
【SERTS】scene.17 味のしない花盛りを越えて、ラッシュアワーへ鶏粥で
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG12~15程度)
※環境依存文字の入った料理名はカタカナ表記にしています。ご了承ください。
「ハティ。うちに彼女、連れてきなさい」
リモート会議も終わりに差しかかった頃、唐突にアンダーソンはそう言って、俺を公開処刑にした。
マカオ滞在最後の夜。ギャンブルが得意だと言っていたのが慢心ではないと証明し、見事大勝ちをしてみせたお嬢ちゃんは、「わっほっほー!」と鼻高々にカジノを後にした。それはもう文字通りガポガポで、俺は若干引きながらも気を引き締めて彼女の身辺を警護し、結果的に何事もなくふたりでホテルの部屋へ戻ってくることができた。しかし帰路のあいだずっと「シャンパンが飲みたい」と繰り返してご機嫌だった彼女は、部屋で祝勝会をあげるかと思いきや、「ねむいのでねます」と宣言して、ドレス姿のままベッドに倒れ込んで眠りはじめてしまった。ドレスを脱がせるべきか、起こさないようそっとしておくべきか……と俺が二択に頭を悩ませたそのとき、アンダーソンから会議の呼び出し通知が入ったので、とりあえず彼女を会議が終わるまでは寝かせておこう決め、俺はジャケットを脱いでPCに向き合い、「これ、メールかチャットでよくねえか?」という、ほぼ雑談メインの会議に形だけ参加した。そして、この公開処刑だ。折角の有給に会議に参加してやっただけでも有り難いと思ってほしいくらいなのに、この仕打ちはなんなんだ。硬直する俺に、視線が束になって突き刺さり、痛い。
「彼女ってなんだよ、アンダーソン」
アンダーソンを抜くとこの部隊一番の古株となるシルバー・アンバーがマイクを握る。彼はテネシー生まれのカウボーイで、獲物と認識した対象に対してとにかくしつこい。しかもマッチョイズムの権化のような男だ。他人にそれをあからさまに押し付けることはしないが、なぜか俺は彼に仲間だと認識されているらしく、謎に「チャラチャラしない男らしい男」と評価されていた。俺はただその「らしさ」の舞台から降りているだけだというのに。
「いやあ、ハティに恋人ができたとハーフムーンから報告があってなあ。お祝いしたいよねえ」
顎髭を揉んだアンダーソンはニヤニヤしながら「な? ハティ」となぜか俺に同意を求めてくる。追い詰められた俺は古典的に「なーんか電波悪いな」と呟きながら、デスクの引き出しに入っていたホテルのパンフレットで顔を覆い、なんとか茶を濁せないかと息を潜める。すると誰かが「おい指輪してるぞ!」と大声で指摘した。しまった。どうやら黒いパンフレットを支えていたせいでお嬢ちゃんから貰った指輪が目立ってしまったらしい。途端にざわざわと騒がしくなる画面の中の狭い世界。俺が「勘弁してくれって!」と叫ぶと、「するわけねえだろ」と大合唱が返ってきた。四面楚歌だ。リリやリリ、汝を如何せん……。
「あ、アンダーソンさんだ!」
そのとき、唐突に背中側から明るい声がして振り返った。そこにはもうすっきり目覚めたとでも言いたげに目がぱっちりとしたお嬢ちゃんの姿があり、俺の肩越しに画面に向かって手を振り、ニコニコと呑気に「人がたくさんいます」と見たままを述べている。するとイヤホン内には数秒前に巻き起こったざわざわよりも数トーン高い声でのノイズのハリケーンが巻き起こり、俺は堪らずにイヤホンを外した。するとスピーカーモードになった音声が、どっとPC本体から溢れてくる。
「えっ、可愛い」「顔くらいないかこれ? なにがとは言わないが」「こっち向いてー!」「マジじゃん指輪してない?」「ていうかあの子だな」「あの子だなあ」「越権行為では?」「軍罰だ。ハティを連行しろ!」……大人数に同時に声をかけられ、お嬢ちゃんは一瞬腰が引けたかのように俺の背中にしがみついたが、アンダーソンが「リルファンちゃん! アンダーソンおじちゃんだよー! 今日も可愛いねえ!」と声を上げると、彼女はパッと笑顔になり画面に向かって身を乗り出した。
「アンダーソンさんこんにちは! あ、こんばんはなのです! お元気ですか!」
元気に礼儀正しく挨拶できて、偉い。……もう何も考えたくない脳内で、俺はただそれだけを感想として抱く。
「んんん! 元気だよー! リルファンちゃん、お肉食べたくないかい?」
「お肉? お肉だいすきです! お肉はいつもたくさん食べます!」
「そうかそうかあ。じゃあ明日、ハティと一緒にお肉食べにおいで」
「ほんとう? お肉たくさん?」
「そりゃあもう沢山さ! 待ってるからね。気をつけてくるんだよ!」
咄嗟に言い返そうとする俺を遮るようにして、アンダーソンは無情にも「以上。ハティのみ解散」と司令官らしい威厳のある声で言い放ち、ボイスチャットルームから俺のアカウントを弾き出した。画面の一方に取り残された俺は、漏らしたい愚痴がいくつかあったがぐっと堪え、ただ溜め息だけをゆっくりと吐いてお嬢ちゃんを膝の上に座らせる。面倒なことが起こったという認識。しかし、近いうちに報告はしなくてはならなかったことではある。重い腰を上げる揚力とするつもりで、俺が明日の予定を提案しようとしたそのとき、不意にお嬢ちゃんが「一回だけならいいよ?」と俺の手をその胸元に誘った。俺はなんのモーションも起こしていない……と意見したくはなったが、その「だけ」という口ぶりが無性に腰にきて、逆らえない。
結局「一回だけ」が「もう一回」になって、さらに「あと一回」へと変化した。この一週間で俺は何度「そろそろ本当に子どもができるんじゃないか」と思わされたことだろう。ショットガンウエディングという言葉が脳内に極太のフォントで浮かんで俺を威圧するが、そもそもお嬢ちゃんは子どもを作るつもりで俺と関係を持ち始めたのだから、順番など気にしないだろう。さっきお嬢ちゃんは昨年度算出された、『今世紀の新生児一人あたりにかかる養育費平均金額』をぽんと稼いで「あら。ひとり育てられちゃう」と冗談めかして言っていたし、そもそも俺は「結婚を前提に」と交際を申し込んだ立場だ。状況のなにもかもが俺に『子作りを遂行せよ』と促している。受けて立つぞと気合を入れ、ムードもへったくれもないことを自覚しながら、月並みに「男の子と女の子、どっちがいい?」と問うてみれば、お嬢ちゃんは「どっちも」と答えて艶っぽく笑った。「どっちでも」より凄いことを言われた気がして、彼女の腰の左右に突いた拳に力が入る。
搭乗二時間前にバイク空輸サービスに愛車を預け、一時間ほど空港内で時間を潰したあと(お嬢ちゃんに促されて、土産にポートワインを買った)、国内線で約二時間の空の旅を経て、俺は上海の拠点へ戻ってきた。バイクを基地内に停め、晴れていたので俺の分のヘルメットはメットホルダーに掛け、お嬢ちゃんのヘルメットはリアボックスに入れる。それからしばらくふたりして見つめ合い、「ご挨拶、というやつですね」「……かもな」「緊張します」「俺もだ」とふたりそわそわと同じ気持ちであることを確かめ合って、手を繋いだ。意を決して、明らかに炭火の匂いがけぶる方向へとふたりで歩いて行く。すると屋外の、普段機材や武器の搬入に使っているエリアに遠征組が固まっているのが窺えた。彼らは賑やかに「煙、煙!」「サイクロン持ってこい!」「デカい扇子ならあるぞ!」「なんであるんだよ!」などと数ブースあるグリルの前でそれぞれ騒いでいたが、俺とお嬢ちゃんの姿を認めると、わかりやすく居住まいを正して真面目な表情をしはじめた。間に合ってないぞ……と指摘したかったがぐっと堪えて近づき、
「……ただいま」
と、目を逸らして言う。なんだか妙に気恥ずかしい。しかし誰からのレスポンスもなく、沈黙と、火がぱちぱちと炭を│舐《ねぶ》る音だけがその場に滞留する。これはつまり、俺からなんらかのスピーチをしなくてはならないということだろうか。「ええ……」と不満に声を洩らしながら言葉を練っていると、お嬢ちゃんが口を開いた。
「皆さんこんにちは! はじめまして、わたくしはリリです。ハリエットさんとお付き合いをしております。きょうはお時間をつくっていただきありがとうございます。ご挨拶の機会をいただけてとっても嬉しく思います。わたくしは職業柄人前に出る機会が多いのですが、それでもこうして大勢の方の前で話すのがあまり得意ではありません。ですので、おひとりおひとりと直接お話したいなあと考えております。だからどうかこのリリのことを助けてくださるつもりで接してくださると嬉しいです。些細なものですが、マカオでポートワインを買ってきましたので、よろしければこちらのホワイトでまず乾杯させてくださいね。食後には赤をぜひ。皆さん、わたくしのことを気軽に呼び止めてくださいね」
強い。そう思った。最後にブチ込まれた最高の笑顔に、その場にいた全員が相好をドロドロに崩しながら手を振ったり拍手をしたりしている光景は傍目には異常だが、それでもそのスピーチには大いに助けられた。流石は経営者としか言いようがない。
「いやあ、よく来てくれたなリルファンちゃん。すまんな、ハティは人付き合いが苦手だから、こういうときにちょっと弱いんだ。キミがいてくれて助かったと思ってるはずだよ」
寄ってきたアンダーソンから差し伸べられた手を握り、お嬢ちゃんは「彼がいたから緊張しませんでした」と言って笑顔でエスコートされてゆく。もしかしなくてもいい子だな……とその成長に染み入りながらその後について行こうとすると、シルバー・アンバーに肩を掴まれた。くらりと血の気が引くのを感じながら、「なんすか」と口を開くと、拳を突き出されたので、ひかえめにこつんと拳を返してやる。
「ようやった! なんとも可愛らしくいい娘じゃないか!」
「どもっす……」
うざいと思ったが極力態度には出さずに苦笑いをしていると、ハーフ・ムーンこと翠雨が駆け寄ってきたので避ける体勢を取った。しかし彼は「避けないでよ兄さん!」と叫びながら飛びついてくるので、仕方なくハグしてやる。翠雨は俺の首に抱きついて、
「やったね。やっとだね」
と声を震わせると、俺から離れてスンと鼻を鳴らして俯いた。その頭に手を置いて、「まあな」と答えると、「もっと自慢してよ! 恋バナして!」と叱られる。それから俺の手を取った彼は、「おお、マジの指輪じゃん。これプレシャスオパール? これかなりエグい値段しない? いくらしたの?」と矢継ぎ早に、しかし後半を囁くように言って見上げてきた。
「いや……俺が貰ったんだ」
「は? 兄さんからは?」
「残念ながら、まだ、です……」
「甲斐性なし! ちゃんとオーダーしなよ」
彼に何度か胸を叩かれながら「はい」と頷くと、唐突に翠雨が「で、ちゃんとセックスできてんの?」とそこそこの声量でとんでもないことを口にしたので「てめえ!」と追い回してやる。きゃあきゃあと楽し気に逃げ回る翠雨を寸前で取り逃すこと二回。お嬢ちゃんが「あなた」と俺を呼んだので俺はぴたりと立ち止まった。あなた……と、たまに呼ばれるが、なんだかいい。破顔を堪えつつ「なんだ」と応えて傍に寄ると、「はい、グラスを配ってくださいな」とホワイトポートが注がれたグラス群を指された。「お願いね」と笑顔で念を押されてしまえば、断れるわけがない。俺は皆に肩を叩かれたり軽口を投げかけられたりしつつもそのミッションを完遂すると、最後に自分のグラスを手にお嬢ちゃんと並んだ。するとアンダーソンが皆の前に一歩進み出る。
「まずはリルファンちゃん、いい酒をありがとう。それからふたりにおめでとう。……というのは、まあ堅苦しい建前だ。ふたりには悪いがな」そう言って彼はお嬢ちゃんを振り返ってウインクをひとつ。それからグラスを掲げてこう宣言した。
「よーし、お前ら、今日は賃金発生BBQだ! たんと食えよ! 乾杯!」
なるほど、俺たちはまんまと利用されたわけだ。……思わぬ音頭に俺が舌打ちするより先に、うおおおおおと男性陣から雄叫びが上がる。お嬢ちゃんは笑いながら「いいチームですね」と笑って俺とグラスを合わせた。ポートワインは発酵途中のワインにブランデーを加え、発酵を停止させて作られる酒精強化ワインだ。ドライな白を選んだお陰で気持ちがぐっと引き締まる。
「なあお嬢ちゃん」
喧騒の中、俺は彼女の肩を抱いて囁いた。
「まだ先かもしれないが……指輪、贈っていいかな」
すると彼女ははっと俺を見上げ、一拍遅れてぶわりと耳まで赤くなる。そしてにやりとやけに幼い笑顔を見せると、
「聞かなかったことにします。びっくりする準備だけ、しておいてあげる」
と言い放ち、「お肉くださーい!」と人だかりができているオーブングリルの前に駆けて行ってしまった。なんだあれ可愛いぞ……とひとり赤面してワインを啜っていると、背後から翠雨の声で「すごいの見ちゃった。今晩授かるんじゃない? ショットガン・ウェディングもまあアリだよね」と聞こえて、俺は再び翠雨を追い駆けまわす。ひいひい笑って逃げる翠雨を今度こそ捕まえてアンアンクローを食らわせていると、
「わほほわほほ」
といつもの笑い声が聞こえてそちらを見れば、皿に大量の肉を盛ってもらって嬉しそうなお嬢ちゃんの姿。ああ、やっと好きなだけ肉を食えるな……と俺はあの香港の夜を思い出して、心の中で彼女に呼びかける。俺がふっと黙り込んだことをどう察したのかわからないが、寸前まで悲鳴を上げていた翠雨は俺の手指を解きながら「……こっちに来てるよ、先生たち」と静かに告げて、崩れたヘアスタイルを気にしたようだった。「でも歓迎会には顔出さないって」
先生とは、昔世話になった上長のことを指していると俺にはすぐに察した。「たち」と添えられたということは、彼の使い魔も含んでいるのだろう。
「……そうか」
俺には特に感慨はない……はずだ。彼の声とおなじだけ静かな心地で、頷いた。
「連絡、なかった?」
「まあな」
「今はハルビンで任務中だって」
「……なあ、翠雨」
「教えたよっ」唐突に、翠雨は声を張り、俺の胸の辺りをぎゅっと掴んで顔を見上げてきた。なんだか泣きそうな眉をしていたが、気のせいだろう。コイツは滅多に泣かない。「私が、教えた。……ダメだった?」それでも鈍い俺の目からもわかるくらいにきらりきらりとそのグリーンアイズを揺らして、弟は下唇をぎゅっと噛む。
「いや。いいよ、別に」俺はただそう返す。そして、「……でも口が軽いのはどうにかならねえのかお前は?」と、もう一度翠雨にアイアンクローをかました。一気に掴んで、じわじわと締め上げる。
「あっ、いたいいたいいたいいたい! 離して! 離して兄さん!」
それから十数秒後に「許して任務一個肩代わりするからあ」という言葉を引き出すことができたので、彼を解放してやる。すると翠雨は、「DV予備軍め。私が責任もって監視するからね」と捨て台詞を吐いて、酒が大量に入っているクーラーボックスのほうへ駆けていった。
俺もいくらかポークリブとブリスケットを貰って、それらをシルバー・アンバー特製のBBQソースで食べる。バーボンがしこたま入ったそのソースのガツンとくる塩味と甘味に、一気にアメリカにいた頃を思い出す。アンダーソンのチームには定期的に皆で集まり、BBQをして休日を過ごすという恒例イベントがあり、俺はそれにいつも顔を出す程度だった。しかし今となってみればあの激烈に面倒だと思っていた行事も、妙に懐かしい。向こうに戻ったら、一度最後まで参加してみよう。
酒を缶のスタウトに切り替え、他のメンバーから雑談という名の質問攻めに遭っていると、ふとお嬢ちゃんが離れた場所で女性隊員と話しているのが見えた。目を凝らすとその相手はオリエで、俺は足元まで血の気が引くのを感じ、「ちょっとすまん」と俺を囲んでいたメンバーに断ってその場を離れると、速歩で現場へと急行した。
「ね、プラトニックなの?」
「え? ぷら?」
「セックスしてるの?」
「はい。してます」
不味い。お嬢ちゃんの教育上非常に不味い会話だ。……俺は盗塁打者のように息を潜めて走り出す。
「チッ……ハティのアレってどのくらいなの」
「む? アレって……?」
「アレよアレ。どうせ毎晩見てるんでしょ」
「む! 晩だけではありませんが」
「そこはどうでもいいの。ほら、今からこの指と指の間をどんどん離していくから、合致する大きさになったらストップって言って」
「え……ええと。ええと……」
「……嘘。まだなの……?」
とんでもない個人情報の暴露が起こりそうだったので、俺は急いでふたりの間に割り入ると、オリエに向かって声を張り上げた。
「なにしてんだオリエ! 変な話振るなよ!」
オリエは過去に俺に夜這いを仕掛けてきたことのある女だ。周りは彼女を清楚系だと思っているらしいが、俺はなんとなく引っかかる部分があり彼女を避けていた。そうしたら案の定当直の仮眠中に乗っかられていて、俺はぜえはあと息を切らす思いで「勘弁してくれ」と繰り返し、なんとか勘弁して貰ったというエピソードがある(そのときなぜか泣かれた)。あれからかなり経つし、流石にもうなにもないだろうと思っていたが、この女はまだなにか俺に用があるのだろうか。
「えー、変な話なんて振ってないですよー? ね? リルファンちゃん」
俺はこの女が、心底苦手だ。遠征部隊に抜擢されただけでも嫌だったのに、アンダーソンのようなパートナー以外に一切興味のない男に人選を任せるとこういうのが引っかかる。いや、興味津々の男に人選を任せたとて、引っかかる。非常に厄介なタイプだ。
「む。たしかにヘンではない、かもです!」
しかしお嬢ちゃんは自分に向けられた悪意という名のセクハラには気づいていないようで、それだけは本当に幸いだった。ラドレがお嬢ちゃんの前では下ネタを避ける性分で本当によかった。俺は「とにかく、次はねえぞ」とオリエに言い含めて、お嬢ちゃんの肩を促し皆の輪に戻る。
地元を懐かしんでか、今回はアメリカンなメニューが多かったが、中国出身の隊員・ジンリンが野趣溢れる焼烤を焼いていたので、カエルが好きだというお嬢ちゃんが飛びついた。彼女は「カエルありますか!」と元気よくジンリンに問いかけると、「ありますよ」と柔らかく答えた彼の隣に並んで、その巧みな串捌きに見入ったようだった。彼は甘粛の砂漠出身で、羊肉と百合の根を食べて育ったのだと前に話してくれたことがある。羊肉の串焼きは向こうではメジャーな軽食らしく、最近では各国のチャイナタウンでもそれらが売られているさまを見ることができるが、経験上彼が焼くものが一番美味い。俺も彼に「肉と皮と骨髄をくれ」と声をかけ、お嬢ちゃんと一緒に彼の調理する姿を眺める。火で炙った無数の羊肉串を、じゃらじゃらとまるで占いに使う筮竹のように呪術的な手捌きで返し、火が通り切る前に脇で熱していた羊脂にくぐらせる。そうしてじゅうじゅうと賑やかな音を立てはじめた肉や内臓に、クミンをはじめとしたスパイスを華麗に振りかけ、再び火へ戻し、カリっと仕上げる……。何度見てもエンタメしていて面白い。
「はいどうぞ」
羊肉串とふっくら焼いたカエル串をお嬢ちゃんに手渡した彼は、俺にも注文していた串を渡しながら「可愛い花嫁さんですね」と言って笑った。俺が「まだそこまでは」と言いかけて口を噤んだのを見て、彼はなにか察したような眼差しになり、しかし口では俺の意思を無視して、「こちらでの花嫁衣裳といえば赤ですが、彼女には非常によく似合いそうですね」と、カエル串にかぶりついてニコニコ笑顔の彼女にその視線を向けた。シルクロード由来であろう彫りの深い清雅な横顔に、ふっと優しさが灯る。
「……赤もいいかもな」
俺はただそう答えて肉を齧った。カリっとしているのにごく柔らか。彼の技術力を誇示しているかのような焼き加減だ。それに妙に呪術的な引力もあって、お嬢ちゃんも目を丸くして「ハオチーです」と漏らし、ぱくぱくと軽快に串を平らげていく。羊皮はパリッとしているのにねっちりとした、なんとも言い難い食感で、骨髄は綿のようにふわふわだ。
「結婚祝いには甘粛緞通を贈ります。好きな色があれば教えてください」
甘粛緞通はペルシャ絨毯にも並ぶ高級絨毯だ。お返しが大変だぞと思いつつも、お嬢ちゃんを手招きして「好きな色は?」と問うと、「白と、青と、紫です!」と返ってきた。
「だ、そうだ」
「綺麗な組み合わせですね。甘粛の花海のようだ。向こうでは荒れ地を花畑化する運動が盛んで、広大な空とのコントラストが美しいのですよ。機会があれば、ぜひ。バイク旅はお勧めしませんが」
そう言って彼は、スマホで各地の花海の画像を見せてくれた。確かに美しく、そこにお嬢ちゃんが佇んでいるさまを想像すると、なんとも幸福な心地になる。機会があればなんて言うが、俺たちのように忙しく労働をしている個体にとって、『機会』なんてものは作らなければ一生訪れない。
「バイクがダメなら車もダメか?」
「どの程度踏み込むかにもよりますが……仰っていただければ馬や駱駝を用意しますよ」
「騎乗練習しないとな……まあ、機会があればだが」
機会を作ろう。そう思いながらそう返事をする。
「ふふ。極地の旅は大変ですが、そのぶん絆も深まるというものです。いつでも窓口になりますよ」
「ん。……ありがとな、ジンリン」
ジンリンは俺と同時期にNY支部に配属になったこともあり、普段からなにかと気にかけてくれる。その恩返しができていないことに、俺はたった今、この瞬間に気がついた。それは彼が、俺の大切な存在であるお嬢ちゃんに対しても優しく接してくれたことに起因するのだろう。この謝意のラグを今さら繕えるとは思わないが、意を決して「今度、メシ行こう」と絞り出すと、彼は「ええ、もちろん」と穏やかに笑った。
焼きアスパラばかり食べていたアンダーソンにもっと肉食えよと迫っていると、シルバー・アンバーが「完食御礼!」と叫んだのが聞こえた。見ればあれだけあった塊肉がすべてのブースの鉄板の上から消えていて、皆で今日の料理人たちに拍手をする。彼らには後日皆でカンパした謝礼が支払われるシステムとなっており、よっぽどの料理下手じゃない限りは順番が回ってくるようになっているのだ。俺は今まで金を多めに払うことでその役目を回避し続けていたが、今度からは真面目に参加しようと密かに決める。
「そうだ、ハティ。話があるからお嬢ちゃんと一緒に管制室に来てくれ」
不意にそうアンダーソンから耳打ちされ、俺は「わかった」と軽く返事をしながらも自分が緊張しはじめたのを感じる。そもそもお嬢ちゃんは『監察対象』であり、そんな相手を監視・警護の域を超えて恋人にするというのは流石に不味いことくらい察しがつく。皆が「片付けはいいから行ってこい」と言ってくれたので、俺は礼を言ってお嬢ちゃんと基地の中へと入った。
廃工場を買い上げて仮設されたこの基地は、元は二十四時間稼働していたらしく、宿直者用の個室が沢山あり、隊員たちは主にそこを仕事部屋兼寮としていた。その従業員棟とも呼べる建物から渡り廊下を通じて繋がっているのが管制棟だ。第一生産工場と書かれた看板の上に皆で作った看板が張り直してあり、思い思いに『地獄』『賃上げスト会場』『バカンス(大嘘)』『帰りたい』『ここから先はUSA』などと落書きしたり手作りのステッカーが貼ってあったりするが、この先はれっきとした『現場』だ。中に入ると最新鋭の機材が詰め込まれた大ホールとなっており、今は無人だが、普段は多くのメンバーがここで証券会社の如く駆け回っている。俺なんかは今現在監視任務が主なので、自分のPCといくつかの機材があれば個室でも出先でも変わらず仕事ができるのだが、司令官であるアンダーソンや、出動部隊へのナビ業務をしている翠雨、各システムの開発チームや事務員のオリエなんかはここが戦場だ。実働部隊は第二生産工場を改装したジムナジウムでトレーニングを行ったり待機をしている。
俺はお嬢ちゃんと一緒に管制室に入り、中で待っていたアンダーソンと翠雨の前までやってくると、背中で手を組んで大きく息を吸った。そして吸った息のぶん大きく、誰が口を開くよりも先に、
「今回は独断専行をした上に監察対象への越権行為、ならびに……プロポーズをしてしまい申し訳ありませんでした!」
と、声を張る。
「でも後悔はしてません!」
すると、アンダーソンは鋭い眼差しで数秒沈黙したあと、口元を手で押さえて絶句しているらしい翠雨を振り返り、「録ってたな?」となにやら確認作業をしはじめた。沈黙の中流れる俺の宣言のリピート。凍りつく背筋。直後、堪えていたのにばこんと心臓が跳ねる。これは恥ずかしい、かなり。俺が固まっていると、お嬢ちゃんがちょいちょいと俺の腕をつついてきたので振り返った。すると顔どころか首まで真っ赤にしたお嬢ちゃんが、
「ま、まだプロポーズはされてないです……」
と少し怒った様子でふるえる声を発する。その瞬間、ヤバいという衝撃が脊髄に奔って、俺は「ご、ごめん……ちょっと、その、日を改めまして……」と無様に漏らし固まってしまう。不味い、トチった。これはおおいに、ダメなやつだ。爆速で目が泳ぐ……どころか、溺れている。俺は頭を抱えると、その場にしゃがみ込んで「ああああばかやろおおおお」と呻いた。もう駄目だ。これでは微塵も格好良くもセクシーでもコンシデレイトでもなんでもない。
「……ハーフムーン、今のも録ったか?」
「当然。一生強請に使えるからあとでリリちゃんにもコピー送る」
「毎月マッカラン?」
「そう、毎月新作コスメ」
「ま、毎月、コンビニで豪遊……」
アンダーソンと翠雨のなんとも酷い計画にお嬢ちゃんまで加わって、俺はいよいよ立つ瀬ない。翠雨が「コンビニじゃダメだよ、デパ地下にしな」と優しくお嬢ちゃんを窘める。そうだ、このトチりはデパ地下豪遊でも雪げない。
「ううううハリエットさんのおバカ。もっとロマンチックにいいい」
目の前にしゃがみ込んだお嬢ちゃんが、不服そうに俺の肩をちいさな拳で叩いてくる。それを甘んじて受けながら「めっちゃ高い指輪買いますほんとすんません」と反省の意を示すと「さっき忘れるって言ってあげたのに。なんで二回もまちがえるの」と更に責められた。「わたくしが赦すのは一度目だけなのよ」
「ほんとすんませんやり直します」
俺は謝り倒しながら、彼女の攻勢を強めた拳を手のひらで受ける。
「ここぞ。ここぞってときにして。すごくすごいここぞってとき」
お嬢ちゃんはまだ納得してくれないらしく、真っ赤になったままぎゅっと目を閉じて怒っている。
「わかった、わかったよ。すごくすごいここぞってときにするから」
「最後だよ。忘れてあげるのこれがほんとうに最後なんだよ」
「わかった。一生忘れられないやつにするから……!」
するとようやくお嬢ちゃんは俺に拳の雨を降らせることをやめ、不意に立ち上がると途端に真面目な声音になり、
「アンダーソンさん、彼はわたくしとお付き合いすることでなんらかの処罰を受けるのでしょうか。過料等が発生するようでしたらわたくしがお支払いいたします」
と彼に歩み寄った。その華麗な転調に、アンダーソンは一瞬面食らったように目を剥いて瞬きをすると、すぐにいつもの調子に戻って「たぶん、なんとかなるんだよなー」と頭を掻いた。
「キミたちの監視は外部の依頼者から、直接俺とハティに指名があった任務でね。だから上層部はノータッチなんだ。厳密にいえば報告書自体は上層部にも上げないといけないんだが、まあ、対象と恋仲になっちゃった程度のことは俺がちょろっと詰められればなんとかなるさ。これでもこの日のために上層部への言い訳をいくつか考えてきたんだ。……どーれーにしよーうかーな!」
はっはっは、と大口を開けて笑ったアンダーソンは、その場で笑顔でいるのが自分ひとりだと気づいた途端、元の真面目な表情になると、咳払いをした。それを見ていた俺は、「アンタが先にソレを言ってくれればトチらなかった」と心のままには詰められず、ただ居住まいを正し「感謝します、アンダーソン司令官」と敬礼する。しかしお嬢ちゃんは納得できないのか、
「あなた、ほんとうに『ちょろっと』で済むと思っているの? 普通に考えたらよくて減給か降級ですよ。上層部が噛んでいないからこそ彼らは文面のみで処遇を決めるでしょう」
と言って俺を一瞥すると、
「わたくしはアンダーソンさんが叱責を受けることに納得がいきません。あなたはハリエットさんの父親代わりと聞きました。そのような方にそのような責を負わせることをわたくしは認めませんよ、お義父さま」
と、強い語気で宣言した。
お義父さま。……可憐な少女から発せられたその言葉の破壊力に、娘のいるアンダーソンは「うっ」と短く呻いてよろけると、「助けてくれハーフムーン」と傍らの翠雨に介助を要請した。どうやら効果覿面らしい。椅子に座らせられた彼は、「娘が増えた……」と漏らして頭を抱えると、「休日ショッピングの時間を捻出しないと」などと言って、真面目な顔でデスクの上の酒を煽る。そしてそれを「もう飲まないの!」と翠雨に取り上げられた彼は素直に襟を正し、「なにか案でもあるのか?」とお嬢ちゃんに問うてから深呼吸をしたようだった。すると彼女はにこりと笑顔になり、
「そこで、わたくしが打開策を提唱いたします。ではまず、お訊ねしたいことが一点。組織内恋愛は認められていますか?」
と、天に向かって人差し指を立てた。それを受けて俺と翠雨がアンダーソンを見遣ると、彼は「禁止されてはいないな。任務に著しく支障をきたさなければ」と髭を揉む。
「ありがとうございます。では、わたくしが一時的に外部顧問となるのはどうでしょう。顧問として彼に帯同し、そのなかで恋愛関係になってしまったというシナリオであれば規則から逸脱しませんね?」
なるほど……俺とアンダーソンが同時にそう漏らすのと同時に、翠雨が「特殊浴場の建前的な?」と首を傾げたので、今度は彼を逃げる前に捕まえて、もう一度アイアンクローを食らわせる。その間にお嬢ちゃんはスマホケースの内側にしまっていたらしい名刺をアンダーソンに手渡し、「わたくしの立場があれば顧問契約は容易かと思いますので」とキラーパスをした。彼はニヤリと笑うと、
「いやはや、結構。しかしそうなるとハティの任務に本当に帯同していただくことになりますが」
と、丁寧な口調でお嬢ちゃんのパスに応じる。
「ええ、結構です。どうせやることもなくて暇ですから。帝王学はもちろんですが、督国流剣術、槍術、弓術のマスターランクも修めております。銃火器は……まあそこそこ嗜む程度に。我が騎士ですらわたくしにはついぞ敵いませんでした。……ですからきっとお役に立ちます」
ラドレがお嬢ちゃんに剣術で敵わなかったというのは初耳だ。悔しいがあの男の剣の腕前は一級品……どころか国一番の使い手と言ってよかったはずだ。俺の胸の傷も彼の剣に貫かれたものであるし、ちょっとやそっとで負けるような男ではない。困るんだよ、それじゃ……と、俺は胸の裡に燻る感情を噛み殺す。最強に負けたのなら、納得できるのに。
翠雨が用意したタブレット画面の契約書に、諸々を記入するお嬢ちゃんを待つあいだ、俺はアンダーソンから、「お前は任務を通じて関わった対象が、俺たちの部隊の顧問として妥当だと判断し、上官である俺に紹介するために彼女を基地に連れてきた。相手は高貴な身分であるので、俺たちは『経費』を使ってじゅうぶんに彼女を歓待し、協議の結果、彼女は我が部隊の顧問となった。いいな?」と念を押される。
「ああ、それでいい」
俺は頷いた。今回のBBQパーティーを経費計上するつもりである点にも、突っ込まない。
「思い出はふたりだけで取っておけ」
アンダーソンは笑って俺の肩を叩く。
「じゃあさっきの録画は……」
「ダメだ。個人フォルダに入れておく。毎月マッカランで、新作コスメで、デパ地下豪遊だ。肩叩き券も追加するぞ」
「それは孫から貰えよ」
俺の指摘を、アンダーソンは「もう貰った。だがそれは使わない肩叩き券。お前からのは普段使い用」と笑って流すと、諸々の記入を終えたお嬢ちゃんと握手を交わした。それから「よし、改めて皆へ挨拶しに行きましょうか、リリさん」と彼女を促す。俺はその背中を相応の緊張感と、奇妙な安堵とともに追いながら、「なんだか、家族が増えて幸せだね」と言ってくる生意気な弟を小突く。
*
「バト、SGJの拠点の場所って知ってる?」
先日の葬式関係で香港支社にバトが滞在していることを知った僕は、さっそく彼の元を訪れていた。オフィスエリアのエントランスで受付をしていたファユエンに声をかけると、彼女はわかりやすく動揺したが、宥めすかして代表室へと連絡をしてもらった。すると幸運にもバトはアポなしでも会ってくれることになったので、スムーズにビルの最上階へ。こうして僕は、代表室で呑気にティータイムを楽しんでいた彼の前の席に着くこととなった。
「おっ、髪切った? セクシーになったね」
キームンティーのカップを片手に、バトはそう言って銃のハンドサインを作る。バン。僕は「防弾チョッキ着てまーす」と口だけで防御して、僕の分の紅茶を淹れてくれたリウに礼を言った。
「切った。お褒めサンキュー。で、知ってる?」
僕が再度回答を促すと、彼は、
「北京支部のこと?」
と特に詮索してこないまま退屈そうに言って、欠伸をした。
「いや、遠征でこっち来てるっぽい……多分、USからの部隊のことなんだけど」
僕は紅茶をひと口飲んで、舌を湿らせる。その瞬間口内に膨らんだ香りに、黄山に行ったときのことが思い出させられて、少し切ない。王が楽しみにしていたパンダさんのミルクプリンを僕は食べてしまった。なんとなくテーブル上を探すが、パンダさんはどこにもいなかった。
「北京とどれだけ関係あるかは僕にはちょっとわからないんだけど、NY支部の指揮官が所属してるみたい」
あのアンダーソンという男は、ハリエットのことを『ニューヨーク支部所属の指揮官』と紹介してくれた。指揮系統については不明だが、アンダーソンが遠征隊の責任者だとしても、ハリエットもその中ではそこそこの立場にいるはずだ。そんな彼が国外へ出たとなれば、界隈ではそれなりに噂になっているに違いない。そしてこれはただの推測でしかないが、中国国内でも銃火器部門で最大のシェアを誇る彼の会社が、彼らに装備を提供している可能性は、十二分にある。
僕の開示した情報にバトは、
「ああ……って、おっと。守秘義務守秘義務」
と雑に相槌を繕って、ケーキスタンドからエッグタルトをひとつ取った。この発言からして、ビンゴだろうか。僕は身を乗り出すようにして、
「上海に駐屯してることは知ってるんだ。詳細な住所を知ってたら教えてほしい」
と詰め寄る。すると彼は迷惑そうに目を細めて、「ボクとキミはトモダチだけどさあ……」と不機嫌な溜め息を吐いた。しかし直後、「なーんてね。理由によるかな。なんで知りたいの?」と笑う。僕はそれにいくらかほっとして、今度はゆっくりと紅茶を啜ってから言った。
「……僕の人生をやりなおすため」
そうだ。これは、再誕のための巡礼だ。旅が始まる。
「ふーん。で、王ちゃんはどうしたの?」
「振られた」
僕の言葉に、バトと、そして傍らに控えているリウが明らかに動揺したのがわかった。だがしかし、事実であるので僕にはそれを訂正することも、茶化すこともできない。
「……マジ? 契約は?」
「……なんだかんだで肉体が維持できてるから、残ってるっぽい。でも自殺を試さない限り確かめようがないかな」
指の刺青は、消えた。しかしそれは契約の証ではない。
「あー……はは、ファユエンに手を出したのがバレたんだな?」
バトはエッグタルトをつまんだ手の中指で僕をさすと、肯定を強要するかのように首を傾げた。
「……よくわかるね?」
「そんなの、見てたらわかるさ。まったく……あの子はやめときな」
「どうして?」
「守秘義務」
そう短く言い切って、バトはリウを振り返ると、なにやらアイコンタクトを交わしたようだ。リウはデスクの上からタブレット端末を手に取ると、いくらか操作したあとそれをティーテーブルの空きスペースに置いた。するとバトはナプキンで手と口元を拭ったあと、唐突にビジネスモードの笑顔になったかと思えば、
「おやおやラドレさん、お目が高い! 新作のシルバーバレットにご興味が? しかしまだ迷っておられると……ではご参考になるかはわかりませんが、こちらの名だたる企業・組織にもお使いいただいているという実績をこうしてお見せしようではありませんか」
と外連味たっぷりに言って、僕の前にタブレット端末を滑らせると、
「ああいけない。会議の時間だったね。ちょっとした喫煙所での五分程度の会議なんだが……リウ、一緒に来なさい」
と、わざとらしく離席した。僕は彼の温情を察してタブレットを手にすると、その『顧客リスト』を素早く確認していく。焦りつつも、極力慎重に。SGJは人外族の監察組織であるので、案の定大っぴらにはその名前を出してはいない。であればフロント企業を立てているはずだ。上海に住所のある企業を数社ピックアップして絞り込む。それから最終候補となった三つの企業を、僕はSGJ北京支部と思しき企業の情報と照らし合わせる。そもそもSGJは中国にも支部があるのに、任務を委任せずわざわざUSから精鋭が出向してきて、わざわざ本部とは別の場所に拠点を置いたということは、当局との軋轢があるか軋轢を生んだかの二択である。つまり、どちらにせよ同じだ。であれば、犬猿の仲であるということを示す、全く関連のなさそうな企業を選べばいい。……これだ。『ラテラノ・エレクトロニクス』
眼鏡でページを撮影し、念のため住所をメモ機能にも残したところで、バトが戻ってきた。そして僕の肩を叩くと、「コンテナ単位で買ってよ」と笑って席に戻る。
「カタログの新作、全部買うよ」
「毎度あり。早期予約特典として一丁あげるよ」
そう言って彼は待ち構えていたかのように懐から拳銃を一丁取り出すと、僕の前にさっきのタブレットくらいの気軽さで以て寄越した。『BATシリーズ』の新作であろうそれは、握ってみると思わず声が出るほどの超軽量化がなされており、ナイフと同等の取り回しやすさを想像させる。しかしレバーは目立つ大きさで、僕の手でも操作がしやすい。その全体的にタイトなボディは渋めの半艶に塗装されており、バトの手によってカスタムされたことを示す金烏のペイントが入っていた。促されて、その金烏の目の辺りにさり気なく置かれたスイッチを押してみると、銃口付近から下方向にむかって、棘のような凶悪な突起が飛び出してきた。これは鈍器として使うことも想定したギミックだろう。流石はBAT……「利用可能な最善の手法」の名を冠するだけある。ハリエットも泣いて欲しがるに違いない。
「ありがとう……」
僕はなんとなく、こうなってしまってからは王から貰った武器を使うのが躊躇われるような感じがしていたので、このサプライズは有り難い。
「アンクルホルスターもつけておく。キミは背が高いからな。足元に隠しておいたほうがバレないだろ」
バトの言葉を受け、リウが渡してきたホルスターを足首につけてそこに銃を挿し込む。その上からパンツの裾を落として立ち上がってみると、ボディがコンパクトなだけあってかなり自然だった。
「他にもなにか欲しいものがあればいつでも言ってくれよ。ドローン便で送りつけてやるから」
「……うん。でもなんで助けてくれるの。自分から来ておいてアレだけど」
「友だちだからに決まってるだろう。ほら、行った行った。僕はサボるのに忙しいんだ。リウ、送ってあげなさい」
こうして僕は優しく追い払われるようにしてリウとエレベーターに乗り込んだ。下降していくゴンドラの中でリウがなにか言いたげにしているのを「怒ってます?」とその背中に問えば、「少し、いえ、かなり」と正直な返事があったのでつい笑ってしまう。彼は忠義に篤い使い魔だ。僕のような浮気性は許せないのだろう。
「でも、ずっと好きでいらしたんでしょう。あの方のことを」
そう言われて、僕は彼が見てもいないのに笑顔のまま、「そうだよ。最初から大好きだった」と、漏らす。「僕のご主人様は、世界で一番素敵な人だからね」
エレベーターが到着したので、僕は「ここで」とこれ以上の見送りを固辞して一歩踏み出した。それから受付でにこやかに来客に応対しているファユエンを待って、手が空いたところで「お嬢さん、ディナーでもどう?」と声をかける。すると「そういうのは困ります」と形式的な返事があった。続けて「ご飯だけじゃないんでしょ」とぽつりとちいさな声。
「よくわかったね?」
僕はパーテーションウォールに肘を突いて笑顔をみせる。そして眼鏡をずらそうとして、やめる。
「そういう、語尾にクエスチョンマークついてる喋り方する男って、みんなズルいよね」
ファユエンは先ほどの来館者に渡したパスの記帳をしているらしく、僕とは目を合わせない。あのときグラスを割って慌てていたとは思えないほどてきぱきとした手付きである。
「そうだね?」
僕は彼女と話すために、さっき貰った来館者パスをその手元に落として返す。すると彼女ははあ、と大きな溜め息を吐いてから「どうもありがとうございました」とビジネスモードの発声で口にした。それから、
「……あなた、目が光ってるみたい。おなか、空いてるんでしょ」
と指摘してくる。なかなか鋭い。
「うん。空いてる」
「おうちで食べなよ。ご主人様におねだりしないの?」
「いなくなっちゃって」
「え……?」
「捜しに行きたいんだけど、もう魔力空っぽなんだよね」
彼女は僕の言葉に目を丸くしたが、しかしすぐに動揺を消し去り、不愉快そうにそのちいさな眉をひくつかせた。
「それが私になんの関係があるの? そういうお店でも使ったら?」
「キミ、ギバー体質でしょう」
ギバー体質とは、未契約でもある程度の魔力を供給可能な体質のことである。主にマスター適正のある上位種の個体がこの体質を有しているが、ごく稀にそうでない個体にも発現することもあるらしい。人外族全体で見ても極めて希少な存在のため、珍重される。その特徴は、『なぜか気になる』と他者に思わせる引力だ。
「だから?」
彼女は否定しなかった。初対面時にはバレていると察したのだろう。
「だからじゃないけど、その制服、似合ってるね? 可愛いよ」
「最低」
「セックスしない?」
「いいよ」
僕が核心を突くと、彼女は思いがけずすんなりと頷いた。一瞬驚いて目を剥いた僕に、彼女は手元で作業を続けたまま「ディナーはラン・ワーの最上級コースじゃないとダメ。ヴィクトリア・ハーバーが見える席ね」と畳みかけてくる。
「ミシュランか。高い女だな」
すぐに眼鏡でそのダイニングの空席と、店を擁する五つ星ホテルの空室を確認しながらそう漏らす。すると彼女は、
「ならそのお金で女買ったら? お釣りくるんじゃない?」
と、ツンとして吐き捨てた。なるほど、こういう態度でいるほうが控えめでいるよりずっと魅力的だ。……席と部屋の予約が完了する。
「じゃあ、どこに迎えに行こうか?」
「自分で行く。仕事が終わったら連絡する。……またのご来館をお待ちしております」
これ以上は会話をしてもらえないようだ。頭を下げて出入り口を指す彼女に従って、「じゃあねお嬢さん」と背を向ける。背後からもうひとり別ブースにいた受付嬢の声で「ユエユエ、また声かけられてるじゃん」と耳打ちをする声が聞こえる。「私ならいけそうって思われただけだよー。もう、髪明るくしよっかな」とファユエンの甘い声。……男が「この娘の魅力に気付いているのは自分だけ」と思うとき、他の男もそう思っているのだというが、どうやらその言説は真実のようだ。僕はふっと軽く笑って、SBH香港支社のビルを後にする。
夕方まで時間を潰そうと、ネイザンロードを歩く。前に王と走ったな……と思いながら、眼前に浮かぶその幻影の背中を目で追うが、目の前の信号機が点滅したことでそれらはふっと消え失せた。往来に揉まれて歩いて、マツノヤのギュウドンくらい食べさせてあげればよかったな……とその店舗の前で思ったりするこのひとときは痛いのに甘美で、僕は王の手の柔らかさとか、肉のなさとか、薄い皮膚のただよわせるものがなしさに、その名残に、触覚ではなく耳を澄ませる。遠い。人は人を声から忘れていくというが、どうやら本当っぽくて、僕は王の声を思い出さないことにする。
それから以前は治安が心配で入れなかった重慶大厦にふらりと入ってみる。今はなき九龍寨城を思わせるこの巨大複合ビルには、かつてマフィアの根城となっているなどという噂が流れるほど治安が悪かったらしいが、今は警備室を多く配置することで治安の向上を図っているとネットで読んだことがある。そのテナントのほとんどが狭小なゲストハウスで構成されているが、中にある両替所のレートがいいことや、一部フロアにひしめくインド料理や中東料理の店が絶品とのことで観光客も多い。香港の街は基本的に禁煙であるものの、ここは治外法権なのか、床に吸い殻が大量に落ちていた。衛生状態はお世辞にも良いとはいえない。タバコを乞うて回る老人に、強面のブラックが「ジイさん、アンタもうあぶねえから禁煙しろよ」とぶっきらぼうな優しさを見せているのを横目に、ケーブルが剥き出しの天井の下をゆったりと歩く。清潔度とは反比例して漂う美味しそうなスパイスの香りに、ぼんやり王と来たかったなと思う。いや、王とハリエットと僕の三人で一緒に来たかった。風情ある光景にカメラを構えても、そこにはもう王はいない。
タバコだけ買ってマンションを出ると、先ほど予約したホテルにチェックインした。ハーバービューがひとりきりだと虚しい。壁一面の大きなガラスの向こうに映る自分の姿に嫌気が差しながら荷解きをしてPCを開き、バトから届いた注文明細書を確認してから会社の経営管理システムに転送する。高い買い物だが仕方がない。それから僕はスマホを手に取ると、王へとメッセージを打ち込んだ。
今日は香港。バトと会ってお茶をした。それからネイザンロードを歩いて、チョンキンマンションに行ったよ。治安が悪そうで、でも面白そう。でも王がいないと楽しくないね。これからラン・ワーでディナーを食べる予定。今日も愛してるよ。
送信。するとラグなく鞄に入れていた王のスマホがぴこんと鳴る。まるで祈りのような日記だ。僕はひとり乾いた笑いを漏らして、椅子から立ち上がると、服を脱いでバスルームへと向かった。熱い湯を浴びて、髪の洗いやすさに驚く。ついでにまだこうして身体を洗えることや、熱いと思うこと、食事を摂ろうとしていることにも驚く。身体が動いて生活を続けようとする意味がわからない。でも、ご飯はちゃんと食べてねと言われたし、信じてくれとも言われたので、とりあえず生きる。その言葉に身を預け、生きて生活をする。
日中に着ていたものよりいくらかファンシーなスーツに着替えてロビーで待っていると、ファユエンがやってきた。彼女は座ってぼんやりとしていた僕に「こんばんは」と声をかけて振り向かせると、そのシャンパンゴールドのマンダリンドレス姿で僕の視線を掻っ攫い、それから「わかりやすいなあ」と漏らして僅かに眉を下げた。アップヘアと赤い口紅がくらりとするほど妖艶で、まるで天女かと疑ってしまう。
「……綺麗だ」
手を差し出すと彼女は、
「びっくりしないでよ。ただのちんちくりんだと思ってたのがバレるよ」
と、つんと顎を上げつつも僕の手を取ってくれた。ああ、まだ女の子を可愛いと思えるんだなとどこか苦しくなりながら、彼女と一緒にエレベーターへと乗り込む。そして二十五階のダイニングフロアで降りて、案内された窓際の席に腰を下ろした。そのまま眼鏡をカラーレンズから透明なレンズに切り替えていると、ギャルソンから渡されたドリンクメニューを眺めていた彼女が「ラドレくん」と僕を呼んだので、わかったふうに「クリスタルね?」と返事をする。
「……よくわかってますね」
「そりゃあ礼儀でしょう」
控えていたギャルソンにそのシャンパンをボトルで注文して、まずは乾杯をする。ファユエンは窓の外の煌びやかな夜景に、目を細めて魅入っているようだったが、それでもはしゃぐことなく落ち着いた様子で、言葉のないままその麗しい眼差しをゆっくりと瞬かせていた。
「……静かだね?」
僕はその横顔を眺めながら問う。すると彼女は僕をちらりと一瞥したあと、
「これからセックスするって状況って、同意の上でもちょっと憂鬱なんだよね。わかる?」
と言って、グラスを傾けた。
「わかるよ」僕は頷く。NYにいたときはしょっちゅう憂鬱だった。
「その、ずっとアヒル口なの凄いよね。自分のこと可愛いって思ってるみたい」
「可愛いでしょ?」
「そうだね。髪切ったほうが可愛いかも。彼氏いたことある?」
「あるねえ」
「そのとき、髪短かったでしょ」
「……よくわかるね?」
「成功体験的可愛いでしょオーラが漂ってる」
そう指摘するだけ指摘して、彼女は運ばれてきたアミューズの可憐さに喜んだようだった。花の練り込まれた鮮やかな色の小さな点心に、エビの白玉、それから金箔の乗った蜜汁叉焼。細い指で持った箸を品よく動かして、彼女はそれらをゆっくりと味わう。……ああ、行儀よくしている箸が眩しい。
「そんな失恋したてみたいな顔されると困るよ」
ファユエンはそう言うと、僕にスマホカメラを向けた。
「笑えるか試してみて」
それが「笑って」という命令じゃなかったので、僕はそれを実践する。おそらく笑えていたはずだが、彼女はシャッターを一度だけ切ったあと、すぐにスマホを片づけてしまった。
「やめ。無理に笑わなくていいから、料理の味とか、見た目とか、そういう話をしよう」
そう続けて、彼女は次に運ばれてきた冷製スープの、花盛りの庭園のようなドレッセを見て「素敵」と手を合わせる。僕はギャルソンの説明を聞き流しながら、彼女のオレンジ色のアイシャドウや、その夕暮れ色の眼差しをぼうっと見つめる。なんだか遠い。それはたぶん、彼女が僕に優しいからだ。
「女の子がただただセックスに付き合ってあげるときの気持ちを、自分に惚れてるとか母性だとかとでも思ってる?」
勿体なくて食べられない、と漏らしながらもスープにスプーンを挿し込んで、彼女は言った。僕は「わからない」と答えながら、彼女を真似て同じ角度でスプーンを浸す。
「可哀想なイキモノって思うだけだよ。男でも、女でも」
うん、おいしい、これってなにかな、根っこ? ……彼女は微笑を崩さずに続ける。
「可哀想がってくれるのは、嬉しいよ。認められた気持ちになる」
冬虫夏草じゃないかな……と僕は言い添えて笑う。
ああ、セックスも普通にできるな……と今日何度目ともわからぬ生の実感を得ながら、結局ヤり捨てられなかった娘が「もう無理」と呻いた意志を「無理じゃないけど?」と切り捨てる。すると軽い平手打ちが頬に入って、僕は思わず笑って組み敷いていた彼女から身体を退けた。
「休憩。させて」
その声に僅かに滲む怒気に一瞬傷ついて、「ごめんね?」と縋りつくこの情けなさ。これもいつも通りだ。跳ね除けられた手でベッドサイドに置いてあった電子タバコを取る。窓に向き合って、ふかす。のそのそとガウンを羽織って、目を閉じるといつもしんどいときに見える青い靄が瞼の裏でゆらいでいた。じりじりと眉間に近い鼻腔でメンソールが涙の分泌をうながすのに負けて、その青い靄を振り払い目を開ける。それからながい瞬きのあいだに死をこいねがういつもの癖を、ふっと笑うようにして煙とともに鼻から抜いた。それと同時に、いくらかの疲労と和らいだ鬱屈によって腹の奥底から漏れた溜め息が、噛み潰したフレーバーボールのカシス味と混ざり切って、夜の窓ガラスに映る僕を揉み消す。なんか、現実にいるなと、思う。背後で冷蔵庫が開閉する音がして、振り返ると缶ビールが差し出されたので受け取った。軽く乾杯して、ファユエンにタバコを渡す。
「もう慣れた?」
「ぜんぜん」
主語はなかったが、それは彼女の母の死についてだという共通認識があったので、受け答えにはなんの引っかかりもなかった。
「ふとした瞬間、ダメかもってなるよ」
僕の吸いさしだけでなく、図々しく二本目のカートリッジに手を出した彼女は、缶に口をつけて「んは」と漏らして眉を寄せる。その気持ちはわかるよ……と言うべきだったかもしれないが、僕が亡くしたのは恋人だ。家族とは感覚が違うかもしれない。
「ラドレくんは? ご家族、お元気なの」
「さーあ……最後に見たときは元気だったよ。元気、というか……五体満足で息して会話してたっていうか」
「それは元気ってことでいいよ」ファユエンは笑って僕にタバコを返す。「どういうご家族なの」
その問いに、僕はうーんと舌の根あたりを鳴らして首を傾げた。なかなか難しい問いだ。
「構成は、父と、母と、僕と……年の離れた妹の四人だね。把握してる範囲では」
「へえ、なんか妹いそうだもんね。それかお姉さん」
「ふ。よく言われる……。妹は僕が学生の頃、寮生活をしていたときに生まれたから、あんまり触れ合った記憶がないんだよね。気づいたら大きくなってたし」
妹……デワレは僕に会うといつも「ちゃんとして」「ちゃんと考えて」と言うような娘だった。あれは今思うと、きっと、僕に「ちゃんと陛下を守れ」と言いたかったのだろう。まったく、お節介というか、妙に鋭いというか。しかし言葉が足らないところは、やはり父に似ている。
「可愛い?」
「かわいく、ないなー。気が強いんだよね、とにかく。いや、なんていうのかな、厳しい……? 父上に似てる」
「ラドレくんはお母さん似?」
「そうだね。この顔は彼女譲り。母はちっちゃくて可愛くて、いつまでも少女みたいな人。キミより小さいと思うよ。僕は随分可愛がられたな」
「お父さんは?」
問われてふっと父のことを思い浮かべながら、僕は昔ほど複雑な感情を彼に向けていないことに気がついた。それはきっと、王が父に対して悪感情を抱いていないと繰り返し表明してくれたからだ。僕にその真意はわからないが、王は在位中、僕に対してしょっちゅう「ご尊父さまはお元気ですか?」と問うてきていた。ほぼ毎日、王と父は一緒に公務をしていたのにもかかわらず。
「あの人は……うーん、なんだろ。無表情で、口数が少なくて。いっつも眉間に皺が寄ってる感じの、とっつきにくい人だったな。僕に興味がなかったんだな、って気づくまでが辛かったけど。わかっちゃってからは……なんか、可哀想だなって……」
あの人は、僕の父親で。父親に向いていなかった、父親だ。
「可哀想、ね。ある意味……認めたんだね、お父さんのこと」
「そうかも……いや、どうかな。彼のことを反面教師にしてきたけど、それでも僕はぜんぜんダメダメで、彼と僕がダメダメならなにが正しいのか、今のところ、まったくわからないのが、かえって楽というか……」
世界を、人生を暗中模索していくことに、父と僕それぞれのランタンでは心許ないどころか、なんにも見えなかった。今もなにもみえないけれど、そのことがわかってよかったと思う。父のやり方でも、今までの僕のやり方でも、僕の人生は照らせないのだ。
「もう家族には随分と会ってないし、生死もなにもかも知らないけど、みんな元気で、僕に迷惑かけてこないなら、なんでもいいかな……」
家族。誰のことも愛していないわけじゃない。でも家族は家族でしかなく、家族という枠を超えられるような家族ではなかった。……僕にとっては、そうだった。それを大袈裟に悲しんだりする気持ちは既になく、僕はもう僕として独立しているのだから歩いていくしかない。家族を捨てても。最愛の人がこの世を去っても。……もうひとりの最愛のひとが僕の元を去っても。人生はただ『前に在る』から。
「って、キミに言うことじゃ、なかったね」
そこで僕ははたと親を亡くしたばかりの彼女にこんな話をすべきでなかったと気づく。慌てても「ごめん」以外の言葉が出てこなくて、きっと傍から見れば冷淡に思われたことだろう。しかし彼女は「うちはうち、よそはよそ」とだけ言って、僕の肩にそのちいさな頭を凭れさせてきた。僕は彼女のほうに頭を寄せながら、「ハーバービューです。どうですか」と大きな窓を指さす。
「ナイスハーバービュー。ナイスセレクト」
親指を立てて彼女は僕を讃える。僕も同じハンドサインをして、彼女のそれにくっつけた。眺望がいいだけで暗い部屋にふたりきり。ひっそりと目を閉じた次の瞬間、瞼の裏がぱっと明るくなって、僕は驚いて目を開けた。するとファユエンが「あ、時間だね」と言って窓辺に寄るので僕もそれに続く。すると見下ろした夜の街全体が、サーチライトやレーザー、他にもプロジェクションマッピングなどで煌びやかに彩られていた。
「シンフォニー・オブ・ライツだよ」
ファユエンはそう説明して、「前に来たときは見なかった?」と首を傾げた。
「見てない……すごく、綺麗だ」
ちかちかと、きらきらと、ちくちくと。極彩色の光が金色に輝く街をより一層烈しく飾り立て、今にも爆発せんばかりの熱気が街全体から湧き上がっていると感じるのに、どこか儚い。騒がしいのにしずかで、美しいのに悲しい。星あかりや宝石に惹かれるような心地に息をとめて、ちょっと苦しくなってから吸った空気はカシスの余韻。ニコチンに痺れそうな涙腺を頭痛に見立てて眉間を揉む。それから座れるように幅が広くなっている窓枠に腰を下ろすと、ファユエンを手招きして腕に抱いた。王とは違う髪の香り。肌の感触。骨格。唇。爪。「ちいさいな」と呟いて笑うと「今更?」と訝しげな声がした。
*
「ねえお電話貸してくださる」
ホテルの部屋で朝の身繕いをしている最中、お嬢ちゃんはワンピースの背中のファスナーを俺に上げさせてからそう問うてきた。歯ブラシを咥えていた俺は口から泡が漏れないよう顎を上げながら、「ちょっと待ってな」と、ままならない発声で伝えて口を濯ぎにいく。それからデスクの上で充電していたスマホを彼女に差し出すと、彼女は一瞬の無言ののちに、「ゾエにかけてほしいの」と俺の手にスマホを押し返してきた。
「……なるほど?」
彼女の意図を察した俺は、相槌を打ってメッセージアプリの少ない友人欄をスクロールする。ゾエとは前回会ったときに念のため連絡先を交換していた。香港とNYの時差は十三時間だ。今なら迷惑にならずに連絡できると踏んだのだろう。あとは発信ボタンをタップするだけの状態にしてスマホを彼女に手渡すと、「スピーカーで会話しますね」という宣言があったので、「お好きにどうぞ」と促した。要は俺も聞けということだ。ベッドに腰を下ろし、寝間着を畳んでパッキングをしながら待機する。そして数秒の発信音ののちに、「……はい」と怪訝なゾエの声がした。
「わたくしよ、ゾエ。お仕事お疲れさま。今日のディナーはなにかしら」
お嬢ちゃんがそう呼びかけると、通話の向こうで「へあ?」などと若干間抜けな声がしたあと、バタバタと騒がしい音が挟まる。流石に俺だと思って応答した相手が敬愛するボスであれば混乱もするだろう。
「はっ、はい。ゾエです、陛下! ご苦労様です。今は皆でピザパーティーをしておりました」
繕った声。遠くの喧騒。おそらくそのパーティーの場から少し離れた位置に移動したのだろう。
「んふふ。なんのお祝い?」
「香鉈さんが取引先に気に入られたようで大入りを……ええと、英語だとチップでしょうか……を、いただいたので、皆でパーッと使おうという流れになりまして」
「まあサクラが。よかった。ということはサクラは今は実働部隊で頑張っているのね」
「ええ。秘書の業務が今は必要ないので。それで、どのようなご用件でしょうか」
「あなたにわたくしの味方になってほしいの」
俺は手を止める。お嬢ちゃんはピアスを耳に通しながら続ける。
「わたくし、もうラドレと一緒にいないの」
向こうの沈黙。俺の沈黙。お嬢ちゃんだけは、「うーん、これじゃないかも……」と、ピアスに迷う独り言。
「そ、それは……どうして、ですか」ゾエのひそめた、震える声。
「あの子には、好きな娘がいるのよ。だからあげちゃったわ」
新しいピアスを身につけて、デスク前のミラーで確認しながらお嬢ちゃんは歌うように言った。
「そん、な。そんな、はずはありません、陛下。私は実のところ、知っていました。あの方が、その非常に広い交友関係をお持ちだということは……しかし、あの方はそれでも……あなたの、ことを……」
「人は変わるわ、ゾエ。変わっていいのよ、ゾエ」
ゾエの絞り出すような言葉を、お嬢ちゃんはきっぱりと遮って笑う。
「永遠なんてものはどこにもないの。永かったわ、百年。百年と、ちょっとかな……」
ピアスを決め、お嬢ちゃんはコスメポーチからリップカラーを取り出す。繰り出して、保湿していた唇に軽く乗せ、指で広げて。俺はそれをただ見ている。
「……私には、察するに余りある、時間です。……それで。……陛下は、私に、どう味方してほしいのでしょうか」
絶対にもっと言いたいことがあるに違いないが、ゾエはどこかのタイミングで気持ちを切り替えたらしい。辛いだろうが、お嬢ちゃんのためになることをしようとしている姿勢を讃えたくなる。彼女が将来どこぞで使い魔になるとしたら、さぞ立派に役目を全うすることだろう。
「…………わたくしはこれからしばらくのあいだ、ハリエットさんのお仕事の手伝いをします。あなたには、ラドレにはわたくしのことを一切漏らさず、秘密にしておいてほしい。会社の皆にもよ。これがわたくしの希望です。受けるも受けないも好きにしたらいいわ」
それはあまりにも冷たすぎると思ったが、お嬢ちゃんはいま敢えてそういう態度を取っているに違いない。自分を切り離しやすくしているのだ。
「……陛下は、どうして私にそのことを? 話さないままでいたら味方もなにも、陛下はなんの問題もなくお好きに行動できるのでは……?」
ゾエは明敏だ。悲しいくらいに。
「だって、あなた、わたくしとあの子のことが好きでしょう」
お嬢ちゃんの口から発せられたとんでもない言葉に、またしても「へあ?」とスマホの向こうから間抜けな声が響く。俺はパッキングの手を止めたまま、ただ聴覚のみに意識を集中した。
「あの子から『王がいないから探すの手伝って』だなんて言われたら、あなた飛んできちゃうでしょ。優しいんだもの。きっと来ちゃうわ」
「……はい。そ、うですね。飛んでいくと思います」
凄いこと言うなこの人……という、彼女の息だけの独り言も筒抜けになっているが、お嬢ちゃんも俺もなにも言わない。
「でも社長より陛下のほうが好きなので、そのあたりはお間違えのないよう……」
「んふふ。知ってる。あなたはわたくしが拾ったのよ、わたくしの可愛いリトル・ジェントルマンちゃん。わたくし、ちゃんとNYに帰るわ。仕事もあるし、皆のこと見捨てたりしない。ただ、いまはあの子のそばにいられないの。わかって、ほしい……。これでも、あなたにわたくしは大丈夫だって、伝えたかったのよ。あなたには元気でいてほしいから。あなた、わたくしが元気だと、元気でしょ?」
凄いこと言うなこの子……と、今度は俺が息だけで呟く。するとお嬢ちゃんが頬を膨らませて俺を振り返るので、ごめんと手刀で表現した。
「……陛下」
「なあに」
「もう一点、伺わなくてはならないことがある気がするのですが」
「そうね、あるわ」
「それは、このスマホの持ち主から直接伺いたいのですが。お電話を代わっていただいても?」
「ええ、いいわ。わたくしからのお願いについてはあなたの納得のいくよう、彼と交渉なさい。……それと、ゾエ。どうなっても、怪我はしないで。わたくしが嫌だから」そう言ってお嬢ちゃんはスピーカーモードをオフにしたスマホを俺に手渡すと、「じゃあハリエットさん、わたくし下で待っています」とだけ言って、トランクを手にさっさと部屋を出て行ってしまった。残された俺は覚悟を決め、深呼吸をしてからスマホを耳にあてる。
「ゾエさん、俺だ」
「聞いて差し上げようではないですか、ハリエットさん」
いの一番に、あのときと同じちょっと生意気な態度をぶつけられた。それはきっと俺の前だけ……いや、お嬢ちゃんとラドレ以外の前での性格らしい。俺はその幼気な背伸びを可愛く思ってしまうのを喉奥で噛み殺しながら、真面目な気持ちを作って告げた。
「リシュヴェリさんと結婚を前提にお付き合いすることになりました」
天使が通るかのような沈黙。それはしばらく続くかと思いきや、一秒後にぐううと呻く声がする。その痛そうな声に俺が「ゾエさん?」と心配すると、彼女は唐突に「よろしくおねがいします!」と俺の耳を劈くほどの声量で叫んだ。目の前が揺れるほどの聴覚的衝撃に、一瞬「右耳が持っていかれた」と幻視したが、鼓膜はギリギリ生きている。「こちらこそ……」と返す己の声量すら把握できないほど耳がキンキンと悲鳴を上げているが、この程度は受け入れるべきだ。
「はー……ちょっとヤケ酒します」
「おい、飲みすぎるなよ」
「切腹します」
「やめろ、ハラキリって痛いんだろ」
「止めてくれるな黒狼。背中のピッツァが泣いている。……陛下には受諾したとお伝えください。このゾエが社長のメソメソなんぞはのらりくらりと躱してみせましょう。連絡があれば適度にヨシヨシして、適度にヨイショして、適度に生きてもらって、そうして無事に帰ってきてもらいます」
そう言い切って、彼女は「じゃあ」と唐突に通話を切った。ヤケ酒の心地にさせてしまったこと自体は申し訳ないが、彼女がそう宣言したということは、受容のプロセスを踏もうとしてくれているということだ。ありがたくヤケ酒をさせてやることにして、俺はメッセージなどで追撃はせずにパッキングを再開した。それから間もなく荷物を纏め終え、最後に忘れ物がないか確認してから俺も部屋を出た。これから朝のミーティングついでに、きのう飲酒したせいでホテルへ持って帰れなかったバイクを取りに行くのだ。
基地へ寄る前に朝食を摂ろうと鶏粥の店に入る。上海で最もポピュラーな朝食ともいえる鶏粥の店は、たとえ中国語が読めなくてもすぐにわかる。大抵、店先のショーウィンドウに茹でた丸鶏がぶら下げてあるからだ。朝食を求めるビジネスマンと学生でごった返している店内は、ラッシュアワーゆえに回転が速く、並んでいる最中に空席を見つけられなくても、受け取り口で粥を受け取って振り返る頃には席が空いている。俺はお嬢ちゃんと一緒に空いたばかりのちいさなテーブル席に向かい合って腰を下ろすと、茹でた三黄鶏(以前食べた白斬鶏と同じだ)の半身を分けた。それから小葱の散った白い粥に黒酢を回しかけ、食べはじめる。慣れた味ではあるが、毎回ひとくち目には「美味い」と再発見でもした心地になるこの鶏粥は、特に酒を飲んだり胃を酷使したりした翌朝に染みる。これで値段が二ドルなのだから恐ろしい。臭みがなく、鶏の出汁がストレートに感じられるスープはラーメンにも使われており、そちらは四ドル程度だ。量り売りの身肉は夜でも朝でも一〇〇パーセントのポテンシャルを発揮してくれる。朝の上海は、とにかく安くて早くて美味いのだ。
「あなた、食べるのがはやい……」
早速食べ終えた俺を見て、お嬢ちゃんが口許を手で押さえながら見上げてくる。どうやらまだ半分程度しか食べていないようだ。
「ゆっくり食べろ。急いでるとかじゃなくて、俺のは癖だから」
「どういう癖?」
そう問われたので、お嬢ちゃんがゆっくりと食事ができるよう、俺は日常の話をしてやる。
「ん? 職業柄、いつ出動するかわからないことも多いからな。ゆっくり食べてるとまだ手をつけてないランチをほっぽり出して現場に向かうことになる。……まあ、下っ端の頃の話だが」
当時は戻ってくるころには誰かが俺の食事を片づけてしまっていることばかりで、勿論金も返ってこないことも多々あった。食堂でゆっくり食事をしているのは、もっぱら内勤チームかそれなりの地位にいる奴ら、あるいはなにも知らない新入りだ。
「今は?」
「緊急の任務がない限りはフレックス制だな。だからキミのデートのお誘いも受けられたし、年末年始を一緒に過ごせた。これでも偉いんだぞ」
「んふふ。どのくらい偉いの?」
「NY支部で一番。……偉いうちの、ひとりだな。何人かいるんだ、指揮官は。アンダーソンは司令官だから俺より遥かに上だな。ここ最近はNYにいるんだが、所属は本部だ。でも遠征隊を組むときは嬉々として出てくる。旅行好きだからな」
「確かに旅行がお好きそう。食事に詳しい方ってそうよね。……弟さんはどういうお仕事をなさるの?」
「アイツは内勤。主に俺のナビ。遠征するって話が出たときは着いてこようとしなかったからてっきり忙しいもんだとばかり思ってたんだが……」
だからこの国に来てからしばらくのあいだ、俺のナビはオリエが担当していた。過去のこともあり、ずっと絶妙に気まずかったのだが、翠雨が来てくれてからはその心労もなくなった。……と、染み入った瞬間に、ああアイツは俺のために来てくれたのだと察して、つい黙り込んでしまう。高級ウイスキーを一本飲まれたことくらい、快く許すべきだったかもしれない。
「どうしたの?」
「いや、アイツにヒビキを勝手に飲まれたことを思い出してな」
「あら。何年?」
「三十年……」
「あらあら……確かに惜しい値段するものね」
「アイツ、アンダーソンが隠し持ってる四十年には手を出さない癖にな」
「お兄ちゃんのだから欲しいのでしょ。わたくしも兄様の持っているものはなんでもよく見えたわ。色鉛筆の一本でも他の人のものよりどこか素敵なものに思えるの」
「そんなもんなのか……?」
そのうちヤマザキの二十五年でも買ってやるかと決めて、食事を終えたお嬢ちゃんと食器を纏めて回収ロボへと渡した。見るからに旧式のそれは『謝謝光臨』と頭部モニターに表示させ、いそいそと他の席へも回収へ向かう。上海の朝は人間以外も忙しい。野良猫ですらメシ泥棒に駆け回っている。人間以外に類する俺と彼女も、雑踏のなか職場へ向かう。どうやらこれが日常になるらしい。
「早速だが新しい任務だ。吉林省で吸血鬼プロトの率いる集団と我らがSGJ中国当局が睨み合っていて久しいそうだ。そこでハティと顧問の両名にはこの膠着状態の打開を図って貰いたい。ナビにはハーフムーンを採用する。応援が必要な場合は現在黒竜江省に一部隊員が駐屯しているのでそちらに要請するように。詳細は既に送信済みだ。質問は?」
朝のミーティングでアンダーソンから言い渡された新しい任務には、俺にとってはいくつかの懸念点があった。しかしそれは個人的な事情でしかないので、俺からはなにもないことをアピールしつつ、俺の隣の席にいるお嬢ちゃんになにかあるかと視線を送る。すると彼女は、手にした仕事用のタブレットで詳細を確認しながら挙手をした。「そうぞ、顧問」とアンダーソンが発言を促す。
「質問は二点あります。まず一点目。その膠着状態の原因が当局力不足とも思えませんし、地元のコネクションなどが原因かとは察します。外部から勢力ともいえるわたくしたちはどの程度当局に忖度すべきでしょうか」
「それはもう、穏便に済むに越したことはないな。しかし当局がわざわざこちらに依頼してきたということは、ある程度のヤンチャも想定していることだろう……と、現状推測しかできない立場だ。俺たちはこっちの支部とは仲が良いとは言えなくてね。すまないがリサーチのうえで判断してほしい」
「ありがとうございます。では二点目です。反対に、敵対勢力への忖度は如何ほどいたしましょう?」
「……なるほど。流石ですな。『同程度』とでも申し上げておきましょうか」
「把握しました。以上です」
そう言って立ち上がったお嬢ちゃんに俺も続く。会議室を出る間際にアンダーソンを振り返ると、なにか意味ありげな視線を俺に向けていた。それにしても彼女の発した『忖度』という単語と、それを耳にしたアンダーソンの口調が変わったことが引っかかる。一点目については『忖度』という言葉も理解できるが、二点目については明瞭ではない。そのことを彼女に問おうとした瞬間、「兄さん、リリちゃん!」と背後から翠雨の声がした。
「どうした、翠雨」
「どうしたもなにも、これを渡さないといけないでしょ」
そう言って、駆け寄ってきた翠雨は手にしていた小箱をお嬢ちゃんに手渡した。中身は俺たちが通信機器として使っているイヤーカフスで、お嬢ちゃんが「あら素敵」と漏らしたそばから翠雨はそれを取り上げて、お嬢ちゃんの耳に直接装着した。触るなとふたりのあいだに割り入りたかったが、彼の手が存外に繊細に彼女の耳に触れるものだから、意気を削がれる。
「私は八番チャンネル。なにかあったらいつでも呼んで」
翠雨は優しい声でそう言うと、それから何度も「気をつけてね」「兄さんをよろしくね」「恋バナしようね」等と名残惜しげに連発して、最後に、
「私はあなたの味方だよ」
と誓うように表明した。
その言葉に、お嬢ちゃんは、「心強いです」と微笑むと、彼にハグを返す。その姿を静かに見守っていた俺だったが、お嬢ちゃんに抱き締められた翠雨が俄かに「Jカップ?」と漏らすものだから、咄嗟に彼の顔を掴み、昨日と同じようにアイアンクローを食らわせた。痛い痛い! と叫ぶ翠雨の声が長い廊下に響き渡る。
きっちり翠雨を〆て建物の外へと出ると、お嬢ちゃんが「あなた、バイクはどうしますか?」と問うてきたので、俺は少し考えたのちに、
「……持って行く。アイツが来るかもしれないからな」
と答えた。仲間は口裏を合わせてくれるかもしれないが、バイクが見つかれば俺が近くにいるという物的証拠となり得るからだ。そのまま上海で粘られてしまえば、近いうちに遭遇してしまう。俺の返事に、お嬢ちゃんはおかしそうに笑って、「ふふ、会いたくないの?」と首を傾げて俺の顔を覗き込んでくる。茶化されていることを感じつつ、俺は敢えて真面目に、
「会いたいよ。でも今じゃない」
と言ってバイクカバーを外した。リアボックスからお嬢ちゃんのヘルメットを取り出して渡し、俺も自分のヘルメットを被る。そうするとミラーシールドの反射でお互いの表情は窺い知れなくなるが、今はそれでいい気がした。「それじゃあ、行こうか」と声をかけてバイクに跨る。エンジンをかける。朝へ飛び出す。
End.

情けないとこぜんぶ見せなよ
☆次のメニューへ