラスの教室の黒板には、陰湿な念の籠った、汚い字で、「古代遺跡」など陰口をたたかれる、築年数を多大に経た辰也の家の暗い玄関の向こうに、ばちが当たった家族の貧乏と不幸がひろがっているのだと書き立てられていた。
そのかきなぐりと、かつて何者かに教科書を落書きされたときの字とが脳裏でぴたりと、吸い付き合ったその瞬間から数十秒後、同級生の、けんか慣れしていていない反撃が、我をうしなった辰也の、急所をえぐった。
辰也は後頭部から倒れこんで気絶し、意識を失った。
辰也は無意識の中で、雅江を残して死ぬのは絶対に嫌だという執念にかじりついていた。
頭のうちどころを通じ、それはなんらかの、まるでバルトークや、プロコフィエフやペンデレツキが戦乱苦、災害苦、そして疫病苦を古代回帰的なディオニソス狂騒音響で調和させたオーケストラ音楽に君臨する、指揮台の祭司にも似たシャーマニズムを、その手中におさめたことに心づいたのは、意識が戻り、十数年も経ったあとのことだった。
*
辰也は意識をとりもどしてからというもの、妙なほどに癇強くなった。
一件以来、クラスや同学年の女子生徒たちが辰也を気遣うようになり始め、男子生徒は誰も辰也に手を出せなくなってしまった。
両親は、辰也への嫌悪感をさらに募らせた。雅江や、さきに死んだ妹もそうだったが辰也も、白色テロによる悲惨な育ちを経て性根の先端を幼劇の矛先に尖らせて成長したので、我が身にディーモン...悪魔が取り憑いたんだろうと開き直ったのであったが、自宅の近所の児童福祉施設からやってくる、洒落ていて創りのいい洋服だのエロール・ル・カインの美麗な絵本などを雅江に持ってくる西ドイツ人のカトリックの坊さんが辰也の誕生日にイギリス製のタロットをプレゼントしてくれた時には、ウェイト版タロットの78枚からなる絵札とその役割すべてを僅か2日でなにもかも覚え尽くして神父を驚愕させただけなく、占い始めたら外れを知らず、百発百中あたりまくった。
いまや嫌悪感が恐怖心にとってかわった父母に、辰也は、パメラ・コールマン・スミスが描くゼロ番のカードを突き付けた。
「旅に出ろ、永遠に。足元には死の崖が待っている(辰也の舌をついた瞬間は日本語だったのだが、変貌した姿の、音節とリズムの周りを、二十羽の美鳥たちが武装して、錐揉みを描いて翔んでいた)」そして数日後に、その通りになったのだ。
ひとつの「視野」を、辰也は雅江と、ふたりで共有しあっていたのだ。その「視野」の正体は死んだ妹の、じぶんたちを何が何でも護りたいのだという傍迷惑なほどつよい思いのおかげなのだと信じる事にした。
その「視野」がまずはエレクトラ....姉のなかで、ギリシャまがいの性善説の勢いで膨張しすぎては心身の自由を喪うたびに、「またか」と弟オレステスは、ギリシャ人のまま、例の神父にふきこまれたキリスト教の性悪説に寄り添ってみせる余裕をしめして、膨張を、上からつかみ取り、幅と弾力を優しく凹ませて、姉と、そして「妹」をなだめてあげた。
*
両親がいなくなった二人は神父の手引きで福祉施設に入ることになり、辰也は雅江をともなってカトリックの教会へ、その神父を訪れた。
遺品のひとつを、神父に紹介してもらった、ルネサンスの彫金師ベンヴェヌート・チェッリーニのようにすぐにひとを信じてしまうというイタリア人の古物商に買い取ってもらうとそれが未曽有の大金になった。そしてさらに、雅江と辰也が家を解体すると、その地面からは古壺がみつかり、封を解くと大判が、いにしえの金瞳の群のように煌めき、それがそっくり辰也と雅江のものになるという、夢幻的な幸運までもが起こったのである。
神父はこれまでに辰也にも、タロットのほかに外国の美麗な切手や、スーパーカーのカラー写真や精巧なミニカーをあたえていて、それらと引き換えに、それはじつにさまざまな手練手管で、ハンド・ヒーリングなどと嘯き、児童性欲をほしいままにする、祭服ごしの黒色テロリズムに酔いしれていた。
神父は、塵ひとつ付いていない上等な立襟のキャソックに、片眼鏡を嵌めたほうの目でふたりを、じっと見つめる。髑髏の顔の奥から濁った青いろの目が燃え、にたりと、墓石の歯が日本語に麗訳された舊新約聖書文語訳を詠唱し慣れた口調と蕩けあい、「なぜ日本人は日本人でない者が日本語で話すと疑いもせずに信じこんでしまうのだろう」と、ヘッセン方言のドイツ語でつぶやいたら、それが日本語になって辰也の耳に聞こえてきた。
辰也は神父を視線で、その片眼鏡のなかに閉じ込めた。
片眼鏡のガラスが陽光を吸い寄せ、太い鉄の棒が灼けたような太陽光のひとすじが神父を直撃した。
五臓六腑を食い破ると肛門を貫いて抜け出た。
砂時計のなかの神父の眼前で、ふたりは暴虐な攻撃視線と同時に、難攻不落の城壁を築いていた。
壁の四隅にはそれぞれ一座ずつ塔が建ち、その塔は香炉の煙を吐き、したたる血のにおいを消すシリア産の薫香を空気に混ぜ合わせていた。
片眼鏡はガラスの皮膚のまま砂時計となった。扼殺が砂時計の永久運動をえがいた。
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義務教育を通過する頃、古代ギリシャ劇と異端審問世界でできた暗黒幼年期をぬけだすと、四隅の塔からの香りは徐々にうすくなっていった。
中学時代にハンバーガーショップの抽選で50万円が当選したのを最後に、得体のしれない大金はまったく手に入らなくなった。それと入れ替わりに、おかねで買えない幸福というものも身に染みてきた。
辰也が高校を卒業し大学に入学する頃には、薄い霧になり、虹色のオーロラの霞みになって、田園詩の風趣のあまい空気の漂いに落ち着いた。
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辰也は編輯者になり、占い本や自己啓発書の刊行にたずさわるようになった。
雅江は47歳のころに、杖をつく生活に移行した。その数年後、辰也は雅江につづき、おのれの齢が知命に達したことを鷹揚に受け入れた。
新型コロナウィルスが世界を席捲し、ワクチンが開発され、その接種がひろまる段取りが付くころ、辰也は姉に先駆けてワクチンを職域接種し、血圧が急激に下がって意識を喪った。こういう事はしばしば起こることなのだと辰也は知って、冷静になった。ところが意識の喪失によって、辰也はふたたび癇強さを取り戻したのだ。
かつての殺意が鈍りきってなかったのかどうなのか、辰也は「妹」と我が身に思いを馳せたが、全国でワクチン接種チケットが配送されると、雅江や彼女の友達や自分の友達の全員がワクチン接種の予約をとれるように、念じたら、全員が無事にとれた。
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雅江はコロナウィルスワクチンの副反応から癒えていなかった。38度の熱が、まだ続いていた。
ノイズの正体は、またまた「妹」が心配性を暴発させた結果だった。
今はスロッピング・グリッスルのノイズを聴くのをやめよう。ストップボタンを押してCDを止めると、コロナワクチンが悪魔の発明なんだと不安がる「妹」のこえが、雅江の口から登ってくる。辰也はもちろん屈する気などなかったので猛烈にやり返した。
その言葉は日本語ではなく、ギリシャ語でもない。
あの神父が、これを聞いたときに「異言」だと言った、異形の戯曲の対話劇であった。
その頭上をアズラエルが舞い踊る、言語のコスチュームプレイへの耽溺をしめす異形のセリフが奔流した。
お互いの言い分には十字軍兵士一個聯隊を屈服させて武装解除させるほどの説得力があった。
ふたりの諍いは「新型コロナウイルスワクチンの出現は、賢明さの勝利ではなく、愚鈍さの痛み分けなんだ」という結論で、その日も終わった。
辰也も雅江も、「妹」が、本当に妹なのかどうか、コロナ禍のいま、やや疑わしくなっていた。
あるいは「妹」.....仮に本当に妹だとして....は、新たな様相に目覚めたのではないだろうか、コロナ渦に呑まれて。
了