19 優越の崩壊 【小説】
涼介がステージに上がり同僚や部下の前で歌うのは小倉支店に配属された年の歓迎会以来だった。
カラオケボックスの中は涼介が歌う姿を久し振りに見た部下達のピーキーな反応で盛り上がっていた。そしてその喧騒は選曲リモコンを叩く部下達を更にエゴイスティックにさせていた。
「どうもっ!!」
歌い終わった涼介は自分に向けられている歓声や奇声に負けないぐらいのテンションで笑顔を振り撒まき、この場所に集う仲間の期待が心地良く収まる自分の座る場所はここなんだという結論を、場数を踏んでいるぬるい男が晒しがちな少し大仰な雰囲気を醸しながらベンチシートの前を横歩きし、恭子の隣に座った。
「課長代理、歌上手いんですね」
恭子は涼介の歌を初めて聴いていた。
「そう?・・・」
涼介は恭子の前に置いてあったロンググラスを手に取り、喉に流し込んだ。
「・・・昔、結構歌ってたんでしょ?」
恭子は底を見せない涼介の行動にときめき、その器の形や大きさに更なる興味を募らせていた。
「そうだね、ナンパしちゃぁカラオケ行ってたからね・・・美味しいね、これ」「・・・そうなんだ」
「それで強引に口説いてホテルだよ」
涼介が上げたカラオケボックスの中のボルテージは、二人に顔を寄せて話させる程になっていた。
「遊んでたんですね」
「お、ありがと」
涼介はその問いを拾わず、飲んでいた自分のグラスを気を利かせて持って来てくれた部下にそう会釈した。
「・・・・・」
恭子は喜んでいた。涼介が自分の隣に座ってくれた事に心を踊らせていた。「・・・岡部、大手町用の備品リスト有難う」
場の流れには全く関係のない涼介のその一撃は威力があった。
「えっ!!・・・いえ、とんでもないです」
恭子は自分の顔が急激に紅潮して行く事を感じ、踊らせた自分の心に在る〝乙女のはにかみ〟が、更に如実に上書きさせられた事を感じていた。
「助かったよ」
「・・・・・」
突然切り出された涼介からの感謝は、恭子の恋心を強く刺激していた。
「広山にも岡部ぐらいの切れがあれば言う事無しなんだけどな」
涼介はマイクを片手にはしゃぐ広山に微笑を向けていた。
「・・・課長代理はもっと部下に仕事を押し付けてもいいと思います」
「そうかな?」
「だって・・頑張り過ぎだもん」
「・・・そう?」
「だって・・・でなきゃ今日だって・・・親睦会、まだ遅れて来てたと思うし・・・」
恭子は上司と部下の関係ではない潤だ瞳を涼介に向けていた。
カラオケボックスの中は盛り上がっていた。
恭子は涼介にぴったりと寄り添い、涼介はそれを許していた。
「・・・岡部、歌えよっ!」
ネクタイを緩め、ステージで歌っていた広山が間奏中にマイクを通してそう言った。
「えーっ、私はいいです」
恭子は大きな身振りを交えて断った。
「歌えば?」
恭子と会話を重ねていた涼介は広山の振りを拾った。
「えっ、いいです、今日は」
耳元で囁かれた涼介の言葉に岡部は恥ずかしそうに小さく断った。
「歌えよ岡部っ!」
「・・・・・」
サビが始まる前に再び広山に叫ばれた恭子は無言で断りのゼスチャーを見せた。
「・・・そっか・・・じゃ、俺は行くから」
「えっ!?」
涼介を独り占めしている事に優越を感じ、この先も独り占め出来ると確信し始めていた恭子は、耳元にキスをされるかの様な穏やかな素振りと距離でそう囁かれた事に驚いた。
(代理は私のメール見てないのかな・・・)
親睦会の日時が決定して以降この日の事を強かに考えていた恭子は、二人の時間を作れるだろう二次会の数十分間を、涼介の心を完全に自分へ向かせる為に必要な、非常に大切な空間として捉えていた。
「岡部、何時もと同じ様に今日も抜けるけど、その後の事はないんだ」
黙っている恭子に涼介はそう付け加えた。
「・・・・・」
恭子は涼介のその一言で、親睦会中に送信したメールを涼介が見た上で退散の意思を突き付けている事実を理解した。
「・・・・・」
涼介は恭子が口にする言葉を待っていた。
「・・・またぁ、どうしたんですか? いきなり」
恭子は局面を打開する為に焦燥と混乱をおくびにも出さず明るく振る舞った。
「約束があるんだ」
涼介は二次会に入る前の路上で、エリカにメールを送信した時の気持ちを思い起こしながらそう言った。
「約束?」
恭子はこのままの状況で時間が経過する程、自分が救われない女になってしまいそうな事実を脳裏に過ぎらせた。
「そう、約束があるんだ」
「約束って・・・女性ですか?」
辛うじて笑顔を作れていた恭子は状況を覆えす為の時間を稼ごうと画策した。
「・・・・・」
涼介は黙ったまま頷いた。
「・・・その女性って、ここに入る前に課長代理がメールしてた人ですか?」
「・・・・・」
涼介はもう一度黙ったまま頷いた。
「・・・・・」
恭子は消え行き始めた笑顔を作り直さなければとする焦りよりも、涼介が二次会前の路上でメールをしていた相手にどうすれば勝てるのか、どんな態度を見せれば涼介の気持ちを逡巡させる事が出来るのかを焦っていた。そして同時に恭子は自身のプライドも守らなければならなかった。
「・・・でもそ・・」
「岡部、俺達は何も始まってないし、始まる事もないんだ」
涼介は恭子の言葉を止めた。
喧騒の続くカラオケボックスの同僚達は恭子の策略通り、愛を語り合っている様に見える二人に無関心を装っていた。
「・・・・・」
恭子はじっと涼介を見つめ、開き直りに限りなく近い感情を心に溜めていた。
「じゃ、俺は行くから」
涼介はそう言って立ち上がろうとした。
「あのセックスは何だったんですか?」
恭子は冷めた少し大きな声で涼介の動きを止めた。
二人の間には広山の歌声が乱舞していた。そしてその乱舞を盛り上げる仲間は聞こえる筈のない二人の会話に聞き耳を全開に立てていた。
「何も始まってないし、始まる事のない人に佐久間涼介っていう人間はそんな事が出来るんですか?」
恭子は体を更に涼介に寄せてそう言った。
涼介は恭子を間近で見つめさせられていた。
「・・・課長代理は始まる事のない人にでも・・・その気にさせる様な優しさを見せられるんですか?・・・」
恭子は直情を吐き出す事を瞬間的に避けた。しかし感情を咄嗟に押し殺した選択は、詰め寄る言葉に凛然とした哀愁を漂わせる事になっていた。
「・・・・・」
涼介は黙っていた。
「・・・黙ってるのはずるいです」
恭子のその言葉には、振り向かせるべき男性をずっと振り向かせて来た意地と、涼介が今から会いに行こうとしている女性に自分が負けている訳がないと思うプライドが込められていた。
「・・・・・」
恭子を見つめる涼介の目には、あからさまにされた自身のぬるさを素直に認める心苦しさが浮かんでいた。
「・・・・・」
恭子は同僚達の視線を感じていた。しかし眼差しで涼介を責める事は止めなかった。
「岡部・・・ごめんな」
「課長代・・・」
涼介は喋ろうとする恭子の左肩を押さえた。
「・・・岡部が俺に望んでいる関係は、こんな形からは生まれないと思うんだ。それは岡部も気付いてる筈だよ」
涼介は恭子に優しく語り掛けた。
「・・・恋する事に形ってあるんですか?」
「形は結果論であって欲しいな」
「だったら私との・・・」
「岡部っ!何か歌えよ!!」
「歌えってさ、岡部っ!」
酔いが回っているだろう男子社員達の声が突然二人の会話に割り込んで来た。歌い終わっていた広山の声もその後に続いていた。
「!!・・・えーっ・・・」
優越という崩れ去る寸前の雛壇の上で、涼介との関係を仕切り直す為のあらゆる手段を探しつつも途方に暮れ掛けていた恭子は、その声に自分が救われ様としている事を直感し、振り向いて照れ笑いを浮かべた。
「・・・・・」
涼介はゆっくりと立ち上がりながら、その声が引き分けを告げた審判の声に思えていた。
カラオケボックスの中は一頻り騒いだ後の雑談の時間が訪れていた。
恭子は声を掛けて来た男性社員達と何か喋っていた。
「領収書は貰わなくていいから」
涼介は二次会の費用を渡す為にステージの近くに座っていた広山の隣に行き、このままトイレに行く体でそのまま帰る事を耳打ちしていた。
イントロが流れ始めていた。
岡部はステージには立たず、座ったままマイクを握っていた。
涼介は広山の肩をポンと軽く叩き、恭子に笑顔を向けて軽く会釈した。
歌い始めていた恭子は涼介を引き止めたいとする感情を抑え、見つめる瞳に愛しさを込めた。
同僚達は恭子の歌を盛り上げていた。
恭子は然りげ無くカラオケボックスから出て行こうとしている涼介を見つめていた。そしてそんな恭子の仕草は、ある意味恭子の思惑通り、同僚達に二人の関係が前向きに進んでいる事を印象付けていた。
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ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀