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21  弄れる情熱   【小説】




 恭子は10月10日に行われた部署間の親睦会以降、今まで以上に気さくな態度で涼介と接していた。仕事中、遣り過ぎではないかと思う程馴れ馴れしく涼介に接している事もあった。
 過去、恭子の恋愛は何時も男性から情熱的に追い掛けられる立場だった。その事実は恭子に恋愛の主導権を常に握らせる事となり、そしてある意味当然の如く、その主導権に男性を見下すという歪んだ感情を付け加える事となっていた。
 恭子にとって涼介は自身の経験が活かせない、洞察や分析も予測や憶測も空回りしてしまう最初の男性だった。
 恭子は二人の関係に結論を出した涼介に躰を疼かせていた。それ故に恭子は何時か必ず涼介を完全に振り向かせたいと思っていた。
「岡部」
 涼介は恭子を呼んだ。
「・・・・・」
 恭子は反応しなかった。
「岡部!」
 涼介は再度、強く恭子を呼んだ。
「!!はいっ・・・」
「どうした? らしくないぞ」
 涼介の落ち着いた口調が会議室に響いた。
「すみませんでした」
 我に返った恭子は立ち上がり、頭を下げた。
「サンプルリストを皆に渡してくれないか」
「はい・・・」
 恭子は席を離れ、資料を配り始めた。
 大切な会議中に恭子は周囲の音が聞こえなくなる程一人の男性の事を思い詰めてしまっていた。プライベートの憂鬱を仕事に持ち込んでしまう女性を常々批判して来た恭子にとって、それは耐え難い失態だった。
「・・・・・」
 尋常ではない動悸が顔を赤く染めていない事を祈りながら、恭子はテーブルの周りを歩いていた。
 10月17日、企画開発部の会議室だった。
 涼介の背中越しに見える向かい側のビルの窓で、夕日が乱反射していた。
 自分の席に戻った恭子は平静を取り戻しつつあったが、同時に悔しさと恥ずかしさが恭子の心を押し潰しに来ていた。

 あの日から一週間が過ぎていた。
「・・・・・」
 まゆみは自分のデスクでCADにデータを入力しながら、明日に迫った涼介とのデートを万全の状態で向かえる為に退社後の行動をシミュレーションをしていた。
 10月4日のデートを所用でキャンセルした事をまゆみは後悔していた。その後悔を笑い飛ばそうと心待ちにしていた次の約束の日、今度は涼介の都合に因って延期になっていた。
 11日当日の朝、気持ちと身形りを整え終わった矢先に届いた涼介からのメールは、体を動かせない程の絶望感をまゆみに味わせていた。まゆみはその週末を脱力感と戦いながら、涼介と会えない自分の立ち位置を甘んじて受け入れざるを得ない事実を嘆き続けていた。
「・・・・・」
 仕事が手に付かないまゆみは、この一週間の間に届いた涼介からのメールを順々に遡っていた。
(長かったな・・・)
 急遽部長の代わりに横浜に行かなければならなくなったという、たったそれだけの言葉でデートの延期を告げた、11日の朝に届いたメールまで溯っていた。
 10月17日の金曜日、渡辺通り一丁目にあるオフィスビルの一室に構える設計事務所の中に容赦なく夕日が差し込んでいた。
(でももう明日なんだから・・・)
 以前に一度、突然入った仕事の都合に因って新幹線に乗る寸前だった涼介を会社で数時間待機させた後、デートをキャンセルした事を思い出していたまゆみは、受け入れざるを得なかった現実に耐えた自分を慰めながらブラインドを下ろす為に席を立った。
 事務所にはまゆみしか居なかった。社長の鈴木周五郎も一級建築士も現場に出ていた。
「・・・・・」
 窓の傍に立って朱色に染まる街を眺めているまゆみは、このまま定時が過ぎて事務所の電話を鈴木周五郎の携帯電話に転送しそっと会社を出たいと思っていた。
 まゆみは自分の全てを涼介に受け入れて貰う為に、そして永遠に続けたい二人の関係の象徴的な一日とする為に、明日のデートはぬるい行動やつまらないミスは許されないと考えていた。
 恋愛の理想という〝森〟をずっと見続けて来たまゆみは、たった数ヶ月の間に涼介という〝木〟だけを凝視してしまっている事に気付いていた。そして逃がしたくない恋を掴む為に想い描く理想の輪郭を何度も何度も修正し、一歩間違えば薄くて痛い感情の持ち主だとして誤解され兼ねない陳腐な行為を何度も何度も繰り返していた事にも気付いていた。
(あと30分何事も無い様に・・・)
 まゆみは壁に掛かる時計を見た後、夕日をブラインドで遮ぎった。
(ほんと長かったな・・・)
 まゆみは自分のデスクに戻りながら、追い求めて来た理想の恋愛の終着点が、心を弄られ続けている涼介であって欲しいと願い続けた一週間を再び振り返えろうとしていた。

 あの日から一週間が過ぎていた。
「・・・・・」
 涼介はまゆみとの会話を振り返っていた。
 まゆみはこの一週間、涼介にメールを乱打する事を止めていた。そして涼しくもある隙の無い文章で涼介好みの話題を時折メール画面に挟んでいた。電話では多彩な表現を積極的に試み、少ない時間を有効に使おうとする意地らしさを醸し出していた。
 直近一週間の中で違った一面を披瀝し続けていたまゆみとエリカを、涼介は明日の土曜日に控えたデートを前に初めて比較していた。
「・・・・・」
 涼介は更に考えていた。
 まゆみとのセックスを、涼介は今後まゆみに対して立ち居振る舞う最後の判断材料として位置付けていた。涼介の気持ちは当然エリカだった。しかし涼介は自身の殻を一枚破った様な言動を見せ始めたまゆみとのセックスに因って、まゆみとの間に存在する噛み合わないリズムをも凌駕する様な、まゆみに対して用意してある答えを書き換えたくなる様な画期的な新機軸が打ち出された場合の事を貪欲に考えていた。
「課長代理!」
 広山の声が会議室に響いた。
「!!・・・」
 涼介は広山の声で我に返った。
 何分か前、涼介が恭子を注意した会議中の出来事だった。
「・・・そうだな・・・じゃぁ・・・絞り込んだメニューのネーミングの・・・リストアップだな・・・広山、続けてくれ」
 涼介は広山が何度声を掛けて来たのか知りたい思いに駆られながら、誰とも視線を合わさず、資料に目を落とし、何時もより押さえた声で広山にそう指示をした。
「分かりました」
 広山はプロジェクターの準備をする為に席を立った。
(・・・・・)
 恭子は広山の動きに呼応する様に席を立った。
 向かい側のビルの窓で乱反射する夕日は、更にその輝きを赤く増していた。
(初めて見たな代理のあんな姿・・・何を考えてたんだろう・・・)
 恭子は電動カーテンのスイッチを押した自分の指先に、恥ずかしくて顔を赤く染めた時と違う胸の鼓動が波打つ様に届いている事に驚いていた。
(代理も何か悩んでる・・・)
 閉まり行くカーテンを見ている恭子は自己の情熱を強烈に弄り始めていた。そして恋を攫おうとする女性に有りがちな、手前勝手で無遠慮な主観で涼介の心の内を覗こうとしていた。
「・・・・・」
 席に戻った恭子は涼介を凝視し、涼介が見せた散漫な姿の原因が何なのかを猛烈な速さで詮索し始めた。
(私の事で悩んでるのかも・・・)
 そう考えた瞬間、胸に走った痛みを恭子は信じた。
 ほんの何分か前、恭子は涼介の事を思い詰めていた。そしてその数分後、恭子の姿を焼き映したかの様に涼介の心は何処かに泳いでいた。その事実は男性から情熱的に追い掛けられ、恋愛の主導権を常に握って来た過去を持つ恭子の恋心にとって見逃す事の出来ない現実だった。
 暗い会議室に広山の声が響いていた。
 明るさを放つスクリーンの横で、涼介の姿がシルエットとなって浮かび上がっていた。
「・・・・・」
 佐久間涼介が〝岡部恭子〟という女性を愛する事に躊躇っていると結論付けた恭子は、今夜その涼介に渾身の力を振り絞ってアプローチをする為の手筈を瞳の奧で俊敏に整え始めていた。



#創作大賞2024
#恋愛小説部門


ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟

美位矢 直紀


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