
【SERTS】scene.19 イチゴのケーキと牡蠣のオムレツのエピソード
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG12~15程度)
※環境依存文字の入った料理名はカタカナ表記にしています。ご了承ください。
「指定遂行期間一ヶ月の任務が二日で終わっただなんて報告してはいけませんよ。今後ものすごい数の依頼が来るようになってしまうので、せめて二週間かかったことにしておきましょう」
と、お嬢ちゃんが至極真面目に言うものだから、俺は長白山での任務のあと、じっくりと時間をかけて報告書を纏めた。そのあいだ例のネッシー仙人親子と仲良し四人組(と、虎虎豹)を、吉林省の省都である長春市で遊ばせておき、任務開始から二週間ほど経った頃に報告書を送信した。するとアンダーソンから労いの言葉と今後の指示があったので、それに従って親子はサドーヴニクを身元引受人として上海へ、虎虎豹は四人の手によって東北三省支部まで護送することとなった。
「またどっかで会おうぜ」
「おう。隊長を任せた」
ジン、ピンユー、キンポー、チェンと拳を合わせて別れると、彼らと俺たち上海組はそれぞれ別の便に乗って空港を発った。生まれて初めての飛行機の旅にはしゃいでいたアナスタシアだったが、疲れていたのか途中ですっかり寝入ってしまい、それにつられて父親ふたりも眠ってしまったので、俺はお嬢ちゃんと遊んでいるソシャゲのデイリー処理を彼女に任せ、ひとりでNY支部の指揮官としての雑務をこなした。指揮官専用の管理アプリ内に表示された『今週の死傷者〇人』という表示を見て安心しつつ、部下たちの仕事の進捗をざっと確認し、預かった報告書に一件一件目を通してから本部へ転送する。それからチャットでの個別面談希望者を募って応対し、最後に突発的に始まった謎の企画『第一回指揮官人気投票! ~あなたの推し指揮官は誰だ~』に強制参加させられたらしいので、意気込みを書く欄に「特になし」と打ち込んで企画運営部に送信する。まったく、管理職ほど雑務が多いのはどうにかならないものか……そう思いながらPCを閉じようとすると、通知のポップアップが届いた。そこには「特になしで通ると思ってんのかテメエ」と、投票企画の運営メンバーになったらしい同僚からのメッセージが入っていた。俺は小声で「ざけんな」と呟きながらも、ここで争っていても面倒なのでもう一度意気込み欄に戻ってキーボードに手を置く。しかしどんなに考えても、謎すぎる企画に対する意気込みなんて出てきやしない。仕方がないので隣でスマホを二台操っているお嬢ちゃんに、
「なんか人気投票企画に強制参加させられたんだが、いい感じの意気込みを考えてくれないか?」
と代筆を要求した。するとお嬢ちゃんは「どんな企画なのですか?」と、興味津々な様子で質問をしてきたので、その企画の概要ページを見せてやる。
「まあ……優勝者には旅行券とお米二十キロ……しかも日本米ではありませんか! これは優勝を狙いませんと」
「いや、米あってもどうすんだよ……」
「あら、お料理上手なのにあまり自炊はしないの?」
「たまにするっちゃするが、米料理なんてそんなに作らないしな……それに仮に米貰ったとしても、今は遠征中だから困るし」
しかし俺がデメリットを挙げてもお嬢ちゃんは俄然やる気のままらしい。俺とPCとスマホを交換すると、彼女は画面を抱え込むようにして文章を打ち込み始めた。そのタイピングは非常に滑らかで、もうだいぶ手が動くようになってきたのだと察する。
俺が『SERTS』の監視任務を請け負ってからすぐに、俺は彼女の手指がうまく動かなくなっていることに気がついた。ペンが上手く持てず、カトラリーが繊細に扱えず、食器を落として割っては唇をきゅっと噛み締めるその姿を見ているうちに、これはもしかすると神経が傷ついているのではないかという可能性に思い当たった。しかし原因がわからない。幼少期の彼女はちいさなモンスターと呼ぶにふさわしいやんちゃさを発揮してモノを壊すことは多々あったが、それは成長とともに鳴りを潜め、剣を教えてほしいと頼まれてからは実に器用に要領よくその技術を修めていった。──結局、最後まで俺には勝てなかったが。しかしその頃には王族としての振る舞いかたを身につけていたし、「このごろは兄様に花冠の作りかたを教えてさしあげているの」だなんて言って、兄にものを教える機会がやってくるだなんて思ってもみなかったといった様子で俺にも花冠を編んでくれていた。彼女はいつも俺の膝の上で花を扱うので、俺はその姿を斜め上から眺めているのが好きだった。「兄様ってね、お勉強と絵を描くこと以外、へたっぴなの。器用なのに。だからわたくしが楽器を教えて、花冠を教えて、そのうち剣も教えてさしあげるのだわ」……そう締め括って得意げに笑うそのはにかみ顔。そのはっとするほどの愛らしさに破顔しそうになるのを堪えた俺は、「それは俺に勝ってからだな」と返して、それから言葉を間違ったかもしれないという後悔に黙り込んだ。彼女が俺を越えることがあるのなら、それは彼女の兄が犠牲になった頃だろう。そしてそれがもう、間近に迫っていることも察していて。
「……俺と契約するときにも、その花冠を編んでくれるかい」
俺は言葉を正す断りも入れずに自分だけを繕うと、腕の中の少女を抱きしめた。すると彼女は、俺の胸に額を擦りつけながら言った。
「……もう、内緒だったのに。おどろかせようと思ったのよ。とびっきりのを作るって。ああもう、もう……内緒のことなのに、どうしてわかっちゃうの。だめだめ。忘れてね。そのときまで、忘れててね、ダレスお兄ちゃん」
あの頃の彼女はおしゃべりで、ませていて、それと同じだけ純粋で、このまま俺と契約するのだと信じて疑っていなかった。兄に剣を教えるのと、俺と契約することは両立できないというのに。そうして彼女はその両方を成せないまま、いま俺の隣であの頃とほとんど同じ器用さを俺に披露している。俺だけが忘れていない。キミの内緒を暴いてしまったこと。キミだけが花冠を編めたこと。だからこそ気になるのだ。キミの手がうまく動かなくなったきっかけが。それは俺が守れなかった期間に起こったことであり、つまり俺の責任ということになる。そして手指がいくらか動くようになってからも、動かせないと演技していたその理由を、他の誰でもなく俺が暴くべきだ。そうして俺はまた、「内緒のことなのに」と彼女から怒られたいのだ。
「ふう、これでどうでしょう」
ほんの一、二分のトリップのうちに、記入を終えたらしいお嬢ちゃんがPCをこちらに返してきた。確認してみるとそこには、
皆さんこんにちは! NY支部の指揮官ハティです! すこし恥ずかしいですが、このような企画に選ばれたからには全力で首位を狙いたいと考えています。普段は無愛想な俺を推すのはちょっと恥ずかしいかもしれませんが、ぜひ普段のポストにハッシュタグ『#私の夢はハティです』と、添えて仲間をみつけてみてください。きっと普段言えないような本音で仲良くなれると思います。そしてもし新しい友人ができたら俺に投票してくれると嬉しいです! あなたの交友の輪が広がることを祈って。
と、あった。
「やめよう」
俺は唐突な眩暈に眉間を指で押さえつつ、彼女に向かって手のひらを向ける。その、俺が発信するには到底『解釈違い』な文言の横溢に、超高速で背筋が蒸れてくるようだ。なんだか動悸もする。
「どうして。これはあなたを投票者にとっての『自分事』にすることで親近感を誘発する作戦です。他者との共有を促すことで団結の輪がチェーン的に……」
「俺のキャラじゃなさすぎるだろ……!」
俺の異議申し立てに、彼女は不服そうに唇を尖らせると、俺の胸に人差し指を突きつけてきた。
「じゃああなたは自分をどういうキャラだと思ってるの? 教えてごらんなさいあなたのペルソナ」
「そりゃあアレだろ」俺は腕を組む。若干、胸も張る。「クールで掴みどころがないけど頼りになるナイスガイ。ガタイもよくて超イカす」
するとお嬢ちゃんは真顔のまま、「送信しましょう」と切り上げ、俺の座席テーブルに手を伸ばし『Ctrl』+『Enter』を叩いた。「あああ!」俺は情けない声を上げながら画面を抱え込むが、もう遅かった。無情にも表示された『送信完了』の文字が、役人顔で俺の意見のすべてを拒絶する。
「ふっふっふ……ミッションコンプリートです。さて、コンサル料をいただきませんと」
絶望する俺の隣で、お嬢ちゃんはかけていない眼鏡のブリッジを押し上げるポーズをして得意げだ。先ほどコメントの再提出を求めてきた同僚からも、「玉稿感謝します」というメッセージが届いたことで、更に具合の悪さが加速する。
「どうすんだよ、俺がこれで超人気になってモッテモテのモッテモテになっちまったら」
ちくりと嫌味のつもりでそう言うと、お嬢ちゃんは「浮気ですか? どうぞ、してみたら?」とインテリのポーズをしたまま返してくる。これは俺が浮気をしないことを確信している顔だが、その点に反論はないので黙ることしかできない。代わりに彼女の肩を引き寄せて頬にキスをすると、機内販売のアンドロイドが宣伝文句を並べ立てるのをやめて滑らかに俺たちの横をすり抜けようとしたので、慌てて呼び止めてお嬢ちゃんに『報酬』を選ばせてやった。すると彼女が選んだのは、ゾエのときと同じコーラとポテトチップスで、俺は彼女がじつのところヤキモチ焼きなのではないかという疑念を深める。彼女はそんな俺の視線に気づいたのか、「ウォーウーラなだけですよ」と言って、それから「半分こにしてあげます」と俺にポテチの封を切るよう促してきた。
上海に到着して親子三人を基地まで護送すると、ロビーで俺の顔を見た翠雨が急に踵を返したので、三人をお嬢ちゃんに任せて俺は彼を追いかけた。……もちろんすぐに捕まえた。兄を舐めてはいけない。『現場』へ続く渡り廊下で絞め技をかけながら、試しに「吐け」と脅してみれば、「なにもないもん」と絶え絶えの声で訴えられたが、コイツがこういう態度を取るときは後ろ暗いことがあるときだ。彼の肺活量には一定の信頼をおいているのでそのまま締め上げていると、翠雨は「ギブギブ!」と叫んで周囲に助けを求めはじめる。しかし部隊のアイドルの窮地といえども、屈強そうな見た目の兄に締められているところを見て助けにくる度胸がある奴はここにはいないようだった。「楽になりたきゃ吐け」「いやそれ吐いたあとしっかり殺されるやつじゃん」「吐くことがあるってニュアンスだな?」「わかった、わかったから!」彼の懇願に手を緩めると、彼は降伏を表現しているのか両手を挙げながら呼吸を整え、「絶対に怒らない?」と甘えたことを口にする。内容が内容ならきっちり叱るつもりで「まあ」と曖昧に返事をすれば、彼は、
「来たよ」
とだけ言って、その赤いリップカラーで彩られた唇を柔く閉じた。その瞬間、俺は『誰が』来たかを察して僅かに息を飲む。すると翠雨は、「基地の入り口前でバッティングしたから逃げたんだけど、捕まっちゃって」と腕を組んで唇を尖らせた。
「お前が捕まるだなんて珍しい」俺は素直な感想を口にする。翠雨は俺以外に易々と捕まるほどヤワじゃない。「鈍ってたんじゃねえのか?」
「それはまあそう」翠雨は俺の指摘を素直に飲み込んでから続けた。「でも私がピンチに陥ったとき、彼が助けてくれたんだ。もーおちょーおカッコよかった。ギュってされて目がハートって感じ。だからデートした」
「は?」
その、俺からしてみれば無茶苦茶な文脈に、彼はなんの疑問も抱いていない様子で、「あ、エッチはしてないです」とやけに真面目な眼差しでそう言うと、絶句している俺の肩に縋りついて「余計なことも話してないから許してえ」と甘えてくる。アイツが来ること自体は予測していたので特に驚きはないが、俺の『弟』と『アイツ』がデートをしたことがどうにも信じがたく、同時に人生において空想できる波乱万丈のなかではじゅうぶんに起こりうるライン過ぎて、人目も憚らず激しい挙動で頭を抱えたくなった。なんだか言語化し難いが、極めて複雑な心境だ。親友が、弟とデート……ゆくゆくは義弟の可能性? ふざけんなと爆発するライン一歩手前の、じんわりと嫌な感じだ。胃が捻じれる。
「お兄ちゃんはそれ嫌なんですが」
正直に心境を吐露すると、翠雨は「トモダチになっただけだから大丈夫。仕事については答えられないで突っぱねたし」と、今度は俺を突っぱねながらスマホを取り出した。
「写真見る?」
「見……る、いや、ない……」
「どっち。見るなら有料」
「はーあ? お前なあ……じゃあ見ねえよ」
「ふうん。ドレちのご尊顔に払う金はねえと」
「ねえよ! なんでトモダチの顔見るのに金払うんだよ。てかドレちってなんだよ」
俺も続いて突っぱねると、翠雨はなぜか嬉しそうに「じゃあ顔はトリミングした画像を送ってあげる」と言ってスマホを操作する。「せいぜい悔しがりな」と、ニヤニヤ笑いながら。
新たな作戦会議の席に着きながら、送られてきた写真を確認すると、それはスーツ姿のラドレが八宝鴨の前で喜んでいるらしい一瞬を切り取ったものだった。胸元から上はトリミングされているが、その華奢で大きな手のニュアンスが、彼の挙措の残像を引き出すものだから「フン」と鼻が鳴る。俺はなんだか不機嫌になりそうだった。
次の任務は福建省での現地パートナーとの共闘だった。先の任務と比較すると、頭を使うこともなくやりやすい仕事である。「久々に運動ができそうですね」とやる気を見せているお嬢ちゃんを「頼むから大人しくしていてくれ」と言い包めながら、弾薬の補充等の支度を整えてバイクに跨った。目的地の福建省・厦門までは飛行機で二時間弱、高速公路では約十一時間の距離である。もう一度飛行機に乗ってもよかったが、お嬢ちゃんがバイクがいいと言ったのでそうすることにした。昼過ぎに出発し、日付が変わる前に到着すれば上々という心持ちでスピードを出しつつ、安全運転を心がける。今回は海沿いのルートを選んだので潮風と眺めが素晴らしい。まだまだ暑い秋の入り。黄味を帯びた陽光を反射する湾には漁船がちらつき、突如山林地帯に包まれたかと思えばその緑は青々と透き通っていて目に優しい。そんな夏の遠景をお嬢ちゃんは楽しんでいるのか鼻歌うたっていたが、眠いのか時折欠伸をした。
途中、浙江省の温州市で休憩をした。湾に面した食堂で、名物の糯米飯という、おこわにソースと薬味、それから肉のフリカケと油条が刻んだものがトッピングされた料理を食べる。お嬢ちゃんが欲しがったので豆乳スープも追加したのだが、お嬢ちゃんはなかなか食べ始めず、スープの入った椀に両手を添えてうつらうつらとしていた。
「……寒いのか?」
気温を確認すると二十八度。どの生命体でも「寒い」とは感じないであろう温度だ。俺の問いに彼女は「いいえ。あったかいなと」と答えてレンゲを手に取る。
「うん。ハオチーです。これ、あれみたいです……オチャヅケ?」
糯米飯をひとくち食べてそう感想を漏らしたお嬢ちゃんが、日本出身のゾエとのお茶漬けエピソードを話すのを聞きながら、俺は彼女の額に手を伸ばす。潮風のせいか冷たくて、熱があるかどうかはわからない。きちんと確認しようと、次は腋に手を伸ばすと、「ヘンタイ。ラドレみたい」と拒否された。
「アイツみたいってことはないだろう。あんな腋フェチと一緒にするな」
「あなたも同じようなものでしょ。ヘンタイ。エッチ」
断固拒否の姿勢を示された俺が「ヘンタイではない」と座っていた椅子ごと詰め寄ると、彼女は「夏場のレディの腋に手を伸ばすなんて最低だわ」と頬を膨らませる。「レディというのはあれよ。いまだけ笠に着ているのよ」……なにやらよくわからない基準だが、そういうこともあるのかと引き下がると、彼女は「デザートも食べたい」と言って、あっという間に食事を平らげた。沢山食べるのはよいことだ。屋台で桂花カステラとアイスの盛り合わせを買って駐車場に置いたバイクの隣でつつく。こうしているとあの香港の夜を思い出すようだ。アイスを食べながら、「ぜんぜんおしとやかじゃない!」と言って可笑しそうにしていたあのシンデレラが、いまは俺のものになったという現実に、未だに適応しきれていない感覚があるのは、俺がこういう睦み合いに不慣れだからなのだろう。朝起きると隣に彼女がいて、夜眠るときも一緒にいるなんて、なんだかほんとうに、非現実みたいだ。
「なあ」
「なあに」
「好きだよ」
「んふふ。わたくしもスキ……」
ちいさなプラスプーンに、残りのカステラとアイスを寄せ集めて俺の口に押し込むと、彼女は「おなかいっぱーい」と漏らしながら、公共のダストボックスに向かって歩いていった。口の中に残る金木犀の香りがやけに濃いが、アイツのことなんて思い出してやらない。彼の髪から香るものとは違うから、ぜんぜん、これっぽちも、懐かしくない。そんな虚栄に胸を張って、開けていたジャケットの前を留めていると、戻ってきたお嬢ちゃんが「あー、思い出してたでしょ」と俺の胸を指さした。
「なんなんだ、その謎の察知能力は。そんなにキミはヤキモチ焼きなのかい」
ヘルメットを渡しながらそう問うと、彼女は片手で潮風に乱れた髪を背中に流しながら言った。
「そうよ。でもこれは違うの」
その俯き加減の面差しは、すこし得意げに微笑んでいる。
「違うって?」
「わたくし、ラドレと一緒にいるときのあなたのこともスキなの。あの子の前や、あの子のことを考えているとき、あなたってちょっと幼い顔になるのよ。かわいくっていじめてやりたいわ」
シールドを上げたヘルメット越しの睛が、幼い頃の彼女が新しく覚えたことを自慢するときのそれと重なり、俺ははっと吐胸を突かれて、その一秒後にふっと笑う。堪えきれなくて、若干腹も抱えた。キミも幼い顔になっているじゃないかと。それは無意識下での発露かもしれないが、なんだか涙が滲むほど笑える。「キミもだろ」と言っても通じないことは理解しつつ、それでもなんだか嬉しかった。生まれたての西日が、彼女のシルエットを柔らかく照らしてその存在をより輝かせている。
「俺もキミのその顔、好きだよ。可愛い」
「どの顔。どの顔のこと。どれがスキなの? ねえ教えて。ねえってば」
「どの顔も可愛いよ」
「あ、散々引きつけておきながらはぐらかしましたね? ひどいわ」
返答に窮して誤魔化す俺に、不服そうな彼女はそれでも抱きついてくれる。腹に回された手の結びの強度を確かめるように一度ぎゅっと握ってから、俺はバイクのエンジンをかけた。
夜の公路は空いていて、思ったよりもはやく厦門に到着した。省都の福州には別の任務で行ったことがあるが、あちらの雑多で賑やかな印象とは違って、厦門は洗練された大都市という印象があった。恐らく租界時代の名残なのだろう。夜の高層ビル群の中を滑るように進み、食事処の目途を立てようとするが、さすがにそろそろ店が閉まり始めている時間帯である。ルームサービスかコンビニで済ませようとお嬢ちゃんに声をかけると、眠そうな声で返事らしき唸りが返ってきた。移動づくしの一日で疲れたのだろう。翠雨が予約しておいてくれたホテルへと急ぐ。
やっぱり彼女の体温が高いような気がする。普段が低すぎるというのもあるが、受け取ったヘルメットに移った熱が妙に気がかりで、俺がチェックインを済ませているあいだずっとロビーの展示物を眺めてぼんやりしていた彼女を急かして部屋へと向かった。杞憂であればいいと願いながら手早く風呂に湯を張り、椅子に座って例の青いメモ帳になにかを書き留めているお嬢ちゃんの体温をきちんと確認しようと傍に寄る。すると彼女は「見ちゃダメ」と可愛く手元のメモを隠した。
「見せたくないなら見ないさ。ただ、キミを膝に乗せたいだけだ」
これなら怪しまれないだろうと踏んで椅子の座面に座るのを交替して欲しいと視線で示すと、お嬢ちゃんは照れた様子で「いいですよお」と身を捩りながら立ち上がる。昔から彼女は俺の膝に乗るのが好きで、その気質を利用するのは些か心苦しい。しかし杞憂ならいいのだ杞憂なら……と場所を替わろうとしたそのとき、彼女が「ん?」となにかを感じ取ったかのような声を上げた。
「どうした?」
しかし彼女の言語化を待つより先に、俺は気づいた。彼女の穿いているラップスカートの裾。そこから伸びるしなやかな脚の、ちいさな膝の少し内側あたりを、一滴の血が這い落ちていた。
沈黙。一瞬、叫び出さなかった自分を褒める時間を挟みたかったが、堪えて「そのままでいろ」とお嬢ちゃんの肩に手を置いてから、短い距離を跳ぶようにしてバスルームへと滑り込んだ。これは情けないタイプのやつだというテンポ感の動悸がする。洗面所の鏡に映る俺の顔はわかりやすく狼狽して褪めた色をしていたが、無視をしてその場にあったタオル類を全部引っ掴んで部屋へと戻った。すると存外に冷静な様子のお嬢ちゃんが、「ティッシュを取ってください」とテレビモニター脇の棚の上を指したので、言われた通りにそれを持って彼女の元へゆき、傍にあるベッドに抱えたタオル類をぶちまけながらティッシュボックスを渡す。ティッシュ。タオル。あとはなにが要るんだ。薬。頭痛薬。頭痛薬を飲むはずだ。よくわからないが頭痛薬を飲むんだ俺は知っているぞ。血はどうやったら止まるんだ。いや、止まらないのか? ……パニックを表に出さないようにしながらも、オーケストラの指揮者のように両手で空を掻きながら言葉を捻り出そうとする。「あの」「そのですね」「あー……あのだな、あのですね」「これは確認なんですが……怪我では、ない、な?」なんという婉曲表現。己の浅学を恨みながら返答を待っていると、お嬢ちゃんは「すごい、今まででいちばん慌てているわ、あなた」と物珍しそうに俺を見て笑った。「もちろん、怪我ではないですよ」
「なっ、ななななにが必要か教えてくれ。その、一般的になにが必要かは、わかる。……調べたら出てくるだろうし。だから、キミが、必要なものを教えてくれ。すぐに用意する……」
途中、なぜか祈るような姿勢になりながら教えを乞うと、お嬢ちゃんは腿に伝った血を畳んだティッシュで下から上に向かって拭いながら、
「ううん……すこし待っていてくださいね」
と言って、そのままバスルームのほうへ歩いていき、脱衣所の隣にある扉を開けた。俺たちが中々世話にならないトイレだ。少ししてお嬢ちゃんは戻ってくると「とりあえず二枚ありました」と言って、それからでかいなりにちいさくなっている俺の背中に手を当て、いつも通りのやさしい声音で続けた。
「今回は妊娠しなかったということですね。次も頑張りましょう」
「えっ。あ、そういうことに、なるんすね。そうっすよね。把握しました」
「ねえ、いまのあなたってとっても面白いけど、落ち着いて」
そう言われて俺は背筋を伸ばす。こういうときの女性体はものすごく当該箇所が痛い場合があることを知っているので、もしかしたら彼女もいま既に痛いか、これから痛くなる可能性がある。だから元気な俺がサポートしないといけないのだ。「イエッサー!」「声がおおきいわ。そんなに張り切らなくていいのよ」「……ごめん」「ふふ。あの子は腰を抜かしていたわね……でもあなたはそこまでじゃないのね」やった、勝った。これは勝ったということにしていいだろう。「俺は元気です! なんでもします!」「だからそんなに張り切らなくていいのよ」
呆れた様子の彼女から欲しいものを聞き取って、俺はスマホとキーを掴んで部屋を飛び出した。下手に修羅場な任務より緊張しているのを感じながら、下りエレベーターのドアが開くのと同時にスタートを決める。まずはナプキンだ。なんでも彼女は去年初潮を迎えてから一度も出血があったことがないのだという。それが彼女にとっての周期なのか、前にドクター・カイドウが言っていたように痩せすぎているせいなのか、それとも他に問題があるからなのかは、いまの俺にはわからないので一旦置いておく。確か去年のあのときはナプキンの調達をオリエに頼んだはずだ。彼女だって俺との関係はある意味で気まずかっただろうに、理由を説明するとすぐに物を用意してくれた。だから俺も恥ずかしがっていてはいけない。以前武漢の薬局でそういうコーナーでウロウロした経験もあるし、それより前にはあのピンク色の猫が散々苦しんでいるところに遭遇したこともある。つまり正真正銘の初心者ということではないのだからきっと大丈夫だ。やり切れる。
昼とか夜とか書いてあったが、世の中には昼夜両方があるのだから両方買うべきだと判断した。あと、調べてみたら必要なのは頭痛薬というか、鎮痛薬だった。それはそうというか、なんというか。固定概念がないゆえに凝った思考をしてしまったことを恥じながら他の買い物も済ませてホテルに戻ると、お嬢ちゃんは既に風呂に入ったのかカーディガンを羽織ったネグリジェ姿で甘い香りを漂わせていた。
「買い物ありがとう。お湯は張りなおしてありますからゆっくりしてね」
辛いだろうに普段通り優しくしてくれる彼女に対し、すぐにでも色々と世話を焼きたかったが、走り回って少なからず汚れているであろう身体でそれをするのは躊躇われた。今だけは世界一清潔になりたいという願望に従って、ひとまず風呂に入ることにする。
「フッ……やっぱり俺はアイツに勝ってるっつーワケだ……」
しかし脱衣所でひとりになってから漏れるのは己への賞賛とアイツに対する優越感だ。昔はアイツに対する劣等感で悄然とすることも多かったが、今はそうでもない。それは俺以外の人たちが俺に優しくしてくれたお陰で、俺はその事実を自分なりに大切にしていたい。だけどそういう意識があるのに、いつもどこかで全部投げ出してしまいたくもあって。それでも逃げずに踏みとどまっていられるのは、特にあのピンク色の猫のお陰であることは否定できない。……この頃俺は、彼女のことをよく思い出す。
バスタブに浸かりながら、チャック付きポリ袋に入れたスマホを操作して同僚のジンリンにメッセージを送る。今回の任務はジンリンが仲介したものなので、彼に目的地に到着した旨を報告し、「なんか美味いもん教えてくれ」と一言添えた。するとすぐに「厦門といえば牡蠣オムレツじゃないでしょうか。蚵仔煎(クーザイジェン)とか海蠣煎蛋(ハイリージェンダン)という看板があったらそれです。台湾のものより火がちゃんと通っている印象ですね」という、ご丁寧に料理名の発音まで添えた返信があった。牡蠣か。牡蠣はいい。骨がないからだ。
「美味そうだな。探してみる」「海鮮が有名なので時間があったら歩き回ってみてください。有名な市場と屋台街があるので位置情報を送っておきます。花嫁さんはお元気ですか」少し迷ったが、「元気だ」と送る。「それはなにより。あと、北京当局から甘粛での任務の依頼が来ていますが、どうしますか? まだ先の話ですが」「じゃあ受けておいてくれ。受注したらそれをハーフムーンに送ってくれると助かる」「わかりました。では、お気をつけて」……やりとりが終わったので、湯から出る。栓を抜いたバスタブから水が抜けていくくぐもった音を聞きながら身繕いをして部屋に戻ると、お嬢ちゃんはベッドに横になってスマホを弄っていた。そうしていると楽なのか、抱いた枕に上になっているほうの膝を乗せている。
「具合は?」
そう訊ねると、お嬢ちゃんは、「あら。落ち着いたのね。偉いわ」と言って、それから「頭が痛いわ」と返事をした。「あとおなか。前も思ったけどほんとうに信じられない。こんなに痛い意味ある?」その顔色は紙のように白くて、俺は彼女の傍に腰を下ろすと、頬に触れた。すこし熱い。
「薬は飲んだのか?」
「ううん……だってこれ、ニンゲンの薬でしょう。効くのかしら」
「効かない可能性があったとしても、プラシーボ効果を期待して飲んでおこう」
俺はテーブルの上に手を伸ばし、広げた購入物の中から鎮痛剤の箱を手に取る。そして裏面の用法の欄に目を通すと、空腹時は避けるようにという旨の注意書きがあった。そのことを告げつつ、「なんか食えそうか?」と頭を撫でながら問うと、ちいさな「わからない……」という返答とともに、彼女は俺の腿に額を擦りつけてくる。この額を擦りつけてくる仕草も昔を思い出させ、俺はひどく懐かしい心地になりながらスマホでフードデリバリーサービスのアプリを立ち上げて彼女に渡した。
「適当に眺めてたら食べたいものが見つかるかもしれない」
すると彼女はしばらく画面を触ったあと、「これがいい」と、とあるページを見せてきた。「ウォーウーラなのにスープしか食べられない気がするのよ」……そう言い添えた彼女からスマホを受け取ると、そこには『福州魚丸湯』という、魚のつみれのスープが表示されていた。店舗のページを見ると、福建料理を扱うチェーン店のようだったので、俺も以前福州を訪れた記憶を頼りに商品をカートに入れ、決済をする。
それからお嬢ちゃんのためにできるだけ静かにして待っていると、フロントから到着の連絡があったのでロビーまで出ていって配達ロボットから注文品を受け取った。部屋に戻ってお嬢ちゃんを起こし、ベッドに座ったまま食事ができるように場を整えてやる。スープのカップを渡すと、お嬢ちゃんは「あなたはわたくしのことを気にしないで食べてね」と言ってスプーンを手に取った。その真意が俺への気遣いなのか、はたまた可能な限り放っておいてほしいのか判別がつかなかったので、俺は「わかったよ」と返事をして他のテイクアウト容器を開けた。一応は、調理に時間のかからないであろうものをチョイスした。炸糟鰻魚は、紅糟という赤い酒かすを用いたつけダレで下味をつけたウナギに、衣をつけてさっと揚げたものだ。穴あきの蓋つき容器に入れられていたからか、まださっくりとした歯応えが残っている。これは前回アンダーソンと一緒に酒を飲みながら食べたものだ。紅糟が濃いめの醤油味の風味を豊かにしていて美味い。食卓に上がってくるウナギは骨が少ないから好きだ。上海でお嬢ちゃんに食べさせられかけたタウナギ料理と違って、皮くらいしか黒くないし。……ビールを飲みたいのを堪えてお嬢ちゃんを見ると、目を閉じたままちびちびとスープを啜っていたが、魚丸という魚肉団子を齧った途端、目がぱっちりと開いた。それが可笑しくて、俺は彼女が食べられそうだったら譲る予定だった同じスープのカップから、魚丸をふたつほど彼女のカップの中に入れてやる。「はは。それ、美味いのか?」
「ハオチーです。おさかなのお団子なのに、中にお肉が入っています」
「へえ、面白いな」
「さすがわたくし。きょうも勘が冴えております」
「冴えてる冴えてる」
彼女が冗談を言う余裕があることに安心しつつ、これも分けるつもりで四つ買った『福清光餅夾』をひとつ剥く。これはゴマつきのバンズに甘く煮られた豚や押し豆腐を挟んだ福建名物のバーガーで、かなり安くて美味いので前回訪れたときはこればかりを食べていた。サクッとしたバンズに歯を入れると、すぐに中の具材の柔らかさが待ち構えており、その煮汁が齧るたびにパン生地をじわじわと浸す感触が楽しい。軽くふたつめに手を出した俺をお嬢ちゃんがじっと見つめていたので、すぐに手つかずのバーガーを彼女に差し出すと、「ちょっとでいいの」と言うので半分に割って渡した。それを齧った彼女は、「あなたって優しいわ」と微笑む。
「そりゃ……」俺は噛んでいたバンズと肉を飲み込む。「弱っている奴がいたら優しくするだろう」
するとお嬢ちゃんはふっと口を噤んだ。数秒の沈黙が明けると、彼女は「そうね」と頷いて再びスープのカップを手に取った。
「アイツなんか特に世話焼きだろう」
「そうね。……そうね」
「なんだよ」
「ふふ。昔は放っておかれたことを思い出したの。今はもう一生ぶん優しくしてもらったけれど、あれは償いたかったからなのかしら」どこか遠くを見るような眼差しを、彼女は匙の上の団子に向ける。「でもそれって、やっぱりあの子は優しいってことの裏付けよね」
「……待て。どういうことだそれは」
「えっ。ああ、ごめんなさい。なんでもないの。いけないわね……お腹が痛いときってなんだかぽんこつになっちゃう」
彼女は微笑む。なにかの広告のように、清潔に。
それを目にして俺は、彼女の手が動かなくなった原因にアイツが絡んでいることを、ほとんどミラクルのように悟った。……あの男が? それが真実だとしたら、今日は彼女だけでなく俺も冴え冴えだ。
「ポンコツなときは俺を頼ってくださーい」
素直な言葉でその察知を隠しながら、俺は気にしていないふりでバーガーを齧る。
「うふふ。ぽんこつじゃないときも頼りにしてるわ」
「その調子で引き続き頼ってくれよ。マッサージでもしてやろうか?」
「それは真剣にうれしいわ。あとで腰をお願いします」
「よしきた任せろ」
食事を終え、後片付けをしてから、俺は早速マッサージに取りかかった。「心を込めてね」などと可愛いことを言うお嬢ちゃんに「超込めてる。丹精してる」と返して、指先をその柔らかい皮膚に、奥の筋肉に、ゆっくり埋めていく。いまは余計なことを考えないように、俺は彼女の肉体と向きあうのだ。相変わらず折れそうな腰。板チョコみたいに割れそうな肩。いつでも抱きつぶせそうな彼女に優しくできない者がこの世にいるのだろうか。ああダメだ。余計なことを考えた途端、お嬢ちゃんは「もうすこしやさしく」と訴えてくる。
*
長期滞在ビザの更新のため、僕は山西省の公安局出入境管理局を訪れていた。上海からはどこの入管もそれなりに遠かったので、思い切って旅の始まりの山西省にまで飛んでみることにしたのだ。王のビザも心配だったが、そういった手続きの類いにおいて王は真面目なので心配する必要はないだろう。仮にSGJとの関りがあるなら、手続き自体を彼らがしてくれる可能性もあるので、王のビザに関しては一旦放念する。
省都の太原市で更新手続きを済ませ、一泊したあと、なんとなく大同市へ向かう高速列車に乗った。大同は王と一緒に初めて本場の刀削麺を食べた地だ。平日のビジネスパーソンだらけの車内でひとり浮いているのを自覚しながらシートに身を沈め、これまたなんとなくあの鬼打牆の女の子・ファーファに「たまたま近くに寄るんだけど、よかったら一緒にご飯食べません?」とメッセージを送る。それから車内販売でコーヒーを買ってちびちびと目を覚ましていると、ポケットの中で返信を告げるバイブレーションの感触があった。確認すると『ヌンチャク・パンダ』の登場人物であるモンキー小和尚(キンシコウの姿をしている)が、頭上に「!」と浮かべているスタンプが送られてきていた。これは文面を打ち込んでいる最中だな……とトーク画面を開いたままコーヒーを啜る。おそらく驚かせてしまっているので、のんびりと返信を待つつもりで窓の外に視線を向けた。
あのときは飛行機で大同に降り立ったので、ルートは違うものの、景色には懐かしいものがあった。流れゆく山林。だだっ広くどこまでも続くような野菜畑で、型落ちの収穫ロボを笠をかぶった老人が見守っている長閑な光景。平べったい印象の空を、鳥の群れが飛んでゆく……ああ、シートに座っている僕のほうが速いかも。
「お久しぶりです! ごはんOKです! 暇です! なにが食べたいとかってありますか?」
恐らく推敲を重ねてさっぱりとした文体に整えたであろうそのフキダシの中身に、軽く笑ってしまいながら僕は返信を打ち込む。
「ありがとう。希望は特にないよ。できたらあの店にまた行ってみたいなあ。やってなければファーファちゃんのオススメのところで」
おそらく彼女のほうが年上なのだが、これまでの彼女のキャラに合わせるかたちでいくらか砕けた文面に整えて、到着予定時刻も添えた。「僕の時間はじゅうぶんにあるから、ゆっくりおいで」スマホを閉じ、トランクからタブレットPCを取り出して自社の週報を確認する。それから中長期計画に向けたドキュメント作成をジュンコと一緒におこなう。最近はバカンス返上とはいかないまでもちょくちょく仕事をするようにはしていて、それは王がいない時間を潰す手段として適当なものを、僕はこれしか持ち得ていないからだ。社内の面々は僕の復帰を勤怠管理アプリ内の稼働表示で知っているのだろうが、特になにも言ってこないし普通に質問のチャットも飛んでくる。結局は働いていないと落ち着かない性質だとでも思われているのだろう。ただ、秘書の香鉈サクラには僕の不在時と同じ形態で働いて貰っていた。今は現場にいるのが楽しそうだし、他の社員との交流もできるのでそっちのほうがいいだろう。……彼は口下手な男だから。
降車予定の五分前にPCを閉じて、ファーファからの返信を確認する。指定された待ち合わせ時間にはまだ余裕があったので、到着後に宿を取ることにした。その後、乗り換えて数駅であの懐かしい駅前の光景と対峙することとなった。省都からすると大分落ち着いた、郊外の景色だ。試しに以前に泊まったホテルに入って受付で空き部屋を確認すると、ダブルルームに一部屋空きがあるということだったので、早速宿泊手続きをした。レトロな内装と設備ゆえに宿泊料が他よりも安いからか、ビジネス目的での利用が多いらしく、無理を言って最上階を確保した前回同様、繁盛しているようである。
さすがに部屋は前と同じではなかったが、案内があったのはそのひとつ下の角部屋で、内装もほぼ同じだった。仕事をする上では快適な速度でネットさえ繋げれば宿はどこでもいいというのが僕のスタンスなので、他より狭かろうが古かろうがこれで充分だ。なにより、話し相手のいないホテル暮らしには慣れている。それから荷解きをして、買う必要のあるものをスマホのメモにまとめてから部屋を出た。昼時で街に人が出てきたらしい雑踏の質量が、鼓膜をざわざわと震わせる。僕一人だけのさみしい足音を意識しないようにしながら駅に戻ると、地元の学生が植えたらしい花壇の前に、白いワンピースのうしろ姿が見えた。「ファーファちゃん?」と呼びかけると、彼女は想定通りに肩をびくりと震わせて、振り返る。……どうやら長かった前髪を切ったようだ。以前より垢抜けた印象の彼女は、僕を見て可愛らしい笑顔になったかと思えば、すぐに異変に気づいたらしい。
「えっ。ああ、お久しぶりです……ええと、王さんは?」
そんな、後から合流することを疑っていないような声音での問いをぶつけられ、僕は「そうか」と漏らして顎を揉んだ。
「そっちなんだ。僕が髪を切ったことじゃなくて」
僕が笑いながら問うと、彼女はしきりに「え」という一音を何度か繰り返していたが、やがて真面目な顔で「浮気はしませんよ……?」と控えめに宣言をした。まったく、前回はほんの一時間程度しか行動を共にしていなかったはずなのに、いったい僕はどういうキャラだと思われているのだろうか。
「いやいや、さっきの文面通りだよ。たまたま近くにきたから普通にご飯行こうってだけ」
「え……もしかして別れたんですか……?」
「うーん。元々付き合ってはないんだけど……いやー、方向性の違い、で……?」
「そんな音楽バンドみたいな……」
「いや、大事でしょ。方向性。全面的に僕が悪かったし、一旦解散というか活動休止というか……」
「ええー……前もって言ってくださいよ……びっくりするじゃないですか」
そんなやりとりをしたものの、食事をキャンセルするつもりはないらしいファーファと一緒に歩き出す。話を聞くに、この約一年半で彼女はちょっとした『観光地』になったらしい。おそらく香港の重慶大厦と似たようなものだろう。垢抜けたのはそのせいかと邪推する。
「あ、お客さんを迷わせたりはしていないですよ」
「大丈夫、疑ってないから」
「だから市場の向こうの繁華街もちょっと客足が増えたみたいで、そのうちグレーなお店とかも一斉に摘発とか入るのかなーって。それはそれで少し複雑というか。そういう職でいま食べている人たちもいるわけで……」
「ああ……難しいねそこは。未来のためとはいえね」
「そうなんですよねえー……市場の人たちは水回りの修繕に助成金が出るっていうので喜んでいたりもするんですけど」
政治経済の話をしつつ、足はどちらともなくあの食堂へと向かっている。それはつまり、まだあの店があるということの証左で、僕は安心して歩を進めた。穏やかな色の空と、日に焼けて色褪せたアスファルトがどこか郷愁感を誘う街並み。もう慣れっこだと思っていたのに香辛料の香りが鼻を突く。それから僕が駆け抜けた通りへ出て、生鮮市場前へゆくと、そこにあの店は変わらずにあった。当時は雨風で荒れていたビニール屋根は新しいものへと張り替えられ、店先の設備もいくらか刷新されているが、雰囲気はそのままだ。
「女将さん、お客さん連れてきたよー!」
ファーファが厨房に向かってそう呼びかけると、奥から鍋を振る音とともに、「ファーファちゃんいらっしゃい! 好きなとこに座ってー!」と、懐かしい声がする。そのまま適当に選んだ席に座ると、厨房手前のレジスペースの上部に貼ってある、短冊形のメニューをふたりで見上げた。「やっぱり刀削麺ですか?」「あー、いやー……それはちょっとまだ心が」「しっかり失恋してません?」「してるねえ。たまに寝る前泣いてるし」「わ……」「引かないでって」まだ昼時なのでさっぱり食べたいことを伝えつつ注文を任せる。するとファーファは慣れた様子で厨房に近づいていき、中の女将に注文を伝えると、ごく自然にレジ横の冷蔵ショーケースの中からビールと小鉢料理を取り出して席に戻ってきた。なるほど、これが常連スタイルなのだろう。金色の瓶のビールをグラスに注ぎ、まずは乾杯。「この度は観光地化おめでとうございます」「いえいえー。おかげさまで」日陰で飲むライトなラガーがまだまだ嬉しい季節だ。
「これは……なんだろ、正式名称……香辣鴨珍……? の和え物、的な……。鴨珍は『アヒルの砂肝』かな」
小鉢にかけられたラップを取り払いながら、ファーファは所々を英訳して教えてくれる。それだけで面倒見のよい性質であることが窺えて、彼女が以前の印象そのままであることを、僕は嬉しく思ったりする。
「ありがとう。パクチーも内臓系も好きだよ」
小鉢は見たところ砂肝の薄切りに刻み唐辛子ときゅうり、それからパクチーを和えてある酒肴のようだ。とりあえず一切れ食べてみると、口の中に酸味がじわりと広がった。「これは黒酢?」「そうです。老陳醋」なにやら辛く煮てあるらしい砂肝の歯応えがよく、噛むほどにパクチーの香りも広がる。これは確かにビールだ。
「あ、それ使った火鍋食べたことあるよ。あれも美味しかったな」
「山西省の特産品なんですよ。中国三大名酢に数えられてるんです。ぜひ、お土産に買っていってください」ぜひ、の部分を強調してファーファは言う。
「すっかり観光大使ですね?」
「いやー、経済が動いちゃったからにはなにもしないわけには」
「責任感があって、かつパワフルか。いいね。うちで働かない?」
「えー。それはいつか失業したらで……」
「あはは。待ってるよ。伸ばす首ならいくらでもあるからね」
そんな話をしていると、大皿を片手に女将が出てきたらしい。ファーファが反応を示した先を見遣ると、変わらぬ姿の女将が僕を見て「あれま」と声を上げる。
「あんときの色男じゃないかい!」女将はパッと顔を明るくすると、残り二メートルほどの距離を駈け足で寄ってきた。
「ご無沙汰してます」
そう返事をしながら卓上に空きを作る。
「髪切ったのかい? そっちのほうが素敵よ、アンタ」
「それはどうも。よく言われます」
「あの天女様みたいなお嬢ちゃんは?」
絶対にくると思って身構えていた質問だが、それにはファーファが答えた。
「別行動中なんだって。ラドレさんだけたまたまこっち来てたからご飯に誘われたんだ」
そのビールを飲みながらの自然な返事に、女将は特に疑うこともなく「そういやビジネスって言ってたもんねえ」とすんなり受け入れてくれたようだ。視線でファーファに礼を言って、僕も「そちらはお忙しそうで」と流れに乗る。店には以前より客が増したように思える。
「そうなんだよ。なんだか都市計画がうんたらで若いお客さんが増えちゃってねえ。昔ながらの地元料理が食べられるとかでこんな店にも客足が増えたのはいいことなんだけど、おばあひとりでやってるとキツいキツい。食洗機は入れたんだけどねえ」
「おや、従業員さんはいらっしゃらないんです?」
「前は主婦の子がパートでいたんだけどね。産休ってやつさ。今は週末だけ学生バイトをお願いしていて、あとはたまに孫が手伝ってくれてるよ。市が接客ロボを配給してくれるとか言ってるけど、ここの常連はアタシが鍋振っててもなにしてても注文してくるからね。わざわざ注文アプリを導入したってのに。この卓上のコードが見えてますかっての」
腕を組んで溜め息を吐く女将に、ファーファは若干申し訳なさそうにするものの、すぐに、
「みんな女将さんが元気か確認したいんだよ。注文はそのついで。だって女将さん、ぜんぶちゃんと捌いちゃうし」
と言って無意識下でおこなわれた己の失態を、照れ隠しした。
「そりゃ、伊達に長年やってないからね」女将も満更ではなさそうだ。
そこで、タイムリーに背後の席から「ママ! 皮蛋豆腐、あったかいのね!」と注文が入る。苦笑する僕とファーファに向かって肩を竦めてみせた女将が、「ま、ゆっくりしていきな」と僕の肩を叩いて厨房に消えるのを見送って椅子に座りなおすと、ファーファが大皿から小皿にその炒め物を取り分けてくれていた。礼を言って受け取ったそれは、豚肉の炒め物のようで、他にはニンニクの芽やタケノコ、キクラゲなどの姿も見える。
「これはね、過油肉って料理。油通しした漬け肉を黒酢で炒めたものです。こってりして見えるけど、すごく食べやすいの」
口に運ぶと、びっくりするくらい肉が柔らかかった。「ああ、ほんとだ」さっきの和え物とはまた違って、熱の入った黒酢の芳醇な香りと角の取れた酸味がいい。字面よりずっとさっぱりしている。合わせるなら米やパンより、麺という感じだ。それを伝えるとファーファは「山西ではお米が育ちにくいので、粉もの文化なんです。だから味つけが麺料理を想起させたりするのかも」と解説してくれた。確かにきのう省都で見かけた飲食店も麺料理の店が多かったような気がする。
「そういえば外国の方って向こうの食事が恋しくなったりしないんですか?」
油とタレを纏ったタケノコを摘まみにくそうにしながら、ファーファは問うてくる。そのたまたま不器用な扱いになってしまっている箸捌きをどこか懐かしく思いながら、僕は答えた。
「うーん。たまーにね。そういうときはチェーン店に行くし。昨日はハンバーガーを食べたよ」
「やっぱりそうなんだ」
「でもこの国の料理は多彩だから飽きたりってことはないかも。そもそも、僕も王も人外圏の出身だからどこもホームではないしね」
「あ。それそれ。最近は同族の人たちと遭遇することも増えたんですけど、なんかちょっと違う雰囲気の人って大体そっち出身なんですよね。でもそれは私が人類圏で発生した妖怪だからこそ感じるのかも」
「え、どういうところが違うの?」
「うーん。なんか、どこ見てるかわからない感じですかね……?」
「えー……頑張って擬態してるのになー」
「え、ああ、変って意味じゃないんですよ。なんかロマンチックな雰囲気が出てるんです。少女漫画みたいな?」
「どういうこと? てか、少女漫画読むんだ」
「読みます読みます。最近すっごく面白いのがあってー……」
人は変わる。その性質は常に揺蕩っている。そんな当たり前のことを友人を通して知る。王を通してだと、どうしてか見えなかったのに。
最後の一品は莜麺栲栳栳という麺料理だった。「わ、すごい見た目だね」と思わず漏らしてしまうのは、蒸籠の中に筒状に整えられた無数の麺が立てて並べられているからだ。一見して蜂の巣のようなので、集合体恐怖症の人であれば怖がってしまうかもしれないが、香りはとてもいい。
「これはオーツ麦の麺ですね。麺っていうと細長くてつるつるしているものをイメージするかもしれませんが」
「そうだね。これはなんというか……餃子の皮を筒状にした、みたいな感じ……?」
「そんな感じですね。適当にわさっとお皿に取って、黒酢ソースかトマトソースをかけて食べるんです。あるいは両方。でも最初はなにもつけないでいってもいいかも」
促されるままに二三枚を箸で掬うようにして掴み、一旦皿の上に着地させる。そしてくっついている麺どうしを剥いで、一枚分を口に入れた。「うん」まだ存分に熱いので口許を手で覆いながら頷く。「蕎麦みたいな味だ」噛むほどに甘く、穀物っぽい香りが鼻に抜ける。なにもつけずとも十分に美味い。素朴さがかえって癖になる感じだ。
「それでまた黒酢ね」
黒いほうのソースをレンゲで掬いながら笑うと、ファーファは腰に手を当ててふんぞり返った。
「そりゃあ大使ですし?」
ならお手並み拝見……と言わんばかりに莜麺にソースを絡めてひとくち。麺の甘さをコク深い酸味がアシストしており、その奥に醤油とニンニクが香る。先の二品とはまた違った、炭水化物の美味さを引き立てる采配だ。トマトソースには炒り卵が入っており、口内に一気にイタリアンの風が吹くが、黒酢ソースと混ぜると抜群の『丁度良さ』に落ち着く。無意識に『ウマミ』疲れしていた胃腸にとって、いい気分転換になる逸品だ。
「くう……買うよ黒酢」
根負けを声音に滲ませて降参すると、ファーファはすかさず「あ、いくつ行きます?」と身を乗り出してくる。これはもう会社でいうなら営業というより、『レジェンド役員』の風格だ。ビールで口を直しながら僕は言う。
「ケースでいきます。うちの会社の子たちへのお土産とー……あとは香港の友だちのところに送ろうかな。あとは……上海の知り合いのところにも」
「やったあ! いえいいえい」
「いえいいえい」
喜ぶファーファに付き合ってハイタッチをする。一瞬「コネって大事だよなあ」と思ったが、こっそりと「友情って大事だよなあ」に訂正する。そのタイミングで女将がまたしても大皿でサービス品を持ってきたので、「入らないって!」と笑うと、ファーファが「いける! いけたらいいことある!」と激励してきた。「頑張るうー」とほろ酔い気分で力こぶを作って、箸を取る。またあの激辛唐辛子炒めだ。これでは当初の「さっぱり食べたい」という希望が台無しだ。味的にも、腹具合的にも。だけど、嬉しい。
「うう、量が多いな……! あのワンちゃんに手伝っては……貰えないかぁ。唐辛子だもんな」
「あのワンちゃんって?」
「あれ、前に来たときワンちゃんいたんだよね。市場の看板の下に。地域猫ならぬ地域犬かなって」
相変わらず辛いが、僕の好きな辛さだ。濃い湯気に眼鏡を曇らせながらビールと交互に食べていると、それまで妙に唸っていたファーファが言った。
「どういうワンちゃんですか?」
「ん? なんか大きい狼犬みたいな。黒いの」
「あれ……ここら辺は一年半前には既に野犬や放し飼いが取り締まられているんですよね。数年前にいたのもスピッツ系の雑種が多くて、うろうろしてた地域犬もみんな譲渡会でおうちを見つけたはずです」
「え?」その瞬間、僕は察した。「……じゃあ迷子だったのかな。なんか毛並みよかったし」
ハリエットだ。彼は本当にずっと、僕たちのことを見ていたのだ。
「その子、おうちに帰れているといいですね」
「……うん、そうだね」
彼女の言葉で思い馳せる。一体、彼のホームはどこなのだろう。どこにいたら時折見せていたあのさみしそうな顔をせずに済むのだろう。……そこでふと、『同じ釜の飯』を食べた香港の夜を思い出す。あのときの彼は、本当に安らいだ顔をしていた。いつから彼は王のことが好きだったのだろうか。その恋の始発点で、彼がまだ蹲っているような気がして、僕は俯かせていた顔を上げた。ファーファが「どうかしましたか?」と首を傾げるのに、「なにかを思い出しそうだったんだけど……うーん、ここまで出かかってる感じ」と、喉を指して返す。
「なんだっけな……イチゴ……。イチゴの、ケーキ……」
それは彼の恋の話から抜粋した単語だ。しかしそれは僕にとっても懐かしいもので。
「イチゴのケーキ? 誕生日ですか?」
誕生日。誰かの、誕生日。……誰の誕生日だ?
「えーと、そう。犬の話と関係なくてごめんなんだけど、僕、学生時代にイチゴのケーキを作ったことあるんだよね。地元……にいるときに」
ほとんど譫言のように、僕は舌を回す。ファーファは莜麺にトマトソースを垂らしながらも、きちんと聞いてくれているらしく細やかな相槌を打ってくれる。
「へえ、結構器用なんですね。スイーツって分量きっちり守らないといけないって言いません?」
「そうそう。心配だったから家族とメイドに手伝ってもらって……」
「メイド? え、ラドレさんってもしかしてお坊ちゃまなんですか?」
「まあ……一応ね」
「へえー。食べ方綺麗ですもんね。それが誰かの誕生日だったんですか?」
「確か、そう。家族はいないって言ってた友だちがいて……僕は一緒にお祝い、したくって……」あれ? あの友だちって誰だ?「朝、寮に持ち込むときに他の同級生に見つかっちゃって……皆食べたいって騒ぐから、仕方なく放課後みんなで分けようって……そしたら、アイツ、遅刻して……」アイツって誰だ? 考え事なのに頭ではなく、なんだか胸が痛い。
「え、そのお友だちってケーキ食べられたんですか?」
「うん、食べたはず。切り分けるときに確保しておいたから……。僕はケーキを乗せた皿を家に戻しに帰って、そのときに誕生日おめでとうって書き置きをして……あ、寮で部屋が一緒だったんだ。それで、戻ってきたらケーキがなくなってたから……」知っている。思い出せる。あのときのこと。細かいシチュエーションや話したこと。記憶力すごすぎ! と自分を褒めたいくらいなのに、でもどうして。「どうして僕、アイツのこと覚えてないんだろう」
「覚えてない? 覚えているじゃないですか」
「いや、えっと……名前と顔が、わからないんだ」
「あー、んー、でもそういうことってよくありません? ちいさい頃仲良かった近所の子の、名字だけわかるのに名前は忘れちゃったとかそういう感じの。なになにさんちの子〜とか、断片的な情報だけ覚えてるみたいな。私の場合壁友ですけど」
「壁友て」
思考が深いところに嵌まりそうだったのを、ファーファの冗談が浮上させてくれて、僕は笑う。狼犬。イチゴのケーキ。イチゴ。僕とハリエットの記憶における、なんてことはない共通ワード。そもそも誕生日ケーキといえば、大抵の場合はイチゴである。それだけではハリエットのことを知る手がかりにはなりはしない。
「あだ名とか、名前のニュアンスとかは覚えてないんですか?」
「んー、なんだったかな」箸を操りながらぼんやりと考える。「ああ英語。初めて自己紹介したときに、人類圏の英語って言語で『挑戦』とか『勇気』とかってニュアンスがあるって僕が……」
ダレス。
「あ……思い出した。ダレスだ」
一歩近づいて、薄闇をわずかに切り裂く感覚。しかし、こんな話題にこんな冴えを発揮しても仕方がない。王の居場所とか、ハリエットの思惑とか、そういうことをもっと大真面目に考えたいのに、そもそも僕はわざわざ旅の始まりの地になんて来てみたりして。まったく、危機感がない。しかしそれは、ある意味自由であるということだ。孤独の代償に自由があって。だったらいまはなんでもできるし、やっていい。
「へえ、なんかカッコいいお名前ですね」
「そうそう。僕もそう思って。へへ。名前だけでも思い出せて嬉しいな。ファーファちゃんが聞いてくれたからだよ。ありがとう」
きちんと思い出せるということは、自分の人生の舵を自分で切っているということの証左だ。僕はまだまだ若くて(自分では若いとは思っていないけれど)、元気で、健康なのだ。いくらか晴れやかになった視界で市場の入り口を振り返ると、そこには犬ではなく野良猫がいた。
ファーファの頼みで黒酢は宛先ごとに別の店で買った。綺麗になった城塞にはタピオカドリンクを求める行列ができていた。「タピオカって何回流行るの?」「永遠、じゃないですか?」それから将来はヌンチャク教室をやりたいと語る彼女の話を聞きながらその外周をゆっくり歩いて、これから摘発が入るかもしれない繁華街の入り口で別れる運びとなった。去り際に彼女は、「忘れるところでした」と僕に一枚のハンカチを差し出してきた。
「これ、借りたままだったので……ありがとうございました」
それは確か、あのとき吐きそうになっていた彼女に貸したもので。僕はそれを受け取ると、尻ポケットに入れた。そこには元々入れていたハンカチもあって、なんだかずっしりと重い。
「はは。ご丁寧にどうも。最近もハンカチの貸し借りあったなあ……」
「それはラドレさんがいい人だからですよ。貸す側でも、借りる側でも」
じゃあ、と言って手を挙げる彼女に、僕も「またね」と返して手を振る。立ち止まって見送るほど長い別れにはならないだろうと、ふたり同時にそれぞれの道を歩き出す。そして宿に戻る前に道向こうのコンビニへ寄ろうと方向転換。赤信号が青に切り替わるのを待つあいだに、王にメッセージを打つ。
今日は山西省大同市。覚えてる? 旅のはじめに刀削麺を食べて、王が攫われちゃったところ。ファーファとあの店で黒酢尽くしのメニューを食べたよ。そして昔の友だちのことを思い出したんだ。王は友だちがいないだなんて言っていたけど、実は思い出さなかっただけでいたりするんじゃないのかな。だって友だちがいない人がこんなに優しくて思いやりがあるなんてことはなかなかないでしょう。だから、思い出そうとしてみてほしい。今日も愛してるよ。
コンビニではメモしていた日用品とドリンクの他に、桃缶を買った。缶切りは、ある。しかも殺人缶切りだ。トランクにしまっていた王のポシェットの中からそれを取り出して、キコキコと超・アナログな作業をしてみる。これが結構難しい。片手で缶を固定して、きょうびなかなかない『てこ式』のそれを細かく動かし、なんとか缶を開けると、コンビニで割り箸を貰っていたので(桃缶で割り箸をもらうって!)、それでシロップに沈んだ黄桃を捕まえて齧りついてみる。すんごく甘い。フチで唇を傷つけないようにシロップも飲んでみる。すんごく甘い。「ハオチーで、ハオフー……」王を真似して感想を口にすると、なんだか笑えた。
なんとか完食して、シロップの残りを洗面所に流していると、ふと顔を上げた先の鏡には、学生時代と同じ髪形の僕がいる。シロップでべたつく手で『彼』に触れてみれば、薄ら笑っていて、ちょっとムカついた。汚れた鏡をハンドタオルで拭き、濯いだ缶の水気をざっと切って部屋に戻り、缶をゴミ箱に捨てる。それからタバコのスイッチを押して、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。ばいん、と弾むスプリング。天井の照明が花のかたちで可愛いことに、そのとき初めて気づく。
「……思い出さなきゃよかったな」
煙を吸う。清涼感ある吸い口に、しっかり汚れる肺。の、イメージ。ふー、と細く高く、天井まで煙を吹いて、僕はきっとなにかを弔いたい。でも掴み切れないその蟠り。これは『友だち』のことじゃない。僕はさっき、イチゴのケーキのエピソードを思い出して、連鎖的にとある忘却を破棄し、新たな思い出……いや、行き場のない気持ちをひとつ獲得してしまった。これのやりどころに困っている。
「なんなんだよもう。ほんっと、不愉快な人だよ」
あの誕生日のイチゴのケーキ。それを作るのを手伝ってくれたのは、父だった。そう、確かに、彼だったのだ。仕事が休みとかたまたま帰ってきたとか母上がこれを好きだったとかごちゃごちゃ言って。そんなになんでもかんでも不満みたいな口調で話すくらいなら、手伝ってくれなくてもよかったのに。
「そういうのもう求めてないんだよなー……」
しかし、あのときの僕はたぶん、それを求めていたし、嬉しかった。
ほんとうに嬉しかったし、忘れないって思ったんだ。すぐに忘れちゃった、はずだけれど。
「何回リバイバルして僕を困らせるつもりなんだよ。タピオカかよ」
ひとり愚痴を漏らしながら一本吸い切って、起き上がる。半バカンスの日々。半労働の日々。これからドキュメントを仕上げて、プレゼンの原稿を作り、それを元にヴァーチャルアシスタント相手に疑似プレゼンをして、想定される反論や意見をまとめなくてはならない。僕はもう大人で、社会人で、労働基準法が適用されない経営者で、だから父のことばかり考えているわけにはいかないのだ。デスクに移動し、PCを立ち上げる。眼鏡をブルーライトカットモードに切り替えて、資料作成アプリをタップする。ああ、僕は社長なのにいつまで作業をしなくてはならないのだろう……。
「……あの人、腕まくり似合わないよなー……」
多分、僕は懲りずにずっと『やる』羽目になるのだ。誠に遺憾なことにも。タピオカくらいしつこく。悲しがったりだるがったり不愉快がったりする機能ができあがってしまっている以上、それはしかたがない。一生困って一生ムカつくのだ。過去は変えられないし、父がいることも覆せないし、タピオカは確かに美味い。という、不可逆。それらを憂うのは、僕が今日も生きているからだ。ダレスくんは生きているだろうか。僕のことを、思い出したりしなかったりして、きょうも『やっている』のだろうか。彼なりの堂々巡りを。
*
翌朝。青い顔で前線に立つと言ったお嬢ちゃんを、「休んでくれないと他の女性隊員たちが困るから」だのなんだのと宥めすかしてホテルに置いてきた。二日目がつらいとは聞いたことがあったものの、案の定ホルモンバランスのせいで若干ナーバスになっているらしい彼女が「外でちゃうもん」「一緒にいたい」「絶対に怪我しないで」とぐずぐずになって縋りついてくるのを、それぞれ「ダメだ」「早く帰ってくるから」「怪我しないって約束する」と答えるたびに抱き締めて、キスしまくって飛び出してきたのだが、お陰で彼女が心配で心配で堪らない。内臓が数日間痛いなんて、俺なら絶対に耐えられない。想像するだけでくらりとくる。
「大丈夫か、ハティ? 顔色が悪いぞ」
そう言って俺の顔を覗き込んでくるのは、前回の任務で一緒になった福建支部のアンリというワシミミズク種の男だ。無造作に撫でつけた茶髪に無精髭で、なんとなくタブロイド紙の記者のような雰囲気がある。彼とは喫煙室で交流をあたためたという経緯もあり、さっきから頻りに禁煙生活について質問攻めにされていたのだが、生返事でいたせいで彼はとうとう俺の体調が悪いのかと心配し始めたらしい。それに「大丈夫っす」と返事をしながら、俺は福建支部の購買部で買ったコーヒーを啜る。手元に構えた双眼鏡の向こうにいるターゲットは未だに動きを見せない。
今回の任務は標的を尾行し、アジトに戻ったところを叩くという至極単純なものだ。しかしなにやら敵が新型兵器を使うらしく、それで福建支部の戦闘員のおよそ三分の一が壊滅。オマケにやり口が汚く、基本的にツーマンセルで行動する戦闘員の片方のみを殺傷することで精神的なダメージで中長期的に無力化してくるのだとか。つまり、実質戦力は三分の二が削られているということであり、福建支部は大打撃を受けている。そこで今回、普段は基本的に単独行動をしている隠密部隊のアンリと、外部からの応援である俺が組むことになった。敵は二人組を狙っているので、もし敵に奇襲の備えがあれば迎撃して兵器を奪取。そうでなければアジトを叩いてついでにガサ入れというのが基本プランだ。つまり、お嬢ちゃんがいたとしてもそもそもどこかで待機してもらうことになっていた。であれば、安全なホテルにいてもらったほうが憂いが減る。もちろん体調面は心配ではあるが。
「まだ動かねえだろ? まあのんびり構えようや」
再度スコープを覗き込む俺の背中に、階段に胡坐をかいてタバコを吸い始めたアンリは悠長な声で語りかけてくる。彼が余裕の態度でいることに対しては、俺も特に思うところはない。彼の実力は信頼できるからだ。
俺たちがとある商業ビルの非常階段の窓から街を歩くターゲット──この辺りを縄張りとするアナトミーの幹部と推測される──の姿を監視しているのは、敵の兵器がスナイパーライフルだと推察されるからだ。遮蔽物はあればあるほどいい。監視カメラやドローンを使った単純な尾行ならハーフムーンがしてくれているが、俺は目視でも逐一状況を確認するようにしている。不測の事態というのはいついかなるときもあり得るからだ。
「それは元ハンターとしての勘っすか?」
十数秒の沈黙という名の集中のあと、俺は彼の言葉に返事をする。すると彼は、「勘だなあ。つうか今もハンターだし」と言って鼻から煙を噴いた。
彼はお嬢ちゃんが治めていた国の隔離地区である『月下界』で、怪物狩りとして生計を立てていたと聞く。あそこにはSGJが勧誘活動をしにいくこともあり、俺もざっくりとした知識は持ち合わせている。かくいう俺もそこでアンダーソンに拾われたのだが、すぐに出て行ったため、あそこでの記憶はほとんどない。対してアンリは、長いことあそこで暮らしていたそうだ。そんな彼も『飽きたから』という理由で人間界に出てきたらしいが、こっちでもやることは向こうとほぼ同じ。しかし空を好きなだけ飛び回れるという自由はなににも代え難く、もう向こうには帰りたくないのだとか。
「アンリさんって単血じゃないんですっけ」
副流煙に嫌気が差すようになった自分に驚きつつ、口だけ動かして問う。ただのコミュニケーションとして。しかし彼は、
「単血なんて言っちゃいけねえよ」と真面目なトーンで前置きをした。「俺には親がいたが別にそれが偉いってわけじゃねえ。あれだな、お前、結構卑屈だな」銃のハンドサインで彼は俺を指す。
「まあ、卑屈……かもしれないっすね」
バン、と打ち出されたオノマトペを敢えて受け、「うっ」と呻きながら俺はその分析すら飲み込む。そうだ。俺はラドレに卑屈そうだとか言っておきながら、実のところ自分も卑屈だという自覚がある。
「なんだよ。ガキの頃イジメられたか?」
「それなりに。でもいつも助けてくれた奴がいて、どっちかっつーとソイツが眩しくて卑屈になったタイプっすね」
「拗らせてんねえ。乙女チックじゃねえか」
「うーす。乙女チックでーす」
「そういうとこなー」
そう言って笑ったアンリは、徐ろに購買部の紙袋の中からドーナツを取り出して齧り始めた。この人は慌てない。聴力がとてもよく、状況を先回りして察知する能力に長けているからだ。つまり、彼が悠々としているうちは事態が急変しないということでもある。
「なんか雰囲気柔らかくなったよな、お前。女できた?」
この不気味なくらいの勘のよさもこの人の特性だ。
「……どっすかね」
「その間はできた間だな」
「どっちでもいいじゃないすか」
「彼女可愛い? どんくらい可愛い? つうかどんくらい好き?」
「……それぞれ、超、超、超」
「あはーん。惚れてんねえ。でなきゃタバコやめねえか」
申し訳程度にモニタリング映像が映し出されたタブレット端末を手元に引き寄せながら、アンリは軽口を繰り返す。早く帰りたいのにこの調子だと長引きそうだと思った途端、彼が「おーし、移動するぞー」と撤収作業を始めたので慌ててそれに倣った。のんびりマイペースな性格なのはいいが、駒を動かす予備動作がないところはパートナーとしては困りものだ。「どこに移動するんすか」「Bポイント。俺が作った監視ポイント表だぜ? そら順番よ」……もっときちんと説明してほしいが、意見を堪えてイヤカフで翠雨に先回りして監視するようにと指示を出すと、「乙女チックさんうーす」という返事があった。「盗聴すんなテメエ」翠雨を叱りながら窓を閉める。
三つ目の監視ポイント……つまりCポイントでターゲットに動きがあった。それまでカーディーラーや飲食店など、非番を疑うような場所を転々としていたターゲットだったが、ここで明確に車を乗り換えるという行為を挟んだ。いや、正しくは、同乗していた妻と思しき女性を別の車に乗せたのだ。その、乳飲み子を抱いた女を。
「……聞いてねえよ」
双眼鏡越しに思わずそう漏らすと、ヴァーチャルアシスタントに車の行き先を計算させていたアンリが、「お前、ガキと女を殺せねえのか」と普段の調子で問うてきたので、俺は黙り込んでしまう。これは必要があれば誰であろうと殺すという俺たちのスタンスの再確認なのだろうが、『今』の俺の頭からはどうしても繕う言葉を抽出できなかった。
「……やれねえなら俺がやる。お前は親父をやれ」
「……親父って、言わないでくださいよ」
「記号だろ、そんなモンは。その人の可能性を潰す。俺たちの仕事はそれだけだろ? そもそもうちの戦闘員だってアイツらに相棒潰されてんだ。私情は挟まず、やられたぶんやり返すだけだろ」
「でも妻や子どもは、戦闘員じゃない」
「どうすんだよ。リベンジャーならまだしもアヴェンジャーになっちまったら」
わかっている。この問答に意味はない。そして俺だけが甘ったれているという事実も、痛いほど。もし、俺が不測の事態に備えて自ら双眼鏡を覗いてさえいなかったら、なにも考えずにターゲットを殺していたはずなのに、なかなかどうして、次の一手に移行できない。
「……好きなんだな、彼女のこと。お前、この仕事辞めたほうがいいぞ。あっ、善意だぞ善意。百の善意だ」
「わかってます。すんません。気持ち、切り替えます」
そこではじめて慌てた様子を見せたアンリに苦笑を返すと、彼は一変して真顔で俺の肩に手を置いた。そして、
「ニンゲンじゃねえって、無理あるよなあ、俺たち」
と、ため息混じりに言ったあと、「じゃあ、お前は引き続きターゲットを追え」と続けて、そのまま姿を眩ませた。自分の行き先は告げずに。俺は下唇に食い込ませていた歯をふっと剥がすと、翠雨の指示に従って標的を追った。翠雨はなにも言わなかった。たぶん、俺の言うとおりに盗聴をやめたのだろう。
お嬢ちゃんなら、どうしただろうか。彼女がこの場にいたなら、俺はどうしていただろうか。きっと、俺は彼女の指示にそのまま従っていたに違いない。おそらく殲滅の許可を出すであろう彼女をどこか冷たいと思いながらも、すぐに気持ちを切り替えて淡々と仕事をしたはずだ。俺はどこでなにをしようが、ぜんぶちゃんと、身勝手だ。
実力行使でのガサ入れは、思いの外早く終わった。誰も命乞いをしなかったし、俺もまだ生きている相手にはわざわざトドメを刺さなかった。ある程度残しておかないと最新兵器について聞き出せないからだ。倉庫と思しきスペースから出てきたその例の兵器の現物を拝んでみたが、外見は普通のスナイパーライフルだった。見た瞬間になんだか嫌な感じがあったのは、それが呪いの類いで動くことを察したからだろう。呪いは人外族にはよく効く。寿命が長い分、背負うものも背負わされるものも大きくなるからだ。ほぼ特攻のようなものだろう。つまり、あの『親父』も因果律による報復や呪詛返しを覚悟していたのかもしれない。ある意味人外特化型の禍々しいソレをできるだけ見ないようにして、俺は翠雨に任務完了を報告した。
その半地下のアジトからふらふらと這い出るようにして外の路地に出ると、入れ替わるように福建支部の鑑識部が階段を降っていった。階段の手すりに軽く寄りかかりながらスマホを取り出すと、暗い画面に映る俺の顔に返り血がついていることに気づいて、シャツの肩で拭う。そして顔を上げたタイミングで、目の前に一羽の大きなワシミミズクがふわりと降り立った。その瞬間そのハンターはアンリの姿へと変化し、「お疲れ」と短く言って俺の肩を叩く。そんな彼にだけ重荷を背負わせたくなくて、しかしどちらか一方だけが余分に背負っているわけでもないことを知りつつ、俺も彼の肩を叩く。「お疲れっす」と。アンリは別れたときと変わらぬ飄々とした態度でタバコに火を点けると、鑑識官に「禁煙です」と叱られ、「はーいわかってますよお」と杜撰な返事をして喫煙を続行した。俺がその姿に思わず笑っていると、彼は言った。
「レシギエ。……俺の名前だ」
それはつまり、コードネームではない、本当の名前ということなのだろう。
「覚えといてくれよ」
「……えー。死亡フラグ立てんのやめてもらえますか」
「立ててねーよ! たとえ偽名で仕事してても、本名の自分忘れんなってメッセージだよ言わせんな。俺はお前が甘ちゃんなとこ見せてくれて嬉しいんだよ」
彼の手が、今度は俺の頭に翳されて、俺は思わず眉間に皺を寄せる。流石に噛みつきはしないが、子ども扱いは不服だ。そのままぐしゃぐしゃとヘアセットを乱されたことに対しても、まあ、噛みつきはしない。俺はもう大人で、社会人で、中間管理職で、だから自分のことばかり考えているわけにはいかないのだ。
「ジジイぶるのもやめてもらえますか」しかし態度は生意気ぶる。彼がそれを求めているだろうから。
「あん? ジジイぶってねーよ。お兄さんぶってんだよ」
「悪いんすけど、俺、長男っす。ピンと来ないっす」
「長男だって甘えていいだろうが」
「甘えてねっす」
「こんのガキがよ……」
最後に頭をより一層揉みくちゃにされ、解放された頃にはもう爆発した寝癖のようになっていた。わざとらしい舌打ちをしながら手櫛で髪を整えていると、アンリはほら、とタバコを一本差し出してきた。それを「妊活してるんで」と断ると、なにを驚くことがあるのか彼は目を丸くして大袈裟に驚く。ひゃー、なんて細い悲鳴のような声を上げ、ばんばんと背中まで叩いてきて。
「なんなんすか」
「ならしゃあないよな。あー、牡蠣食って帰れよ。亜鉛だ亜鉛」
「げ。セクハラかよ」
「どこがセクハラだよこのむっつりが。ガキに牛乳飲めって言うのと同じだろ」
じゃあな、と言って彼は再び獣型形態に変化すると、そのまま飛び立った。ドラマチックに捉えるとなんだか今生の別れのようだが、明日も報告書の関係で顔を合わせることになっている。カッコつけたオッサンだな、と呟いたあと、俺も他の職員に「直帰しまーす」と声をかけた。
お嬢ちゃんになにか要るものはあるかとメッセージを送ると、「おにく」と返ってきた。その潔さに笑いを噛み殺しながら、昨夜ジンリンから送ってもらった位置情報を確認する。
その第八海鮮市場は、住民から『八市』と呼ばれているらしい。海鮮市場を称するだけあって海産物を扱う店が多いが、スイーツや肉なんかも売っているようだ。斜陽の頃を迎えてもまだまだ暑い屋外市場。磯の匂いが、日影を通り抜ける涼風に流されてゆく。各店のビニールの屋根の隙間から見上げる空は狭いのに、奥行きを感じさせる青さだ。絶えず水の撒かれる石畳を、サンダルの子どもたちが菓子やら玩具やらを抱えて駆けていく。
屋台の中で特に目立つのは、ウニ焼きやヒトデ焼きといった海産物だ。ヒトデに可食部なんてあるのかと疑いたくなるが、観光客にも売れている様子である。しばらく歩いていると、ふと爽やかな生姜の香りがして、辿ってみると店先に無数の土鍋が並んだ食堂の前に出た。そのまま少し観察してみたところ、土鍋の中には大量の生姜と丸鴨が入っているらしい。そして火が通った頃合いの鴨に店員がハサミを入れ、食べやすいサイズにカットした肉を底に溜まった生姜とタレに絡め直し、また更に煮詰めている。この国にいるうちに、俺も醤油と生姜の香りにほっとするようになってしまった。看板には『姜母鴨』とあり、価格も丸鶏料理よりは安い。
「それふたつ、持ち帰りにできるか?」
ハサミ入れが落ち着いたらしい店員にそう声をかけると、店員の若い男は「できるよ! 他に買い物があるならできたてを用意しておくけど」と、フランクに返してきた。
「ああ、そうだな。だいたい十分、十五分くらいか。取りにくるよ」
「はいよ。ふたつね。母ちゃーん、持ち帰りふたつ! 伝票用意しといてー!」
後ろの店内にそう呼びかける彼に背を向け、俺は牡蠣を探すことにした。なんといってもジンリンとアンリのふたりに勧められたのだから食べないわけにはいかない。それに、当たる可能性が高い生ものを今のお嬢ちゃんに食べさせるわけにはいかない……というのは、まるっきりの余計なお世話だが、そうしたい気持ちだった。ささっと食べて、早めに肉を持って帰りたいところだ。
それにしても、世の中は親子ばかりでフクザツだ。当然といえばそうなのだが、明確な親──ここでは血縁のある生産者という意味だ──のいない俺にとっては、なんだか腑に落ちない世界の外観である。父親代わりはふたりいるし、そのうちのアンダーソンのパートナーは俺にもかなりよくしてくれる。そういうのもなんだかいいなと思ったりする心の機微もちゃんとある。しかし、親のいない俺が親になるのは、果たして『大丈夫』なのだろうか。……昨日から、そのことをずっと考えている。お嬢ちゃんに月の障りがあるということは、ほんとうのほんとうに、子どもができてしまう可能性があるということだ。今までだって覚悟してきたが、実際にダイレクトに生殖に関係のある生理反応を目の当たりにして、俺はなんだかへっぴり腰だ。腰が抜けているといっても差し支えない。……アイツのように。
「父性とか、湧くのか……?」
個人的に懐疑的なものについてひとり考え込みながら、市場を歩く。こういうことはきっと、ひとりのときにしか考えられない。だからこの時間は、きっとアイツとリンクする。どうせ、アイツも『父親』について考えて、あーだーこーだ唸って落ち込んで、頃合いを見て飽きているのだ。俺とは違ったアプローチで、『息子』として。
「よくやってるよな、アイツ……」
ラドレという『可能性』のなかで、彼は常に苦しんでいる。人を殺すことがその可能性を潰すことならば、人を産むということは可能性を生むということで、それらはどうしようもなく不可逆だ。とてつもなくおそろしいことなのだ。苦しむ命を産むかもしれない。不安に思う俺が情けない。お嬢ちゃんが子どもを欲しがる理由を、俺は知らない。
そうこうしているうちに俺は『亜鉛』にエンカウントする。屋台を前に、今か……? と自問自答するが、その『蚵仔煎』の調理行程を見ているとやっぱり美味そうで、俺はひとつ注文した。笊でざっくりたっぷりと掬われた生牡蠣が、鉄板の上で香味野菜とともに炒められ、そこに何やら白い液体が注がれてゆく。熱で凝固していくそれは恐らくデンプン質で、現状見るからにゼリー状なのに、ヘラでひっくり返されるとその表面はカリっと焼けているようだった。最後に卵が割り入れられ、ざっくりと鉄板上で掻き回される。そうして完成したオムレツがヘラでカットされ、皿に乗せられるまでの工程をじっと見ていたからか、店主は俺を観光客だと察したらしい。英語で、「あそこの台にソースがあるから、お好みでかけてくれ」と教えてくれた。俺は彼に合わせて英語で礼を言って、そのちいさなカウンターに移動し、ディスペンサーから赤いソースを振り出した。どのくらいかけるのが普通かわからなかったので、皿の余白につけダレとして使えるようにいくらか溜めて、立ち食い席に移動する。
「食います」と写真とともにジンリンのメッセージを送ると、なんだか自分らしくなくて恥ずかしくなった。しかし送ってしまったのでどうしようもない。明日アンリにも見せようと決めながら、割った箸が中々綺麗で得意になる。それから、とりあえず牡蠣と卵と野菜をバランスよく掴まんで、口に入れた。……牡蠣だ。すごく、牡蠣だ。しっかり火が通っているのに歯触りがふわっとしていてぷりぷりで、海辺ならではの嬉しさがある。そして未知の料理なのに、ネギとニラがあるだけで外国人にも馴染みやすく仕上がっている。これは必要な『葉っぱ』だ。そうそう中華ってこうだよな……という安心感が誘発され、躊躇いなく二口目が進む。ソースはシラチャ―ソースに近いが、トマトの酸味と味噌の風味がある。それらが絡んだ、とろりとしたデンプンと、しっかり火の通った卵が美味い。全体的にザ・屋台飯という風情なのに、かなり贅沢な一品である。持って帰りたいと思うが、まだ夏場といえる気候だし、流石に心配だ。あっという間に空になった容器を指定のケースに戻していると、店主に「食べるのはやいねえ」と声をかけられた。ああ、ついうっかりいつものペースで食べてしまったようだ。もっとゆっくりしてもよかったが、俺には待つ人がいるのだからこれもいいだろう。「また来るよ」と店主に返して、石畳の道を戻る。久々の一人飯はほんの五分程度だったが、それで十分だ。それよりも、早く帰りたい。
ホテルの部屋に戻ると、お嬢ちゃんはなんだかすごい体勢でベッドに横になってタブレットで動画を観ているらしかった。
「ただいま」
そう声をかけると、お嬢ちゃんはすぐに起き上がろうとしたが、「俺が行く」と制して荷物をテーブルに置く。それからベッドに腰を下ろして横になったままの彼女の上に覆い被さり、「おかえりって言ってくれー!」と頬擦りをすると、彼女は「きゃー!」と声を上げて笑いながら身を捩った。そしてキスと「おかえりなさい」をくれる。
「あら。疲れた顔だわ」
「キミがいないと疲れるんだよ」
「あなたって、疲れた顔をしていても、かっこいいわ」
思わぬ言葉に唇を曲げて固まっていると、彼女は鼻をすんと鳴らし、「なんだか生姜のいい香り。ウォーウーラです」と言ってゆっくりと起き上がった。それをアシストしていると、彼女が抱き込んでいた枕の下から俺が寝間着の中に着ていたシャツが出てきた。それを指先で摘まんで、なんでここに……と首を傾げていると、すぐに「きゃー!」と、さっきより深刻な声音の悲鳴が耳を劈いた。「なんなんだよ」と彼女を振り返ると、そのちいさな身体の突進とともに押し倒される。
「ひどい! エッチ! ほんとエッチなんだから!」
悲痛に叫んで、お嬢ちゃんは俺の胸に額をぐりぐりと押しつけてくるが、角が生えているわけではないので痛くもなんともない。
「なにがだ? あと、人並みにはエッチだぞ俺は」
「やーっ! もう、もう、もううう!」
呻く彼女の頬と耳が真っ赤で、俺は熱が上がったかとひやりとするが、お嬢ちゃんが「内緒のことなのに、どうして」と言ったのではっとしてその顔を覗き込む。しかし文脈的に昔のことを思い出したわけではないとすぐに理解し、その頬をつねった。
「なにに使ったんですか」
「使うってなに。ちょっとぎゅっとしてただけよ。ほら、あなたっていい匂いがするもの……」
「ふーん? するんだ、いい匂い」
俺がニヤニヤと笑いながら追及すると、彼女は面白くないのか頬を膨らませる。「なに、その顔。憎たらしいわ」と漏らす唇の、おなじく憎たらしいほどの可愛さに、俺はお手上げだ。首を屈めるようにして、その額にキスをする。
「香水、同じの買ってやろうか」
「おばかさん。それだとちがうの。あなたは香水よりもっと甘い匂いがするの。なんだか懐かしい感じなのよ」
そう漏らし、いまだ恥ずかしそうにぐずる彼女の様子が、またあの頃の彼女に重なる。俺だけのリリはもういないと思っていたが、どうやらふとした瞬間に俺の心をちくりとやるために出てきてくれるらしい。一説によると、過去も今も未来も同時に存在しているらしいが、それを正しいとする証明ならば今ここでできると思った。だって俺はいつどこにいても変わらず彼女を想って、変わらず愛していて、それを絶対に後悔しないのだから、そこに時間の垣根などない。彼女がふたりぶんの記憶を使って、俺を生かしてくれたという事実が永劫変わらないように。そしてその愛のように。愛しい人から愛されれば、すべての時間軸の自分が救済される。きっとあれは呪いという名の愛の契約だったのだ。約款を読めばきっと、永久契約と書いてある。
「どうして懐かしいか、考えてみてくれ」
「どういうこと?」
「懐かしさには理由があるのかもしれない。知らないものを懐かしいとはいわないだろう?」
失くしてしまったという経験は不可逆だ。失くしたものの不在を埋めるのは、別の新しいなにかだけ……ではあるが、取り戻そうとはたらきかけることはできるし、それは難しくない。それがリベンジでもアヴェンジでも、試みているあいだは、少なくとも生きてゆける。
「ううん……どうしてかしら。イチゴって、なにかあったかしら……」
「単純なイチゴじゃないのかもな。例えばイチゴを使った菓子だとか」
「……あ、そういえばわたくし、イチゴのケーキが好きなの」
一歩近づく。未来に近づく。「知ってるよ」と頷く。いや、正確には生クリームのついたイチゴなのだが、彼女はそれを自覚していない。
「お菓子のなかだとそれが一番だけれど、料理の一番はなんだと思う?」
そんな唐突な問いにも、慣れてきた。『自分クイズ』は、彼女のなかの世界が膨らんでいるという証明にほかならないから、俺は好きだ。
「うーん……肉……?」
得意かどうかは、別問題として。
「料理よ、料理」
「BBQ……?」
「不正解。正解は……あの子が作ってくれたパンローストよ!」
一歩後退。いや、これはある意味大ジャンプの前進かもしれない。俺が「それは当てられないだろ……!」と不服を漏らして頬をつつくと、彼女は「牡蠣がたっぷり入っているのよ」と言ってうっとりと目を細める。「わたくし、牡蠣も好き……」……これは、絶対にひとりで蚵仔煎を食べてきたとは言えない雰囲気だ。
「あー……このあたりは牡蠣のオムレツが名物らしいぞ。元気になったら食べに行こう」
嘘は言っていないが後ろ暗い提案をすると、俺の心情を知らない彼女は身を乗り出して、
「そうなの? 明日食べに行きましょう。絶対に明日よ。もう考えただけで元気になっちゃう」
と、ニコニコ笑顔で宣言した。二日連続の蚵仔煎でも構わないが、彼女が機嫌よく毛先を動かすほど俺は気まずい。完全に実は食べてきたと告げるタイミングを逸してしまった。いや、自ら見送ったのだから当然ではあるが。
「それは……名案だな。そうしよう」
なんとか笑顔を作って頷くと、お嬢ちゃんは「やったあ」と喜んで、すっかりイチゴのケーキについては忘れた様子だ。だがそれでいい。急がなくても俺はまだ生きている。生きているということは可能性があるということだ。まだまだ死にたくないな、と希う。そして、「まずは飯を食おう」と彼女を抱いて起き上がる。
End.

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