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アメリカの捕鯨と黒船来航。
ペリー提督が黒船に乗って浦賀に来航したのは1853年のこと。
NHKの大河ドラマなどでは、ペリー来航の目的は、アメリカが鎖国をしている日本と貿易をするためということがクローズアップされることが多いが、一番の狙いは、アメリカの捕鯨船の水や食料の補給基地を確保したかったからである。
当時アメリカは、鯨油を求めて世界中の海で鯨を捕獲していた。
ジョン・万次郎を救助したのはアメリカの捕鯨船
高知県土佐清水の漁師だった万次郎は、1841年に嵐に会い遭難する。
漂流の後無人島に漂着し、143日後にアメリカの捕鯨船に救助される。
この時もしも救助されなかったら、日本の歴史は少し変わっていたかもしれない。
万次郎は捕鯨船の乗組員に気に入られ、ジョン・マンと呼ばれる。
ジョン・マンも捕鯨船が気に入り、そのままアメリカ本土まで行くことになる。
アメリカでは学校にも通い、様々のことを学んで1951年に帰国をする。
ペリー提督が黒船に乗ってやってくる2年前のことである。
アメリカの捕鯨
アメリカの捕鯨の目的は鯨から油を採るためであった。
鯨の油、いわゆる鯨油は産業革命が進む欧米ではランプの燃料として需要が大きかった。
欧米人は、鯨を捕獲して鯨油を摂れば、必要のない部位のほとんどは海に捨てしまい、鯨の肉を食べることは一切なかった。
そして、あまりにも乱獲を行ったため、大西洋での鯨が激減し、捕獲場所は太平洋が中心になっていた。
黒船来航
ペリー提督が乗ってきた黒船は、2隻の蒸気船と2隻と帆船だった。
2隻の蒸気船といっても基本的には帆船で、蒸気機関の機能は搭載していたが、外洋では帆を広げて推進力の源は風の力というハイブリットタイプである。
黒船というからボディの色は黒かったのだが、鋼鉄製ではなく木製だった。
木が腐るのを防ぐため、黒いコールタールを塗っていたのである。
この頃には、太平洋でも乱獲によって鯨は取れなくなってきており、さらに1859年にはアメリカでは石油採掘が始まり、鯨油の需要は急激に減っていく。
小学生の頃の給食の肉といえば鯨だった
今は鯨料理といえば高級料理になってしまったが、私が小学生の頃には、給食で出てくるお肉といえば鯨の肉だった。
虫歯の多い小学生だった私は、固い鯨の肉はなかなか噛み切れず、いつまでも口の中でモゴモゴさせていた。
欧米では鯨の捕獲が行われなくなっていったが、日本では戦後になっても継続されていた。
日本では鯨は食用だけでなく、あらゆる部位を余すところなく利用し、捨てるところはないと言われていた。
資源のない日本にとっては、鯨は貴重であった。
その後、鯨を獲りまくっていた欧米諸国に日本の捕鯨が激しく叩かれることになり、鯨の肉はめっきり食べれなくなってしまった。