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22  姑息な思惑   【小説】




「我儘を叱れるのは愛だし、許せるのは恋だし、怒るのは体だけかも知んないぞ・・・我儘の質にも因るとは思うんだけどさ」
 居酒屋のカウンターで涼介は広山の相談に答えていた。
「彼女の我儘を怒っちゃうってのは、今んとこ体だけで繋がってんのかもしんないな」
 涼介は立て続けにそう言った後、広山を見て〝冗談だよ〟と笑った。
「・・・以外とそうなんですかねぇ・・・」
 広山は苦笑いを浮かべていた。
「心配すんな、大丈夫だよ」
 広山のグラスにビールを注そそぎながら涼介は笑顔を見せていた。

            ▽

 企画開発部の会議後、30分ほど経たっていた煙草の吸えるエントランスだった。
「課長代理、ちょっと相談したい事があるんですけど・・・仕事終わったら付き合って貰えませんか?」
 涼介を見つけ、足早に近づいて来た広山は申し訳なさそうに余所余所しくそう切り出した。
「どうした?・・・シリアスだな」
「ええ、まぁ・・・ちょっと・・・」
「仕事の事か?」
「ええ、いえ・・・あの、今からタカハシフーズさんの所に行かなきゃいけないので・・・代理すみません、今夜お願いします・・・ほんとすみません・・・」 
 広山はそう言って涼介の問い掛けを恐縮しながら誤魔化し、深めの会釈のまま逃げる様な小走りで音もなく去った。
「・・・・・」
 涼介は広山の背中を追わず一つ大きく息を吸い込み、吐き出す煙と共に燻り続ける煙草を灰皿に押し当てた。そして消え残る煙を眺めながらポケットに両手を突っ込み、歩き出すような素振りでも立ち去るでもなく、広山への処遇に関する事で何か間違いがなかったか、暫くその場所で直近の仕事を振り返っていた。

            △

「岡部」
 広山は恭子のグラスにビールを注ごうとしていた。
「あっ、すみません」
 恭子は両手でグラスを持ち上げた。
 広山の隣には恭子が座っていた。
「・・・・・」
 涼介は居酒屋のカウンターで三人が肩を並べている事に胡散臭さを感じていた。そして若し本当にこの状況を恭子が設定したのであれば、恭子の出汁に使われている事になる広山に申し訳ないと思っていた。

            ▽

 涼介と広山は仕事を午後7時30分に切り上げていた。
 退社した二人がテナントビル1階のエントランスを歩いている時、黒崎に在る取引先との打ち合わせ終了後、直帰する筈だった恭子が正面玄関附近で他部署の社員と立ち話をしている姿を広山が見つけていた。
 三人はそれぞれの挨拶を交した後、恭子は涼介に〝ちょっといいですか? すみません〟と頭を下げ、広山と明日の仕事の段取りを話し始めていた。
 涼介は少し離れた所に居たが、耳に何度か〝お前も来いよ〟という広山の声が届いていた。その後、涼介の予想通り恭子を居酒屋に連れて行ってもいいかどうかを広山に訊ねられていた。
 涼介は前を歩く二人を追い掛ける様に街頭を歩きながら、エントランスで〝構わないよ〟と言って恭子の合流を受け入れた直後、広山が見せた絶妙な笑顔と、その広山に一瞬呼応した恭子の微笑みを思い出していた。
 並んで歩いている二人の背中から、喜々とした達成感のようなものが醸し滲んでいた。
 時折り後ろを振り返り、その都度笑顔を残す恭子を涼介は更に訝りながら、煙草の吸えるエントランスで広山が見せた態度に端を発している一連の出来事を振り返っていた。
 涼介は今夜この時間の為に、恭子が広山に何か知恵を付けて巻き込んだと仮定すれば納得出来る推察を心に落としていた。

             △

「そう、結婚考えてんのか」
「はい」
「付き合い長いのか?」
 涼介は広山の話を真剣に聞き、真剣に問い掛けていた。
「付き合いは12月で・・・まる2年ですね」
 広山は彼女との間に存在する悩みを涼介に相談していた。
「そう・・・広山、バランスとタイミングは大切だぞ・・・そうだな、俺が思う結論を言うと、女性は真実より誠実を選ぶぞ」
「・・・・・」
 広山は黙っていた。
「良く聞く話だと思うんだけどさ、男って付き合ってる彼女に没頭する時があるじゃない、彼女が何が何でも最優先でさ・・・でもさ、こんなに大好きで没頭してんのに一週間後ぐらいにあっさり別れちゃったりするじゃん・・・まあそれが若気の至りとか、若さの特権だったりすんのかもしんないけど・・・大切な女性って、やっぱり失くして初めて本当に大切な女性だったんだなって気付くんだよな・・・広山も色んな恋を経験してるだろうし、俺がどうこう言う話じゃないんだけどさ」
 広山と彼女の関係や、彼女を想う広山の心情を初めて具体的に聞いた涼介は、穏やかであり真摯だった。
「まぁ、俺にそんな話をするって事はさ、例えば勢いで結婚を申し込めた時に動かなかったか、動けなかったって事なんだろけどな」
 涼介はそう言いながら広山にビールを注いだ。

 10月17日の金曜日、午後8時30分になろうとしている店内は満席になっていた。
 三人は鳥町食堂街に暖簾を出している、広山が行き付けている居酒屋のカウンターに並んでいた。
 三人が店に入った時には座敷は全て埋まり、少し窮屈なカウンターしか席が空いていなかった。広山は申し訳なさそうな顔を見せている店長に笑顔を見せながらカウンターの一番奥に涼介を座らせ様としていた。しかし涼介はその気遣いを断り、至極自然に恭子を奥に座らせ、広山を真ん中に座らせていた。
「岡部」
「はい・・・あっ、すみません、ありがとうございます」
 恭子はグラスを持ち上げた。
 涼介は広山にビールを注いだ後、そのまま岡部のグラスにビールを近づけていた。
「・・・・・」
 恭子は何か喋ろうとしていた。
「広山」
 涼介は恭子のグラスにビールを注ぎ終わる前に広山に声を掛けた。
「はい!?」
 話し掛けられると思っていなかった広山は少しびっくりしていた。
「バランスはほんと大切だぞ。一方的で極端じゃ相手も息が詰まっちゃうからさ」
「はい・・・」
「恋ってのは何時だって激しくて情熱的じゃない。でも愛はその逆で喜怒哀楽が穏やかで魅力的だろ?恋愛ってのはその二つがくっついてる訳だからさ、お互い意思の疎通に戸惑う時があると思うんだよ・・・彼女の事が大切なら甘え方とか叱り方とか、そんな様な物に隠れてる思い遣りとか、素直さとか・・まぁ何て言うか、愛情を彼女に出し惜しみしない様にな」
「・・・そうですね・・・」
 広山は頷いた。
「・・・大切な時期だぞ、今」
「そうですよね・・・」
「広山、悩んだり迷ったりしてる時に隠れてるからな、二人の行く末を決めるタイミングがさ。そして突然試されるぞ、思いの深さを・・・広山、お前結婚考えてんのならそのタイミングを外さない為にもさ、守るべき人を絶対守るんだっていう強い意志を常に心の真ん中に置いて、間違っても俺は常に愛情を注いでるから、少しぐらいほっといても大丈夫だって気にはなるなよ。彼女は広山以上に悩んでるかもしんないんだから」
 涼介は語る程に、自分の痛い過去を遡っていた。
「・・・彼女ってそんなに我儘なのか?・・・怒り方が間違ってるから彼女が意地になってるって事はないのか?・・・まぁ、広山なりでいいとは思うんだけど、愛してんのに何故怒んのか、そのロジックを完成させなきゃな」
「ロジックですか?」
「そう・・・風が吹けば桶屋が儲かるって知ってるか?」
「聞いた事ありますね」
「今の広山の態度はそのタイトルに似てんじゃないか?」
「?・・・」
「真ん中を端折ちゃってるって事だよ」
「・・・言葉が足りないって事ですか?」
「そうなんじゃない?」
「そうなんですかね・・・」
「例えばさ、我儘を怒るのは愛してるからなんだって事を論理的に繋げてみろよ。そして繋げた部分を彼女に見せてあげんだよ。ある意味それが誠実ってやつだからさ。そうすれば展開変わって来る筈だから」
「・・・なるほどですね・・・」
 広山は遠くを見つめる様な声でそう呟いた。
「彼女に取っちゃさ、付き合って2年だっけ?それなのに何時も怒られててさ、その理由が〝愛してるからなんだ〟みたいな一言だけで簡単に片付けられちゃ、何時か広山がロマンティックな状況を作って結婚申し込んだって彼女即答出来ないだろ?」
「・・・・・」
 広山は真剣に涼介の話に耳を傾けていた。
「そういう感情に行き着く広山の心の内を具体的に会話しまくんなきゃ駄目だと思うぞ。そうすれば広山が許せないと思う彼女の一面もきっと減って来るだろうし、そうなれば怒る事も減るだろ?・・・まぁちょっと、俺は真ん中を端折らせて貰うけど、それを続ければ何時からか怒りが叱りに変わって、お互い素直になって、最後は気持ちを伝え合う事に手を抜かなくなるんだよ」
「・・・代理、勉強になります」
 広山は言った。
「俺には出来ないんだけどな」
 涼介は物哀しい饒舌の後、そう言って笑った。
「・・・でも、ほんと勉強になります」
 広山は涼介からビールを注がれていた。
「そう?・・・でもそう言ってる内は昔の俺と一緒かもな」
 涼介は広山にビールを注し返されていた。
「勉強って言うより〝そんな事分かってます!・・・長ぇし、うぜぇんだよ〟ぐらいの返しが欲しかったな」
 涼介は笑っていた。
「ははっ、なるほどですね・・・」
 広山は夕方の喫煙室で涼介と会話した時と同じ様に恐縮し、同じ苦笑いを見せていた。
「まぁ俺に気を使って色々我慢して聞いてくれてるんだろうけど、彼女との事をさ、俺にこんなに好き勝手に言われて考え込んでる様じゃ、彼女もきっと広山との将来考え込んでるかもだぞ・・・」
 グラスのビールを空けた後、広山にそう付け加えた涼介は大切な女性を守れなかった過去の自分の痛い姿と、その痛い姿に耐えていただろうマキの顔を思い浮かべていた。
「・・・なるほど・・・そうですね・・・誰に何と言われ様と守るのは僕なんですよね・・・」
「・・・誠実な情熱は伝わるからさ」
 涼介は独り言の様にそう言って煙草に火を点けた。
「広山さん情熱ですよっ、頑張って下さいね」
 居酒屋に入っても殆ど喋る機会が無く、二人の話に加わるタイミングを計っていた恭子は、此処ぞとばかりにカウンターに身を乗り出し、笑顔で広山を覗き込み、場に新しい空気を流し込もうとするかの様に涼介の言葉を拾った。
「頑張れ?・・・まぁ、岡部に取っちゃ対岸の火事だよな」
 涼介は恭子の言動に反応し、棘のある言葉を放った。
「えっ!そんな事ないですよ・・・広山さん仕事に誠実ですし・・・尊敬してますし・・・そんな広山さんに幸せになって貰いたいって思ってます・・・」 
 恭子は涼介の不意打ちに毅然と反駁した。
「岡部さ、今夜俺に何か言いたい事があったんじゃないのか?」
 涼介は更に恭子の意表を突く様な質問を棘に混ぜた。
「えっ!!・・・あ、いえ・・・別に・・・」
 恭子は続け様に放たれた涼介からの棘に慌てた。
 広山はばつが悪そうに背中を丸くしてビールを飲んでいた。
 涼介は煙草を燻らせながら恭子の言葉を待っていた。
 三人の間には居酒屋では似合わない沈黙が訪れていた。
「・・・・・」
 恭子は混乱していた。
 もう一度涼介を自分に惹き付ける為に、今夜恭子は女の弱さや萎らしさという武器を見せ付ける画策していた。故に夕方行われた企画会議の直後、広山に涼介を連れ出して欲しいと無理矢理頼み込んでいた。更には状況を見て広山に途中で抜け出して貰う事も遠慮なく頼んでいた。しかし恭子は広山の相談に集中している涼介に〝武器〟を使う機会を見つけられず、それより以前に広山の話題に入り込む余地すらも見つけられず、企てた筋書きが思惑通りに展開しない場面の連続に焦り、苛立ち、戦術を変えるべきかどうか迷い始めていた。しかしそんな矢先、恭子は突然涼介に核心を突かれ、しかも座の中心に君臨出来るチャンスまで与えられ、何か喋らなければとする思いに自分の心を掻かき乱し、逆に言葉を失ってしまっていた。
 居酒屋の店内は賑わっていた。
 三人だけには重い沈黙が続いていた。
「・・・・・」
 恭子は自分の思惑が全て涼介に見抜かれているかもしれない現実に言動を封じ込まれたままだった。
「・・・じゃぁ悪いけど、明日早いから先に帰るよ」
 涼介は恭子に考える〝間〟を充分に与えた後、煙草を消した。
「明日早いって・・・ゴルフですか?」
 黙っている恭子に痺れを切らした様に広山が喋った。
「ゴルフ?・・・そういう方法もあるな」
 涼介は広山に笑顔を見せながら立ち上がり、まゆみとのデートが待っている自分にそう言った。
「・・・・・」
 広山は涼介の言葉を理解出来ないまま反射的に立ち上がっていた。
「じゃぁな、広山・・・それじゃぁな、岡部・・・気を付けて帰れよ」
 涼介はそう言って二人がこの後暫くは飲んでいられるぐらいのお金を広山に渡し、踵を返した。
「お疲れ様です」
 広山は涼介に軽く頭を下げた。
「じゃ」
 涼介は振り向いて手を上げた。
「・・・・・」
 恭子は座ったまま会釈するのが精一杯だった。
 広山は涼介の背中をずっと目で追っていた。

「・・・・・」
 恭子は涼介の姿が居酒屋から消えた瞬間、涼介に対して用意していた言葉や仕草の数々が永遠に封印された事を悟っていた。そして涼介が見せた居酒屋での振る舞いや、付け入る隙の無かった鮮やかな去り際にある種感動すら覚えていた。
「・・・ごめんな・・・失敗しちゃったな」
 広山は涼介が去った後、恭子にそう言った。
「そんな事ないですよ広山さん。私の方こそ無理言ってすみませんでした」
 恭子は気丈に、そして素直に謝った。
「・・・俺が言うのも何だけどさ、代理に姑息な手段は通用しないんじゃないかな・・・」
「・・・・・」
 恭子は不細工に引きつっているかもしれない笑顔をかろうじて広山に向けたが、返す言葉は無かった。
「・・・出ようか」
 広山はグラスに残っていたビールを飲み干して恭子に言った。
「・・・そうですね」
 恭子はカウンターの隅で、狙い落とそうとした涼介の強さに完全に打ちのめされた事を自覚していた。
「情熱は誠実でなきゃ伝わんないらしいぞ」
 広山は言った。
「・・・そうですね・・・」
 恋を実らせ愛を育くもうとする情熱は潜在的であり、その本質は純粋だという事に恭子は気付き始めていた。そして女王様やお姫様を気取り続け、情熱を不純に扱っていた過去の自分のぬるい恋愛に物哀しさを感じていた。
「岡部、悪かったな」
「何言ってるんですか広山さん、悪かったのは私です。そんな事言わないで下さい」
「落ち込んでないよな?」
「落ち込んでなんかないです。全然大丈夫です・・・っていうか課長代理もったいないなぁって思ってたんです。私、結構いい女なのになって」
 恭子はそう言って広山に向けた自分の笑顔が不細工でない事を再び祈っていた。

「・・・・・」
 涼介はBARのカウンターで煙草を燻らせながら、腕時計の針が午後9時を少し過ぎている確認した後も、動き続ける秒針をずっと見続けていた。
(今日はまだちょっと早いんだよな・・・)
 携帯電話をカウンターの上に置く事を涼介は迷っていた。
 エリカに出逢う前迄の涼介であれば、居酒屋を出た後直ぐに誰彼の区別なく女性に電話をし、今から一緒に飲まないかと誘っていた筈だった。そして隣に来てくれた女性をベッドに誘う為だけの優しさを精一杯見せていた筈だった。(・・・ぬるいな)
 涼介はエリカ事を考えながら、スーツのポケットに手を突っ込み携帯電話を弄る自分を鼻で笑った。
 店内には普段流れている自動ピアノの美しい音色ではなく、緩やかなジャズが流れていた。
 涼介は二杯目のラムバックを飲み干した。
「・・・何時も有難う御座います・・・作りますか?」
 涼介の顔を知るバーテンダーが涼介に近寄り、灰皿を交換しながらそう話し掛けた。
「・・・ハーパーをロックでくんないかな」
「かしこまりました・・・バーボンも飲まれるんですね」
「・・・そんな日なんだよ」

 店内には街の喧騒とは無縁の空気が流れていた。
 間接照明が映し出す客のシルエットは涼介以外、全てカップルで括られていた。
 涼介は何処を見つめるでも無く、左手で携帯電話を玩んでいた。「・・・・・」
 涼介は煙草に火を点けた。
「どうします?」
 空になっていたロックグラスを見てバーテンダーが声を掛けた。
「・・・帰るよ」
 L字に延びるカウンターの隅でグラスを二度空にしていた涼介は、そう言って点けたばかりの煙草を消した。
 涼介の心の中は居酒屋で恭子に見せた自分の態度と、明日に控えたまゆみとのデートの事が入り乱れ、今夜エリカに会いたいとする気持ちに絡み付いていた。「・・・有難う御座います」
 バーテンダーは、それだけを涼介に言った。

「・・・・・」
 涼介は会社の駐車場に戻る路上で恭子との過去の出来事を振り返っていた。(申し訳ない事をしてたよな・・・)
 恭子の事を同じ匂いをさせている女性だと涼介は感じていた。そして鬱積している自身の美学の捌け口として、不安定な情緒を救ってくれる女性として冒涜し、プライドを守れる〝いい女〟という位置付けで接していた事を思い出していた。
(今夜はあれで良かったと思うんだけどな・・・)
 BARに入る前から恭子に対する罪悪感に包まれていた涼介は、恭子に晒し続けていた自分の自惚れた態度を反省していた。
(・・・何処にあるんだ?・・・)
 夜空を見上げていた。
(曇ってんのかな・・・)
 涼介は出ている筈の月を探しながら、明日に控えるまゆみとのデートの行方も探し始めていた。


「・・・・・」
 まゆみはさり気なく腕時計を見た。
 テーブルの下で確認した時間は午後8時10分を指していた。
「松岡、明日博多の森に行かないか?」
「えっ!?」
「アビスパの試合見に行こう」
 鈴木周五郎は臆する事無くそう言った。
 二人は地下鉄中洲川端駅を押さえ付ける様に建っているリバレイン五階の叙々苑という焼肉店に居た。
「・・・社長、すみません、明日は実家で姉夫婦の子供の世話が待ってるんです・・・」
 まゆみが搾り出した嘘は、思い付きにしてはリアルだった。
「・・・・・」
 鈴木周五郎はまゆみを見つめながら何かを考えていた。

          ▽

 午後6時過ぎ、まゆみは事務所の電話を鈴木周五郎の携帯電話に転送し、退社時のチェック事項を何時もより時間を掛けて済ませていた。
(よし、これで大丈夫)
 まゆみは電気を消した。
 明かりの消えた事務所は降ろされたブラインドの隙間から差し込む夕日の朱色が映えていた。
(さぁ、帰ろう)
 まゆみはバッグの中から鍵を取り出し、明日のデートの為に今夜やって置くべき事を頭の中で整理しながらドアに向かった。
〝ガチャッ〟
「!!・・・」
 まゆみがドアノブに手を掛ける寸前、ドアノブはまゆみの手から逃げた。
 ドアは勢い良く開いていた。
 まゆみは突然目に飛び込んで来た現実に愕然としていた。
「おおっ! お疲れさん!!」
 鈴木周五郎は目の前の思い掛けない現実に驚き、高らかに声を上げた。「・・・お疲れ様です・・・」
 まゆみは後退りなが困惑していた。
「はいお疲れさん・・・松岡、電気点けてくれ」
「・・・はい・・・」
 まゆみは言われるがまま、消したばかりの電気を点けに戻った。
「帰る所だったのかい?」
 鈴木周五郎は目で見れば分かる事実を嬉しそうに言葉にした。
「はい」
 まゆみは此処しか無いとばかりに強い意志を込め、返事を事務所に響かせた。「そうか・・・でも、申し訳ないけど、これを入力してくれないかな。設計変更の打ち合わせ記録なんだ」
 鈴木周五郎はまゆみの顔を見ず、鞄の中を弄ぐっていた。
「・・・あの・・・でも・・・」
 まゆみは返事をする事が出来なかった。
「頼むよ」
 鈴木周五郎の口調は柔らかだった。しかしその言葉はお願いではなく命令だった。

 二人は暫くの間、無言のまま残務処理をしていた。
 まゆみは後5分早く会社を出ていればと悔やみながらパソコンと向き合っていた。
「なぁ松岡、お腹空いただろ?」
 鈴木周五郎は嬉しそうだった。
「えっ?・・・いえ、今日はお昼が遅かったので、まだ余り・・・」
 まゆみは動揺していた。
「そうか? 俺は今日昼飯を食べてないから腹ぺこなんだ」
 パソコンの画面を見ながら鈴木周五郎はそう言った。 
「・・・・・」
 まゆみは何も喋らなかった。
「・・・そうだなぁ・・・それじゃぁ残業のお詫びを兼ねてビール奢らせてくれないか・・・そうだ! 焼肉にしよう! リバレインに美味い店があるんだ!」「・・・・・」
 まゆみは澱んでいた。
 鈴木周五郎は事務所の入り口でまゆみを引き止めた時、このチャンスを逃すまいと思っていた。そして此処までは女性に対して不器用で強引な自分をまゆみには悟られず、自然体で食事に誘えていると思い込んでいた。
「どうした! 元気ないな。体調でも悪いのか?」
「えっ?・・・いえ・・・」
「じゃぁ行こう!」
「・・・はい・・・」
 頭の中は明日のデートの事で一杯だっが、まゆみは折れた。
「松岡、残りは月曜日でいいぞ」
 鈴木周五郎は残務処理を止め、既に立ち上がっていた。
「・・・はい・・・」
 まゆみはパソコンの液晶をみつめながら、鈴木周五郎の術中に嵌った事を悟っていた。
「じゃぁ行こう、腹ぺこなんだ」
「・・・はい」
 まゆみはそう言ってパソコンの電源を切る手順を踏み始めた。
 まゆみは明日の為に立てていた今夜の予定を鈴木周五郎に因って大幅に変更する事を強いられていた。しかしその事実に思った程苛立ちを覚えていない自分が居る事に少なからず驚いていた。それは一己の女性として誰もが持っている、幸せな家庭を築きたいとする本能が、鈴木周五郎という男性を完全に拒む事をさせない為の姑息なシグナルを、恋愛を司るまゆみの神経に送信している所為かもしれなかった。
「今日はデートだぞ!」
「えっ!?」
「冗談だよ、冗談!」
 鈴木周五郎は上機嫌だった。

            △

「そうか・・・明日は実家か・・・なぁ松岡、その前に二人の時に〝社長〟は止めてくれないか。鈴木さんとか周五郎さんとか呼んでくれ」
「でも・・・」
「いいんだよ〝ざっくばらん〟な男だから」
「・・・・・」
 まゆみは少し困っていた。
「・・・んー、そうか・・・子供の世話か・・・でも松岡、それは一日中じゃぁないんだろ?」
「ええ、でも、あの、姉夫婦が一泊で温泉に行くらしいんです、たまには二人だけで行きたいらしくて・・・だからお母さんと私で土日はずっと子供と一緒なんです・・・」
「そうか・・・でも途中何時間か抜け出す事は出来るんだろ?」
 鈴木周五郎は粘っていた。
「ええ・・・でも無理だと思います。お母さん最近体の調子良くないみたいだし、子供達にも遊びに連れてくって約束してあるし・・・」
「そうか・・・じゃ、俺が子供達を遊園地にでも連れて行こうか?」
 鈴木周五郎は食い下がった。
「そんな事出来ないです!社長にそこまでは・・・」
 まゆみは一向に良くならない状況に焦りを感じていた。
「俺なら平気だから・・・そうだ!そうしよう!」
「・・・・・」
 まゆみは鈴木周五郎の圧力に、このままでは寄り倒されると感じていた。
「な、いいじゃないか、ドライブを兼ねて遊園地に行こう。そうすればお母さんも楽だろうし、俺は子供好きだし、お子さんは二人だろ?なら四人で家族みたいでいいじゃないか」
 鈴木周五郎は詰め寄り、まゆみは土俵際まで押し込まれた。
「・・・ええ・・・だけど私一人じゃないんです。友達を二人呼んでるんです。大学の同級生なんですけど、二人とも子供が居て、皆で一緒に遊ぶ事にしてるんです・・・」
 まゆみは土俵際で、自分でもびっくりする様な嘘を言い放った。「・・・・・」
 鈴木周五郎は考えていた。
「すいません社長・・・それにその日は皆な家に泊るので、日曜の夜までずっと一緒なんです」
 まゆみは鈴木周五郎が言葉を発する前に、そう嘘を被せた。
「・・・そうか・・・」
「皆な久し振りに会うし、女だけだし・・・私も結構楽しみにしてたから・・・」
 まゆみは必死で、更に嘘を放った。
「・・・そうか、なら、余り無理は言えないな」
「すみません、折角のお誘いなんですけど・・・」
「残念だけどしょうがないな。俺の誘いが急過ぎたしな」
「ごめんなさい・・・あの・・・でも社長、近い内見に行きましょう、サッカー・・・私、サッカー好きなんです」
 まゆみは引き際を知らない二流芸人の様に、余計な事を勢いで喋ってしまった自分に〝はっ〟としていた。
「!!・・・そうか、サッカー好きなのか! そりゃ知らなかったな!」
 鈴木周五郎はそう唸った後、ジョッキに三分の一程残っていたビールを一気に飲み干した。
「・・・ええ・・・」
 土俵際で鈴木周五郎を綺麗に〝うっちゃった〟と思っていたまゆみの声から勢いは消えていた。勝ったと決め込んだ事で軍配が上がる前に集中力を切り、当然の様に鈴木周五郎はその隙を見逃さなかった。
 二人の勝負には〝物言い〟が付いた。
「良かったよ、サッカーが好きな女性と付き合うのは初めてなんだ・・・趣味が合う事は大切だからね・・・そうかぁ、じゃぁ近い内にチケット買っておくよ。何処のファンかい? アビスパだと嬉しいんだけどな・・・すみません! 生一つ!」
 鈴木周五郎の瞳には輝きが戻っていた。
「ええ・・・」
 まゆみの背中はまた丸くなり、新たな言い訳を探し始めていた。
「・・・違うんだな? じゃぁ、マリノスとかレッズかい?・・・松岡は都会的だもんな・・・そうだ!! 大阪や横浜に見に行ってもいいな。面白いぜきっと!」 
 鈴木周五郎は水を得た魚になっていた。
「・・・ええ・・・」
 サッカーが好きだと言う事が痴がましいぐらい、まゆみが知っているクラブチームの名前は限られていたが、まゆみは取り敢えず笑顔を作った。
「楽しみになって来たよ」
 鈴木周五郎の心は跳ねていた。
「・・・そうですね・・・」
 まゆみは涼介とのデートの前日に余計な憂鬱を抱え込んでしまった事を後悔していた。しかし鈴木周五郎への詰めの甘さより、今はまだ乗り込むべき船を二艘用意していても問題は無いという、幸福な未来が約束されている訳ではない涼介との現状に一抹の不安を抱いている、もう一人の自分が画策する思惑に妙味も感じていた。
「・・・ワールドカップのアメリカ大会でさ、バッジョがPK外した試合、松岡は見てたか?」
「・・・バッジョって、人気ありましたよね・・・」
 鈴木周五郎は生ビールを美味そうに飲みながら、サッカーについて延々と語り始めていた。まゆみは断片的に知っているサッカーの事を時折会話に挟み、鈴木周五郎の機嫌を伺いながら明日の昼までに大蒜の臭いを消す方法を考えていた。
〝物言い〟が付いていた二人の勝負の軍配は取り敢えずまゆみに上がった。しかし今後あるだろう取り組みで鈴木周五郎が同じミスを犯す事は考え難にくかった。
「・・・ベルギー戦の稲本は切れまくってたよな」
「そうですね・・・」
 まゆみはさり気なく腕時計を見た。
 時間の針は9時5分を指そうとしていた。
 鈴木周五郎にとっては合格点が与えられる夜となっていた。まゆみにとっては甘くてぬるい恋の駆け引きを一つ披露しただけの夜となっていた。



#創作大賞2024
#恋愛小説部門

ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟

美位矢 直紀


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