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「氷山に咲く大輪の花」第16話 フィレンツェの旋律

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ピアノの発表会 

自分で開催していた歌のワークショップが終わりを迎える半年くらい前に、ピアノの先生からピアノの発表会に出てみないかとお誘いを受けていた。毎年声をかけてもらっていて、いつも断っていたのだけど、今回は参加してみることにした。
声をかけてもらったときに少しためらう自分が内側にいて、なんとなく逃げているような感じがするいっぽうで、参加したら楽しくなるようなイメージも浮かんでいたから、楽しそうなほうを優先したのだ。

発表会は次の年の4月だから、逆算して遅くてもその4か月前には課題曲にとりかからないと間に合わないのだが、私が参加を決めたのは、ちょうどその4か月前のことだった。
先生は私の意志を確認すると、どんな曲がいいかと、そのときに使っていた「おとなのためのピアノ曲集」をパラパラとめくりだした。
「金婚式」という曲のタイトルが私の目に入ってきたのはその時だった。父と母が翌年に結婚50周年を迎えることを伝えると、先生はすぐに金婚式をピアノで弾いて聴かせてくれた。
ほぼ即決だった。金婚式というタイトルが目に飛び込んできたときには、すでに私の中で決まっていたような気がするけど、先生の演奏を聴くことで、それがより後押しになった。

少しずつ楽曲を弾き込んでいくたびに、いろいろなことを感じた。「金婚式」だからといって、祝うような明るく華々しい感じではなく、曲のはしばしには、明暗がちりばめられている。50年という結婚生活の中では大変なことも数多くあって、それを2人で乗り越えてきて今だからこそ、良い思い出になっていると、私にはそんなふうに感じとれた。

教本に乗っている曲は練習用に短くアレンジされているからか、思っているよりも早く「金婚式」の終わりまで弾けるようになった。おそらく、両親の結婚生活に思いをはせながら、ピアノの練習をくり返していたからだろう。
そして、発表会までにはまだ時間的に余裕もあったからか、私はもう一曲弾いてみたいと思うようになっていた。
そのことを先生に伝えてみると、心よく了承してくれて、もう一つは「アメリカンパトロール」という曲に決まった。金婚式の曲調とはまた明らかに違う、小気味よくそして力強く行進していくようなイメージの曲だった。
はじめてのピアノの発表会ではあったけど、当日までは、歌のワークショップほど緊張することはなかった。

発表会にはもちろん両親も呼んだ。
本番前には、一人5分くらいの簡単なリハーサルがあって、少しではあるけど会場の雰囲気を感じながらピアノを弾くことができた。
時間を確認すると、本番の順番まではまだ2時間ほどある。なんとなく雰囲気もつかめたから、私は会場の外に出て、ゆっくり昼食をとることにした。
会場の外には、建物の一階にお店がいくつか並んでいて、サンドイッチを売っているお店の前には、テーブルと椅子が置かれている。
目に入ってきたその場所に吸い込まれるかのように、サンドイッチを買って椅子に座り、目の前に広がる景色をながめていると、忘れられない出来事が起こった。
「フローレンス」という言葉がひと言、胸の内側にすっと響いてきたのだ。
その言葉はまるで、その場に吹いていた心地よい風に、乗ってきたかのようでもあった。

「あれ、フローレンスってなんだっけ?」と思い、おもむろにスマホで調べてみると、イタリアの都市フィレンツェの英語名であることがわかった。
このタイミングでこの言葉って、どんな意味があるのだろう……? そう思って、人に見られたら少し不思議に見えるかもしれないけど、私はその場で目を閉じて、ハートの呼吸法を始めた。

胸の内側がおだやかに落ちついてきたら、「フローレンスっていう言葉は何を意味している?」と自分自身に問いかけた。どれくらいの時間が経ったかは忘れたけど、呼吸法を重ねていると、自分がピアノ(もしくはオルガン)を弾いている姿が、私の内側で見えてきた。
場所はきっとフィレンツェなのだろう。ピアノを弾いている場面から少し切り替わった次の場面では、音楽の専門家のような人から「お前のものは音楽ではない」と強い口調で言われたことも感じることができた。
目を開けると、やわらかい風が吹きぬけていく。目に映る広場からは楽しげな声も聞えてくる。不意に伝わってきた言葉ではあるけれど、私にとっては奥深い意味をもっていた。
これは相乗効果でもある。これから発表会に向かう自分に対して、自分に必要なことが内側から伝わってきたのだ。今回は、なんとなくリラックスしているタイミングではあったけど、本来の自分の意識からは、こうやって新しい自分を知るための案内がやってくることがある。
あのときに感じたことは、一生忘れないだろう。楽しい日常ばかりではないけれど、大切なことは、印象深く心に刻まれるように日常の中に現れてくる。

本番はつつがなく終わった。弾くときのペースが少し早くなってしまったように感じたけど、ミスをすることもなく弾き終えた。思っていた感覚と違ったのか、両親の「金婚式」の曲に対する反応は少し微妙なものに思えたけど、発表会に参加できたこと自体が満足だった。

それから一年経って、2回目の発表会の季節がやってきた。いくつかの候補となる曲を先生がピアノで弾いてくれて、私の心に、より強く響いてきたのが、「歌の翼に」という曲だった。
メンデルスゾーンというドイツの作曲家によるもので、当時の私の技術力にちょうど良い難易度の楽譜を先生が選んでくれた。
曲の調は「変イ長調」。レ、ミ、ラ、シの音は♭(フラット)になるから、黒い鍵盤を多く弾くようにもなり、昨年選んだ曲よりもかなりハードルがあがっていた。全体を通して弾けるようになるまでには、楽譜を読み込んで音符や拍のとり方など、地道に一つひとつをマスターしていかなければならない。

ピアノを習い始めてから5年が過ぎていたが、思い返せば、最初のころはこんな曲が弾けるようになるなんて思いもしなかった。
拍のとり方も慣れるまでは大変だった。声楽を習っていたころは、まだ拍子をうまく捉えられていなかったから、歌い出すタイミングを伴奏に合わせられないことがよくあった。
自分でもリズム感がないと思えることが本当に多くあったけど、ピアノのレッスンでは、この苦手なものとおのずと向き合うようになっていった。
たとえば、こんなことがよくあった。鍵盤を弾く私の手の拍(リズム)が楽譜通りに刻まれていないとわかると、先生は、おもむろにピアノの蓋を閉めようとする。最初は、いきなり何をするんだろう? と思ったけど、楽譜に書かれている拍に合わせて、ピアノの蓋を指でたたくように誘導してくれた。
しかし、最初はこれがなかなかうまくいかない。どのタイミングで指を下ろしたらいいか戸惑ってしまうのだ。
1拍目と2拍目の間にさらに細かい拍があると、もうてんてこ舞いになってしまう。楽譜通りに指を打ち鳴らせるまで、できないところを何度もくり返した。拍子に合わせるのは本当に苦手だったけど、このような練習のおかげで少しずつ身体の中にリズム感が身についていった。




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