「あなたのため」は誰のため?
学生の指導の際、「あなた・キミのためだから」という言葉を使わないようにしている。理由の一つは、自分が大学院生の時、指導教官から言われて一番嫌だったから。指導教官は本心から言っていたのかもしれないが、自分に都合のいい方向に誘導しようという意図が透けていたため、その言葉を信用することはできなかった。もう一つの理由は、自分自身が学生のためを思って指導しているのではないからだ。
私が学生を指導するのは、学生の指導を通して「おもしろい研究をしたい」からであり、学生の指導を最後まで投げ出さないのは、「いい加減な研究をやりたくない」からである。そのため、たとえ学生が研究を投げ出したとしても、必ず論文として仕上げる(出版する)ことを目標にしている(その場合は、当然筆頭著者はもらう)。
そもそも、学生の「ため」に何かをして「あげる」という意識が傲慢ではないのか。学生のためを思って研究教育指導してあげたのに、それが裏切られた(期待通りの反応が得られなかった)とき、腹が立ったり失望したり悲しくなったりするということは、なにかしらの見返りを求めていたということだ。であるならば、「あなた・キミのためだから」という言葉は、本心から学生のためなのか?
学生に対して「あなた・キミのためだから」という人は、自分の心を偽るのに長けている。本人は本心から思っているつもりなのかもしれないが、隠れた別の意図がある。それは、自分の業績だったり、研究費だったり、評判だったり、面子だったり、学生に対する好意だったりする。そして、たいていは学生に見透かされている。
学生に求めることは、たった一つだけだ。せめて大学院の間くらいは、「まともに」研究に取り組んでほしい。将来的に研究職に就くかどうかは関係ない。今そこにある研究に集中してほしいのだ。私がおもしろい研究を続けるためにも。