24 不細工な葛藤 【小説】
古川純一と涼介は大学生の時に知り合っていた。
深町圭子は2002年の5月、古川純一の妻になっていた。
純一と涼介は昔から語り継がれる〝親友〟という概念を全て満たしている様な関係を今に繋げていた。
涼介は純一の二つ年上だったが、涼介はそんな事を意に介さず純一に腹を割り、敬意を払っていた。
純一は〝浜っ子〟だった。それは横浜の大学を選んだ涼介に絶大なメリットを与える事にもなっていた。
2001年の春、転勤で生活の拠点が生まれ育った小倉に戻った涼介は、年に一、二度、纏まった休日を取れる時にしか純一に会えなくなっていた。しかし二人の関係が変わり褪せる事は無く、逆に遠く離れてしまった分、今まで以上に取り合う連絡は増えていた。
涼介は折りに触れ電話やメールで交わす純一との会話に横浜の匂いを嗅いでいた。そしてその匂いは涼介が小倉での生活で蓄積させている心の疲労を取り去り、横浜本社復帰という信念を貫く為のモチベーションを蘇えらせていた。
1992年、マキと涼介が蜜月だった夏、純一には彼女と呼べる女性が居なかった。その年に社会人2年目だった涼介は、仕事とマキの存在に因って大学生の頃の様に純一と遊ぶ時間を作れていない事に気を揉んでいた。そしてそんな涼介の思いはマキとのデート中に時折純一を誘う事となり、純一と二人で飲んでいる時には自然とマキを呼んでいた。
純一は桜木町の実家から神奈川大学に通い、マキは根岸からフェリス女学院大学へ通い、涼介は本牧から関内へ通勤するという生活環境の下で三人は大らかな時間を1年近く共有していた。
純一と涼介はマキを介在し、絆を更に深くしていた。
1994年の春、横浜駅のすぐ傍に本社を構えた、住宅設備機器を取り扱う会社の相生町支社で社会人2年目を迎えていた純一は、イベントコンパニオンをしている知り合いの女性から圭子を紹介され、付き合い始めていた。
圭子は大倉山に住む、清泉女子大学の一年生だった。
初夏を迎えていたある夜、純一は涼介を花咲町に在る行き付けのBARに呼び出して圭子を紹介していた。
涼介はミディアムのナイーブミューズレイヤーをティーブラウンに染め、無彩色のタイトな洋服にシャープなアクセサリーをコーディネートしている圭子の強い瞳をBARで初めて見た時、内面を絶対人に晒すまいとしている様な尖った若さを感じていた。
マキと涼介の出逢いから終わりまでの日々を誰よりも傍で接していた純一は、1993年の冬にマキと別れた涼介が、南青山にある広告代理店で働いているマキの日常を事ある毎に耽り、思いを馳せ、酷く落ち込み、現実を直視出来ないまま淡々と日々を過ごしている姿に触れる度、悲しみ、苦しんでいた。故に純一は2年前の自分が涼介にそうされていた様に、圭子との食事の時には涼介を誘い、涼介と居る時には躊躇いなく圭子を呼んでいた。
純一と涼介の間に居る女性は1年間の空白を経てマキから圭子へ変わり、三人は文字通り〝若い〟と形容出来る行動力を活かし、秋口には頻繁に遊びに出掛ける様になっていた。
当初、デートにも拘らず涼介を呼ぶ純一に対して露骨に不機嫌な態度を見せていた圭子は、時間の経過と共に窺い知る涼介の内面や、空気を読んでいるかの様な気さくな一挙手一投足に三人で居る事の楽しさを感じる様になっていた。
圭子と涼介は余り会話をしなかったが〝うま〟は合っていた。
客観的に三人の言動は至る所で不自然に映っていた。しかし三人は三人の関係がどんな風に思われていても気にしなくなっていた。そして街中にクリスマスソングが溢れ始める頃には、主語を使わないまま成立させている純一と涼介の会話に圭子もついて行ける様になっていた。
1995年の春、純一と涼介の会話の中に時折出て来るマキと言う女性がどんな人物だったのか圭子は好奇心を抱き始める様になっていた。その頃から圭子は三人の時間を作る事を積極的に仕切る様になり、真夜中でも涼介に電話を掛けて過去の話を聞き出そうとし、涼介が持つ世界観を自身の心に取り込む様にもなっていた。
圭子は純一や涼介から受ける刺激に因って物の見方や考え方を変遷させていた。そんな圭子の知識に対する貪欲な姿勢と吸収力は当然自身の恋愛にも影響を及ぼしていた。
1996年の夏、圭子は心の中に涼介を想う気持ちが確実に存在している事に気付いていた。その事実は三人で過ごす時間を減らす事に繋がり、何かに託つけて涼介と二人で会う時間を増やしていた。
涼介は夏以降続いている親友の恋人の行動に悩んでいた。しかし涼介は圭子の行動を受け入れていた。
北風が街を乾かし始める頃、圭子は涼介に心をもっと近くで触って欲しいと思い始めていた。
涼介は圭子の思いに気付かない振りを続け、純一は変わらず圭子を愛し、涼介を信じていた。
1997年、一枚のカンバスに同じ色を塗り始めて3年目の8月、三人は昨年の夏と同様、羽田東急ホテルで思い切り遊ぶ事になっていた。
大学生活最後の夏を迎えていた圭子は、もう一度三人で羽田東急ホテルに遊びに行きたいと何ヶ月も前から純一に強請っていた。当然純一はそんな圭子の気持ちを受け入れ、プールサイドバーベキューというオプションが付いた羽田東急ホテルの宿泊券を二枚を、再び会社のコネクションで手に入れていた。
圭子は昨年の夏に味わった、最高に楽しかった一泊二日を、しかし心の何処かに不思議な感覚が残った一泊二日をもう一度味わいたいと思っていた。
「・・・・・」
涼介は歩道に立ち、煙草に火を点けた。
トイレには行かずホテルの外に出ていた涼介は、圭子との出来事が堰を切った様に蘇り続ける事に歯止めを掛けられないまま、先生に叱られている中学生の様に俯むいていた。
▽
蒸し暑い朝だった。
開け放たれた窓から蝉の声が聞こえていた。
「エアコン入れた方がいいんじゃねぇか?」
涼介は純一に言った。
「任すよ」
ベッドに座っていた純一は辛そうだった。
羽田東急ホテルへ遊びに行く当日、純一は風邪を拗らせていた。
「・・・・・」
涼介は未だ荷解きされていないダンボール箱の上に座ったまま動かなかった。
高島町のワンルームで一人暮らしを始めたばかりの純一の部屋は、収まる場所を待っている荷物が散乱していた。
「・・・涼介、行って来いよ」
ベッドの上に座っていた純一は自分なりの結論を出した後、そう言って体をベッドに横たえた。
「・・・・・」
前夜からずっと純一の看病をしていた圭子は、純一の隣で二人の会話を黙って聞いていた。
「・・・今何てった?」
「券がもったいねぇだろ」
純一は朝になっても下がらない熱に少し苛立っていた。
「おいおい、お前何考えてんだよ。もう今日は中止なんだよ」
「お前こそ何言ってんだよ・・・圭子はこの日をずっと楽しみにしてたんだぞ・・・」
「もういいよ純一、今日はやめよ・・・」
圭子はそう言って心配そうに純一を見つめていた。
「いいから行って来いよ、俺のせいでぽしゃっちまうのは辛いんだよ・・・」
純一は涼介を見つめていた。
「・・・純一、それは違うよ」
「違うかもしんないけど、いいじゃないか」
「ぽしゃるとかじゃなく、それ以前だろ」
「俺は大丈夫だから。今日一日寝てりゃいいんだし」
純一はそう言いながらベッドから抜け出した。
「・・・・・」
涼介は純一を目で追いながら言葉を探していた。
純一はキッチンで二人に背を向け、涼介が持って来た風邪薬を飲もうとしていた。
シンクの横には少しだけ手を付けた跡が残っている、圭子が作った朝食が置かれたままになっていた。
純一の背中では、純一には辛過ぎる沈黙が続いていた。
「やっぱ止めよう」
涼介が言った。
圭子は純一の背中を見つめていた。
純一は涼介の言葉にグラスを持ったまま動きを止めていた。
「・・・圭子は行きたいんだよ・・・だから連れてってやってくれよ・・・」
純一は二人に背を向けたまま、涼介でも圭子でもなく、置かれた現実と向き合う自分に静かに語り掛けた。
「ふぅ・・・」
涼介は純一の言葉に息を一つ逃がした。
圭子は俯むいていた。
「・・・何だよ、二人共何でそんな暗くなってんだよ、よくある事じゃんかさ、普通に行って来いよ、いいじゃんそれで、な」
純一は風邪薬を胃の中に入れ、何かを吹っ切るかの様に力強くそう言った後、窓際へゆっくりと歩き始めた。
純一は圭子の事を強く愛していた。それ故に圭子の心が涼介に傾いている事をずっと前から気付いていた。
純一は心を葛藤させていた。しかし愛情という崇高な感情に真摯に向き合っている純一の純粋は、愛する圭子の心を束縛するのではなく、愛する圭子の信じる愛が信じるままに成就して欲しいと願っていた。
「俺は大丈夫だから」
窓を閉めてベッドに戻って来た純一は、そう言って圭子の肩を何度か軽く叩いた。
「でも・・・」
圭子は動けなかった。
「・・・な、涼介、そうしてくれ」
純一は〝でも〟と言ったまま動かない圭子を見つめながら涼介にそう言った。
締め切られた部屋には蝉の鳴き声の代わりに純一が動かしたエアコンの音が広がっていた。
純一はベッドに横たわり瞳を閉じていた。
圭子は純一の顔を見つめていた。
涼介は圭子に対する心の有り方と、純一の本心を察しながらも目を瞑ろうとしている心の有り方を不細工に葛藤かっとうさせていた。
△
「何考えてるの?」
ラウンジに戻って来ても何も喋ろうとせず、窓の外を眺め続けている涼介にまゆみはそう問い掛けた。
「・・・俺にもあんな時代があったなって」
まゆみの不満を見越していた涼介は言い訳を届けた後、パラソルの中の若い二人に再び目をやった。
「・・・・・」
まゆみは仕方なく窓の外に顔を向けた。
「・・・・・」
涼介は態と沈黙を置いていた。
ほんの何分か前、涼介はまゆみの何気無い問い掛けに動揺し、まゆみの前から逃げ出していた。しかし涼介はその動揺を受け入れる潔さより早く、老獪で不埒な策略を閃めいていた。
(あの日圭子を抱いてたらどうなってたんだろう・・・)
涼介はまゆみとの間に流れている不自然な空気を無視し続けていた。
▽
涼介は純一を一人部屋に残して来た事、圭子と出掛ける事が間違いではないのだと何度も何度も自分の心に言い聞かせていた。
横羽線を飛ばす涼介は胸を締め付けられながらも純一の事を頭の中から消そうと努力していた。そしてそうする事が圭子に対する礼儀だと思い込んでいた。
圭子は涼介の気持ちを察し、助手席で明るく振舞っていた。
照り付ける太陽の下、圭子の黒いビキニは涼介の目に余りに眩しく映っていた。
プールサイドに並ぶ白いビーチパラソルの中、二人はビールで乾杯し合い、プールの中では付き合い始めたばかりの恋人同士の様にはしゃいでいた。
時折二人は芝生の上に並んだデッキチェアに体を横たえ、頭上を低空で頻繁に横切るジェットの巨体が残す轟音を、昨年とは明らかに違う感覚で聞いていた。
ディナーの時の圭子は肩紐の細い花柄に染まったニットのワンピースを纏い、昼間と違ったしおらしさを見せていた。
圭子の日に焼けて赤くなった頬と肩は甘いカクテルでその赤い色に優美さを加えていた。
涼介は潤いを増す圭子の瞳に純粋に恋をしていた。
部屋へ戻るエレベーターの中で、圭子はもう少しお酒が飲みたいと涼介に強請っていた。
純一は昨年と同様ツインとシングルを予約していた。
圭子は極自然にツインの方に涼介を招き入れていた。
涼介は仰々しく気取りながら、何処かの映画を真似てシャンパンと苺のルームサービスを頼んでいた。
圭子は気持ちを整理していた。
涼介は純一の姿を圭子の笑顔に常に重ねていた。そしてその姿を絶対に消しては駄目だとする思いに揺らぎが生じ始めていた。
午後11時を回った頃、涼介はシングルの窓から羽田空港の夜景を眺めていた。
涼介は純一の姿を掻き消す寸前だった自分の心と圭子への想いを見つめ直していた。
ほろ酔いの体をベッドに伸ばし、天井をぼんやりと見つめていた涼介の耳にドアがノックされる音が届いていた。
涼介はドアを開ける前に、圭子の覚悟を受け止め、圭子を守り抜く強い意志が在るのかどうか自分自身に問い質していた。
左手に持ったシャンパンを笑顔の横で揺らしながらドアの前に立っていた圭子に涼介はどうする事も出来なかった。
圭子の瞳は艶やかだった。
壁に掛かったブラケットの柔らかな明かりは、ベッドの上で肩を寄せて語り合う二人に恋人同士のシルエットを与えていた。
圭子は涼介から瞳を外さなかった。
涼介は圭子を見つめ、髪に触れていた。そして心も体も圭子に渡してしまいそうな自分を許して欲しいと何かに祈っていた。
二人は穏やかなキスで唇から胸の鼓動をお互いに伝え合っていた。
圭子は情熱を押し殺した分、重ねた唇を離そうとはしなかった。
涼介は圭子を強く抱きしめてしまわない様、情熱を押し殺していた。
ナイトテーブルの上からテレビのリモコンが落ちていた。
その高さでもこうなるのかというぐらい、カバーが外れ、爪が折れ、単三電池が飛び出していた。
沈黙を引き裂いたその音に涼介は心に痛みを感じ、圭子の唇を自分から遠ざけていた。そして抱きしめていた両手を圭子の肩に掛け、自分の額を圭子の額に付けたまま動こうとしなかった。
静かな部屋に響いた音の中に、圭子を愛する純一の声が混じっていた事を涼介は微かに感じていた。
圭子を見つめ直して柔らかいキスを一度贈った後、涼介は圭子の刺さる様な視線を外して立ち上がっていた。
涼介は背負う〝もの〟の重さと戦い、敗れていた。
圭子の心は途方に暮れていた。
涼介は黙ったまま窓の傍へ行き、部屋からは見えない海を眺めていた。
圭子には見つめる場所が無くなっていた。
涼介は圭子へ掛ける言葉を探していた。
圭子は涼介が作る沈黙に必死で耐えていた。そして圭子は今夜涼介が守った〝もの〟以上に、近い将来涼介は絶対に力強く自分を守ってくれる筈だと信じていた。
△
「もう!また何か考えてるっ!」
まゆみは少し拗ねた。
「・・・そうだね・・・大した事じゃないんだけど、シーフォートだったんだよ」
涼介は準備していた言葉で会話のテーブルに付いた。
「シーフォート?」
「そう、天王洲に第一ホテル東京シーフォートってのがあってさ、そこのロケーションが好きでよく使ってたんだよ・・・ここも第一ホテルだからね」
涼介は言葉に乗る感情をコントロール出来ている事に少し満足していた。
「・・・その時の彼女を思い出したって・・・事?」
まゆみは思いを素直に口にした。
「そんなんじゃないさ」
涼介は意味有り気な柔らかい口調で否定した。
「・・・・・」
まゆみは心の中に湯水の如く湧き出している質問を一つずつ整理していた。
「映画の時間、まだだよね?」
涼介はまゆみの顔を見つめたまま、そう切り出した。
「もう一杯何か飲む?」
涼介は何かを思い出した様に素早くメニューに手を掛け、素早く言葉を重ねた。
涼介は過去の恋愛について遠慮無くまゆみに質問して貰う為に、これ以上想い出には触れられたく無いという態度を故意に見せ、まゆみの好奇心を煽っていた。
「・・・・・」
まゆみは涼介の事を全て知りたいとする恋心を瞳に溜め、涼介を見つめていた。
「・・・・・」
涼介は視線をまゆみからメニューに落としていた。
「思い出すぐらい好きだったの?」
まゆみは差し出されたメニューには興味を示さず、涼介を見つめていた。
「シーフォートの話かい?・・・」
「うん」
「・・・古い話さ」
涼介は意識して会話に溜めを作り、まゆみから目を逸した。
「聞きたいな」
「・・・よくある話だから」
「綺麗な人だったの?」
「・・・綺麗な夜景だったね・・・」
「もう・・・ね、彼女綺麗だった?」
「・・・そうだね・・・でも、もういいんじゃない? その話は・・・」
涼介はそう言って再びメニューに目を落とした。
「・・・・・」
まゆみは何処か安心した様な表情にも見える涼介をじっと見つめていた。
「涼介の好きな場所って興味あるな・・・」
放って置けば何時までも続きそうな沈黙を避ける様にまゆみはそう言った。
「・・・そう?」
「そのシーフォートって所に私も行ってみたい」
「誰と?」
「もう」
「・・・すみません」
涼介はまゆみに向けていた穏やかな笑顔のまま視線を変え、左手を軽く上げ、傍を通り過ぎ様としていたウェイターを呼び止めた。
「・・・・・」
まゆみは涼介の横顔をじっと見つめていた。
「シャンパンでも頼む?」
「えっ?」
「じゃぁ、ワイン?」
涼介はウェイターを待たせたまま、そんな生ぬるい追求の仕方では全てを吐露する訳が無いとでも言いた気に、敢えて茶化した。
「ううん・・・オレンジジュースかな」
「了解・・・じゃそれとエスプレッソを」
涼介は待たせていたウェイターにそう言い、まゆみに微笑み掛けた。
「・・・・・」
まゆみは涼介の微笑みに対し、ぎこちなく笑顔を作り返している自分の背中に悪寒を感じていた。
まゆみは涼介の笑顔に〝目が笑っていない〟という表情を初めて体験した様な気がしていた。しかもその初めての相手が涼介だった事に愕然とし、更に〝自分の身を守れ〟と第六感から囁やかれた事をはっきりと感じていた。
「・・・化粧室は・・・何処にあるの?・・・」
ゆっくりとした動作で煙草に火を点け様としていた涼介に、まゆみはそう声を泳がせた。
「出て右に真っ直ぐだよ」
涼介は指に煙草を挟んだまま、その手でサングラスを外してそう言った。
「ありがと・・・ちょっと・・・行って来るね」
徐ろに立ち上がったまゆみは静かに涼介に背を向けた。
「・・・・・」
まゆみの言葉に頷いた涼介は暫くまゆみの後ろ姿を目で追った後、煙草の煙を大きく吐いて窓の外に目をやった。
パラソルの中では若い二人が変わらず笑顔を弾けさせていた。
ラウンジに差し込む日差しは強さを維持していた。
(・・・・・)
涼介は再びサングラスを掛けた。そして再び圭子との思い出を振り返ろうとしていた。
策略通り涼介はまゆみを混乱させていた。そしてその混乱という感覚は、近い将来涼介が唐突に別れを切り出したとしても破局の予測という名目で、別れ際の場面に於いて絶大な効力を発揮する事を涼介は見通していた。
まゆみは涼介の計算通り、涼介が経験した過去の恋愛の断片だけを舐めさせられ、撤収させられていた。それは今更ながら涼介が危険な男だという印象を、まゆみの潜在意識の中に植え付ける事となっていた。
▽
涼介は羽田東急ホテルで圭子と交わしたキス以来、圭子は純一の彼女だと自分に言い聞かせている〝自分〟と向き合っていた。
圭子はキス以来涼介しか見えなくなっていた。
二人は純一に対し異質の後ろめたさを感じていた。圭子は純一と別れる決心をしたまま純一から抱かれ続けている事に苛まれ、涼介は圭子を奪い去りたい衝動を純一に見せる親友面の下に隠し続けている事に辟易していた。
9月、圭子は大学が夏期休暇中に行う集中講義や就職に関するセミナーに出席すると純一に嘘を言い、涼介と会う為に品川まで頻繁に出向いていた。
圭子は涼介が仕事で品川駅の近くにある直営レストランまで車を走らせるスケジュールを把握していた。そして涼介の元に突発的に入った東京での仕事も、その殆どを逸早く掴んでいた。
圭子は純一や涼介と共に8月が終る前に買った携帯電話で自身の生活を劇的に変えていた。
三人は初めて手にする携帯電話を片時も離さず、意味も無く声を乗せ合っていた。そして誰に教わるでもなくショートメール機能を駆使し、メールで会話を成立さる面白さを貪る事に有頂天になっていた。
圭子は大学が始まると高輪台や台場だけではなく、携帯電話の俊敏性や機密性を巧みに利用し、横浜で二人きりになる事を避けたいとする涼介の思いを押し切り、涼介の住む本牧で密会する様になっていた。
圭子は携帯電話の威力に絶大な恩恵を受けていた。そしてその恩恵は日を追う毎に圭子の行動を大胆にさせ、その行動に連動しているかの様に純一に対する嘘も大胆になっていた。
毎日でも涼介に会いたいと思っていた圭子は東京での密会を増やし続けていた。涼介はそんな圭子を愛しく思い、時間の許す限り一緒に居ようとしていた。しかし涼介は東京で圭子と会う度に、圭子ではない女性の姿を心の中で日々大きくさせていた。
涼介は圭子と東京で初めて会った日、清泉女子大学の在る東五反田まで圭子を迎えに行く為に仕事先の渋谷から恵比寿の街並みを抜けていた。以来涼介は深まる秋も木枯らしが舞う冬も、圭子との密会の為に走らせている車を恵比寿の街中に紛れ込ませ、その都度通りを変え、街中を抜ける迄に時間を掛けていた。
涼介は恵比寿という街にマキを思い起こしていた。そして心の大切な部分で眠らせていたマキへの未練を蘇えらせ、圭子に会う為の東京で何時しかマキとの劇的な再会を期待する様になっていた。それは圭子を奪い去る勇気も、最高に愛していたマキの心をもう一度奪いに行く勇気も、ましてや潔く二人共忘れ去る勇気など持ち合わせていない涼介の弱くて情けない心を象徴していた。
卒業間近、圭子は純一との付き合いを続けながらも涼介に早く体を奪って欲しいと思っていた。
圭子は証券会社に就職が決まっていた。配属先も横浜にある支店に決まっていた。
圭子が働く事になる支店は馬車道に面した尾上町にあった。相生町には純一の働く会社があった。真砂町には涼介の働く会社もあった。
圭子は三人の距離が更に近づく春を恐れていた。
涼介は恋人同士という関係や住んでいる場所だけではなく、働く場所までも至近距離になるという圭子と純一の繋がりに軽々しく立ち入れない運命の様なものを感じていた。
純一はずっと悩んでいた。
純一は圭子が放つあざとい嘘に気付かぬ振りをする事に疲れていた。そして純一は半年近く続いている、今は未だ〝さざ波〟の様な圭子の嘘が何時か大きな〝うねり〟となり、その一撃に真実が現実として白日の下に晒され、圭子を愛し続けて来た自分の全てが無になる事を恐れていた。
圭子の卒業式前日、花咲町のBARで純一と涼介は素直に語り合っていた。
純一は圭子を愛しているが故に、圭子から静かに身を引きたいとする心情を涼介に吐露していた。
涼介は純一の言葉一つ一つに圭子への真摯な愛情を感じて胸を捩じられていた。
純一の言葉には圭子の心を鷲掴みにしている相手を認め、圭子を大切にして欲しいという願いが詰まっていた。
涼介は葛藤していた。そしてその葛藤は純一の心情に圭子を手放しては駄目だという素直な思いを丁寧に訴え続けさせていた。
純一はBARのカウンターに両肘を付いたまま少し俯むき涼介の言葉にゆっくりと頷いていた。涼介はそんな純一の姿に、ずっと前に同じ場所でマキと別れては絶対に駄目だと純粋な瞳で純一から説得され続けた場面を思い出していた。
卒業式の日、純一は予定より早く涼介を誘い、圭子には内緒で大学の近くまで車を走らせて式典の終りを待っていた。
予期せぬ二人の笑顔に迎えられた圭子は驚きの表情に喜びを滲ませ、三人で居る時は何時もそうだった様に運転席に涼介が座り、助手席には純一が座り、圭子は後部座席に乗り込んでいた。
圭子は座り慣れた場所から二人の横顔と話す為に時折り身を乗り出し、三人は忘れていた指定席の心地良さを三様に語りながらドライブを無邪気に楽しんでいた。
夜、三人は久し振りに遅くまでグラスを傾け合いながら、三人で居る事が最高に楽しかった3年前をそれぞれ思い出していた。しかし暗黙の内に了解しているかの様に、その時代を口に出してまでは懐かしもうとせず、心の中で静かに浸ひたっていた。
△
(・・・98年の3月って言うと・・・もう5年前か・・・岐路だったのかな・・・)
涼介は窓の外に広がる小倉市街に顔を向けたまま、何処に視線を預けるでもなく圭子の卒業を祝った夜を振り返っていた。そしてそれぞれが何処かぎこちなかった事を思い出していた。
「・・・・・」
テーブルに戻っていたまゆみは、涼介の横顔を少し寂し気に見つめていた。
▽
圭子は三人で過ごした卒業式の翌日、純一に別れを告げ、午後遅く純一の部屋を後にしていた。
どんな時でも優しかった純一との思い出に圭子は心を痛めながらも、涼介と築く事になるだろう新しい日常への期待に複雑な充実を感じる3月を過ごしていた。
涼介は圭子の卒業式を境に、圭子の事をきつく抱きしめたいという思いを募らせ続け、同時に純一への誠実を心の隅に追い遣り続ける3月を過ごしていた。
二人が交わした約束の日は、纏わり付く様な雨が降り続く寒い夜だった。
入社式が終わり、横浜支店での業務レクチャーも終えた圭子は、押さえ切れない気持ちを抱え天王洲アイル・シーフォートスクエアのガレリアで涼介を待っていた。
緩やかな弧を描く、ガレリアを彩る階段から降りて来る涼介の姿を見つけた圭子は、何もかも全てが此処からまた新しく始まるのだと胸を高鳴らせていた。
二人はアントニオというイタリア料理店でバジルの香りが漂うテーブルに少し甘めの白ワインを置き会話を弾ませていた。
食後二人は第一ホテル東京シーフォートの28階でピアノの響きを背にカクテルを寄せ合い、珠玉の時間を過ごしていた。窓ガラスには雨粒が煌き、時折ガラスを伝うその煌きは二人の前で流星の様に振る舞い、レインボーブリッジや東京タワーの光がその流星の力を借りて情緒豊かに瞬たいていた。
圭子は視界に広がる新都心の夜景に心を奪われていた。
涼介は圭子の澄んだ瞳に心を奪われていた。
圭子は今夜涼介が全てを奪ってくれると信じ、今夜を境にずっと傍に居てくれると信じていた。
涼介は〝涼介〟という人間の中で新たに呼吸し始めた〝圭子を守り抜こうとする魂〟と、何時の頃からかずっと〝何かを守り抜いて来た魂〟が、情熱を全身に纏う圭子を前にして不細工に葛藤し始めている事に戸惑っていた。
涼介は紛れも無く圭子が好きだった。しかし紛れも無く純一も好きだった。そして涼介は自分を好きで居る事に迷っていた。
雨は何時いつの間にか窓ガラスを音も無く叩いていた。
涼介は決断しなければならない時が迫って来ている事に怖さを感じていた。
涼介は一つ一つ丁寧に、心を込めて圭子に言葉を届けていた。
圭子は涼介から届き始めた言葉の一つ一つを、大切に心の中に仕舞っていた。
長い沈黙が続いていた。
ピアノの美しい音色が二人の間を緩やかに流れていた。
窓ガラスを叩く雨は激しさを増していた。
圭子の瞳は涼介の目の奥に在るものを確かめ様としていた。
涼介は論理や秩序には程遠い不誠実な自己都合を、何時の間にか圭子に向かって喋り続けていた。
圭子は溢れ出している涙を拭おうともせず、寡黙に涼介を見つめ続けていた。
涼介は戯言を繰り返し喋り続けていた。
頬を伝う涙もそのままに、圭子は気丈な瞳で涼介を叩き始めていた。
圭子は人生の中の最も美しい転機となる筈だった夜に、一生忘れる事の出来ない傷を心に負わされていた。
圭子は目と耳に届く涼介の全てを必死に耐えていた。しかし心に届く涼介の私慾に塗れた情熱だけは耐える事が出来なかった。
確信していた涼介の愛に実態が無かった事に圭子は失望し、恋愛を司る感情を麻痺させながら静かにソファから立ち上がり、無言のまま涼介に背を向け、歩き出していた。
涼介は圭子の強い涙に、圭子の心を1年半も玩び、切り刻んでしまった自分の生ぬるさを思い知らされていた。
夜景は激しい雨に因って掻き消されていた。
涼介には見つめる場所が無くなっていた。それでも涼介は圭子を追い掛ける事を迷っていた。
圭子は自分の体が何故震えているのか、なのに何故こんなに体が熱いのか、そして何故涼介を愛していたのかを自問しながら、シーフォートスクエアを飛び出していた。
強い雨は、海岸通りを歩く雨が嫌いな圭子を容赦無く叩き付けていた。
涼介はタクシーを掴まえ様としているずぶ濡れの圭子に追い着いていた。そして何かに縋る様に捉んだ圭子の腕を離そうとはしなかった。
圭子は激しい言葉を涼介にぶつけ、涼介の全てを振り払おうとしていた。
二人は目の前が見えない程の雨に叩き付けられていた。
圭子はひたすら涼介を拒否していた。
涼介は圭子に何をどう説明すればいいのか分からないまま、唯、圭子の腕を捉んでいた。
ハザードを点滅させて停車しているタクシーがドアを開けて待っていた。
情熱を曝け出そうとする本能が成せる魂の度量を、涼介はコントロールしようとしていた。
閉められたドア越しで泣きじゃくる圭子を唯じっと、涼介は棒立ちで見つめていた。
遥か遠くに霞み行くテールランプをずっと、唯棒立ちで見つめていた。
びしょ濡れで立ち竦む涼介の脳裏に〝手を離してよっ!〟と叫んだ時の圭子の強い瞳が過ぎっていた。そしてその瞳は涼介に初めて会った時の圭子を思い出させていた。
△
1998年4月、圭子は涼介への愛情を第一ホテル東京シーフォートで拒否されて以来、涼介と過ごした膨大な時間を心の中から抹消し、今後一切涼介とは拘らない事を心に誓っていた。
2001年3月、小倉支店転勤が決まっていた涼介が横浜を離れる前日、純一が企画した三人だけの送別会に圭子は顔を出さず、涼介は圭子に感謝の気持ちを伝える事が出来なかった。そして次の年の5月、楽しみにしていた圭子と純一の結婚式に涼介は仕事の都合で欠席する事を余儀無くされ、二人の傍で祝福する事が出来なかった。
涼介の心の中に居る圭子は、あの夜から5年が過ぎた今も、頬を伝う涙を拭おうとしない圭子のままだった。
「・・・そろそろ行かない?」
まゆみは涼介に声を掛けた。
「そうだね・・・」
涼介は圭子との余情に心を向けたまま徐ろに立ち上がり、どんな内容の会話をどれぐらいまゆみと交わしていたのか振り返ろうとしていた。
「ふーん、そうだったんだね、涼介って」
まゆみは立ち上がった涼介を見上げながら笑顔でそう言った。
「・・・そうだね」
涼介はまゆみが見せている笑顔と同じぐらいの笑顔を不自然に作り、何を肯定したのか分からないままテーブルの上に置かれた伝票に手を掛けた。
「ふーん」
まゆみは涼介の返事に満足しながら立ち上がり、涼介の背中に相槌ちを投げた。
「何か言ったかい?」
涼介は振り向いた。
「ううん」
まゆみは少し気障な何時もの涼介が戻って来ている事を喜んでいた。
ラウンジにはピアノの美しい音色が緩やかに流れていた。
窓側の席は全て埋まり、ロールカーテンが降ろされていた。
二人が背を向けたテーブルにだけ柔らかい午後の日差しが入り込んでいた。
窓の向こうにはパラソルの下で語らう若い二人の笑顔が見えていた。
「こんなに少ないもんかな?」
涼介は座席に腰を下ろした後、独り言の様にまゆみに囁いた。
前評判の高かった映画の封切り初日だというのに、人影が疎らな館内に涼介は少し驚いていた。
「いいじゃない、ゆっくり見れて」
まゆみは二人の周りに誰も居ない事を喜んでいた。
明かりの落ちた館内は、煌びやかな映像をスクリーンに映し出していた。
まゆみは映像を追いながら閑散とした館内に感謝していた。
涼介も当然スクリーンを見ていた。しかし映像ではなく圭子の幻影を目に映していた。
(もう俺とは関わりたくないんだろうな・・・)
5年前の春、第一ホテル東京シーフォートで圭子の気持ちを無思慮に打ちのめし、深く傷付け、その日から圭子という名前を口に出す事すら許されない日々が今も続いている現実に涼介は罪の深さを痛切に感じていた。
映画は〝サビ〟から始まる音楽の様にインパクトのある映像を序盤に配置し、観客を圧倒していた。
まゆみは自分の右手を肘掛けに乗っている涼介の左手にさり気なく置いて、少しだけ涼介の方に体を傾けていた。
スクリーンには路上で舞う砂埃りを嫌いながら歩いている、背中を丸めた主役の寂し気な後ろ姿が映し出されていた。
(・・・何だこれ・・・同じかもしんねぇ・・・)
涼介は左手にまゆみを感じながら、自分が恋愛に晒し続けて来た情熱や抱き続けている理想の行く末と、風に舞い、水に流され、暗い場所に吹き溜まる塵や埃の中を歩く主役の運命を重ねていた。
#創作大賞2024
#恋愛小説部門
ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀
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