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《シュタイナー医学》子どもが求める発達ニーズを理解する_イントロダクション1/2
この記事はルドルフ・シュタイナーのアントロポフィー(人智学)に基づく医学の観点からみた、子どもの発達についての書籍の和訳です。(原題「Understanding Deeper Developmental Needs: Holistic Approaches for Challenging Behaviors in Children」Adam Blanning著 )
目次はこちらから。
子どもが求める発達ニーズを理解する
問題行動へのホリスティックアプローチ
アダム・ブランニング
イントロダクション(1/2)
物事は、いつでも新しい視点で捉え直すことができます。
本書は、より高いレベルで子どもを観察し、新しい視点から発達へアプローチする方法を提案しています。
まず、子どもを従来よりもダイナミックに理解することからはじまります。子どもとは、機能的、感覚的そして精神的な観点から総合的に捉えることによってのみ、完全に理解できると考えるのです。統計的な計測や物質的な特性から読み取るだけでは十分ではありません。いわば、超広角レンズを使って、あらゆるレベルから子ども評価する必要があるのです。
子どもを包括的に理解することで、やがて現代の疑問の多くが明らかになるでしょう。なぜなら、このアプローチは、「子どもがなぜこういった行動をするのか」だけではなく、「この懸念の背後にあるものは何か」そして「この行動によって子どもは何を達成しようとしているのか」に焦点を当てて、その背景を広く紐解いていくからです。
超広角レンズでの観察は、子どものさらなる過去をふりかえり、ここに来るまでどのような道を辿ったのかまで捉えます。そして、これからどの方向に導かれるべきかを推察します。過去、現在、そして未来についての幅広い理解から、問題や診断だけでなく、今後のプロセスに焦点を当てることができるのです。なぜなら、肉体と精神の両方において子どもたちが学習し成長する過程には標準的なパターンがあり、予測できるものだからです。
超広角レンズを用いた手法は、従来の教育や医療の慣習を脅かすものになるでしょう。現在普及している子どもの発達と教育について、前提から考え直さざるを得なくなるからです。子どもを物質的肉体そのものとしてではなく、むしろその肉体を通して表現されているものとして、広範囲かつ総合的に理解するには、かなり忍耐強い観察力が必要になります。子どもの表面的な特徴ではなく、そのユニークな個性を知るために観察するのです。真剣な興味をもって「あなたは誰?」と尋ねることを学ばなければいけません。そして「あなたが能力を最大限発揮できるように、どんなお手伝いができますか?」と尋ねるのです。現在の成長度と成熟度だけではなく、健康的な発達に向けた未来の道筋に重きを置くようになっていきます。
ここからは、教育的な方向と医学的な方向の両方から、様々な視点で見ていきましょう。実際のところ、両者は素晴らしいまでに補完的です。そしてどちらの分野でも、子どもの理解が限定的になるのは危険です。最初の例として、様々な発達の標準的なマイルストーンをどのように使用しているかを見てみましょう。
簡単に成熟度をチェック方法として普及しているマイルストーンがあります。子どもがいつはいはいをするか(9ヶ月)、2歳児は一般的にどれくらいおしゃべるするか(2、3語文)などといったものです。このようなマイルストーンは簡易に評価し記録することができます。短い質問で、子どもが標準的なマイルストーンに乗っているか、それとも運動能力、器用さ、発話、社会性などの分野の中で、一つ、または複数のポイントで遅れがあるか、という情報を得られます。短時間で判断しなければいけないという現場のプレッシャーと、標準化された評価基準が推し進められた結果、このような短縮化された方法に頼りすぎてしまうというリスクがあります。これは、医学において広く蔓延しつつある傾向の一例です。客観的事実から定義することのみに重点を置くと、定義されたものと評価結果が意味する事実が混同される恐れがあるのです。そして、子どもとの対面は、子どもの真の姿を見るのではなく、「チェックリストの項目は満たしているなら、仕事は終わりね」というような、チェックリストを満たしているかを確認するものになっていっているのです。このような簡易的な検査はスクリーニングツールとしての意味はあっても、それらを意識的に超えて観察しようと試みない限り、ただの普通のレンズでにすぎなくなるのです。
にもかかわらず、この種の簡易検査の意味合いが、単なるスクリーニング手段であることをはるかに超えて認識されてしまっているのです。同様の考え方が実際に、診断や治療のプロセスにまで及んでいます。非常に多くの場合、発達の名称と性質(健全かアンバランスか)を客観的に認識し定義することに主な重点が置かれ、名前を与えることで更なる成長とコントロールができると信じられています。より深い観察と理解へを求めて始まった手法なのでしょうが、概して、白か黒かの分類に陥らせるものになっています。
例えば「この子どもはADHDでしょうか?」という疑問です。私たちは、子供が注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断基準に当てはまるかどうかだけを中心に、学習障害を評価してしまう危険性があります。それでは、何かの名称を与えること技術は向上するかもしれませんが、その診断を元にどうすべきかを知る技術を磨くことにはならないでしょう。「精神障害の診断および統計マニュアル」の改訂を通じて明らかになった新しい診断の数は、通常子どもに提供する薬物以外でのサポートの数を確かに上回っています。
初歩の段階で、content-結果(事実と名称)とcapacity-潜在能力(プロセス)の区別を失う危険にさらされています。もちろん内容と能力は関連していますが、一般論を超えて観察し、子どもたちの背後にある生きたプロセスと能力に立ち返ることを忘れてはなりません。
統計的診断を最優先にするという、ある意味で狭く凝り固まった考え方は今や、多くの教育方針にも見受けられます。教育のほとんどが、結果を伝えること、事実を教えることだけに専念しています。なぜこれが憂慮されるべきなのでしょうか。
この種の学び方の良い点から見ていきましょう。定義づけ(名称)を教えて、複雑なプロセスを省略するというのは、教育において不可欠です。事実の結果を含みつつ、定量化し、迅速に伝達し、分類するのに役に立ちます。事実結果は、生徒が特定の内容についてどれぐらい知っているか評価するにも便利です。つまり、テストのことですね。即座に学びを計測する手段になります。ここが私たちがよく注意すべきところです。事実結果をあまりにも重視するために、私たちはますます、テストとその背景にある学びのプロセスを同等と考えるようになってきているのです。事実を強調しすぎることで圧力が生じ、多くの教師が「テストに向けて教える」という決断を下すことになり、標準化された試験で読解点を上げれば、より有能で優秀な学習者を生み出すことに成功すると信じています。そして授業では、学びのプロセスではなくテストの結果に焦点を当てることが良しとされるのです。
本来の生き生きとした内的な作用や経験よりも、計測と省略を優先することすることは、短期的で空虚な安心感を生み出します。しかし、そのような結果主義の圧力に負けると、自己欺瞞的な幻想に陥ることになるでしょう。診断とテストを繰り返すほど、より賢く素晴らしくなっていくと信じています。しかしその過程で、真の健康と私たちが育んでいこうとしている人生との繋がりを失っているのです。情報が重要で力強い意味を持つ年齢において、成長に変化が起こります。情報に優位性と権力が集中する昨今の時代、仮の簡略解答を真の結果として受け入れ、時には実際の経験よりも仮の簡略解答を好む傾向が強まっています。この時期の成長の変化は潜在的に起こっており、現実生活との関係を弱める恐れがあるのです。
よりホリスティックな人間理解は、そういった危険を遠ざけることができます。なぜなら、特定の計測方法はあるプロセスのほんの一面にすぎないと、常に思い起こされるからです。人間は、行動の特徴や外見的な計測から統計的に定義されうる以上の存在です。では、外面的なことの背後に何があるのでしょうか。新しい考え方はどこからはじめていけば良いのでしょうか。
その答えの一つが、すでに提案してきたように、より潜在能力-capacityに注目するということです。潜在能力を観察し、精確に説明することで、考え方は変化していきます。潜在能力を理解しようとすることは、生きたプロセスを扱うことですから、結果-contentを見ることよりも困難です。その手法において私たちが発見したことは、事実を説明するための言葉の選び方を、名詞(定義)から、動詞や形容動詞(プロセス)に置き換えていくことが不可欠だということです。
(イントロダクション2/2へ続く)