最終話 最高の沈黙 【小説】
♫長い沈黙にも慣れてきた
冷めた横顔が得意になる
二人 腕をからめ歩いてた
遠いずっと遠い記憶
〝君がいた夏〟 by小柳ゆき
「どうした?・・・具合でも悪いのか?・・・」
「・・・この曲、いいね」
助手席に深く凭れ掛かかり、フロントガラスの遠い先を見つめていたマキが、運転している和明の方を向いてそう言った。
10月19日の日曜日、第三京浜に夜が訪れていた。
二人を乗せた車はオレンジ色の光を流麗に連ねたナトリウム灯に誘なわれる様に、横浜市街へ繋がる首都高速道路に向かっていた。「何だそうだったのか、話の途中で急に黙っちゃったから心配したよ」
マキの沈黙が、マキの為に選んだアルバムに耳を傾けてくれていたからだと分かった和明は安心し、素直に喜んでいた。
「曲、気に入って貰えて良かったよ」
和明は上機嫌でアルバムの話題を振った。
「・・・ね、本牧で御飯食べない?」
マキはそう言った後、悪戯っぽく微笑んだ。
「・・・いいけど・・・中華粥の美味しい店、7時半に予約してるんじゃなかったの?」
「和食の美味しいお店があるよ」
「そっか、地元だったな、あの辺り」
「うん」
「じゃぁ、案内して」
「了解」
マキは嬉しい声を和明に届けた後、再び助手席に深く凭れ掛かかり、笑顔を仕舞しまった。
雨は止んでいた。
魚町交差点は信号を待つ人達が窮屈そうに肩を並べ合っていた。
交差点を囲む様に立ち並ぶビルの壁に取り付けられたプロジェクターやメッセージボードは、それぞれが鮮やかな映像や光のオブジェを映し出していた。
「・・・・・」
ちゅうぎん通りに車を向けて縦列駐車をしていた涼介は、フロントガラス越しに見えている魚町交差点の雑踏から、助手席の向こう側に在る雑居ビルの一階に視線を変えた。
全面ガラス張りの店舗からは眩しい程の光が広い歩道に溢れ出していた。店内は昼間の様に明るく、スタイリッシュな女性達が動き回る姿がはっきりと見えていた。
車はスモールランプを点けたままアイドリングを続けていた。
メインパネルに埋め込まれたデジタル時計は7時10分を表示していた。「・・・・・」
涼介は美容室の様子を暫く眺めた後、煙草に火を点けてドアレバーに手を掛けた。
♫一人 頬杖ほおづえをついていた
君が帰らない夜に
繰り返し口ずさむ歌は
好きだった あの歌
〝君がいた夏〟 by小柳ゆき
「・・・・・」
マキは何処にも焦点を合わさず曲に身を委ねていた。
(涼介、まだ本牧に住んでんのかな・・・)
思い出していた。
切せつなくもマキは思い出していた。涼介を愛しているのに自信を失なくしていた22歳の晩夏、涼介の部屋で一人ぽつんと頬杖を付き、帰りを待ち続け、弱気な心と戦っていた自分をマキは思い出していた。
(会いたい・・・)
知らなかった。
歯痒くもマキは知らなかった。2年前の春、転勤で涼介が地元の小倉に戻った事をマキは知らなかった。
(・・・会いたい・・・)
助手席の窓越しに流れる横浜の街並みを眺めながら、マキはもう一度心の中でそう呟いた。
マキの脳裏には、ビーチパラソルの中で眠っている涼介にキスをした真夏の砂浜、炭焼き屋で酔っ払った後、涼介に悪戯ばかりして怒られた帰りのバスの中、ベイブリッジの上から二人で見下ろした大黒埠頭、元町店でのバイトが終わり、涼介の家に先に帰っていたイブの夜、日付が変わる頃に店舗のケーキとシャンパンを持って、やっと仕事から帰って来た涼介に拗ねてみせた最初のクリスマスが昨日の事の様に鮮明に蘇っていた。
「マキ、聞きいてる?」
「・・・えっ!!? っうん、聞きいてるよ」
マキは聴いていた。涼介を忘れられず、涼介を愛し続けている自分が居る事をはっきりと気付かせてくれたメロディをマキは聴いていた。
「その美由紀って、そんなに仲良いいの?」
「えっ!? 美由紀??・・・あ、うん・・そう・・だって私、美由紀には・・隠し事が無いかも・・・」
涼介に〝さよなら〟と背を向けた次の日、美由紀の前で泣きじゃくった事も思い出していたマキは、今まで明かした事のない美由紀の存在自体や学生時代から続く関係を、曲を聴きながら無意識の内に和明に語っていた自分に驚いていた。
「そうなんだ」
「・・・〝やるじゃん〟って感じなんだ・・・最近なかなか会えないけど結構相談乗って貰ってる」
マキは涼介の口癖で、今度は丁寧に美由紀との絆を和明に伝えた。
「へぇ・・・マキって相談されるタイプの方だと思ってたよ。」
「そんな強くないよ、私・・・」
「そっか」
和明はマキに微笑み掛けた。
(・・・やるじゃん、か・・・)
マキは和明を見つめる瞳の奥で、渋谷から桜木町へ帰る東横線の最終電車、鮨詰めの車内で身を守り続けてくれた涼介を映し出していた。
エリカは美容室の同僚達と談笑していた。
ローライズのジーンズが似合っていた。
涼介はポケットに両手を入れ、助手席のドアに背を凭たせ掛かけ、エリカに視線を注いでいた。
「横浜公園で降りよっ」
首都高速湾岸線が地下に潜り込む前だった。
長い沈黙を続けていたマキが突然そう言って微笑んだ。
マキの目の前にランドマークタワーやインターコントネンタルの風采と品格が大写しになっていた。
和明の横顔の向こうには、桜木町の街並みが見えていた。
「・・・・・」
涼介に気付いたエリカは、ゆっくりと談笑の輪から抜け出した。
同僚達はエリカの行動を目で追いながら、外の様子を伺う素振りを見せていた。
「・・・・・」
ガラスに張り付いたエリカは涼介に軽く手を振った。
「・・・・・」
涼介は両手をポケットに入れたまま、少しだけ微笑んだ。
「ん?? 本牧なら新山下の方がいいんじゃない?」
「かもしんないけど、横浜公園で降りよっ」
「・・・OK」
「ありがと」
マキは元町から麦田トンネルを抜ける本牧通りの景色に思いを馳せていた。
街の雑音は遠慮なく涼介に降り注いでいた。
歩道を行き交う人達が涼介の目に映るエリカの姿を時折遮っていた。
エリカは小さな会釈を始めていた。そして会釈の度、エリカは同僚達の輪から離れていた。
涼介は変わらず両手をポケットに入れ、車に凭たれ掛かかっていた。
(涼介・・・〝司つかさ〟に居いたり・・・する訳ないか・・・)
マキは久し振りに戻る本牧に、有り得るかもしれない微かな必然を期待していた。
「・・・・・」
美容室から出たエリカは歩き出す前に涼介と視線を重ねた。
「・・・・・」
涼介は柔らかい眼差しをエリカに贈っていた。
「・・・・・」
エリカは腰の後ろに回した両手でトートバックを持ち、照れを隠す様に一瞬下を向き、零れる笑顔を隠そうとする様な上目遣いのまま涼介の方へ歩き始めた。
歩道のインターロッキングは濡れ残っていた。
二人の間を多くの人達が行き交っていた。
「・・・・・」
歩行者を避けながら涼介との距離をゆっくりと縮めていたエリカは、広い歩道の真ん中で一度振り返り、ガラスの向こうに居る同僚達に手を振った。「・・・・・」
涼介はエリカが見せている一連の仕草を変わらず柔かい眼差しで優しく包み込んでいた。
♫世界中の誰より
私の心を照らした
愛をからだに感じてた
君がいた夏 忘れないよ
〝君がいた夏〟 by小柳ゆき
(会いたい・・・)
山下町のBARで涼介に無理矢理言わせた〝愛してる〟の言葉、涼介に強請って買って貰ったピーコート、青く澄んだ真冬の月の下、涼介の腕に絡まって歩いた本牧の裏通り、そして〝別れよっか〟と意地を張り、涼介を一人残して〝司〟を後にした夜、マキは止め処なく蘇るそんな涼介との思い出に胸を締め付けられながら、10年という歳月が過ぎても色褪せない涼介を想い、再びその言葉を心の中で呟いていた。
「お待たせっ」
「お疲れ」
「元気っ?」
エリカは恥じらいを隠す様ように言った。
「・・・んー・・ちょっと落ち着いたな」
「??・・・リョウ、具合でも悪かったの?」
「似合ってるよ、髪」
「・・えっ!? あ、そうだったね、さっきメールで言ったもんね・・ありがと」
「・・・なぁエリ」
「何?・・・」
「どうぞ」
涼介はポケットに忍ばせておいたエルメスのガムケースをエリカに差し出した。
「うわっ、覚えててくれたの!! 嬉しい!!」
「誕生日おめでとう」
「嬉しっ!! ありがとっ!!・・・でもリョウ、今日19日だよ・・・誕生日・・今日じゃ・・・ないよ」
「だよな・・・でも待てなかったんだよ26日迄さ」
「えっ!! 嬉しい!! 誕生日も覚えててくれたんだね、ありがとう!!・・・」
「だから26日は何もないぞ」
「うそーっ! やだっ!」
「・・・25歳だっけ?」
「うん・・・で?・・・」
エリカは更に嬉しさを強請る様な瞳で涼介を見つめ、茶目っ気たっぷりにプレゼントの約束を取り付け様としていた。
「・・・大晦日は仕事だよな?」
「うん・・・で??」
後ろ手に持ったトートバックを揺らしながら涼介の問い掛けを笑顔で流し、エリカは約束を強請った。
「休んでくんないか?」
「えーっ・・・んー・・・厳しいよそれ・・・」
「横浜行くから」
「うそっ!!」
「嘘うそじゃないさ」
「うそうそっ!!」
「・・・だからさ」
「うそうそうそっ!!・・・」
エリカは小躍りしながら身体を縦に揺らしていた。
「純一夫婦って奴らが待ってんだよ」
「純一・・夫婦??・・・」
「大親友さ」
「・・・嬉しい・・・本当?・・・」
「・・・??・・・どうした?」
「・・・・・」
エリカは涼介を見つめ続けられず口を噤んでしまった。
「・・・本当だよ」
「嘘じゃないよね・・・嬉うれし過ぎて・・・」
エリカは俯むき照れていた。
「そっか」
「だって・・・リョウが住んでた横浜、リョウと一緒に行きたいってずっと思ってたんだもん・・・」
「そっか・・・」
「嬉しい・・・ありがとう・・・」
エリカの声は小さく、瞳は素直だった。
「誕生日はちゃんと祝うから」
「リョウ・・・」
「でもそれは俺ん家でエッチするだけだぞ」
「バカ・・・」
エリカはそう言ってはにかみながらまた俯いた。
「?・・・おいおい・・・どうした?」
「だって優しいんだもん・・・嬉しいんだもん・・・」
少し冷たい湿った夜風が街路樹を微かに揺らしていた。
エリカは瞳を潤ませていた。そして変わり行く季節の感触を心に確かに感じていた。
「・・・・・」
涼介は慈愛に満ちた眼差しでエリカを見つめていた。
「なぁエリ、ゼノンの逆説覚えてる?」
「・・・覚えてる・・・けど・・・やだ」
「ははっ」
「だって・・・今直ぐキスしたいんだもん・・・」
少し拗ねた笑顔で涼介を見上げたエリカの頬には、一筋零れた涙の跡が残っていた。
「・・・エリ、それは俺の台詞だよ」
月が見えていた。昼間の豪雨が嘘の様な輪郭の綺麗な月が見えていた。
プレゼントはエリカの右手にしっかり握られていた。
エリカの踵は浮き、トートバッグはエリカの足元に落ちていた。
歩道を歩く人達は二人のシルエットに優しい瞳を向けていた。
涼介は生涯最高の沈黙をエリカに贈っていた。
エリカは生涯最高の沈黙を全身で受け止めていた。
街を彩る無数の光は二人を祝福する様ように乱舞していた。
「・・・まだ足りない?」
「・・バカ・・・」
「愛してるんだ」
涼介はエリカの肩に両手を掛けたまま真摯に言った。
「・・愛してる・・・」
エリカは涼介と離れる事を惜しむ様に、涼介が着ているスーツの袖口を掴んでいた。
「リョウ・・・もう一度言って」
「やだ」
「ケチ・・・」
エリカは最高の沈黙の余韻に浸っていた。
涼介は人に見せた事のない様な顔で笑っていた。
見つめ合う二人の瞳には大切な人と創るだろう未来が映っていた。
「・・・彼女、先輩?」
自分達をじっと見ている一人の女性に涼介は気付いた。
涼介の視線の先には、店内を忙しそうに立ち回っているスタッフを丸で気にしていない、堂々ガラスに張り付いている女性が見えていた。
「・・・ううん、さゆり・・・この前リョウに会う為にご飯断った人・・・一番仲が良いの」
涼介の問い掛けで美容室に振り返っていたエリカは、涼介と向き直った後そう伝え、もう一度さゆりの方に振り返り小さく手を振った。
「彼女、大胆に仕事さぼってるな」
涼介はそう言いながらエリカのトートバッグを拾い上げた。
「ううん、さゆりも早番で仕事は終ってるの・・・全部見られちゃったかな・・・」
エリカはばつが悪そうに涼介からバッグを受け取った後、もう一度振り返り、今度は大きく手を振った。
「明日大変そうだな」
思い掛けないエリカの行動に驚いた様子で手を振り返し、慌てて美容室の奥に消えて行ったさゆりを見届けた涼介はそう言った。
「大丈夫、もう慣れちゃった」
「・・おっと、それはどういう意味かな?」
「えへっ・・・いいじゃない・・・そういう意味よ・・・ねっ、それよりお腹空いちゃった」
美容室を眺めながら喋っていたエリカは涼介の方へ勢い良く体を戻し、茶目っ気たっぷりにそう切り返した。
「・・なるほど、了解・・・じゃぁエリっ、運転してよ」
エリカの切り返しに涼介は明るくそう言い返した。
「えーっ、何でーっ」
「だって横浜で年越すんだぞ」
「何それ・・・ほんと何時も意味分かんないんだから」
「いいじゃんかさ、たまには」
涼介はその言葉と笑顔をエリカに残し、体を反転させて助手席のドアを開けた。
「もうっ!!・・・」
助手席に乗り込んだ涼介にエリカは頬を膨らませた。
涼介は穏やかな微笑みを滲ませていた
仕方無さそうに怒っているエリカの表情には、隠す事の出来ない幸福感が溢れていた。
「・・・じゃぁ、焼肉っ」
運転席に乗り込んだエリカはトートバッグを後部座席に置き、シートベルトを付けながら無邪気な瞳で涼介に強請った
「和食にしようよ」
「やだ!! 美味しい焼肉!」
「・・・了解」
「よし!」
エリカはくしゃくしゃの笑顔を涼介に残し、イグニッションを回した。「・・・エリ」
「はい?」
「今忙しい?」
「何?・・・」
縦列駐車から抜け出す為に動かし始めていた車の鼻先をエリカは見つめていた。
「俺の事好き?」
「・・・嫌い」
エリカはハンドルを切り返し、車をバックさせていた。
「何だって?」
「・・・・・」
「・・・それで?」
前後の確認で忙しそうなエリカに涼介はもう一度聞いた。
「んー・・・やっぱ嫌い」
車を斜めに出し切ったエリカは右ウインカーを点滅させ、車線を見ながらそう言った。
「やるじゃん・・・」
「・・・あっ、そうそう、指輪が一つ見当たんないんだけど、リョウん家だよね?」
「・・・そうだな、あったな、歯ブラシの横に」
THE END
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#恋愛小説部門
#ぬるい恋愛
ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀
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