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6   理想の嘆き   【小説】




「・・・・・」
 涼介はドレスルームの中に居た。
 涼介にとってセックスは自身の系譜を創る本能の様な、温かい家庭を作る為だけに営まれる無味無臭で独善的な作業の様な、次世代に繋げたい野望の為に組み込まれたスケジュールの様な行為ではないという美意識があった。
(・・・悦んで貰える様な、悦ばせたくなる様な、お互いそんな裸でありたいし、時折嘘や演技をして欲しいし、奮い立つ様な表情や動きも欲しいし、大胆になれる会話も大切だし・・・ずっと愛せる、馴れ合いになんない様な努力をしてみたくなる・・・しようと思える・・・意表を突いたりとか・・・波長の合った・・・陶酔とか満足をお互いが差し出せる・・・はぁっ・・・)
 涼介は鏡に映る自分の姿に愛想が尽きた様な溜息を吐き、思いを心に落とす事を止めた。
「愛なんだよな・・・」
 涼介は俯うつむき、自分に一言そう吐いた。
 何時か必ず同じ理想を持つ女性と出逢えると涼介は思っていた。そしてその女性が持つ情熱を守りたいと強く思っていた。しかしそれが愚にもつかない詭弁ではないかとも思っていた。
(愛ってなんなんだろう・・・)
 涼介はカランのレバーをゆっくり押し、静かに落ちる水で煙草の火を消した。
(・・・欲しい時に無いのは何時いつも愛と灰皿だよ)
 涼介は吸殻を濡らし続けながら、想い描く理想と現実をシニカルに言葉で掛け合わせた。
「ふぅ・・・」
 一気に缶コーヒーを飲み干した涼介は空になった缶の中に濡れた吸殻を入れ、寝付けない顔に張り付いた疲れを取る為に顔を洗った。
(愛があれば温かい家庭と最高のセックスが約束されるんだろうな・・・)
 涼介は顔を洗いながら心でそう呟いた後、壁に取り付けられたステンレスのバーに掛かる、ラブホテル独特のリネンの匂いがするフェイスタオルに手を伸ばした。
「・・・大袈裟なんだよ」
 涼介は鏡に映り続ける自分にそう吐き捨てた。そして顔を拭きながら心の汚れも拭き取りたいと思っていた。

 ベッドに戻った涼介を露出したまゆみの柔らかい背中が迎えていた。
 まゆみは寝返りを打っていた。
「・・・・・」
 涼介は腰の辺りまでずり落ちていたシーツをまゆみの肩までそっと引き上げた。
(エッチの相性ってあるよな・・・)
 涼介はベッドの傍に立ったまま、まゆみの寝姿を見つめていた。そしてセックスの相性という、一人の女性と今後の人生を共に構築して行く上で、世間では上位に位置付けられるとは思えない不謹慎な項目で、まゆみとの関係を否定する理由を脳の右から左へ伝達していた。

(もう駄目なんだろうな・・・)
 体をベッドに馴染ませていた涼介は天井をぼんやりと見つめていた。
(昇天いかないとか昇天いけないのは辛いな・・・)
 涼介はまゆみとの結論を心を軋しませながら客観していた。
(俺の恋愛って何なんだろう・・・)
 涼介は体を捩り、ベッドに潜り込む前にコントロールパネルの横に置いたセブンスターに右手を伸ばし、箱から抜き出した煙草を持ったまま仰向けに戻った。
 涼介という人格には未だ情熱や理想や、理性や協調がバランス良く共存していなかった。その事実は結論としてそうせざるを得ないという、守るべき穏やかな生活を意識的に形作り、与えられた環境や掴み取った家庭を保全しようと懸命になる事が現実を生き抜く為のささやかな知恵であり、その為に支払った犠牲に執着しない事も知恵であり、それが人間に与えられた生存本能の一つである事を涼介が理解出来ていない事を意味していた。
 涼介はこの人と生涯一緒に居るべきだという、五感と六番目の感覚に響く決定打を放ってくれる女性を欲しがっていた。無条件に恋し、愛して自然に叱り、許し、何時までも新鮮な気持ちで居られる女性を欲しがっていた。ある意味それも人間が持つ本能の一つだった。しかし涼介は恋愛を重ねる度、その思いには無理があるのではないかと薄々感じてもいた。しかしそれでも涼介は自身が持つ、女性に対する正直で純粋な欲求を自ら否定する事の虚しさを嫌った。取り巻く状況や計画や打算に則り、自分を偽り、第三者の意見に耳を貸し、好きになろうと努力して心を後から追い着かせる様な、そんな情熱を経由しない恋愛では守らなければならない愛が守るべき愛に変わり、そしてその時に誓うだろう愛を生涯貫く信念に何時か必ず揺らぎが生じると頑なに思い込んでいる為だった。
(未だ見ぬ女性が理想なんだよ・・・)
 涼介は再びベッドの上で上半身を起こし、そう嘆いた。
(美的感覚や知性か・・・スマートで尊敬出来る、美しくてキレのある女性に憧れてんだろうな多分・・・畜生・・・)
 涼介には望む愛を妥協無く勝ち取りたいという願望があった。しかしその願望に因って現実から逃避し続けている、ストイックでもクリエイティブでもない、性質たちの悪いインディビジュアリストそのものになっている自分を哀れんだ。
(何でこんな風になっちまったんだろうな・・・)
 涼介はそう考えながらコントロールパネルに左手を伸ばし、エアコンを切った。
 眠れない涼介にとって部屋の空気は冷たく、乾き過ぎていた。
(ぬるいな・・・)
 涼介は隣で眠るまゆみが寝苦しくなって目を覚ますかもしれない事を無視し、過去の恋愛を振り返えろうとしている自分の為に環境を整えた事にも嘆いた。
(勘弁してくんないんだな・・・マキ・・・)
 涼介は更に自分の理想だった女性にも嘆きを入れた。
(恋は厚かましくなきゃ出来ないし、しかし本当の恋は厚かましいやつには出来ないんだよな・・・ふっ・・・手に負えないガキと一緒だな、まったく、マキ以来・・・)
 涼介はベッドに横たわった。そしてまゆみに背を向ける形でシーツに包まり、枕に深く頭を埋めた。
「マキか・・・」
 涼介は溜息を吐く様に一人の女性の名前を口にした。
 マキという女性は涼介が嘆く理想の原点だった。そして涼介は心に刻まれているマキという原点を今でも愛していた。
(・・・・・)
 涼介はマキとの想い出を手繰たぐり寄せ始めていた。
 エアコンの切れた部屋には更なる静寂が訪れていた。
 涼介が吸おうと箱から取り出していた煙草は、灰皿の横に転がっていた。

(・・・何時だ?・・・)
 涼介は眩まぶしさを嫌う様に寝返りを打った。
 涼介は完全に閉まっていなかったカーテンの隙間から入り込む長方形の強い日差しで起こされていた。マイナスイオンから程遠いと思われる空気の動かない部屋の中で、涼介の頭から膝あたりまでだけに太陽の光が降り注いでいた。
 涼介には眠った実感が無かった。ずっと自身の恋愛を考えていた様な感覚が頭に残り、疲労感が体を支配していた。
(・・・・・)
 涼介は時間を確認しようと右腕を上げたが、そのまま右腕をコントロールパネルの所まで伸ばし、置いてある筈の腕時計を探った。
(8時か・・・)
 涼介は長方形の日差しが当たらない位置まで体をずらし、灰皿の横に転がっていた煙草に火を付けた。
(昨日は何時ぐらいに寝たんだろう・・・)
 体を仰向けに戻した涼介が気だるく吐き出した煙は、部屋に入り込む光のラインの部分だけ綺麗に漂っていた。涼介はその煙の形をぼんやり見ながら、昨夜呑み込まれ掛けた想い出の続きを手繰り寄せ様としていた。
「マキか・・・」
 涼介は新しい恋愛の始まりや終わりに心を必ずノックする女性の名前を呟いた。
 ベッドの上に象られた長方形の日差しは強さを少し増していた。
 煙は鮮明に浮き上がっていた。
 涼介はマキの事を鮮明に思い出していた。
「おはよ」
 煙草の先に長く伸びた灰を灰皿に落とそうと体を捻った時、その声を涼介は肩越しに聞いた。
「・・・おはよう」
 まゆみの声に不意を打たれ、一瞬にして現実に引き戻された涼介は出来るだけゆっくり振り向いて朝の挨拶を返したが、その言葉も顔も硬い事に気付いていた。
 涼介はまゆみの存在を忘れていた事に動揺していた。
「・・・早いのね」
 まゆみは照れくさそうに、恥じらいと充実が同居している柔らかな瞳でそう言った後、シーツを引っ張り上げながら体を涼介の方に初々しく近づけた。
 涼介にはまゆみのその行為が存在を否定されまいとする心の叫びの様に見えていた。
「・・・まぁね。でも、また寝ると思う」
 涼介はまだ動揺していた。
「そうなの?」
 まゆみの返事に深い意味はなかった。全てをさらけ出した後のさり気ない自然な反応だった。
「・・・だね」
 涼介はまゆみを深く見つめるしかなかった。
「・・・もう」
 まゆみは恥ずかしさと寝起きの顔を隠す様にシーツを更に引き上げた。
(参ったな・・・)
 涼介は煙草を消し、深い息を一つ吐はいた。
 まゆみにとっては涼介に全てを曝け出して迎えた希望に満ち溢れた朝だった。涼介にとってはまゆみに対する〝けじめ〟をぞんざいに出来ない事実を突き付けられた朝となっていた。



#創作大賞2024
#恋愛小説部門
#ぬるい恋愛


ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟

美位矢 直紀


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