7 最初のデート 【小説】
〝トゥルルルルル・・・トゥルルルルル・・・〟
涼介は待ち合わせ場所に向かっているタクシーの中でまゆみに電話を掛けた。
「・・・もしもし・・・お疲れ・・・ごめんな・・・もう少しで着くから・・・了解・・・それじゃ」
涼介は8時の待ち合わせに30分程遅れそうだった。
〝ピッ〟
電話を切った後、まゆみは直ぐ目の前に迫った涼介との最初のデートに心臓の痛みを体中に響き渡らせていた。
「・・・・・」
まゆみはティラウンジのソファから立ち上がった。
グランドハイアット福岡のロビーは、まゆみが期待していた静けさと落ち着きを裏切る程の人で溢れ、ざわついていた。
まゆみと涼介の最初のデートは9月6日、土曜日の夜だった。
二人はセンスを試す様な、想像力を駆使させる様なメール交換を続けながらお互いを探りあい、写真を交換し、声を確かめ、想像力を落ち着かせ、リラックスし、会いたい気持ちとスケジュールを一致させるまでに2週間近く掛けていた。
「・・・・・」
キャナルシティを構成するグランドハイアット福岡を待ち合わせ場所に指定したのはまゆみだった。しかしまゆみはそのグランドハイアット福岡のアトリウムで自分の居場所を探しながら涼介を待っていた。
(あのままティラウンジに居れば良かったな・・・)
5分先の行動を決められないまゆみは、緊張と不安と、ある種不思議な孤独を感じながら行き交う男性をさり気なく目で追っていた。
▽
まゆみは待ち合わせ時間の10分程前に、グランドハイアットに向かうタクシーの中で涼介からのメールを受信していた。しかし容赦無なく迫り来る涼介との初対面に緊張で神経を高ぶらせていたまゆみは、そのメールをデートのキャンセルだと思い込み、開く事を躊躇っていた。
覚悟を決めたまゆみがタクシーを降りる前に開いたメールには〝30分ぐらい遅れるから〟という文字が刻まれてあった。
落胆に支配されつつあったまゆみの心は再び心地良い緊張感に包まれると共に、自分の独り善がりを苦笑いで片付けられる程、涼介からの〝遅刻メール〟はまゆみに落ち着きを取り戻させていた。そしてそのゆとりは、涼介が現れる時間が来る迄の間、ティラウンジのソファでアイスティという、最愛の彼氏との待ち合わせの一つとしてずっと憧れていた待ち方を選ばせていた。
まゆみはティラウンジを優しく囲むグランドハイアットの気品が好きだった。ティラウンジからは三階まで吹き抜けている上質な空間を間仕切まじきるガラスの壁越しに、色彩鮮かな甘いカクテルを放ち続けている様なキャナルの噴水が見えていた。まゆみはその噴水を緩やかな曲線のカラフルな壁で包み込んでいる、情緒を刺激するオペラの劇場の様な巨大な空間が好きだった。そしてその傍に架る洗練された石の橋から、グランドハイアットへ渡り来る最愛の彼氏を穏やかに見つめ続けながら待っている時の充実感を味わってみたいとずっと願っていた。
〝♪♪ガタガタガタ♪♪・・・♪♪ガタガタガタ♪♪・・・〟
まゆみは心に宿る幸福の形に浸っていた。実らせたい恋の輪郭が見えて来た時にだけ享受出来る至福の時間だった。しかしそんなまゆみのささやかな満足感に突然幕を引く様に、テーブルの上に置いてあった携帯電話は最小にしていた着信音の意味が無い程ガラス面を弾く音を強く響かせて遠慮なく震え始め、まゆみを一気に現実に引き戻していた。
反射的に携帯電話をテーブルから拾い上げたまゆみは画面を確認した後、暫く手の中で振動をそのままにしてしまっていた。
メールではない涼介の予期せぬ一撃はまゆみの膝の上で震え続け、まゆみの体を硬直させるには充分な威力があった。
気持ちを整理出来ないまま携帯電話の震えを止めたまゆみは、恋愛に心の準備や思惑は通用しない事を痛感していた。
まゆみは目の前の物が何も見えなくなる様な緊張に襲われていた。そして涼介と会話を交すまゆみの声は当然の様に震えていた。
まゆみは涼介との待ち合わせを取り巻く30分程の間に、何度も感情を乱高下させていた。その原因は全てまゆみの揺れる恋心にあった。
まゆみは大切な用事を思い出した人の様に慌てて席を立っていた。
テーブルの上に残されたアイスティはその量を殆ど変えず、グラスに汗を掻かいていた。
△
「どうも」
涼介はドライバーにそう答え、ビジネスセンタービルに店舗を構える福岡シティ銀行の前でタクシーを降りた。
まゆみに〝少し遅れるから〟というメールの送信から40分が過ぎていた。
▽
涼介がその日仕事を切り上げる事が出来たのは7時30分を回った頃だった。社内に残っている同僚に退社の挨拶をし、何時もなら会社が借り切っている七階フロアから地下一階の駐車場まで向かうエレベーターを一階で降りていた。
テナントビルのエントランスを出た時に見た腕時計は7時45分を指していたが涼介は落ち着いていた。まゆみへ送信する、待ち合わせに遅れる旨のメールを作りながら、取引先に商談にでも行く様な雰囲気で歩いて5分の距離にある小倉駅へと向かっていた。
在来線の改札を通り過ぎ、小倉駅北口にある新幹線の自動券売機に向き合うまでに涼介はメールを送信していた。その文面には慣れた足取りで立ち止まる事無く淡々と改札を抜け様とする涼介同様、感情の起伏などなかった。
涼介は小倉博多間を繋ぐ新幹線の概念が好きだった。時刻表を気にしなくてもいい発着本数や、その距離を20分で繋ぐ利便性だけでなく、その20分間という絶妙な間合いの中に在る独特な静けさが与えてくれる孤独や孤高が好きだった。
涼介は博多駅からグランドハイアットへ向かうタクシーの中で無造作にまゆみへ電話をしていた。
涼介は何分後かにまゆみと初対面するという現実を前にしても緊張感に包まれる事は無かった。まゆみの顔はメールで送信されて来ていた。会話もしていた。何よりも〝出会い系サイト〟での出会いに慣れている事実が大きく作用していた。しかしその慣れは恋愛に対する冒涜なのではないかと、心の何処かに居るもう一人の涼介からの問い掛けを生む事にもなっていた。
涼介には答えが出せなかった。しかし涼介はこの2週間、曲りなりにも恋をしていた。
△
タクシーを降りた涼介は福岡シティ銀行の脇からキャナルシティのメインアプローチを抜け、人で溢れているクリスタルキャニオンやスターバックスを横目で見ながら、緩やかな曲線で構成された通路を歩いていた。
通路にもカラフルな色を放つ噴水を眺める人が溢れていた。
「・・・・・」
涼介はグランドハイアットへ繋がる石の橋の前で歩く速度を緩めた。
石の橋の上も人で溢れていた。ガラスの向こうに映るペストリーブティックやバーも人で溢れていた。
「・・・・・」
涼介は銀色に重く鈍く光り構えるグランドハイアットの重厚なドアを視界に据えたまま、予期せぬ賑かなキャナルシティに気持ちを重く鈍く光らせながら橋に足を乗せ様としていた。
涼介は雑多や混雑に身を置く事が苦手だった。
(・・・土曜の夜のキャナルに来る事はもう無いな・・・)
涼介はまゆみとの最初のデートのドアを開ける前に心の中でそう呟つぶやいた。
ティラウンジでは落ち着いた物腰の人達が思い思いの時間を過ごしていた。
エレベーターの前では若いカップルが談笑していた。
フロントに掛けられた時計は8時35分を指していた。
音も無く閉まり行く重厚なドアを背に、涼介は洗練された空間を眺めていた。
アトリウムの中央は大理石の柱がシンボリックに聳えていた。
空気は乾いていた。
ゆっくりと歩き始めた涼介の視界には思い思いの場所へ歩く人達が映り込んでいた。
涼介は石柱の10m程手前で立ち止まっていた。
石柱を背にして俯く女性がまゆみなのは明らかだった。
涼介は初めて捉えたまゆみの全体像を受け入れていた。そしてまゆみと交した2週間分の会話が無駄ではなかった事に満足しながら、二人の間にある距離をゆっくりと縮め始めていた。
「どうも」
「!!・・・」
まゆみは突然体を貫いた声に驚いて振り向いた。
「・・・今晩は」
涼介は言葉の出て来ないまゆみに笑顔でそう挨拶を続けた。
「・・・涼介さん!」
息が届く距離に写真のままの涼介が居る事に膝を震わせていたまゆみは、瞳に涼介を大写しにしたまま思わず叫んだ。
「初めまして」
涼介は笑顔のままそう言った。
「涼介さん・・・」
「ごめん、遅れたね」
涼介はまゆみを驚かせた事を察し、爽やかな声で少し戯けた表情を作った。
「・・・・・」
まゆみは近過ぎる涼介との距離に痛む胸も視線も普通に戻せないまま涼介を見つめ続け、挨拶をする事すら出来ないでいた。
「ごめんな」
涼介はもう一度謝った。しかし今度は真摯な態度で心を届けた。
「・・・・・」
まゆみは涼介の視線から逃れる様に少し俯いた。
「・・・初めまして」
涼介は俯いたまゆみを茶目っ気たっぷりに覗き見上げ、再び戯けた感じでそう言った。
「・・・初めまして・・・」
まゆみは涼介の仕草に、やっと笑顔で答えた。
「どうも」
「・・・来ないかと・・・思っちゃった・・・」
まゆみの表情には柔らかさが戻っていた。
「来るさ」
「お腹空いてる、よね?」
「・・・うん」
二人は初めて会った場所で少しの間言葉を交わした後、肩を並べてアトリウムを歩き始めていた。
「何処に行く?」
「じゃぁ・・・私に任せてくれる?」
涼介が見せる気遣いや気さくな振る舞いは、まゆみに普段通りに喋る勇気を与えていた。
「了解」
涼介はまゆみに対する期待に顔を綻ばせていた。
「ありがと」
まゆみは照れながら顔を綻ばせていた。
まゆみは涼介の第一印象が幾ら良くても、最初のデートで見せる涼介の一挙手一投足を注意深く観察しようと心に決めていた。しかしその動機は涼介との恋愛を受け入れる事を出発点とした、結果に因って結論を変える事のない、ある意味不謹慎な優越感に浸りたいと願う心に端を発していた。
涼介は曲りなりにも恋をしていたまゆみとの2週間と、目の前に居る〝まゆみ〟という女性の現在を重ね合わせていた。
「美味しいよね、ここの料理」
まゆみは目の前に居る涼介が期待を裏切る人ではないと思い込んでいた。
「そうだね」
涼介の心はときめきを欲しがっていた。まゆみが持つ得体の知れない創造的な何かに因って自身の五感が刺激され、その何かが第六感に伝達される事実を欲しがっていた。
「此処、よく使うの?」
「ううん、一度だけ来た事があるの」
まゆみは心で育てていた幸せのイメージ通り〝アロマーズ〟に涼介を誘ない、キャナルから吹き上がる噴水に手が届きそうな席で店内に背を向けていた。
「そう」
「・・・ね、ワインは何時も白なの?」
「そうだね・・・嫌いだった?」
「ううん、そうじゃないけど・・・お肉いっぱい頼んじゃったから」
「なるほど」
「ね、涼介さんは博多によく来るの?」
「さんは止めようよ」
「そう?・・・でも・・・」
「初対面じゃないんだし」
「えっ?・・・」
「そんな感じだって事さ」
涼介はそう言って笑顔を投げた。
「んーと、じゃぁ・・・涼介」
まゆみはそう呼べる事の嬉しさを顔に滲ませていた。
「・・・・・」
涼介は笑顔を作っていた。
「・・・あっ、そうそう、さっきの質問。答え聞いてないっ!」
「ん? 何だったっけ・・・僕があなたの事好きかって事?」
「えっ? もう!・・・」
「好きだよ」
「もう・・・」
天井が高く開放感のある店内に心地良く流れている気品や、センスが薫る料理は二人の会話に明るいリズムを与えていた。
「ごめんごめん、よく来るよ、博多にも支店があるからね。でも此処のレストランは来た事無かったなぁ、キャナルには取引先があるからグランドハイアット結構使うんだけどね」
「そうなんだ・・・」
まゆみは笑顔だった。
「他にも沢山いい店知ってそうだね」
「そんな事ないよ・・・」
まゆみは微笑みを心から滲ませながら明るく否定した。
「・・・・・」
涼介はまゆみを見つめていた。
「?・・・」
まゆみは涼介が見つめる理由を目で問い掛けた。
「髪、綺麗だよね」
「えっ!本当!?・・・ありがと・・・」
滲ませ続けている微笑の上に、まゆみは嬉しさを溢していた。
まゆみは涼介をクールな自信家だと思っていた。メールや電話で話す涼介には会話の切り出し方も物事の考え方もある種嫌いで否定したい部分を感じていた。しかしまゆみは今夜涼介が見せている人懐っこい一面や聡明な立ち居振る舞いに、心の隅にずっと忍ばせ続けるつもりでいた涼介への猜疑心を好奇心に変えようとしていた。
涼介はまゆみに悟られないギリギリの所で気を使っていた。時に大胆に時に謙虚に、そして時折り自分の出来の悪い部分を晒す事でまゆみに付け入る隙を与えていた。
涼介は明らかに二人の空間を演出していた。それは涼介が描く今後の展開に必要な作業でもあった。
「出ようか」
涼介はまゆみを生涯忘れられないだろう女性と比較していた。
「うん」
まゆみの恋心は、涼介と過去の男性との比較に因って具体的になろうとしていた。
「ご馳走様でした」
アトリウムで待っていたまゆみは、レストランから出て来た涼介に丁寧にお礼を言った。
「美味しかったね」
涼介はまゆみに対するお礼を、そう表現した。
「うん」
まゆみの笑顔に曇りはなかった。そしてその笑顔は2時間程前に見せていた涼介への笑顔とは明らかに違っていた。
グランドハイアットを出た二人はキャナルシティの噴水が連なるスターコートを左に見ながらゆっくりと歩いていた。
まゆみは涼介を左肩に感じつつ、一緒に歩いて欲しいと思っていた。
涼介はまゆみの少しだけ後ろを歩きながら、さり気なくまゆみを観察していた。
まゆみのナチュラルカールは黒く、その毛先にフェミナリティを漂わせ、白いカットソーの首元に光るシルバーのネックレスを包み込む様に揺らしていた。指輪は無かった。左腕にはエレガントなドレスウォッチが光り、ストレッチパンツとスクエア・トゥのパンプスは黒く、バッグはLouis Vuittonだった。
(・・・絶対負けないのにな・・・)
まゆみはキャナルを彩いろどる噴水や中庭で身を寄せ合うカップル達に触発された様に心の中でそう呟き、思い切って涼介に寄り添った。
「・・・・・」
涼介の腕を掴んだまゆみは中庭の主役を勝ち取れると直感していた。
「キスしようか」
掴んだ右腕をさり気なく組み終え、もっと強く身よ寄せようと首を少し振って髪の流れを整えた矢先、その声がまゆみを捉えた。
「えっ!!」
涼介の不意打ちは明らかにまゆみを慌てさせていた。
「キスしようよ」
涼介は足を止める事も、まゆみの方を見る事も無くもう一度誘った。
「・・・こんな・・・所で?・・・」
まゆみは複雑な心で、歩き続けている涼介の右肩にそう言った。
「・・・そうだよ」
涼介は立ち止まり、そう言った後まゆみの顔を見た。
「・・・だって・・・」
まゆみは食事中から涼介とのキスを思い描いていた。しかしまゆみの台本ではキャナルシティの中庭は涼介に凭れ掛かかり、優越感に浸ひたりながら綺麗に立ち去る場所だった。
「だって・・・何?」
涼介の優しい声は少し意地悪だった。
「えっ・・・だって・・・此処で?」
涼介を深く見つめているまゆみはキスを拒否をしている訳ではなかった。出会ったその日の甘いキスは当然想定していた。しかし涼介を見つめるまゆみの瞳は、今夜二度も不意を打った涼介に対するささやかな抵抗と、この状況だからこそ涼介の心を鷲掴みにしてしまえる筈の、可愛い仕草や素敵な言葉を探し出せない自身の未熟さに落胆する心の内を覗のぞかせていた。
「じゃ、止めとこう」
涼介はそう言って、まゆみから視線を離した。
「・・・・・」
まゆみは涼介を見つめ続けていた。
噴水を照らす甘く優しい照明とグランドハイアットの客室に灯る甘く切ない光が、ほろ苦い艶をまゆみの瞳に与えていた。
(えっ!!)
まゆみは一瞬の出来事に慌あわてた。
揺れる心を涼介に伝える前に唇を攫われていた。
涼介は心地良い香りが通り過ぎる様な優しいキスを贈っていた。
まゆみは身を任せていた。
香りに攫われる様なキスの後、涼介は更に意表を突いていた。
その呼吸や所作は情緒ではなく情熱だった。
身を任せる事にまゆみが焦りを感じる程、より強く、深く、長いキスだった。
観念したまゆみは溶け落ちそうな羞恥心を涼介に預けていた。
まゆみは自身の恋愛観と涼介のそれとは幾重も違う次元の物なのだと、絡み合う唇から認識させられていた。
周りの目を気にしない涼介のキスは、まゆみの願い以上に二人を中庭の主役にしていた。
「・・・・・」
まゆみは胸の鼓動が痛いと感じていた。そして乱れた呼吸を元に戻す為に、歩きながら大きな息を夜空に向かって何度か吐き出した。
頭上には、二人に覆い被さる様な建物の僅かな隙間から月が見えていた。
中庭に佇む人達は、まゆみと涼介に好奇の目を向けていた。
まゆみは涼介に絡まり、隠れる様に歩きたいと思っていた。
涼介はまゆみが手を伸ばしても届かない位置に背中を置いていた。
まゆみは普通に歩き続ける涼介の背中に追い付く事も、喋り掛ける事も出来ないまま、少し顔を赤らめて涼介の後を追っていた。
「博多駅までお願いします」
キャナルシティを出た涼介の歩き方や行動には迷いが無かった。そしてその淡々とした行動の答えは乗り込んだタクシーの中でドライバーに告げる形としてまゆみに伝わる事となっていた。
「・・・最終、間に合うよね?」
キス以来まゆみが涼介に語り掛けた最初の言葉は、甘い余韻に浸れる会話を望んでいた自身の心とは裏腹の、涼介の〝博多駅〟という言葉に反応してしまった、愚にも付つかない問い掛けだった。
「全然大丈夫だよ」
涼介は左を向き、笑顔を投げた。
(もう、何であんな事言っちゃったんだろう・・・)
まゆみには涼介の瞳が甘え方を知らない不甲斐無い自分を責めている様に見えていた。
(何か喋しゃべんなきゃ・・・)
まゆみは涼介の落ち着いた雰囲気に焦っていた。
「・・・あの・・・(えっ!!)・・・」
場の空気を変え様と喋り始めたまゆみの唇を涼介は静かに塞いだ。
まゆみの心はキャナルシティの中庭で交したキスの時とは違った意味で複雑に揺れていた。
まゆみはタクシーの中でキスをされながら、今夜涼介にはもっと他愛ない会話をして欲しかったと思っていた。涼介の優しい笑顔や茶目っ気がもっと欲しかったと思っていた。
まゆみは強く長いキスを再び受ける事に因って心の秩序を乱していた。そして涼介に対する自分のちっぽけな望みなど、まったく無意味で味気ないものだったのだと思う程体温を上げ、体中を汗ばませていた。
まゆみは熱く火照る体から、自意識とは掛け離れた部分で涼介のキスに熱く答えている事を思い知らされていた。
「・・・長過ぎたかい?」
「・・・・・」
まゆみは艶やかな瞳で涼介を見つめ、押し黙っていた。
タクシーの中のキスで涼介は今夜まゆみに三度不意を打っていた。その事実は、まゆみが涼介という男性を深く知るまで心の中に張り巡らせておきたかった最後の防護壁を着実に解かし始めていた。
「・・・・・」
博多駅がもう少し遠くにあって欲しいとまゆみは思っていた。そして熱く火照った心と体を元に戻せないまま、タクシーの中で涼介が創る沈黙に従っていた。
まゆみは足を組んでシートに深く凭れて街を眺めている涼介を〝ずるい〟と思っていた。同時に心を掻き乱し続ける涼介から放って置かれる事に快感を探し始めていた。
「・・・・・」
まゆみは我慢し切れず涼介の横顔を見つめ続けていた。
涼介の横顔がまゆみの瞳に上品に映っていた。無理をして演出している風でもなく、玩んでいる風にもまゆみの瞳には映っていなかった。サーモンピンクのシャツの首元をラフに開き、外したネクタイをスーツの胸ポケットに無造作に突っ込んでいる明らかに気障な姿は、逆にまゆみの心に強烈な独占欲を湧わかせていた。
まゆみは今日のデートで見続けて来た涼介の一挙手一投足をスタイリッシュという前向きなイメージで括ろうとしていた。それは一気に恋に落ちてもいいとする心が導き出した、ある意味二人の今後に覚悟を決めた結論でもあった。
「今日は有難う」
涼介はまゆみに対する感謝の言葉で沈黙を解いた。
フロントガラスの先に博多駅が見えていた。
穏やかな涼介の声に、まゆみの体は切なく締め付けられていた。
「こちらこそ・・・」
まゆみの声は消え入りそうだった。
「本当は自宅近くまで送りたかったんだけど・・・さ」
「ううん、いいの・・・最終間に合うの?」
「大丈夫だよ」
「新幹線?」
「そうだよ・・・唐人町だったっけ?」
「うん」
「運転手さん、この後唐人町ま・・・」
「ううん、いいの、私も此処で降りる」
まゆみは涼介の言葉をそう遮った。
「・・・・・」
涼介は何も喋らず、目でも喋らなかった。
「じゃね・・・気を付けて帰んなよ」
「涼介も気を付けて帰ってね」
二人の最初のデートが新幹線の改札の前で終わろうとしていた。
涼介は11時21分の終電5分前に改札を抜け、歩きながら振り向き、まゆみに軽く手を上げた。
笑顔で手を振り返えすまゆみの胸には、張り裂けそうな程涼介が溢れていた。
まゆみは背を向けた涼介を目で追っていた。
涼介は階段を昇っていた。
まゆみは小さくなる涼介の背中をずっと目で追っていた。
離れていく二人の距離に漂う空気は紛れもなく恋人同士の重さを含んでいた。
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ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀