11 二人の独善 【小説】
芳野エリカは携帯電話が持つあらゆる機能を使い熟す女性に見受けられる芸術的な処世術を備えていた。その処世術には楽しい方向に貪欲に流れて行く事や不安定な足場を華奢な思考でも臆さずに歩く事、自分の置かれている状況を前向きに捉える事などが必須項目として織り込まれてあった。
9月19日金曜日の夜、エリカは涼介のリビングに居た。
エリカが買って来た白ワインは空になっていた。
エリカは取り敢えず目の前に居るまんざらでもない男性に、自分を委ねる意味の正誤で葛藤する事を良しとしていなかった。そんなエリカの潔さや大らかさは結果的に満足出来る時間を男性から充分勝ち取っていた。
「・・・・・」
エリカは絨毯の上でうつ伏せに体を伸ばし、甘く香ばしいプレッツェルを食べながらファッション雑誌を見ていた。
金曜日、珍しく仕事を定時に上がっていたエリカは自宅へ帰る様な普通さで涼介の家に涼介より先に〝帰宅〟していた。
Tシャツとカラフルなスパッツに履き替えてリラックスしているエリカの顔はワインのせいで少し赤みを帯びていた。
「エリカさ、実は俺の事かなり好きだろ?」
涼介はキッチンでパソコンと向き合ったまま、何の脈略も無くエリカに話し掛けた。
「うん。リョウは?」
ファッション雑誌のページを捲りながらエリカはあっさりと肯定し、姿勢を変えないままそう聞き返した。
「んー・・・」
涼介はパソコンと向き合ったままだった。
「あーそう・・・シャワー浴びて来る」
エリカは涼介の方を向いて大袈裟に驚いた表情を作り、少しふくれた顔をして立ち上がった。
「・・・・・」
涼介は穏やかな表情でキーボードを叩いていた。
「ねっ」
「?・・・」
突然耳元で聞こえたエリカの声に涼介は振り向いた。
「好きなくせにっ」
エリカは人を窘める時の笑顔でそう囁き、涼介の右の頬にキスを一つ残して踵を返した。
「・・・・・」
涼介はしなやかで張りのあるエリカの後ろ姿に見惚れながら、エリカの振る舞いに降参を意味する含み笑いを浮かべていた。
エリカは涼介が時折見せる意地悪なジョークを絶妙なセンスで切り返していた。涼介はそんなエリカに接する度に、心から勝手に滲み出て来てしまうエリカへの愛しさで、残して置きたい心の自由を自ら奪い取っている事を感じていた。
(・・・今しかないな)
涼介はエリカにまた一つ恋心を刺激された事実に酔っていた。しかし涼介はエリカがユーティリティに入った直後、澄んだ心で猛烈に頭を回転させ始めていた。
少なくとも30分はエリカがリビングに戻って来る事はないだろうと考えた涼介は、テーブルの上に投げ出していた携帯電話を手に取ってエリカとの心地良いひと時に区切りを付けた。そしてもう一つの限られたひと時の中で自らが描いたシナリオをミス無く実行する為に、まゆみに気持ちを集中させた。
「・・・・・」
涼介は自分の行動を嘲りながら、まゆみに送信するメールを作り始めた。
まゆみと涼介は9月6日のグランドハイアット福岡での初デート以来会っていなかった。しかしその後続いている二人のメール交換は、頻繁ではないが客観的には恋人同士そのものの間合いと内容があった。そう言う意味では今夜このタイミングで涼介がまゆみに連絡を取って置く事は、涼介の考えるまゆみとの今後の展開に必要な段取りだった。
涼介にとってまゆみの住む博多は遠かった。新幹線に乗れば20分の距離だったが、車を使えば高速道路を使っても1時間は掛かった。新幹線の最終が23時21分という時間も涼介には中途半端に思えていた。普通に考えれば恋人同士の間にある障害としては些細な事だった。しかし涼介はそんな他愛も無い外的要因だけで恋人との関係を等閑にしていた。
原因はエリカであり、マキの幻影であり、そんな自己都合を許す甘い性根だった。
涼介はまゆみとの初デート以降、意識的にまゆみとエリカを天秤に掛けていた。そしてその天秤は常にエリカの方へ傾く様に仕組まれ、当然明日の土曜日も明後日の日曜日も、まゆみの気持ちを配慮した行動計画よりも、エリカと過ごす週末を優先という計画の方が重い事は決まっていた。
「・・・・・」
涼介はバスルームの方を気にしながらまゆみにメールを送信した。
■メール送信済み■
会いに行くのはやっぱり週末なんだけど
明日も日曜も仕事でバタつくと思うから
27日じゃないと無理かもしんない
辛いけどさ
■まゆみ 2003/09/019 11:05■
■受信メール■
忙しいのね。
私の事キライになった?(^_^)
■まゆみ 2003/09/019 11:08■
まゆみからの返信は早かった。そして涼介の対応も早かった。それはエリカがシャワーから戻って来る前に自ら起こしたアクションを完結させなければならないとする妙な焦りにあった。そしてその焦りは今までまゆみに見せて来た涼介らしいクールさや切れ味には程遠い、ぬるい役者の下手な演技の様な文章を作らせていた。
■受信メール■
(^^)(^^)嫌いになった方がいいの?
今日は疲れちゃったσ(^^;)
もう寝ちゃってもいいかな?
明日TELするよ
おやすみ^^
■リョウスケ 2003/09/019 11:14■
「・・・・・」
まゆみはベッドから抜け出し部屋の明かりを点け、煌煌としたシーリングライトの下で涼介から届いた味気無い一方的なメールをずっと目で追っていた。
▽
9月12日の金曜日午後7時、まゆみと涼介は博多駅の新幹線改札口で待ち合わせをしていた。
当日午後3時過ぎ、まゆみの元に急な仕事が飛び込んで来ていた。そしてその仕事はデートの時間が迫るに従って忙しさを増していた。
まゆみは仕事で押し流される時間の合間に、泣き出したくなる気持ちを抑えながら何度も何度も現況の報告を涼介にメールで送信していた。
自分の仕事の性質上まゆみの事情が理解出来る涼介は、まゆみからの最終的な連絡を社内で待つ旨のメールを午後7時を少し過ぎた頃に返信していた。
まゆみも涼介も、予定通りならば二人で食事をしている金曜日の夜に予定外の仕事をこなしていた。
二人は待っていた。
約束の時間から2時間が過ぎた頃、まゆみはこれ以上涼介を待たせる訳にはいかない切実と、終る気配の無い仕事という現実の狭間で決断をした。
まゆみは断腸の思いで涼介にデートのキャンセルを伝えた。
電話越しでもはっきり分かる程、謝り続けるまゆみの声は涙に変わっていた。
涼介は明るく、そして優しく励ます事を忘れなかった。
その日の深夜、まゆみはぶつけ所の無いストレスを抱え込んだまま涼介とメールだけの会話を重ねていた。
涼介は穏やかに、どこまでも付き合っていた。
△
「・・・・・」
まゆみはベッドに座り、涼介から届いたメールをじっと見つめた後、ほんの何分か前に涼介へ送信した精一杯明るく振舞ったつもりのメールを読み返していた。
まゆみは必ず会えると信じていた今週末を待ち詫びていた。しかし今度は涼介の都合で週末のデートが流れ様としていた。
まゆみは9月12日にデートをキャンセルした日からずっと心を抉る様な不安に纏り憑かれ、心に充満する寂しさと切なさで食事が咽喉を通らない程涼介に想いを募らせていた。
(声が聞きたいのにな・・・)
まゆみは今、不意に涼介に電話を掛けても繋がらないだろうと思っていた。電話を掛ける勇気も無かった。何時もの様に繋がらない時の落胆だけではなく、怖さも湧き上がってた。知らなくてもいい事実が耳に飛び込んでくるかもしれない事実が存在している自身の立ち位置が怖かった。
涼介が今、何処で何をしているのか不安を抱えていても今のまゆみにはどうしようも出来なかった。故にまゆみはそんな事実を女性に突き付ける事が、涼介の恋人に対するスタンスなのだと強引に思い込もうとしていた。またそうしなければ涼介とは恋人同士という間柄で括れない現実を、至極冷静に見据えてしまいそうな自分が居た堪れなかった。
まゆみは二人の関係が良い雰囲気で続いている事を信じていた。しかし会える時間が余りにも少ない事実には悲観していた。
ある意味滑稽ではあったが、まゆみは涼介に対する揺れる想いの落とし所を抽象的で焦点のぼやけた洞察で強引に乗り切り、無理矢理気持ちを落ち着かせる事で何と無く大人の女性で在り続けようとしていた。そんなまゆみの恋愛に不慣れな所作は、過去の恋愛の中に居ただろう純粋で真面目な男性の行動を基準にしている事を象徴していた。
「・・・・・」
まゆみは携帯電話を枕元にある充電器に差し込み、部屋の明かりを消した。明日の土曜日は朝一番で大切な契約があった。まゆみは何時もより早く出社する手筈になっていた。
まゆみは今年の4月に独立開業したばかりの設計事務所の経理を任されていた。社員はまゆみと一級建築士が一人居るだけで、仕事の性質上休日を返上して経理以外の仕事をする事も多かった。
「・・・・・」
瞼を閉じる事が出来なかった。
まゆみの脳裏には涼介の声と顔が溢れ続けていた。
▽
まゆみが働く設計事務所の社長は鈴木周五郎という男だった。
以前勤めていた建設会社の同じ部署で、長い間直属の上司としてまゆみと一緒に仕事をしていたのが鈴木周五郎だった。畢竟〝俺の仕事を手伝ってくれ〟と口説き落とされ、まゆみは今の仕事に従事していた。
鈴木周五郎は独身だった。仕事の出来る、恰幅の良い、笑うと目が無くなる37歳の真面目な自信家だった。
鈴木周五郎は1月に長年勤めた会社に辞表を提出し、まゆみはその2ヵ月後に退社していた。
鈴木周五郎が在籍中画策した独立の為の根回しや取引先に便宜を図って貰おうとする強引なやり口は会社から反感を買い、部下達との軋轢を生んでいた。そんな鈴木周五郎を追う様に辞意を表したまゆみは、流れの中で何となく〝とばっちり〟という反感を買っていた。そして当然の様に二人の関係に好奇な噂が飛び交う事となっていた。
仲の良かった同僚達も妬みと共に後味の悪いゴシップを流していた。
まゆみは前の会社に新卒で入社して以来、ずっと上司で在り続けている鈴木周五郎の存在感に圧倒されていた時期があった。その時期はまゆみが女性としても社会人としても発展途上を自覚していた頃と重なっていた。結果としてまゆみは行き過ぎた尊敬の念と、男性であれば勘違いしていまいそうな無邪気な姿を鈴木周五郎に振り撒く事となっていた。
鈴木周五郎は素直で従順なまゆみを部下として評価するよりも女性として評価していた。そしてその評価に恋心を加え、将来を共にする女性だと思い込む事に時間を掛けなかった。
実際、まゆみと鈴木周五郎との間には体の関係があった。
まゆみは恋愛感情が最初に脳裏を過よぎらない男女の関係が鈴木周五郎との間で成立してしまった事に違和感を覚えていなかった。ある意味その事実は社内でまゆみに向けられていた誹謗や中傷を冷静に受け流す余裕を生んでいた。同時にまゆみは一つのきっかけで豹変する人間の姿に、自分らしく生きる事の難しさを痛感させられていた。
まゆみは社内の噂に苛立ちを覚える事無く会社を辞めていた。そして鈴木周五郎に付いて行く事が自身に取っては良い選択だったのだと納得していた。
送別会はささやかな物だった。寿退社ではなく、更にはまゆみに纏わる噂を鑑み、会社は最低限の儀礼だけで区切りを付ける事を選んでいた。
△
「・・・・・」
まゆみは眠れなかった。
切ない想いしか与えてくれない涼介に強く抱きしめられたいと願う心と、それは叶わぬ夢なのかもしれないと思う心の問答に苦しんでいた。そしてその苦しみは鈴木周五郎に対する態度を不明瞭にせざるを得ない哀しさを生み、涼介と出会う前までの様に戻しておきたいとする気持ちを浮き上がらせていた。「・・・・・」
まゆみは枕元にある携帯電話に手を伸ばして〝R〟という名で保存してあるメール送受信履歴のフォルダを開き、履歴を遡っていた。
結婚の為の恋愛ではない、ドラマのヒロインが燃える様な恋愛の末に享受する最高の結婚を夢見ているまゆみにとって、涼介はドラマの中に出て来る王子様だった。鈴木周五郎は現実を生き抜く為に必要な掛け捨ての保険の様な存在だった。
暗い部屋の中でまゆみの顔にだけ携帯電話の液晶画面が作る光が溢れていた。
まゆみはあらゆる項目で貪欲に二人を天秤に掛けながら〝R〟の履歴に浸っていた。それはある意味自分の立ち位置への陶酔でもあり、そんなまゆみの涼介とは異質の独善は、鈴木周五郎という保険を何時でも貯蓄型に替えられる様、心の手筈も整え終ろうとしていた。
(寝なきゃ・・・)
まゆみは〝おやすみ〟と涼介に今夜送信した最後のメールまで履歴を読み戻した後、充電器に携帯電話を差し込んだ。
まゆみは自分の恋心をある程度整理出来た満足感を顔に浮かべ、ベッドに深く体を沈み込ませた。
光の消え残る携帯電話のサブ画面は〝9月20日(土) 02:05〟と液晶を浮かび上がらせていた。
#創作大賞2024
#恋愛小説部門
#ぬるい恋愛
ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀
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