重光葵の亡霊――石破「ハドソン論考」を読み解く
これは、鳩山一郎内閣の外相だった重光葵が1955年に訪米した際、アイゼンハワー政権のダレス国務長官と会談した際のやり取りだ。国際政治学者、坂元一哉が『日米同盟の絆 ―― 安保条約と相互性の模索』(岩波書店、2000年)の中で詳細を描写し、広く知られるようになった。
重光はこの時、52年に発効した「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)」の改定を打診した。日本に米軍の駐留受け入れを義務付けるだけだった旧安保条約を、お互いに守り、守られる「相互防衛条約」に切り替えようと図ったのである。
日本の敗戦から約80年、重光の訪米から約70年。石破茂首相は就任直前、米保守系シンクタンク「ハドソン研究所」に寄せた論考で、日本を米国と「対等な国」にすることを自らの政権の使命にすると表明した。「平等」の実現を悲願とした重光の亡霊が一瞬、蘇った感がある。
不正義の解消
石破氏の3000字に満たない短い論考は、必ずしも体系的に整理された内容とは言い難い。そこでまず、論考を再構成し、各政策を実現する筋道を考えてみたい。
石破氏が論考中で掲げた政策は次の通りである。
まず注意を引くのが、改憲の前に「国家安全保障基本法」を制定する、としている点だ。
国家安全保障基本法は、集団的自衛権の行使を法的に担保する内容である。
ただし、ここで言う集団的自衛権とは、第2次安倍晋三政権が「限定的」に行使を認めたそれとは異なる。日本が存続の危機に陥る蓋然性の有無とは無関係に、自衛隊によって他国を守る「他衛」の意味での集団的自衛権、本来の意味での集団的自衛権である。
憲法解釈の変更によって、平和安全法制で認められているより広い範囲で集団的自衛権の行使容認に踏み切る。そうしてハードルが極めて高い改憲はひとまず棚に上げておいて、国家安全保障基本法を制定する、という考えだ。
改憲と国家安全保障基本法制定の順序に関する是非はさておき、本来の意味での集団的自衛権の行使解禁は、日米安保条約と日米地位協定の改定、在日米軍基地の共同管理を実行に移すための条件となり得るので、一連の政策の中でも最も重要だ。
石破氏が論考中で指摘する通り、現日米安保条約は、米国に対日防衛義務を、日本に米軍への基地提供義務をそれぞれ課している。「物(基地)と人(軍隊)との協力」と称されるゆえんだ。
つまり、日米安保条約は、日米にともに義務を課している点では双務的だが、その内容は異なる。「非対称双務」条約なのである。石破氏の議論の肝は、この「非対称性」を解消し、「対等な国」同士の関係を築こうと訴えている点にある。
石破氏が問題視するのは、米軍への施設提供に絡み、日米地位協定によって、日本国内の米軍施設や駐留米兵に対する日本の主権行使が事実上、制限されている、という事実であろう。日本国内にあるにもかかわらず、米軍施設に日本の当局は自由に立ち入れず、犯罪を犯した米兵に対する裁判権も制約されている。
こうした限界――不正義と捉える国民も多いだろうが――を解消する方策が、日本も米国を無条件で守ることができるように集団的自衛権の行使要件を緩和ないしは撤廃して対等の地位を築き、その後に現日米安保条約の中のお互いの義務を対称的内容に書き換えることだ。同時に地位協定を改定するのである。
自衛隊のグアム駐留は、これを実現する補助線として提起したものだろう。米国に駐留する自衛隊の地位を定めるなら、日本に駐留する米軍の地位と同じでなければならない、従って協定を改定する必要が生じる、という理屈である。
在日米軍基地の共同管理は、その延長だ。日米対等になったと言うなら、日本国内の米軍施設の管理に日本政府が主体として関わっていこうではないか、ということだ。
アジア版NATOも、本来の意味での集団的自衛権の行使解禁を前提とした議論となる。
石破氏は論考で、アジア版NATOの目的について、中国を「抑止」するためと説明している。となれば、アジア版NATOの核は、中国の攻撃を受けた加盟国を、日本を含む他の加盟国が共同で防衛するという条項でなければならない。集団的自衛権に基づく集団防衛を定めた、北大西洋条約第5条に相当する条項なくして、アジア版NATOは抑止力として機能しない。
米国との核共有と核の持ち込み容認は、あくまでアジア版NATOの枠組みにおいて、という話だ。中国を主に念頭に置いた議論であろう。
中国は、今年9月に大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射試験を行ったことからも分かるように、米本土を攻撃可能な核戦力の増強を進めている。2035年には1500発の核弾頭を保有するに至るとみられている。米本土の大都市やICBMサイロなどを脅かすのに十分な核戦力を備えた中国が、インド太平洋地域で侵略の挙に出ようとした場合、米国は自国の都市が核攻撃を受ける危険を冒してどこまで「他衛」をまっとうするだろうか。
石破氏が検討すべきだとする核共有や核持ち込みは、こうした疑念を軽減するため、日本を含む中国により近い地域のどこかに米国の核兵器を配備し、共同で運用する、ということだろう。日本の自立や主体性の回復といった思想・信条に深く根差したテーマというより、予想される危険を見越した処方箋と見なす方が自然だ。
日本政府は核保有について、憲法上、禁じられているとの立場を取っているわけではない。核持ち込みとともに、非核三原則という政策に基づき認めないとしているだけだ。内閣の決定として政策を変更すれば、核共有・持ち込みの容認は可能だ。
ただし、核共有・持ち込みは、国内法上は核の平和利用を定めた原子力基本法、国際法上も非核保有国の核開発・保有を禁じた核拡散防止条約(NPT)に、それぞれ違反する可能性が出てくる。
米中間の核戦力の現状と将来、核共有の是非に関しては、専門的議論が既に活発化しており、核共有の有効・実現可能性に疑義を呈する見解が大半であるように思う。ここでは石破氏が、米国の拡大抑止の信頼性低下に対処するという政策上の必要から、核共有・持ち込みを提起したのではないか、ということだけ指摘しておきたい。
芦田の「有事駐留」と日米共同管理
石破氏は論考の後半で、「『戦後政治の総決算』として米英同盟なみの『対等な国』として日米同盟を強化し、地域の安全保障に貢献することを目指す」とうたった。そして「そのためには日本は独自の軍事戦略を持ち、米国と対等に戦略と戦術を自らの意思で共有できるまで、安全保障面での独立が必要である」と説いた。
冒頭に記したように、こうした姿勢は、実質的に「駐軍協定」だった旧日米安保条約を「不平等条約」と見なし、「相互主義を基礎とする対等者間の同盟」に切り替えようとダレスに訴えた重光と同じである。
事実、石破氏自身も、重光・ダレス会談に繰り返し言及している。例えば、第2次安倍政権の地方創生担当相だった2016年5月、ワシントンで開かれた米国笹川平和財団のシンポジウムでは、次にように紹介した。
この講演では石破氏は、「われわれ自由民主党は野党時代に、憲法改正によることなく集団的自衛権の行使は可能である、集団的自衛権の行使の在り方は安全保障基本法を成立させることによって定められる、とそのようにしていた」と語った。安倍政権の閣僚の立場にあってなお、改憲ではなく、解釈変更による集団的自衛権の全面的な行使容認を志向していた一つの証左であろう。
ここではさらに、重光に加え、戦前・戦中に「リベラリスト」と呼ばれ軍部から迫害を受けた芦田均と、「保守リベラル」を自称する石破氏の近似性も指摘しておきたい。
芦田は重光と同期入省の元外交官であり、戦後政界では、改進党総裁に重光を推した。50年代には「再軍備派の頭目」と呼ばれ、伝統的ナショナリズムに転向したとも言われた政治家である。
その芦田は再軍備に関し次のように主張した。
芦田が米国依存の国防は「民族の屈辱」だと憤っているのに対し、石破氏は、米国が日本を防衛する代わりに日本が基地を提供する現在の日米安保体制下で、「日本は独立国とはいえない」と強調する。
芦田を巡ってはまた、片山哲内閣の外相だった芦田の下で47年に作成された「芦田書簡」の存在と、憲法作成過程における「芦田修正」に触れておく。
芦田書簡は、独立回復後の日本の安全保障の確保に関し、占領軍ナンバー2のアイケルバーガー米第8軍司令官に送った書簡である。米軍は平時には日本国外(沖縄、小笠原、硫黄島))に常駐し、「日本の独立が脅威せらるるような場合」に日本本土に進駐する、日本政府はそのための基地を国内に整備する、という構想だった。
石破氏がこうした「有事駐留論」をどこまで意識しているかは定かではない。ただ、対等の日米同盟と在日米軍基地の日米共同管理を期するということと、米軍の有事駐留とは親和性が高い。
芦田修正とは、46年に衆議院憲法改正小委員会の委員長だった芦田による憲法9条2項への文言挿入を指す。平たく言えば、これにより第9条について「自衛のためなら何でもできる」と解釈できる余地が生じた。
当然、この「芦田修正論」によれば、集団的自衛権の行使にも何ら制約はない。日本政府は一貫して芦田修正論に基づく憲法解釈を否定してきたが、石破氏は過去に「難点はあるものの魅力的」だと評している。
「吉田路線」からの転換
日本の安保・防衛政策は、サンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約に調印した吉田茂が採用した路線に沿って展開してきた。この「吉田路線」の内容は、経済発展を重視し防衛費の急増を抑え、「物と人との協力」の下で日本防衛を主に米軍に依存する、というものだ。
「反吉田」勢力であった重光らが訴えた「対米対等・対米自立論」も、米国との同盟や協調を否定したわけではない。あくまで日米安保体制が内包する同盟構造の非対称性に異を唱えたものだ。
しかし、重光訪米の5年後に実現した安保改定では、日本の基地提供義務に対応する形で米国の対日防衛義務を明記して、「双務性」を確保するにとどまった。吉田が原型をつくった日米安保体制の非対称性は、現安保条約が発効したことで固定化したのである。
その後の池田勇人政権は「所得倍増計画」を掲げ、経済が日本の政治の最大の焦点となっていく。軽武装・経済重視の「吉田路線」が定着し、国家の自主独立という重光や芦田が重視したテーマは、後景に追いやられた。日米安保条約と憲法9条を基盤とする日本の安保・防衛政策の枠組みは、2015年の平和安全法制の整備や、反撃能力の獲得を打ち出した22年の安保関連3文書の決定を経ても、変わっていない。
こうした日本の政策は、二重の意味で異常である。
まず、他国に安全保障の要の部分を依存しているという実態がある。
そして、こうした政策に基づき、日本は60年代後半以降、防衛費を2022年度までおおむね国民総生産(GNP)比でおおむね1%前後という低い水準に抑えて経済成長を遂げ、敗戦国でありながら世界第3位の経済規模を誇る富裕国となった。常識外れの政策が、世界史上でもまれな成功を収めたのである。
この異例の政策がもたらした歪みは、これからも存続し、場合によっては拡大していくだろう。
沖縄の怒りを招き続けている基地問題は、米軍の常時駐留が廃止されるまで根本的解決を見ない。日本からの米軍全面撤退とまで言わずとも、5万5000人もの将兵を抱える在日米軍が各地に基地を構えている現状を変えなければ、住民との軋轢が減ることはない。
さらに、日本を取り巻く安保環境は悪化の一途をたどっており、米国で共和党、民主党のどちらが政権を握ろうと、日本が自前の防衛力を強化する方向性は変わらないだろう。
日本は西方で中国の軍拡と北朝鮮の威嚇に直面し、北方ではロシアの動向に目を離せない。沖縄県・尖閣諸島に対する中国の領有権主張は、日本の領土が戦後初めて直接的脅威にさらされていることを意味する。
日本が自助に努めているのに、米国との関係は「不平等」のままでいいのか。米軍に過度に依存し、米政府の顔色を窺わざるを得ない実状のままでいいのか。こうした疑問は全く正当である。
一方で、「不平等の甘受」という代償を払って享受してきた現行の日米安保体制の恩恵もまた、大きい。軽武装・経済重視の吉田路線に基づく日米安保体制は、長期にわたり日本の安全保障を確保する中核であり続けてきた。そして今なお、米軍の力なくして、自衛隊のみで日本を守ることはできない。
さらに90年代の「日米同盟再定義」以降、日米同盟は日本一国にとどまらず、地域・国際秩序の維持に必要な「国際公共財」であるという認識が浸透した。日本国民の多くが日米安保体制を内面化し、現に存在するだけでなく、守るべきものだという規範意識さえ抱きつつあるように思う。
本稿で石破氏を賞賛するつもりはない。
まず、重光流の対米自立論が、今日の安保環境にどれだけ適合するのかという視点からの検討が、十分なされていない。
ハドソン論考で示された、吉田路線から「重光路線」への転換をもくろむ安保構想は、現在の日米安保体制の発展を是とする専門家らから早々に批判を浴びた。
政権内でも、中谷元外相、岩屋毅防衛相、長島昭久首相補佐官ら外交・安保政策の要路の人々は、石破構想によくて懐疑的、恐らくは批判的だろう。
方法論を巡っても、憲法改正を素通りする形で国家安全保障基本法の制定、集団的自衛権の全面行使容認へと突き進むことへの反対論があろう。国の在り方を変えるのであれば、改憲を正面に掲げるのがやはり王道ではないか。
米政府が石破構想を真剣に受け止める気配もない。ダレスは、重光の懇請を一蹴した。石破氏が万一、安保条約や地位協定の改定を提起すれば、同様の「悲劇」が繰り返される危険がある。
石破氏が父のように慕っているのが、政治の師である田中角栄だ。その田中は、首相として米国の国益に反する独自の資源外交、中東外交を展開して「米国の虎の尾」を踏み、ロッキード事件という米国初のスキャンダルに見舞われた、という見方が今も消えない。「米国に逆らった首相はひどい目に遭う、という一種の謀略説」(倉重篤郎)である。
石破氏は番記者らの間で、「ぶれる」政治家として知られている。バイデン大統領との就任後初の電話会談で、地位協定の改定を持ち出すことを避け、所信表明演説にもアジア版NATOや協定改定の文言はなかった。
つまり、「石破構想」は失速する運命にある。
それでも日本は、経済発展に加え、国家として生き残る方策を足元から見直す必要に迫られている。米国の国力とリベラルな国際秩序の揺らぎが顕著になる中、米国とともに、激動する国際情勢の転換点に立たされているのだ。
石破氏の論考は、既存の「吉田路線」を超えた「ポスト吉田路線」の可能性を検討すべきだという問題提起として捉えることができる。不発に終わったとしても、戦後約80年を経て、国家の舵取りを担う首相が路線転換を目指すと一度でも明言した事実は、記憶にとどめておいてよい。