本当の「わたし」。
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あなたは、本当の自分を知っているだろうか?
わたしは、”あの日”まで
本当の「わたし」を知らなかった。
知ろうともしていなかった。
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当時のわたしは
強靭な「剣」を手に
何物も跳ね返す「鎧」を身に纏っていた。
もっと上へ、もっと遠くへと
常に、持てるチカラを超えた出力を維持し
時に、剣を振り回して人を切ってでも
世が憧れる世界を手にしようと
イバラの道を、走り続けた。
自分を認められたい一心で
自分を大きく見せる技を磨き
ありもしないチカラを誇示した。
水面では満面の笑みを携え
水中では必死に脚をかく日々。
常に呼吸は、ギリギリだった。
自分は強いと
自分で自分に暗示をかけ
さらに強さを誇示するために
擦り減らす心の対価で得た収入を元に
洋服やバッグ、車などで装備を固め
毎日、戦場である高層ビルへ向かった。
これが、米系の外資系金融に
勤務していた、20代の「わたし」_____。
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実のところ、当時の記憶はあやふやで
いわゆる忙殺状態による
記憶ロスなのか
はたまた、人間の機能として
忘れたいものを記憶から消すという
特殊能力が働いているのか
とにかく、あまり覚えていない。
ただ、常に頭痛と腰痛がわたしを襲うため
仕事用の全てのジャケットのポケットに
痛み止めの薬を忍ばしていたことは
鮮明に覚えている。
痛みがない時でも
そこに薬があることを
手のひらで確認しては、ホッとしていた。
頭痛薬は、わたしのお守りだった____。
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そんなわたしの人生を変えたのは
2008年、リーマンショック。
わたしは、クビになった。
後で分かったことだが
属していたセクションが解体され
部員全員が解雇を言い渡されていた。
あの日
突然、ブラックベリー(社用携帯)が
通じなくなったと思ったら
次に、PCにアクセス制限がかかった。
おかしいな。と思う暇もなく
内線電話がかかり
ひとり、密室に呼び出された。
社長からクビの通告を受け
弁護士が作った
分厚い英語の契約書類にサインを迫られた。
交わした名刺一枚でも
一切の情報の持ち出しが禁止されるため
各種情報へのアクセスを制限するために
自席に戻ることは許されなかった。
バッグとジャケットは
秘書が部屋に持ってきてくれた。
その時の秘書の眼を
いまだに忘れることができない。
わたしがクビになれば
のちに、彼女も解雇通告を受ける事になる。
突然のことに疑問と不安が入り混じった
恐怖の色が滲んでいた。
退職書類に目を通すこともなく
手にしていた自分のペンでサインをし
同席していた人事部長に
事務的な要件を確認した。
そして、せめてもの抵抗として
何事もなかったかのように
カツカツとヒールを鳴らし退席した。
地下の駐車場に向かい
自分の車に乗り込んで
あてもなく、都内を走った。
青山通りの信号で止まり
胸の棘を抜き取るか如く大きな息を吐いた。
それをきっかけに涙が頬を伝い
号泣したのを覚えている。
ハンドルを握る手も
シートに寄りかかった身体も
すべてが小刻みに震えていた。
最後の最後まで
周囲が抱く「わたし」のイメージそのままに
強いオンナを貫き通したが
車に乗り込んだ時には
もはや、力尽きていた。
翌日、自宅へ会社から私物が送られてきたが
わたしは、その箱を開封することなく
そのまま捨てた____。
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この日
「わたし」が長年身につけていた
鎧と剣は、涙で溶け落ち
本当の「わたし」が露呈した。
他人はもとより
「わたし」でさえ
そんな「わたし」を知らなかった。
知ろうともしなかった。
本当の「わたし」は
弱かったのだ。
とても戦場で戦えるほどの
ココロは持ち合わせていなかった。
すべては、
鎧で身を守りながら
剣で演じていただけだった。
鎧の中身は、想像以上に小さかった____。
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そこから1週間あまり。
わたしは自室に引きこもって
本当の「わたし」と向き合った。
手帳とあの書類にサインをしたペンで
本当の「わたし」と向き合うために
ココロの中から沸き起こる気持ちを
ただただ、殴り書き続けた。
涙もたくさん出た。
後悔もたくさんした。
腹も立った。
でも、たくさん心の澱を
殴り書いた最後には
未来への希望しかなかった。
これまで捧げてきた全てのことを失い
文字通りどん底だったはずなのに
これからの人生に
ワクワクさえしてきた。
嘘ではない。本当の話。
誰にも見られず、知られることがない
ノートとの1対1の向き合いによって
本当の「わたし」を知った。
何をしている時が楽しい?
幸せと感じる時はどんな時?
気楽なのはどんな生活?
どんな人が嫌い?
どんな人間でありたい?
自分にとって余計なものは?
お金も時間もあったら何したい?
矢継ぎ早に、本当の「わたし」に
問いかけ、それに答えていく。
その回答は誰にもみられることはない。
誰にも弱い自分や
自堕落な自分を見られない。
だから、次々と素直に書けるようになっていく。
鎧も剣も取り払った「わたし」は
そこそこ、いいヤツだった。
自堕落で、ゆるゆるで、努力は苦手。
社交的ではなく、人付き合いが嫌い。
打たれ弱いし、繊細なところもある。
一方で、静かな環境を好み
植物や動物を慈しみ、情深い。
それが本当の「わたし」なのだから
こんな「わたし」も、いいじゃないか。
本当の「わたし」で
これから何をしようかと
人生が楽しみになった____。
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これはドラマではなく
本当に、この東京で
わたしの身に起こったこと。
あらためて今振り返ってみると
壮絶な出来事だったと思うけれども
この経験が今の「わたし」を創っている。
嘘だと思うかもしれないが
その後わたしは、今も尚
尻上がり的に人生が豊かになっている。
昨日より今日
きっと、今日より明日
わたしはわたしの暮らしの中に
豊かさを感じているだろう。
それは、本当の「わたし」が
日々の目の前に沸き起こる「選択」を
取り仕切ることができるから。
生きていれば、日々選択の連続で
人生は、その選択の
積み重ねによって創られている。
ひとつひとつの小さな選択が
個々の幸せに導いていくものなのだから。
「わたし」の日々は
他ならぬ「わたし」のものでしかなく
誰かが代わりに
「わたし」の日々の選択を采配し
「わたし」を幸せに導いてくれるものではない。
結局のところ「わたし」が「わたし」を
幸せにしていかなければならないのだ。
そして言わずもがな
「わたし」が幸せになるためには
本当の「わたし」を知らなければ
始まらないのである。
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本当の「わたし」を知ってから
いくつかの「バディ」を手に入れた。
「バディ=仲間/相棒」。
鎧でも剣でもない「バディ」。
もうそこは、戦場ではないから。
最初の「バディ」は、ヨガだった。
外資系金融で勤務していた時に
仕事も含めよくニューヨークへ行っていた。
その頃からヨガに興味を持ち
渡米するたびに小さなスタジオへ
足を運んでいた。
今思えば、きっとその当時から
無理をしている偽物の「わたし」と
なんとか折り合いをつけながら生きるために
折に触れ、心身をフラットに戻す場所に
足が向いていたのだと思う。
本当の「わたし」が
悲鳴のサインを出していたのだと思うと
胸が痛い。
当時はヨガが今ほど
日本でメジャーではなかったので
自分で自分をコントロールする術を
身につけるためにアメリカで学んだ。
ヨガの身体的な技術はもちろんだが
ヨガのベースでもある
メディテーションに興味を持った。
思えば、学生時代
武道のひとつである弓道に
没頭していたことも
メディテーションという精神集中の修練に
惹かれたことに関係ありそうだ。
今ではメディテーションは
わたしの日常に溶け込み
「バディ」のひとつとなっている。
ヨガの教えに忠実なアメリカのヨギーは
菜食主義者が多く
彼らと生活を共にすることで
オーガニックなどの植物を主とした
食事の仕方を学ぶことができた。
植物の持つチカラに身体が反応し
その秘めたる能力を
自らの身体で体感したことで
これを機に
ハーブや漢方、アロマオイルなどが
わたしの暮らしに土着していった。
今でも、心身を整えたり
揺らぎを安定させるために
植物のチカラは
わたしの暮らしに欠かせない。
例えば、
毎朝1杯のタイムのハーブティは
あの頃からずっと続いている習慣。
免疫システムを強くし
感染症を予防したり
活力を生み出す効果のあるタイム。
おかげで、風邪さえひかず
健やかな毎日を過ごすことができている。
すべての植物はわたしの「バディ」だ。
そして何より
本当の「わたし」を知ったことで
その「わたし」に
フィットする仕事に変えた。
二度と鎧と剣が必要な仕事に
戻ることはないだろう。
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ここ数年
女性の働く環境が目まぐるしく変わる中
経済圏の中での女性の役割が大きくなりつつある。
これまで社会の中で
それなりの経験をしてきた
一人の社会人として
この女性総活躍というムードを
手放しには喜べない状況だと思っている。
そもそも金銭を得る労働をしていないと
社会で活躍していないと感じさせる空気が
政府主導で醸成されていることに
違和感しかない。
労働にはさまざまなものがある。
金銭を得ない労働の方が
人としての価値をもたらす場合もある。
きっとこの雰囲気に
ココロを痛めている人も多いだろうと思う。
何事も過渡期は、
歪みが生まれ、無理が生じる。
女性が働くための環境は
形あるものだけではなく
形のない空気も含め
まだまだその土壌は固まっておらず
足元が不安定な状態であろう。
グラつく足元には、「歪み」が現れる。
歪みは「無理」を生み出し、
無理は「不調」となって、サインを出す。
これは世の中のことだけではなく
個々の身体にも当てはまる。
もし、世の中の歪みにより
自分に無理が生じて
身体の不調のサインに気付いたら
ちょっと立ち止まり
本当の「わたし」と向き合ってみてほしい。
そして、もし違和感の種子があったなら
その種子が心身に根付く前に
さっさとむしり取ってほしい。
わたしは、心身に歪みが現れても
ヨガと植物を「バディ」に迎えたことで
アジャストする術を身につけることができた。
きっと個々に
そうした「バディ」をがあるのだと思う。
どんな「バディ」が自分に合っているのか
本当の「わたし」と向き合って
相談し合ってみてほしい。
きっと、これまでの人生のどこかに
その「バディ」は登場していると思う。
わたしにとってヨガが、そうであったように。
もし、これを読むあなたが
本当の「わたし」をまだ知らないのなら
ぜひ、かつてわたしが行ったように
ノートを使って
自分と向き合ってみてほしい。
そして、そこに姿を現した
真っ裸の「わたし」のすべてを
認めてあげてほしい。
偽物の「わたし」でいる限り
ずっと無理が生じ続けるのだから。
本当の「わたし」を知ることは
早いに越したことはない。
本当の「わたし」のことなんて
誰も知らない。
周囲や友人は元より、親だって、夫だって
本当の「わたし」を
理解している人なんていない。
自分にしか
本当の「わたし」を
知ることができないのだから
自分で「知る」一歩を踏み出してほしい。
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タイトルの写真は
”あの日” 書類にサインをしたペンと
”あの日” 自分に向き合った時の手帳。
今でも毎日使っている。
鎧と剣を伴っていた時は
痛み止めの薬がお守りだったが
今ではこのペンと手帳がわたしの「お守り」。
ペンと手帳さえあれば
いつでも
本当の「わたし」と向き合える。
そして、歪みが見え隠れしてきたら
いつでもこれを使って
アジャストすることができる。
いつでも「わたし」に戻れる
「バディ」と「お守り」は
わたしの人生にとって
なにより重要なものとなった。
多くの人々が
其々に「バディ」を見つけ
尻上がりな日々を
過ごせるようになってほしいと思っている。
このコラムも含め「わたしについて」は下記マガジンにまとめています。よろしければ併せてご覧ください。