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【小説】ライオン・ニルヴァーナ(前編)

(あらすじ)

レズビアンであるシュンは、カメラマンであるミホの被写体として生計を立てている。過去のとある事件から鬱と摂食障害を拗らせているシュンは、謎多きSM女王様であるリョウを信仰するかのように愛し、心の拠り所としていた。病的であることを自覚しつつもそれを貫き通したいシュン、痩躯の女を撮り続けるミホ、解脱者の如き立ち位置から詰めることのないリョウ。リョウの背中に彫られた涅槃の獅子は、はたしてなにを見つめているのか。これは救済を目指し放浪する魂の物語。



 水気の抜けた、見るからにぱさぱさとした質感をした白い髪が、その痩せた背中に垂れている。ライオンみたいだろ、と自らの髪を称していた彼女のことを思い返しながら、僕は帰宅したばかりの、夜の空気を吸い込んだままの身体から薄いカーディガンを剥ぎ取った。あれはどれほど前の出来事だっただろうか……仔細を思い出そうとしても僕の萎縮した脳はその芯の辺りを小刻みに震わせるだけで、思考のポーズすら取ってはくれない。なんて怠慢な脳味噌なのだと叱咤したい気持ちは、腹からせり上がっても喉頭の手前で諦念へと取って代わるだけ。やがて曖昧に溶け出し食道を苦く濡らした自分自身への感想は、そのうち呆気なく溜め息として霧散し、消え失せる。「この話は置いといて」と避けておくばかりの自己対話、自己実現、自己憐憫は、行き場を失ったあとどう始末されるのだろう。僕は自分の中にある透明なもののためのゴミ箱のありかを知らない。
 遠目で自分の内側を覗く僕の、その視覚としてはお休み中の眼球の先には、こちらに背を向け床に座り込んでいる一匹の獣がいる。彼女はようやく僕の帰宅に気がついたのか、のそりと緩慢な動作でこちらを振り返ると、笑っているのか笑っていないのかよくわからないような振り幅で口角を上げた。
「おかえり」
 彼女……リョウが言葉で出迎えてくれる。
「いらっしゃい」僕は応える。この部屋の主は、僕だ。
 リョウはいつだって唐突に部屋にいる。合鍵を渡したのは僕自身であるが、前もって連絡をくれたっていいじゃないかとも感じることがある。しかし彼女にそんな期待をしたところで無駄なのは承知の上なので、その隣に腰を下ろし、彼女の観ていたであろうテレビ画面を一緒に眺める。見知らぬ誰かが失踪したというニュースは、彼女の眼球に向かって真っ直ぐに射出されてはいるが、当の本人に興味なんてないんだろうな、と思う。僕も興味はない。ただ無為にちかちかと明滅する画面を眺めていると、それを意味あるものとして捉えられない自分がどうしようもなく空っぽに思えて、ちょっといい気分になる。伽藍堂であることの再確認は、僕の人生に於いて幾度となく繰り返されてきたルーティンワークだ。それは、傍らにいるリョウの存在を以てしても変わらない。
「あ、アイス。アイス買って来たんだよ。食おうぜ」
 そう言って、リョウはキッチンへと向かったようだった。ほどなくして戻ってきた彼女の手にはふたつのカップアイスが握られており、そのうちのひとつを手渡されると、次いでプラスチックのスプーンも受け取った。手のひらサイズのちいさなそれは、リョウが好んで食べるちょっとお高いやつだ。
「アイスなら食えるだろ?」
「うん」
 少し躊躇ったあと、僕はイチゴ味のそれの蓋を開け、内蓋も剥ぎ取った。冷気を上げる薄いピンクに赤い欠片が散って、不規則な模様を描いている。リョウが既に自分のを食べ始めているのを見て、僕もそっとスプーンの先端をアイスの表面に突き刺した。その円の外周の、溶けやすそうな部分を削るようにくり抜き、スプーンに乗った微量のそれをちびちびと舐める。イチゴの味がする。乳成分の味がする。甘くて冷たくて、ついカロリーを計算してしまう思考を打ち消した。どうせ、カップの側面にはカロリーが明記されているのだから、予測に思考を割くことは無駄だ。
「メシ、ちゃんと食ってんのか? また痩せたろ」リョウが問うてくる。
「食べてるよ」と頷きながらも、これが本当のことかどうかわからないままでいるのは、僕が摂食障害だからだ。傍らでバニラ味のそれをつついている彼女の優美な痩身をちらりちらりと盗み見ながら、僕は片手で青い絨毯の長い毛足を弄る。膝に乗せたアイスのカップが落ちそうになる。

 うまく生きられない人間というのは生まれつきなのだと思う。鬱から摂食障害を拗らせたのが小学生の頃だ。そう思うと『普通』らしく活動できていたのは幼少期のみになるのではないか、と思い当たってからはなにもかもがどうでも良くなった。
 遅い起床。人肌が失せているのを察して欠伸と溜め息が同時に漏れた。リョウは既に帰ったようだ。ずるずるとベッドから這い出て、洗面台の鏡の前で髪を梳かしながら、ふと腹部の膨満感が気になってキャミソールを脱ぐ。昨日食べたアイスは消えてくれただろうか。鏡に映る自分の骨っぽい身体を、その場でくるりと回って一通りチェックする。横から見たときの腹回りに『異常』はないか。いつもと同じように肋骨が浮いているかどうか。貧相に痩せた胸部に、そこだけ違和感を放ちながら浮く、パンナコッタみたいな乳房を忌々しく思いながら、壁と洗面台の隙間に差し込んでいる体重計を引き出し、ゆるいパンツを脱いでそれに乗った。昨日と百グラムも違わない数値に心底安堵しながら、壁のホルダに挿していた歯ブラシを手に取ると、歯磨き粉を塗りつけ口に放り込む。歯を磨きながら未だ歯が溶けずにいることを確認する癖も十数年モノの歴史ある行為だ。
 起床後はこうしてごくごく簡易なグルーミングをしてからベッドに戻る。気持ち程度整えた布団に再度潜り込みながらスマホの画面を確認するが、リョウからのメッセージは来ていない。
 しばらくのあいだぼんやりと二度目の眠気を待っていると、ふとメッセージの受信音がした。スマホを見るとそれはミホさんからで、今日これから会わないかという内容だった。めんどくさい、とひとり呟いたのとは裏腹に、いいですよと返事をしてスマホを放る。
「めんどくさい……」
 何度繰り返してみても消えない倦怠感。肩と背中の前面に張りついたそれを溜め息に置換し、吐き出す。意を決し、起き上がる。行きたくなくても、動く。なぜなら他人と会うというのは社会参加だからだ。ベッドから出ると、ミホさんの前では未だ着たことのない服をクローゼットから選んで身に着け、メイクをし、太腿まである長い黒髪にストレートアイロンをかける。ミホさんは、私の長い髪に価値を見出している人……の、ように思う。

「笑ってみて」
 十メートルほど離れた先で、ミホさんがそう言った。
「無理です」
 そう答えた僕の不機嫌な顔に向ってばっちりシャッターを切りながら、彼女は笑う。
「じゃあ今だけ私のこと好きになって」
「もっと無理です」
 暗く感じる青空のもと、人気のない路地で彼女の被写体を務める。向けられるレンズの太さや大きさは、その気になれば人を撲殺できそうなほどに重そうなものだが、そんな鈍器を彼女の細腕はきちんと支えて静止していた。背の高い彼女の相棒が放つぱりっとしたシャッター音に射貫かれながら、僕はいつも視線を何処かに彷徨わせている。
「うわ、ほんとに青空似合わないねえ、君」
 液晶を覗き込み、撮った写真のデータを確認しているらしいミホさんがそんなことを言う。
「外嫌いだし」
 僕が事実を口にすると、彼女は短くやわらかく笑った。
「うん、そういう顔してる」
 気に入った写真があったのか、ミホさんはひとり何度も頷くと、今日はもう終わりにしようと言ってカメラを片付け始める。僕は解放感に溜め息を吐くと、帰っていいですかと彼女に訊ねた。
「え、ご飯しようよ」
 その返答は予想はしていたし、毎度のことでもあるがどっと疲労感に襲われる。ご飯する、とはどういう動詞なんだと思いながらも、これも社会参加だと思うことにして、彼女の後に続いた。

 食事のあとミホさんと別れ、電車を乗り継いで最寄り駅で降りたあと、徒歩での帰路の途中にあるコンビニに立ち寄る。手にした買い物カゴに紙パックのジュースをみっつと、弁当をふたつ。おにぎりを幾つか。加えて菓子パンも。パンを買うなら、と牛乳もカゴに入れ、同じチルドコーナーで目についた納豆のパックを手に取る。ポテトチップスを二袋。それから冷凍のパスタを入れるとカゴが一杯になったのでレジに向かう。少し迷って、割り箸ください、と申し出ると、三膳の箸がビニール袋に放り込まれた。この量の食糧をひとりで食べるのだと思われていないことにどこか安堵する。そして大きめのレジ袋をふたつ下げ、手指を鬱血させながら帰宅する。
 買った食料を全てテーブルに広げ、全ての封を開け、先ずは混ぜた納豆を口にする。粘り気のあるもので『底』を作っておくと後が楽だからだ。それからその他の食べ物も無心で胃に詰め込んでいく。
 ミホさんと食べたのは、オムライスだ。もう消化は始まっているだろうが、この『リセットした気になれる行為』というのはやめられない。誰と一緒に飲食店に行こうが自分は食べなければいいだけの話だが、僕は他人との食事も社会参加だと考えているため、ついメニューを相手に手渡して「決めてください」なんて言ってしまう。あたかも「貴方のことが知りたいんです」とでも言いたげな口振りで。運ばれてくるものは全て食品サンプルにしか見えないし、後に吐くことしか考えていないのでろくに味もわからないが、仕方がない。全ては人間関係を円滑にするためだ。
「痩せてるのに、ちゃんと食べるんだね」
 そう言ったミホさんの甲斐性の滲む眼差しに、射殺されそうな心地になりながらつついた卵のとろりとした黄色。うずまっているケチャップライスの赤。僕の視界からするとグロテスク極まりない色彩に不快感を抱きながらも、ふつうにたべたい、という切ない欲が心のどこかで滲んだ、約一時間前の会食。それらの体験はなかったことにしたくはないのに、僕は腹の中のものをどうにかしなくてはならないと思い込んでいて、常に罪悪感と焦燥感に追い詰められている。
 剥がした弁当の蓋に注いだポテトチップスを箸で摘まみながら、もう片方の手で菓子パンを口に運ぶ。パックの牛乳に挿してあったストローを抜き、直接口をつけて一気に飲み干す。胃が重たい。空の弁当の容器。おにぎりのフィルム。モンスターの産む残骸。満腹中枢ならとうの昔に死んでいる。買ってきたものを全て食べ尽くしても未だ満たされなくて、欠食児童のように膨れた腹を抱えるようにして冷蔵庫へと向かう。開けても空。冷凍庫にカップアイスを見つけて、一瞬だけ愕然としたのはなにかの間違いだ。リョウが置いていったに違いないそれを見なかった振りをして、手首に通してあったヘアゴムで髪を纏め、トイレへ駆け込む。深く嘔吐いて目許の血管が切れそうになるのを感じながらも、最後のほうでオムライスを構成するものが出て来たことに喜び、笑顔と手を食器用洗剤で洗って歯を磨く。浮腫まないように耳下と首筋のリンパを鎖骨に向かって流しながら、残骸で散らかったテーブルを片づければ、清潔な心地と適度な疲労感が心地好い。再びへこんだ腹と浮いた肋骨を撫でながらベッドに沈むと、急激に眠気が襲ってきた。この安心感と罪悪感に包まれている間、僕は更に怪物に近づいていく。その距離を詰めていく。そんな自分を赦すために、僕は社会参加などと謳い散らかしているのかも知れない。リョウからの連絡は未だない。

 リョウについてはあまり知らない。一重目蓋の鋭い眼差しと、ライオンみたいにぱさぱさな白髪が好きだ。僕とは違って、きちんと運動をして痩せているところも素晴らしい。彼女の中性的な見た目や声が僕を堪らなく安心させてくれるから、ただ傍にいてくれるだけでいいのだ。だから合鍵も渡してあるし、突然の来訪に文句も言わない。顔が綺麗だ。身体が綺麗だ。存在が綺麗だ。物腰もフラットでいい。僕にそれほど興味がなさそうなところも素敵だと思う。
 彼女とセックスはしている。しかし彼女に恋人がいるかどうかは知らない。そういうことを聞きそびれたまま、名前のない付き合いを続けている。


 ミホさんに池袋のギャラリーカフェに呼び出され、ノートパソコンを広げて作業をする彼女がなにか言い出すのを、アールグレイを冷ましながら黙って待っている。テーブルの端に置かれたロールケーキを眺めながら、この人は会うと大抵なにか食べていることを思い出す。彼女曰く、空腹だといい仕事ができないらしいが、その感覚は僕には理解不能だ。むしろ僕はその逆で、腹に物が入っているといつも以上に不機嫌になってしまう。
「この中から好きな写真選んでよ」
 作業がひと段落したのか、ミホさんがノートパソコンをこちらに向けてそう言った。画面には僕が写った写真が無数に並んでいる。
「過度にブスじゃなければ何でもいいよ」
 毎度恒例のセンテンスを返すと、少しだけ不服そうに眉根を寄せた彼女は、再び沈黙の海へ潜っていく。その様子を時折観察しながら、適度に冷めた紅茶をちびちびと啜っていると、不意にミホさんは鞄から小さな箱状の機械を取り出し、それからスマホを操作すると、なにかリンクしているのかその機械から繰り出てきた小さな紙を僕に渡してきた。見るとそれは黒いフレームの小さなチェキで、いつも通り僕はその中で不機嫌そうな真顔でいる。
「可愛いでしょ。今はこうやって写真をチェキにできるんだってさ」
「へえ……栞にしよ」
「もっといい使い方してよ」
 鞄に入れていた文庫本にそのチェキを挟むと、ミホさんは不服そうな素振りを見せたが、量産できるものだからかそれ以上は否定されなかった。それから僕から有意義な意見を引き出そうと手を替え品を替え討論へ持ち込もうとするミホさんに呆れながらも、結局は情に流されて一緒に写真の選別をしていく。先ほど口にしたように僕には特段の拘りはないのだが、彼女はモデルとの交流を好む性分なのでこうやって選別のためと称しては頻繁に僕を呼び出すのだった。今日も次の個展で使う写真を決めたかったらしく、このあいだの路地裏での写真を主に枚数を絞り込んでいく作業のなか、展示期間の在廊の予定なども詰めていき、もちろんギャラの話もする。僕の生計は主にモデル業で成り立っていて、細々と生きていくうえでは問題はなく、しかし貯金は難しい程度の数をこなしていた。主な仕事相手はもちろんミホさんで、だからこそ面倒でも彼女の為に外出もする。こんな生活をもう一年近く続けていた。
 ミホさんとの出会いは、当時付き合っていた恋人が参加していた、複数の作家が合同で開いた写真展でのことだった。自分が被写体をしていることもあり、ギャラリーにたまたま顔を出した僕をミホさんが見かけて曰く「ひと目で気に入った」らしい。元々僕は彼女を知らなかったこともあり、軽く挨拶を交わしただけの彼女に特別な印象もないどころか、その存在すら記憶していなかったのだが、後日SNSのダイレクトメッセージでオファーが来たことで、一応の礼儀として名刺に記載のあった彼女のホームページをチェックしたことは覚えている。丁度そのタイミングで恋人恋人と上手くいかなくなって破局し、同棲も解消することになり新しく住む物件を探していたのだが、事情を知ったミホさんの一方的な介入で住処が決まり、モデルをすることと引き換えにけして潤沢ではないものの生活費も保障され、現在に至る。つまり元彼女とのいざこざで鬱状態が酷くなり、当時していた正社員の仕事も辞めて引き篭もっている僕を連れ回す権利を、ミホさんは充分に持ち合わせているというわけだ。
「今日は撮るの」
 僕がそう訊くと、ミホさんはジェーンマープル系統の服装に不釣り合いな、トレードマークとも言える大きなリュックサックを叩いて、もちろん、と笑った。
「終わったら二丁目で飲もうよ。金曜だし」
「フリーランスに曜日なんて関係ないでしょ」
「あるんだな、これが。お客様の都合があるからね」
 そう言ってミホさんはロールケーキに手をつけ始めた。その様子をつい観察してしまいながら、普通の人はどうやって日々の食事をこなしているのかという、僕の中での長年の疑問について考える。きちんと食べて痩せている人なんていないと思い込んでいる僕は、細い子を見ると吐いているに違いないという偏見を抱いては妙に仲間意識を抱いてしまうのだ。そしてその手の甲に吐きダコを探してしまう。しかしリョウやミホさんは、それこそモデルのような体型なのに摂食障害ではない。僕にとってそれは非常に不可解で、劣等感を抱いては自己嫌悪に陥る要因となる。人がただ健康でいるだけで病んでしまうなんて、人間失格だ。……そう自らを評して病むことは、正直心地好い。

 日が落ちた頃に新宿に移動し、二丁目のレインボーフラッグを掲げたショットバーに入る。レズビアンしか入店を許されない、女の子まみれの店内でなんとか壁際の席を確保すると、僕はカルアミルク、ミホさんはジントニックを買ってふたりで乾杯をした。液体だけなら吐くのは容易なので、こういうときばかりは好きなものを飲むようにしている。鏡張りの壁に映る自分の体型をちらちら気にしていると、ミホさんは「可愛い可愛い」と僕を茶化した。
「ブスだと、生きていけないし」我ながら可愛くないコメントだ。
「若いねえ。若いときは私もそう思ってたよ」
 ミホさんは僕よりひと回り以上年上だ。初めて年齢を聞いたときは、とても四十手前には見えなくて驚いたものだ。
「でもね、年取ると見た目とかどうでもよくなるのよね。で、若いってしんどいなあって思う」
「どうして?」
「呪いだよね。これは。ババアにならなきゃわからないよ」
「ミホさん、綺麗なのに」
「お、上手いね。じゃんじゃん飲みな」
 その上背を活用し、薄暗い店内にひしめく女の子たちをぐるりと見渡したミホさんは、好みの子がいなかったのか、肩を竦めると僕に千円札を二枚握らせた。カウンターで酒を買ってこいという意味らしい。
「ジントニックね」
「好きなの? いつもジントニックだけど」
「ん? 不味いよ?」こともなげにミホさんは答える。
「ああ、煙草とおなじ感じ」
「遠からず、って感じかな」
「煙草買ってきていい?」
「いいよ。コンビニの場所わかる?」
「大丈夫」
 一旦店を出て、近くのコンビニへ向う。小雨でも降ったのか、薄く濡れたアスファルトに反射するネオンの滲みを眺めながら横断歩道の信号が青になるのを待つ。東京の夜には香りがない。すん、と鼻を利かせながら車道の黄色信号を眺めていると、すみません、と男の声がした。振り返ると声そのままの、三十代後半男性の最大公約数のような男が隣に立っている。サラリーマンだろうか。僕が無視するより先に、男は続けて声を発する。
「お姉さん、脚が綺麗ですね」
 脚が、とはなんだ。と思うが、そのまま沈黙を通す。
「あの、蹴って貰えないでしょうか」
「……蹴る」
 突拍子もない発言に、思わず空気みたいな声が出た。
「はい」
「……はあ、嫌、ですね」
「そこをなんとか」
 まさか食い下がられるとは思ってもみなかったので、一気に不愉快になる。男のくせして話しかけてきてんじゃねーぞ、と喉まで出かかったところで、急激な面倒くささに襲われ、点滅している青信号を駆け足で渡った。しかし男はついてくる。
「他人に」もうコンビニは目の前なのに解放されない苛立ちで、スムーズに声が出た。「迷惑をかけるような趣味に、なんの価値があるんすかね」
「……あ、すみません」
 自身の行動で他人が抱く不快感に初めて気がついたとでも言いたげな、やたらと呆けた声を発して男は去って行った。案外根性ないな、と思いつつようやく訪れた解放感に押し出されるようにして溜め息を吐く。クソが、と呟いて踵を返し、コンビニに入り煙草を買うと、リスクヘッジの駆け足で店まで戻った。そしてカウンターでジントニックとグラスホッパーを買い、席に戻るとミホさんは煙草を吸っている。
「おかえり。遅かったね」
「なんかキモいのに絡まれた。蹴ってくれってオッサン」
 顛末を報告すると、ミホさんは声を上げて笑った。
「変なのばっかり釣るねえ、君は」
「ムカついて蹴りそうにはなったけど、蹴って急に慰謝料請求されたら嫌だし」
「それは、正しいね。そういう冷静なとこ好きだよ」
「可愛い子いた?」
「いないよ」言いながら、ミホさんは煙草の火を消す。「セックスする?」
「しない」
 ミホさんの提案を断りながら、グラスホッパーを一気に空ける。口いっぱいのチョコミント味に脳の芯をびりびりとさせながら、買ってきた煙草に火を点ける。早く酔ってしまいたいが、なんとなく今日は無理そうだと悟ってひとり消沈する。男なんて大嫌いだ。話しかけられるだけで鳥肌が立つくらいなのに、会話までしてしまった。今更になって沸々と怒りのようなものが湧いてくる。不快でした! と叫びたくなるような、熱く暗い気持ちが胸の辺りで蟠って嫌になる。男からは常に嫌な目に遭わされ続けてきた。しかも「だからレズビアンになったの?」などと馬鹿げたことを言うのも、決まって男だ。
「じゃんじゃん飲んでいいんだよね?」
「いいよ。飲んじゃえ」
 ミホさんに確認を取ると、カウンターへ行きアレキサンダーを注文する。男装の店員にドリンクの完成待ちついでに先ほどの出来事を話すと、キモいね! と溌剌とした笑顔が返ってきたのでいくらか溜飲が下がった。男なんて、女より消費されてしまえばいい。自分より腕力の強い存在から性的な目線に晒されて不快感に擦り減ってしまえばいいのだ。
「それ、一気して」
 席に戻るとミホさんはそんなことを言って、いつの間にか取り出していたらしいカメラをこちらに向けて僕を急かす。仕方なしにアレキサンダーも一気に飲み干すと、グラスを置いたタイミングでカメラのストロボがばちりと光った。一気に周囲の視線が集まるなか、いそいそとカメラを片付けた彼女がまた新しい酒を買いに行くのを眺めながら、壁に背中を預けて溜め息を吐く。
「なに? モデルさん?」ふと、隣の席で飲んでいた女に話しかけられ、首だけそちらに向ける。
「そう。地雷女ってやつ」答えながら、煙草に火を点ける。
「売れてるの?」
「売れてないし、売り出してないね。カメラの人のほうが売れてる」
 そんな会話をしながら、療養中という言葉が頭を過ぎる。労働と言えるほど動いてもいないのだから、今の僕はきっと人生を休んでいる身分だ。それなのに世界と自分の断絶に足掻いて人との関わりを捨て去れない弱者だ。
 それから終電まで飲み、最寄り駅のトイレで胃の中身をリセットしてから帰宅すると、部屋にはリョウがいた。開口一番に「酒臭い」と言われ少しむっとしたが、その指摘は的確だと思い直して彼女に今日の出来事を話す。
「カメラの人とセックスしなかったんだ?」
 バーでの件を話しているとき、ふとそんな言葉を投げかけられて面食らった。確かに誘われはしたが、ミホさん相手にそういう気にはなれない。いや、そもそも誰相手にも性的な欲求が湧くことはないのだから当然だが、押しに押されたら面倒になって応じるかも知れないという諦念は常に自分の中にあった。
「しないよ。カメラの人はカメラの人だし。面倒だし」
「面倒じゃなかったらするんだ」リョウは笑っている。
「面倒じゃないことがないけど、度合にもよるよね」
 そっか、と抑揚のない声で頷いたリョウは、手にしていたスマホをテーブルに置くとソファから立ち上がって僕の手を取った。
「風呂。入るか」一緒に、の意らしい。
「メイク落としてから行く。……先入ってて」
 答えて、洗面台へと向かう。鏡の前の僕は少し疲れた顔をしていたが、ジェルのメイク落としで顔を洗うと白く無感動ないつもの顔に戻っているようだった。もしかしたら疲労とは余所行きの顔に沁みつくのかも知れない。……特に僕のように感情が死んでいるような人間にとっては。社会参加してやっているとでも言いたげな恩着せがましい表情を表皮に押印して、一丁前の人間の振りをしている。
 服を脱ぎバスルームに入ると、髪を洗っているリョウの綺麗な背中が見えた。流れ落ちる泡と濡れた髪の合間から覗く獅子の入れ墨の、肌に馴染んだ色味の美しさに思わず魅入る。その背中の肌理の細かさに、入れ墨の施術中の彼女を想起し、その肌を割り生えてくる黒色の鮮烈な業が描く豊かな筆致を夢想すると背筋がひそかに震えた。虚妄だとわかっているのに、針を立てられながらも優雅に微睡む彼女の涅槃のような静けさは、妙な生々しさを孕んで僕の胸になにか訴えかけてくる。しかしその『なにか』の正体は掴めず、ただ曖昧に僕の中を柔く蹂躙して去っていく。いつもそうだ。激情を自覚しながらも子宮は沈黙し、股も濡れない。だからこれはきっと恋でも欲でもない。彼女のライオンは僕を孕ませはしない。きっとこうして、しつこく現実感から突き放されることが僕の望みなのかも知れない。性欲とはどこまでいっても現実である。石壁に百合の花は咲くかも知れないが、きっと僕のそれは一輪だけ。使わない子宮は伽藍と同義だ。その空疎を抱えきれなくなったときが人生の終わりだ。
 交代で身体を洗い、お世辞にも広いとは言えないバスタブにふたりして身を沈める。前髪を上げたリョウのすっきりとした顔に水滴が伝うのを見詰めていると、どうしようもなく悲しい気持ちに襲われた。膝を抱えて苦しみに対する防御姿勢を取っていると、そんな僕を見てなにかを察したのかリョウはにっと口角を上げ、そして僕の鼻を指でぎゅっと摘まんだ。
「どうした。お薬飲むか?」
「飲まない」
 くぐもって高くなった僕の声に彼女は鼻を鳴らして笑うと、出るぞ、と短く言って立ち上がった。後に続き、髪を絞る。リョウの手で乱暴に髪を拭かれながら、ふと彼女の乳房に手を伸ばしてみる。デュアル・セクシュアリティを感じさせる彫刻のような体躯に浮かび上がる一抹の不安は、触れるとすこし硬い。どうか男がこの身体に触れませんようにと祈り、僕の知り得ない彼女の未知を想ってそこに呪詛を投げつけた。
 リョウは抱かせてくれない。僕もどちらかというと受け身な方なので、なんの不服さも感じずにいるものの、彼女は受け身になることを明確に拒んでいるようだった。そんな潔癖さで以て練られた指先が僕の粘膜に触れるたび、火花のように断続する罪悪感が僕の胸の暗闇を照らして眩しい。この人は僕を抱くことによって罰でも受けている気持ちでいるんじゃないかと疑うほどに、疑念と焦燥が丸く膨らんで、それは針で突けばきっと血のように黒い墨が弾けるに違いない。人形師がそのパーツの内側に自身の血を塗りたくるように、伽藍の内側を熱心に苦行で塗れさせることは果たして美徳なのだろうか。
 彼女の背中の神聖さは、外皮の美にその生の重みが乗算されることで薫るものだと、僕は信じている。だから僕は、彼女の背中を抱くことができない。僕の手で触れてしまっては、その輝きを薄汚い皮脂で失墜させるに違いない。この点でだけは、僕は傲慢であって良いと定めている。……彼女のことは、なにも知らないのに。
「未だハタチになったばかりだろ」ベッドの上、仰臥したまま煙草に火を点けるとリョウが煙に顔を顰めた。「不味いだろ。なんで吸ってんだよ」
「子供作らないから」僕は吸い口に埋まっているメンソールの球を噛み潰す。
「要らないのかい」
「うん。だから吸う」
「好きな女ができても?」
「仮に欲しくなっても、僕は産まない」
 女同士のカップルでも、子供を作ることはできる。片方、或いは両方が排卵のタイミングで男から精子を貰って来ればいい。それはパートナーが男と寝るという苦痛に耐えられるのならば現実的に実行可能な案だが、僕には当然無理だ。
「シュンは男嫌いだからな」
 そう呟くリョウに、「そっちはどうなの?」とは訊けずに口を噤む。彼女と男にまつわるなにもかもを、僕は知りたくない。実はバイセクシャルであるとか、実はノンケだとか、そういう事実があれば、一生知らずにいたい。それは僕にとって醜悪で腐臭のする、おぞましい不必要だ。それらを排他しきった先に、リョウが凛と一輪咲いていればいい。そういう妄想を赦してくれればいい。結局、僕は彼女を一個人として見てはいないのかもしれなかった。
「男は皆、性欲を前にすると頭が悪くなる。だから嫌い」
 男が女を不快にするとき、性欲が介在しないことは有り得ないと僕は考えている。
 前の彼女と同棲を始めた頃、僕は仕事の取引先の男にレイプされたことがある。食事でもどうですか、とビジネスな笑顔で誘われ仕事のためにとついて行ったのが間違いだった。中華料理を一緒に食べながら他愛もない会話をし、その視線にべたべたしたものを感じはじめたので焦ってはいたものの、仕事の一環だと耐えた。店の大きな水槽の中でシンボリックに泳ぐアロワナを眺めて平静を保とうとした。水棲生物はいい。温くも熱くもない。積極的に同棲している恋人がいると話しながら、この店美味しいから今度連れてきたいな、だなんて私生活をちらつかせもした。しかし頭の悪くなった男にそれは通用せず、車の中で犯された。早く終わらないかと涙を流しながら車の天井を眺めている最中、これは泣き寝入りが多いな、とぼんやり思ったのを覚えている。以後、自己責任だとか言うような奴らは許さないと決めた。こんな理不尽からは逃げられないし、逃げられないからこそ理不尽なのだ。その日はなんとか生きて帰路に着くことに成功し、僕は飛び乗った急行電車の中で漸く心が死んでいくのを感じた。さっき死んでくれればよかったのに。そう自らを呪いながら、イヤフォンから流れてくる世代でもない懐メロにだけ鼓舞されるようにして立っていた。股が痛かった。生理痛のような鈍痛と、裂傷の生々しい痛みがあった。別れ際「またね」と宣った男は、合意の上だとかクソみたいなことを思っただろうか。だとしたら僕はすべての男を呪う。
 最寄り駅に着くと、改札内のゴミ箱に土産として貰っていた焼き菓子セットのようなものを叩き込み、ドロドロに煮詰まった憎悪を原動力に歩いた。男は全員死ね。ここでメソメソとひ弱な挙動ができなくては保護されないというのなら、守られなくたって構わない。全員殺してやる。ペニスがついているやつは全員。止まらない呪詛が腹腔に溜まっていくのを感じつつも、次第に歩幅が縮まっていき、遂には歩けなくなった。しかしこんな失態を当時の彼女に連絡することは憚られたので、趣味の集まりで知り合った友人にメールで事態を打ち明けた。婚約者のいる彼は、その婚約者に許可を取って車で迎えにきてくれたのだが、不幸とは重なるもので、準既婚者なら安心だろうと発した救難信号それ自体も間違っていた。そのまま警察か医者に連れて行ってくれるのかと思いきや、彼とその婚約者の住む家に連れていかれ、服を脱がされそうになった。パニックを起こして部屋の隅でぶるぶると震えている僕を見下ろして、彼は言った。
「そういう隙があるところにつけ込まれるんだよ。気をつけなよ」
 ふざけるな、という声が喉まで出かかった。要するにこの男は、心配する体であわよくばを狙い、拒絶されたから教訓めいた説教を垂れているのだ。その気色悪さ、格好悪さ、頭の悪さに僕は激烈な嫌悪感を覚え、泣いた。こんなに無様な生き物が人間であっていいはずがない。痛がっている人間を殴ることで立つ優位性になんの意味があるというのだろう。こんな男にも婚約者がいて、もしかしたらいずれ親になるのかと思うとなにもかもが信じられない。僕を駅まで送った男は、またしても「またね」と言った。もはや僕のなかで男は個人として認められなくなっていた。救助を求めた場所と同じ駅のロータリーに置き去りにされた僕はただ、数時間で同じ傷を負って、最悪なタイムスリップをして、痺れる脚で立っていた。
 次の出勤時に勇気を振り絞りそれを上司に報告すると、「そんな大袈裟な」と笑い飛ばされた。男だった。

 二週間に一度、僕はメンタルクリニックに通っている。住んでいるところから何駅か離れたその駅前の医院に通い始めたのは元彼女と別れてからだ。受付を済ませ、やたらと白い院内のきっちりと整列したソファに腰を下ろして順番を待つ。壁にかけられた写真も、流れる音楽も初来院以来変わっていない。ここだけ時が止まっているのではないかという錯覚は、見かける様々な患者たちによっていつも打ち消された。待合室をうろうろと歩き回っている者、そこそこの声量で独り言を垂れ流している者、見た目よりずっと幼い言動の者、トイレに鍵をかけられない者、診察室から漏れ聞こえるほどの大声でなにか泣き叫んでいる者……様々だ。外を歩くよりもずっと濃密な人間の有り様に、耳の奥で不協和音が鳴り続ける。ここにずっといたら却って気が病むな、と思い始める頃に、放送で名を呼ばれ診察室に入る。
 担当の先生とは、毎回雑談のような会話ばかりをしている。対面が苦手なので椅子を少し斜めに移動させる僕を見守る先生は、男だが僕を傷つけない。
「この二週間でなにかありましたか」先生はそう言いながら、タブレットの液晶を下にスクロールしている。その動作がもたらす安心感の為にここに来ていると言っても過言ではない。僕の言動や症状がきちんと纏められ、データとして残っているのだ。記録の一片と化して、人型に鋳造された只の入れ物として存在できる……そんな場所は世界でここしかない。
「いつも通りです。外には何度か出ました」
「大丈夫でしたか? 不安になったり嫌な気持ちになったりは?」
「いつもと同じくらいです。ああ、でも変な人に会いました」
 そう言って、僕は新宿二丁目で遭遇した変態男の話をした。
「それは……」先生は言葉を選んでいるようだったが、僕が肩を竦めているのを見て雑談の一環として捉えてくれたらしい。「困ったでしょう。蹴らなかったのは偉い」
「病んだり他人に迷惑をかけなければ、趣味嗜好に貴賤はないと思います。……と、言うのは大人としての建前で、普通にキモかったです」
「それは、そうでしょうね。人として当然だと思います」
「キモかったので自棄酒をしました。……あ、墓穴掘ったな」禁止されている飲酒をしたことを自ら暴露してしまい、思わず手で口許を隠す。
「掘りましたね。お酒は控えてくださいね。特に薬を飲んでいるときは」
「その日は薬飲まなかったんで、健康でした」
「それは……まあ、たまにだったら良いと思いますが、程々に」
「はーい」
「食事はどうですか」
「いつも通りです。吐いてます。ああ、でもアイスを食べました。消化しました」
「それは良いことですね」
「でも家の冷凍庫にまだそのアイスが残ってるのが、なんだか怖いと言うか、気になります」
「気になるというのは、どうしてですか」
「なんだか……そこだけ生きてるみたいな質量を感じられるんです。鮮魚売り場の笊の上で未だ生きている蟹を見たときみたいな」
 処方箋を受け取り、外に出る。暗くなり始めた冬の空に、紫色が斜陽の残滓として西の方で燻っている。この時期の黄昏は、美しくて心臓に悪い。なるだけ視界に入らないように俯き、そそくさと数件隣の薬局へと入った。

 元気になることができた日や健康でいられた日に対する嫌悪感は、日々蓄積される。たまたま調子が良かっただけであるとは自覚しているものの、そんなひとときは自分には分不相応にしか感じられず、罪悪感からか服薬せずにいられた分の、薬の貯蔵を酒で一気に飲み干し眠り続ける。一体ぜんたいどうしてこうも自虐的な体内時計になってしまったのか、と疑問に思うものの、きっかけとして思い当たることが多過ぎていつしか原因を追及することを止めた。
 調子の良い日といえば、リョウやミホさんと会うときばかりで、この期に及んで人が恋しいのかと猛省する。僕に関わってくれる数少ない存在を恥に思うことが、どれだけ強欲なのかを知ったふりをしている自覚それ自体を真面目だと讃える慢心と、詳細に考えることを拒否する感受性の贅沢な悲観に揺さぶられ、がくがくと脳髄が掻き混ぜられるような錯覚に陥れた。この不快な酩酊をどうにかしたくて縺れる足で追加の薬を探し回れば、いけないとわかっているのに市販の風邪薬に手が伸びる。近くにあったパライソというライチリキュールで薬を流し込むと、強烈な甘さに嘔吐いた勢いで鼻から胃液を噴いてしまった。シンクに飛び散った液体を水で流す気力もなく、がんがんと煩わしく痛む頭を抱えてその場に座り込む。掠れた嗚咽が洩れ、慢性的な喪失感に平衡感覚がいかれて倒れ込む。胃液がぐるりと動くのを感じる。このまま無様でいたらこの惨めなモンスターもいつか人間に及ぶだろうか。しかし惨めだからこその非人間であることも承知している。人間とはなんだろう。人間になりたい、と常に願っている。僕は過去に断罪されることを愛しでもしているのだろうか。
 べそべそと泣きながら、遠くでメッセージの着信音が鳴るのを聞く。立ち上がれない。静かに仰臥している筈なのに回る天井。薄暗い室内。遮光カーテンによって断絶される二十四時間、その太陽の動き……。
 脆弱であることは幸福に対してばかり適用される。辛い出来事よりも幸福な出来事に対する耐性を失いつつあるのは、鬱のせいだろうか。安寧から逃げ、悪い方向ばかりに進み、自分の心の至らなさに遭遇するたびに、その泥臭さに耐えきれず心の堤防を壊してしまう。横溢する自己嫌悪と自己憐憫。僕を形作る汚穢はひと粒の砂金すら許さんばかりの濁流と化し、膨張し、ごぼごぼと沸騰しているかのような音を立てている。
「おい、シュン。大丈夫か」
 どれくらいの時間気を失っていたのだろう。低い声が降ってきていることを感じて目を開けると、リョウが僕の顔を覗き込んでいた。視線を少しずらすと、コンビニのものと思しき白いビニール袋が見える。透けている中身は例のカップアイスだ。なに味だろうか。
「生きてるな。よしよし」
 リョウの腕に抱き起こされ、また胃液が蠢く。うえ、と不快感に声を上げると背中を軽く叩かれた。涙も鼻水も乾いている顔面のパリパリとした皮膚感覚。キッチンの収納扉に凭れさせられ、ようやく身体が平衡感覚を思い出す。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すリョウの向こう、廊下のその先、開きっぱなしの玄関から赫奕とした西日を見る。鈍痛を響かせる頭にその光は強烈で、なにもかもがダウナーな僕の脳からセロトニンがだばだばと製造されることを祈る。リョウに助けられながら水を飲むと、彼女に支えられてベッドに入った。
「なにがしんどかった?」優しい声で、リョウが問うてくる。僕の頭を撫でながら。
「なんにも、しんどくなかったのに」喉の奥が甘ったるく粘っていて上手く声が出ない。「なのにしんどかった」
「そうか」短く相槌を打って、リョウはベッドから腰を上げた。物音からして、買ってきたアイスを冷凍庫にしまったのだろう。すぐに戻ってきた彼女は、ベッドに背を凭れるようにして絨毯の上に腰を下ろした。
「病院、行くか?」
「行かない」
「オーケー。そういうときもあるよな。わからんけど」
 そんなドライな相槌に、どうしようもなく安心して目を閉じる。目蓋が熱い。
「死んでなくて良かったよ」
「死ねばよかった」
「馬鹿か。死ぬときはもっと綺麗に死ねよ」
 首を動かし、彼女の後頭部を見詰める。その髪に手を伸ばすと、見た目通りの手触りがした。その骨張った肩越しに、開いた文庫本が見える。
「本、読むの」それが僕の読みかけの本だと気づき、訊ねる。
「昔はよく読んでた。今はからっきしだな。目が滑る」
「それ、読むの?」
「どうせ暇だしな」
「……ごめん」
「なんで謝る。寝ろ」
 身体を捻ってこちらを向いた彼女の手が、僕の胸の辺りを叩いた。それを合図に、まるで催眠術にかけられたように睡魔が襲ってくる。それが正常な生理現象である予感に幽かな歓びを感じ、それを腹腔満杯に味わおうと手繰り寄せている内に意識が途切れた。

 オーバードーズで胃を荒らしている内に体重は更に減少した。数日は尿の出が悪く、遂に腎臓が死んだかとひやひやしていたものの、比較的すぐに回復したようだった。朝、体重計の上で恍惚とする数十秒で、僕はどんどん人間から遠ざかっていく。脹脛と殆ど同じ太さになった腿の頼りなさを実感する度に、アドレナリンでも出ているのか決まって高揚した笑い声が洩れた。小躍りすることもあった。空っぽでいる快楽はなににも代え難い。身体の軽さを自由の享受と勘違いできているうちは、『元気』でいられるのだから、案外僕の頭は単純だ。
「また痩せた? お化けみたいだよ」
 久々に会ったミホさんは、僕の姿を認めると挨拶代わりにそう言った。
「お化けって、高校の頃も言われた気がする。あのときはもっと痩せてたけど」
 高校在学中、通学途中に毎日昼食を買いに寄るコンビニの店員にそう言われたことを思い出す。いつも野菜ジュースしか買わないけど、と切り出されて。
「それ以上? いや、以下か。 なにがあったの」
「それが思い出せないんだよね」
 話しながら、歩き始める。今日はミホさんの友人とスタジオをシェアしての撮影と聞いてその最寄り駅での待ち合わせだったのだが、こんなラブホ街に撮影スタジオがあるのかと少し驚きつつ彼女に続く。そのスタジオは商店街の中にあり、一見民家のような出入口を潜ると、そこにはコンクリートが打ちっぱなしのシンプルな空間が広がっていた。
「おはようございまーす」
ㅤ朗らかに挨拶するミホさんに、既に到着していたらしい彼女の友人とそのモデルが挨拶を返してくる。僕も会釈をする。ミホさんから彼女らの紹介を受けながら、撮影に使うであろうスペースの向かいに並んだ折り畳みのテーブルの上にケータリングよろしく惣菜や菓子が並んでいるのを見つけて、僕は一気に気分を悪くした。気づいた途端に、それらが放つ匂いが気になって仕方がない。ここに来る途中に総菜屋に寄って来ていたらしいミホさんも、テーブルの上に料理を広げていく。
「シュンちゃん、朝ごはんは食べた?」
「うん、食べたから大丈夫」
 ミホさんの問いに瞬時に返事をしながら、なるべく口呼吸を心かける。乗り物酔いのような気分の悪さに逃げだしたくなるが、ぐっと堪えて入口とは反対側のドアの先にある喫煙スペースに移動する。未だ撮影は始まりそうにない。
 煙草に火を点けると、ようやく肺呼吸が上手くいった気がした。吐き出した煙をもう一度取り込むつもりで深呼吸をすると、徐々に頭が覚醒してくる。念のため抗鬱剤を飲んでスタジオ内に戻ると、油で唇の濡れたミホさんに衣装を渡された。
「着物って自分で着られる?」
「着たことないかも」
「じゃあキョウコさんに着せて貰おう。更衣室はあっちね」
 ミホさんの友人のカメラマンであると紹介された女性と一緒に更衣室に入る。歳はミホさんと同じか、少し上だろうか。着ていたものを脱ぎ、彼女に濃い青紫の着物を着付けて貰う。
「うわー、細すぎるねえ。タオル巻こうね」
「すみません」
「ちゃんと食べてる? お腹空いたら料理食べなね」
「ああ、僕は大丈夫です。ありがとうございます」
「……ミホちゃん、僕って一人称の子が好きなんだねー。髪の長い」
 その言葉に、キョウコさんの手元を注視していた目線を上げる。そんな僕に気づいたのか、彼女は微笑みながら続けた。
「ミホちゃんの知り合いにね、君みたいな子がいたのよ。初期の作品のモデルもしてた子で、雰囲気のある子だった。いつの間にかつるむのやめたみたいだけれどね。彼女が今なにしてるかは知らないけど」
 そんな話を聞きながら、胸に洞のように渇いた沁みが広がるのを知覚する。やっぱり、と思う気持ちと、代替品だったのか、という妙な納得感に細い息を吐けば、誘発された動悸に腋下が冷える。そういえばミホさんには僕に対しての距離感が時折ちぐはぐになるような節があった。撮影前なのに妙に疲れてしまったのか、強烈に糖分が欲しくなる。特にチョコレートが食べたいような気がしてきて、着替えを終え更衣室を出るとテーブルの上の個包装のチョコレートをひとつ手に取った。少し迷った末、封を切り口に運ぶ。久々に感じる濃い味に、耳朶の真下あたりがぎゅっと締まるかのようだ。その鋭い感覚と若干の後悔に顔を顰めていると、不意にカメラのシャッター音がした。顔を上げればミホさんがこちらに向かってレンズを向けている。睨んでやると、もう一度シャッターが切られた。
「いいね、ちぐはぐで」
 ちぐはぐなのは、ミホさんの方だ。珍しく食べてしまったチョコレートの包装紙が屑籠に向かってひらひらと落ちていくのを感慨深く眺めながら、口の中に残る甘味にオーバードーズをした日の胃の不快感を思い出す。起きて活動していることすべてが自傷行為のように思えて、そんな自分の鬱屈としたところに嫌気が差した。社会参加、とちいさく声に出してみる。振り返れば、キョウコさんたちはもう撮影を開始していた。
「シュンちゃん、こっち来て」ミホさんに手招きをされ、撮影ブースに向かう。外でポートレートを撮るときよりも大仰な撮影機材に、鈍器の群れに囲まれているような心地になりながら、彼女の指示を聞く。かわいい、きれい、いいね……傍らのキョウコさんたちが賑やかに撮影をしているその合間、ストロボが被らないように控え目に、黙々と作業をする僕らの対比。まじめにまじめに動くミホさんの、その挙措はまるで壇上の踊り子だ。僕は観劇でもしているかのような姿勢で、どこかの定点カメラの様子を覗いている錯覚に陥りながらも彼女の指示に従う。
「今だけ私のこと、好きになって」
 無理だ。……とは言えずに視線を外す。そのまま、と吐息のような声が聞こえた気がした。
 撮影を終え、雑談をしながら撤収作業をする。着替えを終えた僕はゴミを纏めながら胃に入れたチョコレートのことを考えていた。もう吐けないに違いない。しかし食べ吐きで心の平穏を保つことのほうが有意義ではないと、半ば強迫的に思い込むようにする。
「これから飲みに行こうって話になってるけど、行く? 」
 ミホさんがそう問うて来るのに、首を横に振る。
「ちょっとやることあるから、ごめん」
「そっか。わかったよ。じゃあまた連絡する」
 キョウコさんたちにも挨拶をしてからスタジオを出ると、外は日が落ちてきた頃で、乾燥した寒風が頬を突き刺した。コートの襟を掻き寄せ、ホテル街を突っ切り、足早に駅へと向かう。

 僕にとって食べ吐きをするという行為は、もはやなくてはならないストレス発散の手段として定着して久しく、かれこれ十年になる。最初は行き過ぎたダイエットからなる、一過性の衝動のようなものだったが、その強迫めいたデトックスは次第に非常に苦しい快楽となり、いまや抑鬱状態を打破する手段や、疲れを誘発しスムーズに入眠する手段などに用いるようになり、とても身近にある。なので個人的には過食嘔吐に対してそこまでのマイナスイメージは抱いていないのだが、他人はそうでないらしく、親しければ親しくなるほどになんとかして私に食べ吐きをさせないように奔走してくれる。甚だ迷惑このうえないのだが、それらが好意からくるものだと当然理解しているし、その感情自体は不快ではない場合があるので、拒絶もし難い。そうして僕はいつしか親しくなった人に対してこの病の話はしなくなっていた。
 吐きダコにファンデーションを塗っていたことを思い出したのは、既に手を口に突っ込んだ後だった。上顎の奥に、油分の風味がある。しかしそんなことを気にしている場合ではないと思い直し、人差し指から薬指までを喉奥に押し入れ抜き差しを繰り返す。ごふ、と圧迫感に咳の出来損ないのような声が出て、間を置かずに胃の内容物がびしゃびしゃと便器に落ちる。水が跳ねないように敷いたトイレットペーパーの上に積み重なる、先ほどまで咀嚼していたものたち。吐けるうちが華だという強迫観念に、抜き差しをする指が速まる。肋骨が痛い。脚が痛い。頭が痛い。動悸を催す程に絡みつく痩身への執着が、僕をモンスターへと追い遣る。
 自己嫌悪と達成感に包まれながら体重計に乗れば、朝より二百グラムばかり増えていた。それを誤差だと言い聞かせる自分と、度し難い堕落だと決めつける自分の間に生じるスパークの様なパニックにしばらく身を浸し、茫然とする。
 自分を愛せなくなったのはいつからだろう。記憶を遡ってみても、そもそも愛していたかどうかさえも思い出せない。あの頃はもっと痩せていたのに。そんな回顧ばかりが膨らんで、呼吸さえ忘れかけている。思念の腹部膨満感。躁になりたいな、と希望を口にする。部屋には誰もいない。自分でさえも。

 リョウについて知っている数少ないプロフィールのひとつに、マゾヒストのトップブリーダーというものがある。趣味なのか性癖なのかは知らないが、僕たちの出会いもそこから派生したものだったと記憶している。当時流行っていたソーシャルネットワーキングサービスのSM愛好家のコミュニティで知り合い、連絡先を交換し交流を深め、住まいが近いことを知り実際に会いに行ったのだ。当時の僕は自分がマゾヒストなのかサブミッションなのか、自分の嗜好を定義しかねていたわけだが、彼女との出会いでそれらについて考えることを放棄するに至った。被虐・服従趣味に自身を固定できれば生きやすいのだろうと思い込んでいた僕だが、ほんとうに一切合切、どうでもよくなった。それほどまでに鮮烈な印象を彼女に抱いたのだが、特段彼女に調教されたりしたのではなく、初めて現実の彼女を目にした瞬間、天啓がひらめくように唐突に、ほんとうに唐突に、自身の深層についての興味を失ったのだ。あの日、原宿駅の竹下通り口の雑踏の中で、彼女はすぐに僕を見つけてくれた。僕の顔なんて知らなかっただろうに、後ろから肩を叩かれた。振り返った。そこには神がいた。それだけの話だ。
 彼女には数多くの奴隷がいた。彼女は彼らに対して平等だ。決して優劣をつけることはなく、特段の興味を抱くこともない。容姿や言動などの選定基準は高かったに違いないが、それ以外のことは心底どうでも良いらしく、彼女は常に無表情に彼らの望むままの断罪をして遊んでいた。暇潰し程度の態度で。なので僕に彼らの話をすることは滅多になく、それが僕を無性に不安にさせもしたし、安心させもした。
 僕は彼女の奴隷ではない。なぜだか、そうはならなかった。なれなかった。僕はただ、時折リョウの睛に獰猛な光が宿るところを愛していた。宵入りの空に、ガラス片のように輝く明星の存在に気づいた瞬間のような感動を、永遠に覚えていた。夜空の覇を月光に取って代わられる前に最も輝きを増すのを密かに待ち伏せていた。美しく映えるところを見てみたかった。彼女の眼差しの前に晒されると、人体という蛋白質は剝き出しの魂へとたちまち変質させられてしまう。裸よりも無防備な生まれる前の状態。それは存在していないのと同義で、僕はつい恍惚とするのだった。
 だからいつかは彼女に殺してほしいと願っている。その真白い歯列で以て喉を切り裂いてほしい。狩人の義務として淡々と。救いを求める魂にとって言葉は力だが、彼女の眼差しにはそれ以上のものが秘められている。否、秘められていなくては困る。彼女は僕の願望器だ。その金杯を満たすのは、一個人のブージャムでなくてはならない。

「アイス。食ってねーじゃんよ」
「ああ、それ僕のなの? 」
「お前のだよ。お前と俺の!」
 僕の部屋にやって来て早々、リョウは僕が悪ふざけで選んだ趣味の悪いオレンジ色の冷蔵庫を開け、中を確認すると不満げな声を出した。彼女がそのカップアイスを毎回ふたつずつ買ってきていることは知っていたが、僕は手をつけずそのままにしていた。
「相変わらずなんも入ってねーな……」
 そう洩らしながら、リョウは新しく買ってきたらしいアイスを冷凍庫に詰めている。それを斜め後ろから眺めながら、僕は得体の知れない不安感に脚の皮膚の内側をむず痒くさせていた。痺れはじめてもいる。
「メシ食ったか?」
「忘れました」
「はいはい、アイスを食わせてあげような」
 そう言って、リョウは冷凍庫の奥のほうにある、一番古いであろうアイスをふたつ取り出し、専用のプラスチックのスプーンと一緒にテーブルに置いた。手招きで促されてソファに腰を下ろし、ふたり並んでアイスを食べる。
「寒い……冬だよ今」
「ひざかけ要るかい」
「ちがう……そうじゃない。なんでアイスなのって婉曲に伝えてるんだよ。食べさせるならお弁当買ってくるなり料理するなり外に食べに行くなりすればいいじゃん。僕が言うことじゃないけど」
 僕がそう言うと、はは、と笑ったリョウは脱いだ上着を僕の膝にかけた。膝に触れるその裏地はとても冷たく、雪のような質感に感じられた。もしかしたら彼女に体温などというものはないのかもしれない。
「お前がアイス食ってるのを見るのが、好き? 面白い? 愉快? なんだよ」
「なんでそんなに疑問形なの」
 しかし僕がアイスを食べている様子が、彼女にとって好ましい事柄であるということは理解できた。そしてそんな風に思ってくれていることに対して嬉しいような気持ちになるものの、これは疑似餌に違いないと身構える自分もいる。気を抜けばたちまち喉笛を噛み千切られてしまうに違いないという期待を込めた偏見は、甘くて苦しい感傷を僕の心にぽつぽつと落としていく。
「なあ、薬大量に飲むと気持ちいいの」
 そんなこと試そうと思ったこともないとでも言いたげに、しかし特段の興味もなさそうに、リョウが問うてくる。
「気持ちよくないよ」カップの中央の、アイスの硬い部分をそぎ落としながら、僕は彼女の目を見ずに答えた。「美味しくないし」
「それはなんかマゾ的なアレ?」
 マゾを多頭飼いしておきながら、リョウは彼らの心の機微に無関心そうな声音でいる。
「近いかもしれないけど、満足はしないよ。あーあって感じ。なにやってんだろーって飲む前も最中も終わった後もずっと思ってる」
「でもするんだ」
「そう。なんでだろうね」
「俺が見つけなけりゃどうなってた? 」
「うーん、最悪吐瀉物が喉に詰まって死んでたかもね」
「酔っ払いだ」
「酔っ払いだよ」
 非生産的な会話だ。だが否定されないだけ有り難い。過食嘔吐と同じで、否定する人間が多い自傷行為なのに、リョウはただただ会話として処理してくれる。まるでカウンセラーか紳士のようだ。
 食べ終えると、リョウは僕を大袈裟に褒め、そしてベッドへと誘ってきた。
 呼吸を預けられるほどの恋などしたことがなかった。僕の欲望といえば子宮に直結しない形式美的なものに限定され、そうなると焦がれる気持ちなど知らずに生きてこられてしまう。なのにリョウの存在に執着しているのはなぜか。これは恋なのか。考えるほどに坩堝に嵌っている気がして、その無様な自分を客観視しては首を掻き毟りたくなる。このひとは、僕を愛してなどいない。凪の海原のようにすら思える静寂のポーズは、軟質のバリアだ。つけ入る隙も権利も認めてくれないその平淡さを、僕は強烈に愛してしまっている。ただ傍にいさせてほしいだけではあるものの、そんな謙虚さと傲慢さの間で揺れ動くこの炎は不完全燃焼の色で以て僕の心に昏い煙を上げている。
 女が女を抱くには体力が要るものだが、リョウはそれを優雅な動作でするりとやってのける。まるでカンヴァスの前でインスピレーションに身を預けるかのように、そして相手の快楽など横目に、美しく作業する。そこに生々しさなどなく、生も死もない……のは、僕がオーガズムを得たことのない身体だからだろうか。不毛な行為だと感じるものの、精子が着床することなくティッシュペーパーやゴムや膣内に吐き出されることよりは崇高な儀式だと言える。僕たちは、なにも無駄にしていない。可能性を消費していない。至って清らかな聖餐だ。洗礼を受けていない男共など、どこからも消え失せてしまえばいい。
 加湿器の前に座り込み煙草を吸う。少しふにゃりした紙巻きの、湿気を孕んだ吸い心地に片目を細めながら、片手でテーブルの上の灰皿を引き寄せた。裸の腿にはらはらと落ちる細かい灰。雪みたいだな、と思う。テレビをつけると、天気予報が今週は記録的な積雪になると告げているが、都会の雪などたかが知れている。しかしほんの数センチ積もっただけで交通網は麻痺し、雪道に慣れない都民は転倒するのだから面白いものだ。雪国育ちの僕には到底理解できない都市構造である。
「今週雪凄いんだって」リョウが起きている確信もなかったが、振り返らずにそう言ってみる。
「雪だあ? めんどくせえな……」
 眠いのか、消え入りそうな語尾の声が返ってくる。窓の方を見ると、遮光カーテンの隙間に張りついた暗闇で今が夜だということが窺い知れた。
「散歩に、行きたいな」ふと思いついたことを口に出せば、リョウがわずかに顔を上げる。
「今か?」
「ううん、雪が降ったら」
「ああ、楽しいかもな」
 その返事を皮切りに、優雅な肉食獣が眠りに落ちたのがわかった。僕たちは、遠い未来の話をしない。常に数日、数週間先の巡回で生きている。意見を擦り合わせたことなどないが、この先僕たちの関係性がどうなるのかなんてことには興味がないのだろう。そもそも、この関係性に名前などない。きっと、友達ですらない。否、『友達ではない』が正しいか。
 リョウからは、人間の匂いがしない。皮脂や老廃物の匂いが一切しない。喩えるなら、雪空のような匂いがする。きっと彼女はなにをしていてもこの匂いのままでいられるに違いない。僕を抱くとき。奴隷を調教するとき。背中に針を刺されているとき。僕の知り得ないときでさえ、熱量変わらずずっとファーストノートの爽やかさで在り続けているに違いない。それを思うと狂おしいほどの渇仰に襲われる。もはや彼女は、僕にとって人間ではないのかもしれなかった。
 渇仰する僕は、彼女の寝顔を盗み見ない。彼女の私生活を知ろうとしない。新陳代謝を信じない。その背中で寛ぐ獅子の涅槃を拝謁し、そして死ぬ。未来の話、そうしたい。

 どうして私の気持ちに気づいてくれないの……と、前の彼女に言われたことがある。彼女は中学、高校と一緒だった同級生で、卒業してしばらくしてからつき合い始め、一緒に上京しルームシェアを始めた。彼女はカメラの専門学校に通う学生で、その学校の受験の際に僕を被写体にした写真を提出して合格していた。同居してはいたものの、彼女は学校とアルバイト、僕は仕事で忙しかった為に顔を合わせる機会は少なく、稀に休みが合っても作品撮影ばかりで恋人らしいことはほとんどせずにいたと思う。
 或る僕の誕生日、折角なので外でディナーでもしようと店で待ち合わせ、ふたり話し合ってささやかなパーティーをしようと計画していた。彼女は学校帰りに店に向かう予定で、僕はたまたま休みで自宅にいたのだが、そろそろ家を出ようと準備をはじめたとき、彼女から連絡があった。内容としては現金の持ち合わせがないので棚に置いてあるバイトの給料袋から現金を持って来てほしいという内容だったのだが、指示に従って指定の場所を物色している最中に、僕はそれを見つけてしまった。小物入れの下からはらりと落ちてきたそれは、男と写っているプリクラで、しかも刻印されている日付は最近のものだった。あーあ、と間抜けな声が出たことを覚えている。それからレストランで合流し、当時未成年だったのでノンアルコールで乾杯をして料理に手をつけている最中も、彼女には至って不審な点はなく、その可愛らしい顔や仕草にもなんの翳りや焦慮もなさそうだったので、あのプリクラの収納場所自体を失念しているであろうことが読み取れた。今日も可愛いなあ、などと月並みなことを思いつつも口が勝手に動いたことに関してはまったくの無意識であると、今でも弁明したい。
「あのプリクラ、なに?」
 馬鹿だなあ、と思った。僕に対しても、彼女に対しても。
 一瞬にして彼女の黒目が凝固したのを僕は見た。こういうとき、人はこんな表情になるのだなと静かに観察していた。
「見たの」しばらくの沈黙の後、彼女はそう言った。
「見たよ。もう、どこに隠していたかどうかくらい覚えておいてよ。吃驚しちゃった」
 僕は笑顔だった。カッターで切り分けたピザを皿に運び、口に運び、その無味さに感慨もなく、ただ彼女の懺悔を聞いていた。映っていた男は、同じ専門学校の生徒だということ。実は彼女はバイセクシャルであるということ。彼と私の他にも女と男がいて、計五人にもなるということ。要りもしない情報をべらべらと喋る彼女に対して、僕は食事ついでに憐憫を抱いていた。そこまで話さなければいいのに。話さなければ罪は重ならないのに……。彼女の思惑が理解できなかった。この頃の僕は比較的メンタルか安定していたので、誰かと外出するときであれば普通に食事が可能だったのだが、そのときばかりは久々に胃に不快感が溜まっていた。僕はばくばくと料理を胃に詰め込んで、それはまるで彼女の告解を吸い込むかのようだ。彼女はそんな僕を理解できないとでも言いたげな眼差しで眺めているようだったが、遂に『僕』に対して口を開いた。
「どうして私の気持ちに気づいてくれないの」
 僕はつい、口角を上げた。そのまま次の言葉を待つ。
「好きなのに、なんで気づいてくれないの」
「……付き合ってるじゃん」彼女の意図を測りかねて、事実を口にする。
「そうだけど、わかってない……」
 そう彼女が消え入りそうな声で言ったとき、テーブルにケーキが運ばれてきた。手持ち花火のようなものが刺さっていて、ぱちぱちと火花を散らしている。皿の余白にはチョコレートソースでHappyBirthdayと書いてあった。なるほど、サプライズというやつか。僕は店員と彼女に向かって笑顔を作ると、喜んでみせた。薄暗い店内、琥珀色の火花に照らされながら彼女は静かに涙を流していた。その顔が可愛らしくて、僕はしみじみと彼女の容姿の優良さに感心していた。

「人でなしって、人間に対してしか使えないから、人でなしって最も人間らしい状態なんじゃないかな」
「どうしたの、急に」
 僕の言葉にミホさんは少しだけ目を細めると、慈愛深く変容した眼差しを手元のアイシャドウパレットに落とし、摘んだ化粧筆に青いシャドウを少しだけ含ませた。そしてそれを僕の眦に乗せ、指でぼかす。その指先はほんのりとつめたく、女の子だな、と思う。
 メンタルクリニックの待合室で行われるには不釣り合いな行為とは裏腹に、僕たちは真っ当に小声で、息を潜ませて名を呼ばれるのを待っている。彼女と別れた当時、心身の不調を受け容れられずに密かに発狂していた僕にこの医院を紹介してくれたのはミホさんだった。いま思えばそのときの僕は自身の感覚と世間一般との感覚の違いに、その疎通の難しさに、全身で拒絶反応を起こしていたのだろう。ミホさんと初めて一対一で会う日、メッセージで送られてきた待ち合わせ場所に行くことができず、元彼女の荷物が運び出されつつある部屋の隅で蹲って泣いていた僕を、ミホさんは見出しにやってきた。改めて自己紹介する間もなく、まるで脈拍を確認するかのようにミホさんは僕の肩を掴んでひとことふたこと声をかけると、手早く電話で病院の予約を取って僕を外に連れ出してくれた。以来、僕はこのメンタルクリニックに通っている。
 今日はミホさんの予約と僕の予約の日にちが被っていたのでふたりで病院を訪れた。そしてメンタルの調子が頗る悪くノーメイクだったので、今こうして彼女の手でメイクを施されている。
 調子が悪いと『準備』という行為が一切ままならなくなる。起床の瞬間に絶望感を察知し、着替えに恐ろしい時間を費やし、洗面や歯磨きを壁に凭れながらなんとかこなし、玄関でべそべそと泣き座り込む脚を叱咤激励しながら、苦心して外に出る。もちろん外になど出たくはなかったが、クリニックの予約があったので仕方がない。この義務感が働いているうちは未だ救いがあると信じてなんとか待ち合わせ場所に辿り着き、現在に至る。頓服が効いたのか、既に絶望的な気持ちは止んでいた。
「人でなしかあ……なにを以て人でなしなのかな」
 僕の顎を片手で支え、アイラインを引きながら、ミホさんはそう問うてくる。
「情操教育の失敗、みたいな。共感能力が欠如しているとか。僕みたいな」
「誰もが共感したいことにしか共感できないよ」
「人間に、なりたいな」
「人間らしいことってのは、人間のなすことすべてだよ」
「そういうこと言えるのに病んでるんですね」
「そうそう。これ、世界の不思議ね」
 そんなやり取りをしていると、アナウンスでミホさんの名前が呼ばれた。
「じゃあ後はマスカラ、自分でやっといてね。可愛いよシュンちゃん」
 そう言い残して、ミホさんは診察室に入っていく。彼女のコンパクトミラーを覗き込むと、先ほどまでのぐずぐずな非人間がはっきりと『シュン』という人間へと変貌を遂げていた。化粧を含めて人間なのだと思う。身綺麗に余所行きになって初めて他者の目に留まることを許可され、認められてやっと個人になる。化粧も社会参加だ。
 ビューラーで睫毛を持ち上げ、マスカラを塗って乾燥させる。先ほどよりも印象的になった目許に、やっと血が通った気がした。ミホさんを待つあいだは読書でもしようと鞄を開け、読みかけの文庫本を取り出す。しかし栞代わりに挟んでいたチェキがなく、首を傾げた。どこかで落としたのだろうか。鞄の中を探すが見当たらず、僕は溜め息とともに捜索を諦めた。気持ちを切り替え、覚えている箇所から読み進めようとするが、朝の調子の悪さを引き摺っているらしく、目が滑る。文字の発音はわかるし漢字も読めるのに、その意味がまったくわからない。前頭葉に粘着するぬるぬるとした感覚が、うなじにびりびりと煩いむず痒さを誘発して、やがて本を手にしていることそれ自体が困難になる。やきもきして鞄の中に文庫本を投げ出し、落ち着くために目蓋を閉じる。赤い陽炎のような模様が目蓋の裏にちらつくなか、緑色のスパークが閃く。落ち着きたいと強く念じ、呼吸以外を放棄しようと心がけるが、ままならない。生きること以外を放棄できないからこそ病んでいるのだから当然だ。
 ミホさんが戻ってくるのと同時に名前を呼ばれ、診察室に入る。
「あれからどうでしたか」
「オーバードーズをしました。あと、今朝はしんどかったです」
 質問には、正直に答えた。
「いつやったんですか?」
「いつだろう……うーん、二週間以内なのは確か、ですよね。うん、覚えてないですね」
 今日の僕の声は、引き篭もり生活のあと久々に声を発したときのように小さくぼそぼそとしていたが、舌の回り方は普段通りだった。朝と較べるとだいぶ健康的な気がして、少し気分がよくなる。
「大丈夫だったんですか?」
「はい。友人が見つけてくれたので、仰向けでも窒息せず生きてました。というか死ねないのはわかっているので大丈夫です」言いながら、なにが大丈夫なのかは自分でも理解していない。
「やらずにはいられなかったのですか?」
「おそらく、そのときはそうだったんだと思います。覚えてないですけど、僕のことだから手首を切るとか過食嘔吐とかよりいいと判断したんだと思います。今後のこととか金銭面も踏まえて……あと、寝たかったのかなと。起きてるのって、怖いから」
「なにがどう怖いんですか?」
「不安なんです。死にそうで。死にそうで不安なのか、不安で死にそうなのか、どっちかはわかりません。でもしんどいので、眠りたいんです。強制的に意識を失えたら楽だなって、いつも思っているので、実行に移したのかも……よく覚えてないですけど」
「嫌なことを思い出して不安になったとかですか?」
「覚えてないです。けど、不安になるときはもう訳がわからなくなっているので、具体的な過去の記憶に追い詰められてとか、そういうことじゃないと、自分では、思います、たぶん、ですけど……」
 確証がなく、語尾が怪しくなっていく。それと同時に目頭に涙が溜まっていくのを感じて、先生に許可を取って目の前のティッシュボックスから二、三枚抜いて涙に押し宛てた。次いで洟をかみ、ごめんなさいと呟く。
「いいんですよ。……寝る前の薬、少し強くしましょうか。あと、頓服は辛いときにはきちんと使ってください。食事はどうですか」
「相変わらずです。またアイスを食べました。太ってなくて良かったです」
「せめてもう少し体重を増やしてはほしいのですが、今はとりあえず不安をどうにかしましょう。食べられるときは食べてください」
 先生は、僕を傷つけない。数多の患者の内のひとりとして平等に扱ってくれるし、静かだ。静かな人は、好きだ。感情の多い人を相手にしているととても疲れるし、その感情の奥底の、重量あるものを向けられるとうんざりする。……しかしそれは僕にも言えたことである。それは重々承知のうえだ。リョウに対する感情の重みはきっと、彼女を疲弊させる。
 診察室を出ると、ミホさんは受付前のソファに移動していた。僕も会計を済ませ、ふたりして外に出る。数軒隣の調剤薬局で薬を受け取った僕たちは薬局の前でそれぞれ薬を飲むと、駅前へ移動しカフェに入った。一階で注文したものを受け取り、二階の喫煙席に移動すると、ミホさんと僕は同時に煙草に火を点ける。しばしの沈黙。いくつかの溜め息。診察は疲れる。それ覚悟して通院し、対価として薬を受け取る。その価値があると思い込んでいるから、未だ人間でいられるのだ。
「調子はどう?」ミホさんが問うてくる。
「さっきよりはだいぶいいよ。メイクありがとう」礼を言うと、ミホさんは微笑んでカプチーノに口をつけた。それを見て僕もココアで口を温める。
「シュンちゃんは誰がメイクしてもその顔になるね。ハーフだからかな」
「関係ないよ。きっと僕のするメイクを見てるから引っ張られたんだよ」
「そう? 化粧で化けられないタイプだと思うな。すっぴんも変わらないし。初めて見たとき、眉間の骨が高いから、絶対にハーフだなって思ったよ。あと襞の多い目蓋。もう顔が決まっちゃってる人の顔」言いながらミホさんは、手を伸ばして僕の目許に触れた。手首につけた香水なのか、シナモンに似た香りが濃く感じられて目を細める。なんだかアップルパイが食べたいような気がしたが、とても嫌いではない人から想起されたものを食べて吐くことになってしまえば、罪悪感が凄まじいだろう。
「女の子に、メイク前と後が変わらないなんて言っちゃ駄目だって、女の子なのに知らないの?」
 そのほんのりと冷たい手をやんわりと押し戻せば、彼女はにっ、と笑って。「知ってるよ。ねえ、すっぴんも撮らせてよ」そう言って、構想でもあるのか薄く目を細めた。
「絶対に嫌だ。過度にブスじゃん」
「ブスじゃないよ。……それに、そうやって自分を呪うのやめなよ」
 ミホさんの言葉が優しいのは、それが経験を伴うものだからだろう。ひと回り以上も年上の女性ともなると、女という生物にかけられた呪いの総体を知っているに違いない。そんな彼女の前で、素直になれない僕はきっと彼女の過去なのだろう。ミホさんは美しい。美しいミホさんが写真を撮る側にその身を置いている理由を、僕は知らない。純粋な撮影欲? インスピレーションに従った結果? 彼女の前から姿を消した女の子は? その理由は? ……考え始めると深いところに嵌りそうだったので、思考することを止めて彼女を見る。まったく、綺麗な人だ。僕に興味を持つことが不思議なくらいに。なぜ心を病むのか理解できないくらいに。……それも呪いだ。女という存在にかけられた、普遍的な。
「撮ろう。今日も……調剤薬局の袋をぶら下げた君は、無垢でいい」
 いい、の意味を図りかねたまま僕は頷く。
 駅前の喫煙所に着くと、ミホさんは鞄の中からカメラを取り出した。僕は煙草に火を点け、足許を歩き回る灰と白の斑模様をした鳩を目で追う。細かい跳躍で移動する鳥よりも、しっかりと二本足で『歩く』鳥に知性を感じるのはなぜだろう。以前調べたことがあるのだが、歩く鳥と跳ねる鳥の違いには、体重が関係しているらしい。全てではないが、体重が軽い鳥が跳ね、重い鳥が歩く。では僕は、跳ねる鳥なのだろう。枝から枝へ跳んで移る。
「……いいね」
 何度かシャッターを切ったあと、ミホさんはそう言って撮影データを見せてくれた。斜めに立った僕の向こう、更に植樹越しに駅ビルに掲げられた駅名が見えるか見えないかの位置で見切れている。病院のある駅、と呟くと「それ、いいね。タイトルにしようかな」と返ってくる。棒切れか斜線みたいな僕は、真っ黒な目でなにか実体のないものでも見つめているかのようだった。

 

(後編へ続く)



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