2極化するコンテンツ~熱量の高いコンテンツと低いコンテンツ
コンテンツの供給過多により、可処分時間の奪い合いに
YouTubeなどの動画プラットフォームなどの発展により、個人が動画やテキストコンテンツを発表する場が広がり、個人クリエイターの数が増えています。平行して、スマホゲームやNetflix等の動画配信プラットフォームの発達により、コンテンツの消費側の可処分時間は奪い合いになっています。
コンテンツの供給側が飽和し、消費側の可処分時間の希少性が増した結果、コンテンツは熱量の高いコンテンツと低いコンテンツに二極化していきます。
コンテンツの熱量は「コンテンツの尺の長短」と「消費側が集中力を要するか」の軸
コンテンツの熱量は、「コンテンツの尺の長短」と「消費側が集中力を要するか」の2軸で分類することが出来ます。まず「尺が長く、集中力を要する」右上のグループは、映画や長編小説などが属します。長編の小説を読んだり、映画を観ることは、コンテンツ消費者の集中力と時間を多大に要するので、最も熱量が高いコンテンツと言えるでしょう。
昔と異なり、コンテンツが飽和しているので、このグループに属するには供給側のネームバリューや作品のクオリティ、それらを作るための大きな資本が必要になっています。
そして、その左隣は「尺が短く、集中力を要する」グループです。尺は短くとも、消費者の注意を引くため、インパクトのある動画が共有されているカテゴリです。YouTubeのショート動画やTikTokの動画などがこれに該当します。初期のYouTuberが多く参入したのもこのカテゴリであり、初期の動画コンテンツはコーラにメントスを投入するなど、インパクト勝負のものが多くありました。
短尺で人をひきつける必要があるため、視覚に訴えるような過激な内容になりがちです。また、Twitterや短めのブログなどのテキストコンテンツもこれに当たります。一冊の本であれば、本の中に起承転結のコンテキストが生まれますが、短文で消費者を引き付けようとすると、「社畜を回避するためには〇〇をしてはいけない」などのタイトル付けをし、損失回避バイアスをつくなど、行動経済学に基づく内容が多く見受けらます。
この「尺が短く、集中力を要する」コンテンツは、個人クリエイターが勃興してきて数年で爆発的に増えたコンテンツのカテゴリです。
脳疲労の結果、熱量の低いコンテンツのニーズが生まれる
そして、その反動として流通が増えてきたのが、下の2つー熱量が低いコンテンツです。
コンテンツ消費者は四六時中スマホを眺めているので、視覚的にも脳的にも常に興奮状態にあります。刺激的な短尺のコンテンツが爆発的に増え隙間時間をくまなく埋めた結果、つねに脳が疲れているのです。
そのカウンターとして登場したのが、下の2つのカテゴリなのです。
まず、右下のグループ「尺が長く、集中力を要さない」コンテンツは、テレビの散歩番組や、孤独のグルメを代表とするただ演者がもくもくとご飯を食べる番組などです。動画に起承転結のコンテキストが存在せず、ただ、歩く、食べるなどのプリミティブな行為を眺めるだけというコンテンツです。
常に脳が興奮状態にある消費者にとっては、こういった刺激の低いコンテンツをボーっと眺めるという、疲れないコンテンツに対する需要が高まってきたのです。
この下のグループに属するコンテンツの特徴は、コンテキストやストーリーが存在しないので、視聴者はいつでも離脱可能であるし、スマホを片手に眺められるということです。
毎週お約束のように似通った内容が放映される「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」も、このグループに属するのかもしれません。
テレビにこういった脳が疲れない系コンテンツが増えるのとともに、YouTubeにも同様のコンテンツが増えていきます。ルーティング動画やVlogなどです。テレビの散歩番組と同じく、配信者の朝や夜のルーティンや日常を、淡々と綴っています。左下に属する「尺が短く、集中力を要さない」コンテンツです。
このように、昔はテレビ・映画という右上に属する「尺が長く、集中力を要する」が主流ででしたが、YouTubeなどの台頭により「尺が短く、集中力を要する」コンテンツが増え、消費者の可処分時間の減少と脳疲労が加速して、右下のグループ「尺が長く、集中力を要さない」散歩番組や、左下のグループ「尺が短く、集中力を要さない」ルーティン動画などが増えていったのだと思います。
コンテンツのポジショニング ーテキストコンテンツは難易度高
この現象に即してみると、以前よりもよりテキストコンテンツの難易度は上がっているように思われます。テキストコンテンツという前提では、消費者が能動的に見る必要があるからです。現在のコンテンツの消費のされ方として、上記の理由から動画などの受け身に消費できるコンテンツでないと、マスに受け入れられづらくなっているのではないでしょうか。
ちなみに、話はやや脱線しますが、テレビが王道のプラットフォームであったとき、動画コンテンツはテレビが共有するコンテンツしか存在しなかったので、ずっと「尺が長く、集中力を要する」グループが主流でした。
フジテレビが掲げていた「楽しくなければテレビじゃない」に代表されるように、インパクト勝負の過激な内容が多かったように記憶しています。
しかし、1990年代にはじまり、その後全国的なブームとなった「水曜どうでしょう」は、予算の少なさに端を発した企画力により、右下のグループ「尺が長く、集中力を要さない」の方に軸がずらしていたように思います。
コンテンツの供給が過剰になる現状においては、常にどのポジションを取るかという、ポジショニングが重要になってくるような気がします。