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「氷山に咲く大輪の花」第6話 小さなコンサート

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声楽を始めてから一年も経っていなかったけど、その年のクリスマスに、仲間たち3人で小さなコンサートを開くことになった。
先生にはコンサートで歌う曲を相談していたが、私がどうしても歌いたかったのは、ちょうどそのころレッスンでの課題曲になっていたシューベルトの「アヴェ・マリア」だった。
先生は何度か忠告してくれた。「シューベルトのアヴェ・マリアは、プロの人でも、1年から3年くらい時間をかけて練習する曲だから、数か月では無理です」と。
しかし私は、先生の忠告を素直に聞き入れられなかった。それまで先生がすすめてくれる曲を拒むことなく歌ってきたけど、アヴェ・マリアを歌いたいという気持ちが、なぜか私の内側に強く湧きあがってきていたのだ。

声楽のレッスンでは、基本的にどの楽曲も原語(もとの歌詞の言語)で歌う。そのため、シューベルトのアヴェ・マリアもドイツ語で歌うことになっていて、ドイツ語の歌詞の意味を調べて、楽譜の裏に鉛筆で書くこともした。
忘れられないのは、電車の中で、楽譜を見ながらアヴェ・マリアの2番を聴いていたときのこと。あるフレーズを聴いた瞬間に涙が急にあふれ出し、しまいには、鼻水も止まることなく流れ出てきてしまった。
涙と鼻水があんなにしたたるくらいになるなんて、今考えてみれば恥ずかしさもこみ上げてくるけど、曲と歌詞の中にあるチカラを思い知らされた感じだった。
あのフレーズの意味は、たしか……「かたい岩にも入り込むあなたの慈悲深さ」だったかな。
ドイツ語を勉強したこともないのに、不思議と発音の仕方を知っているかのように、ドイツ語の曲を歌うことができた。自分の中ではちょっとした驚きでもあったけど、なぜかそれが当たり前のようにも感じられた。また当時は、日本語の歌詞を歌うよりも、ドイツ語の歌詞を歌ったほうが歌いやすいというか、声がより出ているような感覚さえあった。

クリスマスのコンサートは、小さな子どものための保育施設を借りておこなうことになった。そこは少し古い建物だったけど、床や壁、天井のどこを見ても建物全体が木で包まれている感じで、気持ちがおだやかになる場所だった。
たしか下見に行ったときに、歌を歌うときは音が吸収されちゃうかもって、友達のだれかが言っていたような気がする。

当日のコンサートには、3人の家族や友人たち総勢で30人くらいが来てくれた。ただ歌うことだけに集中していたから、どんなふうに聞こえていたかなんて考えもしなかったけど、何人かの人がすごくよかったよ、と感想を言ってくれた。なかには、祈りのように聞こえたよ、と感想を言ってくれた人もいた。

「井上さんは、心臓に毛が生えていますね」
伴奏を引き受けてくれた先生は、すべての歌をなんとか歌い終え、ほっとしている私に向かって言った。
心臓に毛が生えている……。
結局、先生に忠告してもらったにもかかわらず、私はアヴェ・マリアを歌ったのだった。先生の本心はよくわからなかったけど、最後までよく歌い切ったという、ほめ言葉をもらったのだろうと受け取ることにした。

ソロで歌うアヴェ・マリアの歌い出しはまずまずだった。極度の緊張もしていない。しかし、途中から楽譜を持っている手が明らかに震え出した。会場の人に見えてしまっているのではないかと思うくらい、肘から手のひらまでの震えが大きくなってしまった。
全体を通して自分ではそれほど緊張していなかったように思えたけど、コンサート前に友人が撮ってくれた写真を見たときに、どうして手が震えしまったのか、その意味が少しわかったような気がした。顔は何かにおびえているようでもあり、何とも言えない不安げな立ち姿になっていたのだ。

まさかこんな感じで、人前で歌うなんて考えてもみなかったが、その数か月後には、知人のすすめでさらに歌う機会を得ることになった。
今回は、その知人が主催する一日限りの小さなイベント会場にて。場所はマンションの一階の駐車場。マルシェみたいな形で、ところせましと小さなテーブルがいくつも並び、その上にはハンドメイド作家さんの作品やおいしそうなお菓子が並べられていた。

伴奏は、声楽を私にすすめてくれた友人に頼んでいた。
ライブが始まる時間になり、係の人が簡単に私を来場者の方に紹介をしてくれたが、会場は静まる様子がない。
私は、少しの間待っていた。なんとなくそのまま歌う気がしなかったからだ。すると、少しずつ会場の人たちが私のほうを向くようになっていった。
そして、思ったよりも早く、会場はシーンと静まり返った。
みんながこっちを見ている。私の気持ちはどちらかというとおだやかで、会場の人がこちらを見つめているときに浮かぶ感覚は、どこか懐かしい感じもした。
選んだ曲は、「ふるさと」「夏の思い出」、他数曲。歌っている途中は、意外なほど余裕があった。イベント会場の向こう側は普通の道路になっていたが、人が歩いている姿が見えて、自分の歌声が聞こえているかな、なんて思うくらいだった。
大変だったのは歌を終えてからのこと。あいさつを終えてほっと一息ついたとき、思わずお腹に手を当てて前かがみになるくらいに、みぞおちの下あたりに強い痛みが急に浮上してきたのだ。
なんでだ? 無理しているつもりはなかったけど、無理していたのか……?
何日か経つと原因が少しずつわかってきた。人前で歌う楽しさを得られた反面、 私の内側の奥深くに埋もれていた、過去の遺物が表面化してきたのが明らかだった。

そしてその後は、おのずと人前で歌うことを控えるようになっていった。みぞおちに感じたあのときの痛みは、それくらいに強烈だったのだ。

音痴を完全に克服した人生の物語。毎週月曜日に次の話を公開予定。


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