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【SERTS】scene.18 群生の群青と菌菇鍋

※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG12~15程度)
※環境依存文字の入った料理名はカタカナ表記にしています。ご了承ください。




 上海から吉林省まで伸びる、およそ二五〇〇キロメートルの高速公路をバイクで二日かけて移動した俺とお嬢ちゃんは、けさ延吉市へと入った。夏のバイク旅というのはそもそもが涼しいが、東北地方へ入った頃から明らかに空気の温度が変わったように感じられたことには驚いた。ひんやりとつめたくシャツを冷やす風は快く、後半の道程は爽快。俺は北の狼であるので、気温が低ければ低いほど動きやすくなる。それはヤギであるお嬢ちゃんも同様らしく、俺の背でしきりに「いい風ですねえ」と喜んでいた。
 延吉市は少数民族である朝鮮族が多く暮らす自治州だ。街は漢字とハングルが溢れた独特の景観をしており、街を歩いてみた限りでは聞こえてくる言語は朝鮮語が多い。稀に聞こえてくる中国語は、危惧していたほど東北訛りはきつくなく聞き取りやすいが、街中では朝鮮語を使ったほうが伝わりやすいかもしれない。俺には朝鮮語を流暢に扱える自信はないが、街に溶け込むためにも併用スタイルでいこうと決めた。
 ナビの翠雨によるとこちらに駐在している担当者が迎えにくるのは午後になってかららしいので、まずは腹になにか入れておこうとふたり手を繋いで街を散策する。不思議な街並みを歩いていて気になったのは人々の背が高く肌が白いということと、顔つきが俺やお嬢ちゃんに近いということだ。これは寒い地域であることと、ロシアが近いことを表しているのだろう。俺もお嬢ちゃんも他の地域よりは目立たないので仕事もやりやすそうだ。……と、思ったのも束の間、「あれ、アルビノのモデルさんかな」「ほんとだ。モスクワから来たのかな」という声が聞こえてきたので、つい笑いを含んだ溜め息が漏れた。
「キミはどこにいても目立つな」
 俺がそう言うと、お嬢ちゃんは首をくるんと傾げながら、
「そうですか? だとしたらそうデザインされているのでしょう」
 と、特に周囲からの視線を気にした様子もなく、街並みのみを眺めて楽しそうだ。そして徐に看板を指し、「あ、これは読めますよ。『市場シーチャン』です。意味は、マーケットです」と続ける。見るとそこには『延吉水上市場』と書いてあった。その場でスマホで調べてみたことには、煙集河沿いにあるらしいその施設は、かなり大規模な市場らしく、朝市では様々な朝鮮グルメを味わえるらしい。
「でかした。そこでメシにするか」
「わほほ。わたくし、でかした、なり」
 俺に褒められ、身体を揺らして喜ぶお嬢ちゃんの肩を捕まえ(あの男曰く、そうしないとたまに逃げるらしい)、案内板に従って進む。するとすぐに施設の入り口が見えたので、彼女に「離れるなよ」と声をかけてから、脱走と不審者に用心をして中に入った。
「む。謎のにおい……ちょっと辛い?」
「ああ、これはキムチだろうな」
 お嬢ちゃんが反応した通り、市場の中はキムチの香りが充満していて、なんとも朝鮮族の生活の拠点らしい風情があった。人の多さゆえにゆっくりと進むしかないが、目新しいものばかりなので見ていて飽きない。キムチの屋台はどこも凄まじい量と種類のキムチを扱っているし、マッコリの屋台は気前よく試飲を配っている。初めて見る色かたちの点心に、石の土台の上で餅つきをしている逞しい老人の姿。サムゲタンや鶏飯用なのか、大量の丸鶏が積まれている店。その隣に、漢方の素材を売っているらしい不思議な雰囲気の店があって……。不意に、その漢方の店ほ前でお嬢ちゃんが立ち止まった。「あら、すてき」と、根元に赤いリボンが結ばれた高麗人参を指さしながら。
「どうしておしゃれしているの?」
 そう問われて俺が店主に訊ねてみたことには、高麗人参は収穫中に『逃げる』という逸話があるので、赤いリボンを結んで目印をつけてから掘るのだという。それを英語に訳して教えてやると、お嬢ちゃんは手を合わせて「うふふ、かわゆい」と喜んだ。それを見た店主の老婆が、なにを思ったのか高麗人参の蜂蜜漬けの瓶を持たせてくれたので、俺は慌てて礼代わりに漢方茶とサプリを買う。これがラドレの言う『構われ体質』か……と思いながら、「なにか貰ったらすぐに俺に言うんだぞ」と彼女に言い聞かせた。この毒気のなさを悪用されたら怖い。
 それから、ざっと眺めた中ではかなりコスパのよさそうだったキンパに、海鮮チヂミ、猪肉のチーズハンバーグ、それからお嬢ちゃんが「これは見るからにおいしいお肉!」と言って店の前で立ち止まったのでヤンニョムチキンを買って、イートインスペースに移動した。料理を広げながら、「朝鮮料理は食べたことあるか?」と問うと、彼女は「ええと、年始に大連に行ったのですが、そこで冷麺というのを食べました。そこもここに近い雰囲気でしたね」と言って割り箸を手に取る。
「だから言葉は、ちょっとわかります。アニョ、ハセヨ……マシッタ……あと、サランヘヨ? ねえ、愛してるで合ってる? 合ってたら目で教えて?」……にっこりと微笑みながら首を傾げられ、俺は思わず割り箸を握りつぶしてしまう。「まあどうしたの」と驚くお嬢ちゃんに、「なんでもないです……」と返し、新しい箸を取りに行ってからようやく食事を開始した。
「まあ、中国料理とはちがう辛さだわ」
 ヤンニョムチキンに齧りついたお嬢ちゃんがそう感想を口にするので、使われている調味料の違いや、彼らの食の根幹にある陰陽五行思想について説明する。それでも地域柄なのか、全体的にスタンダードな朝鮮料理よりも甘さやコクが控えめで、さっぱりとキレのある辛味があった。特にしこたまエビとニラが入った海鮮チヂミが美味い。鉄板で揚げ焼きにされた生地の表面にはざくりと小気味よい歯応えがあるのに、中のエビとニラが十分に水分を含んでいるのでジャンク感は控えめ。つけダレにするでもなく、生地に混ぜるでもなく、挟み焼き状態にされたコチュジャンが噛むたびに溢れ出てくるのが面白い。これはラドレが好きだろうな……と想像して、一瞬俺の箸が止まったのを、お嬢ちゃんは見逃さなかったのか、
「ほんとう、大好きなんだから」と、ちくりと刺してくる。「わたくしには冷蔵庫、買ってくれるの?」
「勿論買うさ」
 俺は彼女の目を見て答える。
「奥さんと別れてくれる?」チーズハンバーグにプラフォークを突き刺しながら、お嬢ちゃんは更に問うてくる。
「奥さんはキミだろ。俺でもいいが」
「ふふ。別れられないのね」
「あのなあ……そもそもキミ以外に付き合っていた相手はいないんだ」
「そう? わたくし、知っているわよ。元カノってやつを」
 その言葉に一瞬どきりとしながらも、ハッタリに決まっているだろうと俺は「じゃあどんな奴だ?」と回答を促す。すると彼女はにんまりと笑って、アテンションの人差し指を立てた。
「背は高いほうね。それから髪は長くて猫っ毛。ファッションに興味があって。あとは極端な味付けを好むわ。喫煙者ね。自分の強さや容姿には自信がある。最初はツンとしてたけど、どんどん可愛くなってきた感じかしら」
 すらすらとその『元カノ』とやらの虚妄の特徴を挙げていくお嬢ちゃんに、俺はどんどん薄ら寒くなっていく。ラドレだ。これはラドレのことだ。……そう期待すればするほど背筋も肝も冷える。はやく『眼鏡』と言ってくれと願いながら、俺は焦りを態度に出さないように食事を続行した。
「リードしたがりだけど、結構弱いところがあるわね。態度が虚勢っぽいことをあなたは早い段階で見抜いている。性に奔放な言動はするけれど、実際そういうことは微塵も好きじゃないの。だけれど情け深いわ。ねえ、その子って特徴的な目をしているでしょ?」
 その瞬間、俺は噎せた。すぐに「ここまでもただただラドレだ」と思うものの、噴いた米はどうにもならない。慌ててティッシュで卓上を拭いながら、俺は「よくもまあアイツのことをそこまで分析できるな」と取り繕う。
「だが一点、間違いがある。……『元カノ』じゃない。友だちだ」
 続けてそう指摘すると、お嬢ちゃんは「そうね」と言って矛を収めたようだった。俺は深く息を吐きたい衝動をぐっと堪え、平静を装ってドリンクのペットボトルに口をつける。するとそれはお嬢ちゃんのイチゴ味のマッコリで、予想だにしていなかった甘味とアルコール感に俺は再び激しく噎せた。
「あらまあ早とちりさん」
 そんな俺を見てお嬢ちゃんは笑う。なにも見透かしていないとでも言いたげに下瞼を持ち上げて。


 煙集河の畔で待ち合わせたその東北三省支部から派遣された担当者は、大柄の男だった。色素の薄い長髪を神経質そうに引詰めた彼はサドーヴニクと名乗ると、お嬢ちゃんを一瞥して「こちらが例の顧問か?」と俺に彼女の紹介と説明を求めた。それならまずはお嬢ちゃんと挨拶を交わして対話を求めればよいだけなのに、回りくどい男である。おそらく鉄面皮で嫌味なタイプだ。……俺はそう分析しつつ「そうだ」と頷いた。
「戦略コンサルタントのリリさんだ。今回こちらが請け負った任務については、彼女が指揮をおこなう。俺は彼女の指示に従い、彼女の身の安全のために動く。くれぐれも失礼のないようにな」
 そう紹介しながら、俺は威圧するつもりで一歩詰める。すると彼は俺の左手をちらりと確認したあと、ふんと鼻を鳴らして嘲笑的な眼差しを俺に向けた。どうやら俺とお嬢ちゃんの関係を察し、職業倫理がどうだとか女連れだとかで見下し判定をしたのだろう。しかしそんな第三者目線など俺にとってはどうでもいい。一切目線を逸らさず、「なにかあれば容赦しない」という威圧だけは崩さずにいると、俺の隣でずっと微笑を崩さずにいたお嬢ちゃんが、一歩前へ出てきた。そして、
「リリと申します。ぜひ仲良くしてくださいね」
 と言って手を彼の前に差し出した。首を傾げてさらに高く持ち上げるその仕草で、キスをしろと促しているのだろう。ぎょっとする俺を他所に、サドーヴニクはその手を取ると身を屈めてキスをした。そしてなんの余韻もなくお嬢ちゃんの手を下ろすと、身に付けていたイヤカフに指を当ててどこかと通信をし始めたようだ。「それだ」「回収して積んでくれ」などと言っている彼から離れて、お嬢ちゃんは俺の隣まで戻ってくると、「水属性ですね」と耳打ちしてくる。
「まさか、今のでわかったのか……?」
 キスが、とは言えずに俺は曖昧に問うた。するとお嬢ちゃんは「ええ」と頷き、「あなたのこともすぐわかったのよ。紳士な狼さん」と続ける。俺は動揺を隠しながら、
「他には誰のことがわかるんだい」
 と訊いてみた。『敵フォルダ』に入れるべきか判断するためである。
「うちの会社の子たちと、バトさんとリウさん。あとは……あの子の父親かしら」
 あの子ラドレの父親。……実は俺も彼には会ったことがある。やたらと不愛想な印象の美人だったが、予想に反して協会生まれである俺のことを差別したりはしなかった。王種以外の協会生まれは、あの国の上流階級間では忌み嫌われることが多く、『単血』と呼ばれ揶揄される。俺も例に漏れず謦咳府では避けられたり虐められたりしたものだが、寮で同室だったラドレがいつも助けてくれた。俺はそれをずっと『優等生だから』『施して』くれたのだと思っていたのだが、彼の父親に会ってから、単にそういう教育を受けて育ったのだと知ることができた。しかしまあ高潔であるのは結構だが、我が子にも一切の特別扱いをしなかったというのは考えものだ。お陰でラドレはいつも「どれだけ頑張っても褒めてもらえない」と暗い顔をしており、そもそも親のいない俺は慰める言葉に窮して、ただ「俺は凄いと思う」としか言えなかった。
 お嬢ちゃんがいま列挙した面々は『敵フォルダ』には入れられないなと思いながら、「あんま他の奴にチューさせんなよ」とお嬢ちゃんの頬をつつく。
「来たぞ」
 サドーヴニクの声に顔を上げると、彼の前に一台の遊撃車が滑り込んでくる。運転席に人はいないので、自動運転モードなのだろう。このタイプの車の基本的な性能はどこの支部も同じらしいが、彼らのそれはベースが国産車になっているらしい。黒いボティの細長いフォルムのそれはすっと滑らかに停車すると、俺たちに向かってその後部座席のドアを開いた。お嬢ちゃんを促して乗り込もうとしたそのとき、バッグドアに駅前の駐車場に停めたはずの俺のバイクが括りつけられているのを発見して、思わず「ミーちゃん!」と叫ぶ。咄嗟に飛びついて傷がついていないことを確認すると、どうやら遊撃車のバッグドアに標準装備されている格納機能の繊細なアームワークによって回収されたらしく、大変ラッキーなことにも傷ひとつ付けられてはいなかったが、突発的に湧き出した腹の虫は収まらない。
「誰の許可を得てミ……俺のバイクに触ってんだテメエ!」
 そう怒鳴りながら振り返ると、お嬢ちゃんとサドーヴニクがなにやら顔を見合わせている。小声で「初耳です」「なんの略かの心当たりもないのか?」「ないですねえ……元カノかしら」とやり取りしているのが聞こえて、俺は自らの赤面の予感に震える。思わず密かにバイクにつけている名前で呼んでしまった。絶対に誰にもバレたくなかったのに。
「ま、まあ傷がついていないようだから許してやる……」
 そう吐き捨てながら、穴にでも入るつもりで車内に逃げ込む。対面式のロングシートをざっとチェックして安全を確認し、お嬢ちゃんを手招きして隣に座らせると、向かいのシートにサドーヴニクが乗り込んできた。そして扉が閉まり、車が発進する。
 説明によると、これから長白山と呼ばれる火山に向かうらしい。朝鮮半島と国境を接するこの山の頂上には天池と呼ばれるカルデラ湖があり、それらが生みだす瀑布や、他にもスキー場、温泉などが有名で、現在進行形でリゾート開発が進んでいる。冬はスキー客、夏は避暑を求める客で賑わい、おまけに天池にはネッシー、山には仙人がいるという伝説があることで、ちょっとしたミステリを求めた散策や登山にも人気なのだとか。まさに一年中客足の衰えないザ・観光地と言えよう。
「麓の二道白河という街で、プロト率いる敵対勢力の構成員が目撃されている。リゾートタウンということを生かして拠点の隠れ蓑にしているのだろう。彼らの本拠点を叩きたいが、前述のとおり一年中、いや四六時中ヒトの出入りある観光地だ。俺たち人外族がヒトの経済に著しい影響を及ぼすのはタブー。下手に人死にや破壊騒ぎを起こしたくはないと足踏みしているうちに数年が経過してしまってな。……それでキミたち中央北京が痺れを切らしてお前たちを送ってきたというわけだ」
 窓の向こうの広大な山林地帯を背景に、サドーヴニクは語る。タブレット端末片手にそれを聞いていたお嬢ちゃんは、「ふむ……」と考え込むような相槌を打ちながら、どうやら手元でホログラムの3Dマップを展開したようだった。青白い光に照らされた頬はより白く、神々しい。まるで世界を見下ろす創造主のようだ。
「本拠点の場所は把握しているのですか?」唇に拳を当てながら、お嬢ちゃんは質問する。
「いや……拠点のいくつかに目星はついている、といった具合だな。そのなかにある可能性もあるが……まあ低いだろう」
「ではまずはそこを探しませんと……」
「歩き回って貰っても構わないが、護衛はつけられないぞ。俺たちのチームの誰の顔が割れているとも限らないからな」
「ええ、もちろんです。連携にはイヤカフを使わないほうがいいですね? 滞在が長いと使用機器の特徴が知られている可能性が高いですし。これ、可愛いけど目立ちますものね」
 そう言ってお嬢ちゃんは既にイヤカフを外している彼の耳を指す。
「ああ。スマホのほうがいい。連絡先を交換しよう」
 お嬢ちゃんに促され、スマホを取り出してチームのグループチャットらしきコードを読み取った。お嬢ちゃんも同様に登録したらしく、画面にヌンチャク・パンダのスタンプが流れてくる。
「あら、すみませんいつもの癖でスタンプを……」
「構わない。皆スタンプくらいは使うからな」
「うふふ。仲良しなんですね」
 俺は特になにも打ち込まずにチャット一覧タブをざっと確認する。現時点でラドレからの連絡はないし、俺からするつもりもない。おそらくそれがルールだという共通認識があるはずだ。きっと。
 途中一度休憩を取り、約三時間かけて俺たちは二道白河にやってきた。降りてみると車のペイントが観光会社を騙ったものへと変化していたので、これも偽装工作なのだろう。『コルンバ・ツーリズム』……ドアに躍るそれと同じロゴマークのキャップを被ったサドーヴニクに連れられて、空が広くよく整備された山麓の街を歩く。冷えた空気が爽やかに鼻腔を抜けて胃を冷やして快い。夏だというのに、観光客は皆一様に軽い上着を羽織っていた。
「綺麗な街ですね……」
 涼風に髪を押さえながらお嬢ちゃんもそんな感想を漏らす。それに同意して周囲を観察すると、歩行者の密度はかなり高く、至るところに観光バスの出入りがあることが見て取れた。登山グッズやスキーグッズが売れるのか、国内外のスポーツブランドやキャンプブランドの店が軒を連ねていた。飲食店も豊富で、とにかくホテルが多い。ネッシーを模したゆるキャラの着ぐるみまで闊歩して、親子連れからの記念写真要請に応じている。確かにこの賑わいが一年中ともなると人外族はそれらしく振る舞う機会を失くしそうではあった。
「まあ、かわゆい! わたくしも写真を撮りたいです!」
「あとでな?」
 着ぐるみに駆け寄ろうとするお嬢ちゃんの肩を捕まえて動きを制していると、数歩先を歩いていたサドーヴニクが、その手に提げていたバッグからネッシーのゆるキャラのマスコットがついたキーホルダーを取り出してお嬢ちゃんに差し出してきた。それを受け取ったお嬢ちゃんが、「まあ! まあ! かわゆい! ありがとうサドーヴニクさん」と喜ぶのを見ても、彼は鉄面皮のままだ。
「地元の観光協会から配れと言われていてな」
 と、それだけ言って、彼は再度歩き出す。なんだ、不用品整理に利用されたのか……と白けながらも、お嬢ちゃんが喜ぶ姿を見られたのは嬉しい。彼女は一気にテンションが上がったのか、サドーヴニクの隣に駆け寄って、無邪気な笑顔を彼に向ける。
「ねえこの子、名前をなんというの?」
「緑のがネッきい、桃色がネッぴいだ」
「かわいい名前。んふふならこの子はネッぴいちゃんね。ネッきいちゃんは売っているのかしら」
「……事務所にある。後で渡す」
「まあ嬉しい! 優しいのね、サドきいさん」
「変なあだ名をつけないでくれ」
 目の前のふたりが繰り広げる会話にジェラシーを禁じ得ないものの、この鉄面皮も内心懐柔されたのではないかと思う。流石は我らが王だ。この天性の愛嬌とカリスマはなによりの武器になる。
「ここだ。入れ」
 徐に立ち止まったサドーヴニクに促され、彼が指した『ご案内中』の札がかけられた扉を潜ると、そこはごく普通の事務所だった。しかしオフィスを擁した受付横の通路を抜け、応接室と書かれた扉を抜けると、『本当のオフィス』が姿を現す。遮光カーテンと防音壁に覆われた暗い空間の四方を、最新鋭の機材が囲み、中央には談話エリアなのかソファーとテーブルがあった。そこに男が四人座って、なにやら携帯ゲーム機で遊んでいるようだ。こちらに気付かず白熱した様子の彼らだったが、サドーヴニクが「おい。客人だ」と声をかけると、全員が漏れなく大袈裟に肩を跳ねさせた。「ひい」「サボってません」「それ言うなよ」「隊長もやりません?」……口々に動揺を隠す彼らを指して、サドーヴニクは真顔のまま、
「あそこから時計回りに、ジン、ピンユー、キンポー、チェンだ」
 と、極めて雑に彼らを紹介してくれる。全員体格が良いので、戦闘員なのだろう。
「男ばっかりだな」
 俺がそう感想を漏らすと、ジンと紹介された男が「つまんねえよなあ」と言いかけたが、サドーヴニクが「女がいると取り合いになる」と遮ったので、途端に気まずい沈黙が流れる。なるほど、大っぴらに出歩けないうえに、近隣住民や旅行客を口説くこともできないのでストレスが溜まっているのだろう。俺にはよくわからない感覚だが、今まで接してきた同僚たちを見ればそういう傾向があるということくらいは理解できる。その負荷にくわえてこの上官だ。そりゃあどんよりもするだろう。その空気に耐えかねた俺は、
「ハティだ。所属はNY。階級は指揮官。……それでこちらが俺たち遠征隊の戦略顧問、リリさんだ」
 と、挨拶し、お嬢ちゃんを紹介する。すると俺の陰から顔を出したお嬢ちゃんが、「こんにちは、リリです!」と、この場においては清浄すぎるほどの可愛らしい笑顔で挨拶をする。俺ですらむさくるしさとの高低差で三半規管が狂ったと感じた、その鈴を転がすような声に、男たちは一斉に仰け反った。「お、女の子だ……」「すげえ、本物だ……」「狭い……横幅が狭い……」「いい匂いがする……」はしゃぐでもなく、かえって静まり返った彼らの姿に、危機感を覚えた俺は一歩前に進み出て咳払いをする。しかし彼らは呆けたような態度を改めないので、今度はサドーヴニクが俺より低く大きく咳払いをした。途端に再び黙り込む彼らを見て、なんだかしんみりと可哀想になってしまう辺り、俺も甘い。するとお嬢ちゃんが俺の背負っていたバックパックをごそごそと漁り始めたので、なんだなんだと身体を傾け中を見やすいようにしてやる。そうして彼女が取り出したのは、市場で買った漢方茶だった。
「あの、お茶をお土産に買ってきたのです。 カンポー? のお茶です。皆さん一緒に飲みませんか? どうやって淹れるのかも教えてくださいな」
 お嬢ちゃんの提案に、四人は目にきらきらと希望を宿しながら、一斉にサドーヴニクに視線を向ける。俺も加勢してやるつもりで彼を見ると、サドーヴニクは表情はそのままに「茶器は表の事務所だ。取ってくる」と、それだけ言って俺たちに背を向けた。そして彼が出て行ったドアが閉まったのと同時に、四人は「イェイイェイイェイイェイ!」と、謎の円陣を組みながら喜びを共有しはじめた。その様子に若干引きつつも、まあこれで気持ちよく仕事をしてもらえるのなら安いものだ……と考えているのは、俺だけでなくお嬢ちゃんもだろう。彼女の身体的特徴や気立ての良さを利用したくはないが、これも任務だ。
 その後の『お茶会』は和やかだった。お嬢ちゃんが適度に土地や周辺の施設、それから彼らの数少ない娯楽について質問するので、四人はこの駐屯で得た知識を有効活用できたと内心喜んだだろうし、サドーヴニクも部下がハメを外さずに息抜きできたので安心したことだろう。お嬢ちゃんは当初約束していた『ネッきい』のキーホルダーの他にも、皆から『余りものだから』とゆるキャラのグッズを与えられて嬉しそうだった。
 夜にまた事務所に集合という話になり解散したあと、サドーヴニクに当座の宿に案内してもらった。彼が確保したらしいそのホテルは、この辺りでは一般的な価格帯のリゾートホテルで、ツアー会社の社員であることを装った彼が案内するのにはごく妥当なチョイスだった。俺が意識してみた限りでは道中に尾行の気配もなく、それっぽい特徴の人外族も見当たらない。部屋で一息ついたら偵察に出てみようかと考えながら彼と別れ、エレベーターに乗り込む。上昇するゴンドラの中、ひとりで貰ったグッズを一通り矯めつ眇めつして喜んでいるらしいお嬢ちゃんに、「なあ」と声をかけると、笑顔のまま「お部屋についたら抱いてくださる?」と問われて、俺はまごつく。そんな俺を見て、すぐにお嬢ちゃんは人差し指を唇に当てた。これは、余計なことは言うなということだろう。であれば素直な反応を見せるべきかと、「最初からそのつもりだった」と答えながら彼女を抱き寄せた。
 部屋に入ると、お嬢ちゃんは「先にお風呂に入りたいです」と言って、トランクを背負ったままバスルームに行ってしまった。すぐにバスタブに湯を張る音が聞こえてくる。俺は荷物を下ろしたあとその歩みに続き、「ここ、温泉があるみたいだぞ」とバスタブの前に立っているお嬢ちゃんの背中に伝えた。すると彼女は「温泉はあとで。だって水着が要るんでしょう。あなた持ってるの?」と言いながら背負っていたトランクを下ろすと、さっそく黒狼のぬいぐるみの隣にぶら下げていたネッきいとネッぴいのマスコットキーホルダーをそこから取り外し、
「ふふ。ネッきいちゃんもネッぴいちゃんも、一緒にお風呂入りましょうね」
 と言って、湯が溜まり始めたバスタブに放り込んだ。
「なっ、なにしてんだお嬢ちゃん……?」
 湯の湧き出し口の奔流に巻き込まれて、ネッシー二頭は激しく浮き沈みを繰り返す。そしてお嬢ちゃんは再度人差し指を唇に当ててこちらを一瞥すると、少ししてそのふたつのキーホルダーを引き揚げた。
「盗聴器です」
 水を滴らせたそれらは、耳を澄ますと確かにジジ……と不可解な機械音を発していたが、その後すぐに沈黙した。
「あの中に内通者がいますね」
 ネッシー越しに、彼女の虹色の睛がぎやりと光る。
「……そいつを割り出して追跡するのか?」
 その眼差しのあまりの美しさに、俺は動悸を押さえながらバスタブの縁に腰を下ろす。すると俺の膝に乗ってきたお嬢ちゃんは首を傾げ、
「どうしようかしら。アンダーソンさんには忖度しろと言われているだけだし……でも程度はわたくしの裁量でよさそうね。お散歩でもしながら考えましょう」
 と言いながら取り出したハンカチでキーホルダーを包んだ。水気を拭き取り、ひとつずつ再びトランクにぶら下げていくその手を握り、「で、セックスは?」と問うと、「どうしたいの?」と問い返される。言わせるなと言いたかったが、それは慢心だ。素直に「したい」と答えて、トランクを取り上げた。それをバスルームの外に出して、ドアを閉める。



 濡れた衣服をランドリーマシンに放り込んで、着替えてから外へ出た。日が傾いてきたからか到着時よりも気温が下がっていて、肌感覚だけなら晩秋の昼下がりと言われても疑わないだろう。やはり山地は動きやすいなと思いながら、ごく一般的なカップルを装って街中を歩く。春餅チュンピンと呼ばれる燻製肉と野菜のクレープを買い食いし、その後スポーツ用品店で俺の水着を二道白河限定ネッシー柄にするか仙人柄にするかで言い争ったり(ネッシー柄になった)、宣言通りに着ぐるみと写真を撮ったりした。その間にも特に異変や違和感はなく、流石に初日に情報を得るのは無理があるかと半ば諦めかけていたそのとき、お嬢ちゃんが俺の手を引いた。振り返ると、お嬢ちゃんの視線の先にはひとりの少女の姿。よく手入れされた亜麻色の髪に、ぱっちりとしたラベンダー色の目をした、かなり目立つ美少女だ。年の頃は人間でいうなら十二、三歳といったところだろうか。背は高いが、ひょろりとした長い脚が子どもっぽい。父親なのか、三十代くらいの男と手を繋いで、ネッきいの着ぐるみから風船を貰っている。
「同族ですね」
 お嬢ちゃんは言う。
「でも子どもだな……」
「子どもですね。ロリババなんとかじゃなく、ふつうに子どもですね」
「それどこで覚えたんだ?」
 ふたりして顔を見合わせていると、視線に気づいたらしい少女が首を傾げてこちらを見てくる。すると隣にいた男もこちらを向いた。あまり似ていないところからして、あの娘は母親似なのだろうか。お嬢ちゃんは男に軽く会釈をして、ごくごく自然に「うちもあんなふうにかわいい娘が生まれたらいいですねえ」と、俺に視線を向けて取り繕った。娘。確かに娘はいいな。うん、お嬢ちゃん似の娘と思うと、涙が出そうになるほど欲しくて堪らない。……一瞬で暴れ回る思考を宥めて「そうだな最初は娘がいいな」と頷く。するとその少女は、「新婚さんかな」と傍らの男を見上げた。「私が結婚したらパパ泣く?」
「え、まだその話ははやくないか……?」
 唐突に親ライフ史上最もヘヴィであろう話題を振られ、激しく動揺する男に同情しながら、今のうちにと彼らをよく観察する。父親と思しき彼は髭面だ。吸血鬼は旧種新種問わず男性ホルモンが薄めであることが多いので、違う種族だろう。見たところごく普通の家族なので、この時点では彼らが敵対組織の構成員かどうかは判別ができない。
「娘ならラドレが泣きそうだな」
 そう呟くと、お嬢ちゃんが俺の手を強く前に引いた。それに従って歩きだすと、少し行ったところで「あなたっていっつもあの子のことばっかり。あの子は娘でも息子でも泣くでしょう」と不満を口にされる。「それに、あなただって泣くでしょう。自分のこと棚に上げないで。さっきの子みたいに、娘が結婚するって言ったら、心臓発作でも起こしそうなのに」……そう指摘されて、少し想像してみる。いま目の前にいるお嬢ちゃんくらいの年頃になった娘が、「パパ、結婚を前提にお付き合いしている人がいるの……」と言ってきたとしたら。
「……俺、ラドレるかも」
「ショックを受けて取り乱す、の意?」
「ラドレもラドレるかも」
「あの子はもっと暴れ回るってこと?」
 重く痛む予感に片手で頭を抱えながら、俺はお嬢ちゃんの手をより強く握る。「息子のほうがいいかも」と漏らしながら。
「はいはい、まだ見ぬベイビーよりもいまはわたくしのことを構ってね」
 お嬢ちゃんはドライな調子でそう言うが、その内容はなかなかに可愛らしい。結構ヤキモチをやくタイプなのだろうかと思いながら「当たり前だろ」と彼女を抱き寄せると、「ふふん、よろしい」と甘えた声がした。


   *



 上海に滞在をするのは二度目だ。飛行機の乗り継ぎのため立ち寄ること自体は多く、空港内は見慣れたものだが、土地勘はない。空港を後にしてホテルのクロークに荷物を預けたあと、僕はスマートグラス内にインストールしてあるマップアプリを頼りに、例の『ラテラノ・エレクトロニクス』への道程を辿っていた。
 去年末に会ったとき、ハリエットはバイクで現れなかったので、│外灘《ワイタン》からそう離れていない場所に拠点があると踏んでいたが、実際にそのようだ。外灘の中心部で取ったホテルから出たあと、川沿いに南下していくと老碼頭ラオマートウという、上海内では比較的閑散とした地域に出る。マップに表示された地域紹介ポップアップによると、昔は船着き場として栄えていたらしく、当時周辺にあった倉庫や工場をリノベーションした施設が多く存在しているのだとか。
 夏の心地好い川風を受けながら、煽られた街路樹の葉の一枚一枚がちらちらと陽光を反射するのに目を細める。結婚式場かその関係施設が近いのか、ウェディングドレス姿の女性とタキシード姿の男性が並んで写真撮影をしているのを横目に、川沿いから一本奥の路地へと入った。かつての役割の名残からか道路は広く、区画も広めに分けられており、迷いにくい都市設計だ。巨大なビルや街中にあるにしてはかなり大きめな工場跡(現在は若者向けの複合型商業施設となっているようだ)を眺めて歩きながら、僕はぼんやりと『火鍋処理場』のことを思い出す。結局僕は火鍋処理場にしかなれなかったようだ。しかし王のノートに書かれた言葉の数々や、僕へ宛てたであろう一筆からして、王は王なりに僕との関係に思い悩んでいたことが窺える。
『おまえにあたえられるものがもうなくなってしまった』
 だなんて、僕はちょっと怒ってしまいそうだ。どこからどう考えてもそんなことはないのだ。なのに僕は王の他にもうなんにもいらなかったはずなのに、実体のない愛というものを目視しようと足掻く姿ばかりを見せてしまっていたせいで、どうやら王を焦らせてしまっていたようだ。僕はいつもそうだ。目先の利益にばかりに食らいついて、当然食らい尽くしてしまったらしい。以前ハリエットは、「わがまま言って、したいことをする。そういうところを見ていられればいい」と『昔の恋』について語っていたが、僕はそれをどこか物足りない愛だと感じていた。しかし今になってみると、彼のほうがよっぽど辛抱強くて、なんというかカッコいい。彼はあれから──それは、僕へメッセージを送ってくれた前後という意味だ──王に呼ばれたり、王に会いに行ったりしたのだろうか。今すぐにでも電話して確かめたい。いや、ただ声を聞きたい。それで僕は、「バカ」とか「アホ」とか「クソマヌケ」とか言ってほしいのだ。他の誰でもなく彼に。
 僕はほんとうにダメダメだな……と思ってひとり笑うと、胃がやっぱりちょっとびっくりして、ぞわぞわする。これは孤独の質感だ。でも慣れなくてはならないものだ。慣れて、慣れながら歩いて、慣れながら食べて、いつかふたりに追いつく。そのための道標を得ようと、僕はこうしてハリエットの痕跡に鼻を効かせ、這い蹲って彷徨っている。たとえいま会えなくても、あのその方角に星があると感じられれば道は照らされると信じて。……僕にはどうにも、ハリエットの足跡は王に繋がっているように思えてならないのだ。
 その工場の看板の端っこには、ヌンチャク・パンダのシールが貼ってあった。ダイアリー用と思しきちいさなシールは貼られてから日が浅いらしく、縁取りのラメがまだ真新しく照っている。近所の子どもの悪戯だろうかと思いながら、来客者用インターフォンを鳴らす。すると女性の声で「ご用件を窺います」と応答があったので、ゆっくりと深呼吸して仕事用の声を作った。
「わたくし、DVS社代表取締役社長のラドレと申します。そちらの責任者様とお話がしたいのでお取次ぎをお願いいたします」
 すると「少々お待ちください」との指示があり、そのまましばらく待っていると、数分で「ラドレ様」と呼びかけがあった。僕は返事をしながら身なりを改めてチェックする。一応スーツで来たからには不審者だとは思われていないはずなので、僕の顔面が向こうに見えているのならこのまま入れてもらえる可能性はかなり高い。しかしその受付嬢は、
「アポイントメントのない方との面会はいたしかねるとのことです。またのお越しをお待ちしております」
 と言い切ると、まさしくガチャ切りといった素早さで、通信を切った。その思わぬ対応に僕は、
「えっ。ちょっと待ってよどこでアポ取るのー!」
 とインターフォンを再度連打する。が、繋がらない。「嘘でしょ」と漏らしつつ、眼鏡で企業情報をチェックするが電話番号は書いていないし、メールアドレスの欄には『※返信には数日を要する場合があります』と、ご丁寧にも注意書きが添えてあった。打つ手なしである。僕は工場の高い塀と門扉を見上げて、一応防犯カメラの位置をチェックする。飛び越えて強引に面会してやろうか……と数歩後退したものの、「いや、これで出禁になったら将来的にも困りそうだぞ」と理性的な舌が尤もな独り言を漏らす。そもそも、この企業がSGJの遠征部隊だと確定したわけではないのだ。万が一お縄にでもなったら弊社の株価がどうなるかわからない。頭の中に社員たちの顔が浮かぶ。前科一犯ラドレ社長……案外商談のネタにでもなりそうだぞ、と思った瞬間、背後から歌声が聴こえてきた。
「たたかえーパンダ師父ぅー勇気をこの手にぃー握るヌンチャクぅー」
 ヌンチャク・パンダ第一期のオープニングテーマ曲である。それに、結構上手い。僕は瞬時に王のことを思い出しながらも、そのあまりにもご機嫌な調子に釣られて、
「熱き魂ーみなぎるパワーそれゆけ皆の期待を背負って―」
 と、ついつい続きを引き受けながら声のするほうを振り返った。するとそこには目を瞑って熱唱する、ものすごい美女がいた。
「ヌンチャク・パーン……ダ……」
 サビの一番気持ちいいところに入ったその美女は、僕の姿を認めると、唐突に歌うことをやめてその場で硬直した。一瞬にしてお互いの「どこかでお会いしました?」の視線が交錯し、その一秒で僕は思い出す。長い黒髪、ぱっちりとしたグリーンアイズ。大きな口が華やかな、赤いドレスの……。
 彼女は、いや『彼』は、ハリエットの、『弟』だ。
「すみませんちょっとお話が!」
「嘘でしょ信じらんない!」
 ふたり同時に叫び、同時に走り出す。突として、謎のチェイスが始まった。「なんで逃げるの!」「不審者がいたら逃げるでしょ!」彼はピンヒールであるにもかかわらず、驚くほどの機動性を僕に見せつけながら、華麗なコーナーワークで角を曲がっていく。幸か不幸か通行人がいないのでお互い本気モードだ。跳び上がり、街路樹の枝を足掛かりにビルの上へ。何棟も何棟も渡って飛び越えて跳び上がって飛び乗って。流石に速い。息が切れるが、喉奥に湧いた辛苦い息をぐっと飲み込み、長期戦を見据え僅かに力を抜く。
「武器アリ⁉ 武器アリ⁉」前方五メートルほど先を走りながら、弟くんは振り返って問うてくる。
「武器ナシ! 武器ナシ!」顔の前で激しく手を振りながら僕は答える。……なんなんだこれは。
「車と犬は⁉」
「犬はダメ……ってほんと、兄弟だな……!」その覚えのある問答につい笑ってしまう。
 華奢なだけあって、彼も王と同じ持久力タイプらしい。どこかで躓いてくれないかと祈っていると、目の前で彼は本当に躓いた。「えっ?」と漏らしたのはどちらだっただろうか。あろうことか彼はビルの屋上の縁で躓いたのだ。ひゅん、と重力にしたがって僕の視界から消えようとする彼を見て、僕は咄嗟に同じ位置から地上に向かって飛び込む。自由落下では重量は落下速度に関係しないので、このままでは追いつかない。「間に合え!」と叫びながら、僕は自分の雷属性の魔力を足裏に集中し、炸裂させる。そうして無理矢理に生んだ推進力のまま手を伸ばし、空中で彼の身体を捕まえ、抱き寄せる。吹き上げてくる風に眼鏡が外れるが、致し方ない。なんとか接地する前に体勢を整え、着地を迎える。足裏に魔力を集中していたせいで、着地点でばごんと大きな音がしたが、なんとか彼を落とさずに済んだ。衝撃でアスファルトにヒビが入ったし、膝が物凄く痛いが、なんとかなったのだ。集中のあまり止めていた息を一気に吐くと、そこでようやく激しい動悸を感じた。息を乱しながら「大丈夫、怪我はない?」と腕の中の彼に問うと、「うん……」とちいさな返事があった。
「よかった! もう、脅かさないで……その綺麗な顔に傷がついたらどうするの」
 安堵のままそのまま後ろに尻餅をつく。すると遅れてふわりと落ちてきた眼鏡をキャッチした弟くんは、それを僕の目元に戻してくれると、細い声で「ありがとう」と礼を言った。そして、
「ねえイケメン。お礼させて?」と続けて立ち上がり、僕の腕を引いて助け起こしてくれる。
「ふふ、なに? カッコよく見えた?」
 眼鏡のブリッジを押し上げながら得意げに笑ってみせると、彼は「調子乗んなよな」とそこだけ少年っぽく言って頬を膨らませた。そして、
「ほら、デートに誘ってよ」
 と僕の胸をつんと指す。僕は慌ててスマホを取り出し、暗い画面を見ながら乱れた髪を整えると、軽く咳払いをしてから彼の手を取った。
「……美しい人。僕と食事でもどうですか?」
 そう申し出て、持ち上げた彼の手の甲にキスを落とす。すると弟くんは、
翠雨スイウ
 と、日本における春の雨の別名を口にした。
「私の名前。ちゃんと親から貰った本名だから」
 僕はまさか本名を教えてくれるとは思わず面食らう。しかしすぐに、これから結ぶのはビジネスな関係ではないと彼は伝えたいのだと理解した。案外素直な子なんだなと思いながら、「僕はラドレ。よろしくね翠雨くん……あ、『ちゃん』がいい?」と返す。
「どっちでもいい。アンタが可愛いと思う呼びかたをして」
「じゃあ、スイちゃん」
「……いいよ、それで」
「スイちゃん、ご飯行かない?」
 もう一度、今度は名を呼んで誘うと、彼はにっこりと華やかな笑みで僕を見上げてきた。やっぱりこの僕の目も眩むほどの美人だ。こんな可愛い弟がいるのに隠そうとしていたハリエットが憎い。
「二時間、付き合ってあげる。私からどれだけアンタの欲しい情報を聞き出せるか、試してみなよ」
 翠雨は指を二本立ててそう返事をすると、「行こっ。朝ご飯まだなんだよね」と言って僕の腕を引いた。そしてそのままスムーズにタクシーを拾って、車内に僕を引き寄せる。
「誘っておいてなんだけど、仕事は大丈夫?」
 車載タブレットで行き先を外灘に指定しながら問うと、彼は「きょうは遅番だったんだけど、まあ二時間遅刻するくらいいいでしょ」と言いながらスマホでどこかにメッセージを打っている。本当に大丈夫なのかと心配にはなるものの、仕事のことに僕が口を出す権利はない。車が走り出すと、彼は小さなハンドバッグにスマホを放り込んで、組んだ脚の上に頬杖を突いて僕を見た。
「別に、兄さんからはなにも言われてないよ。だからルールは私が決める。言いたくないことは言わない。言わないと言ったら追求しないで。『はい』か『いいえ』以外でも答える。しつこい男は好きだけど、同じことは何度も聞かれたくはないから、ちゃんと覚えておいて」
「そう。わかった。じゃあ……」その華奢な頬杖を掴んで引き寄せる。眼鏡をずらして、目を見る。「僕は、アリかな?」
「一考の余地アリ」
 そう言って、彼は間近になった僕の顔を押し退けてシートに座り直した。
「目的のためならなんでもする男は嫌いじゃないよ。でも残念、私のほうが強いから、その魔眼は効かないみたいだね?」
 ある程度効かないことは予想はしていたが、拍子抜けだ。僕は両手を挙げると、
「最近出会う人たち、効かないんだよなー。見せ場ないなあ」
 と漏らして溜め息を吐く。彼の言う通り、僕より強い相手にこの魅了は効かない。ここ数年本気で戦う機会もないし(それを金と権力で買っているともいえる)、鍛錬にも前ほどは専心していない。おまけに今は王が近くにいないからその分のバフもないのだ。特殊部隊所属の同族に負けることは、現状では有り得ることだろう。
「それはそれでいいんじゃない? アンタとちゃんと友だちになれる人が多いってことでしょ」
 さりげなく放たれたその言葉に、僕は密かに胸を詰まらせた。「そうだね」と相槌を打ちながら、かなしみを悟られないようにそっと長く息を吐く。空調に乗って充満する車用芳香剤のミントの香りが、鼻の奥をつんとさせた気がした。


 意外なことに、翠雨は街中にある大衆店寄りのレストランを選んだ。前回同様に星付きの店へ行けと脅されるかとも思ったのだが、どうやら杞憂だったようだ。却って心配になった僕が「もっとお高いところでもいいんだよ……?」と恐る恐る申し出ると、彼は「友だちとミシュランに行かないでしょ」とさらりと流した。
 席に着くなり彼は八宝鴨バーボーヤーを食べたかったのだと言って、すぐにそれを注文した。蒸すのに時間がかかるらしい。それから二人でメニュー表を見て、蟹粉豆腐シエフェンドウフ四喜烤麸スーシーカオフー、そしてロックの紹興酒を追加した。
「お酒飲んで大丈夫なの?」
「大丈夫。いつも飲みながら仕事してる。別に禁止されてないしね」
「そ、そうなんだ……」
 まさかアル中か? と思い、そっと彼の手に視線を向ける。しかしそのよく手入れされた白い手には、痙攣等の症状は見られなかった。そんな僕の視線に気づいたらしい彼は「ネイル可愛いでしょ?」と、すこし的外れに首を傾げる。そうして見せつけられた夏らしいレモンジュレップのようなネイルは、彼の瑞々しい肌によく似合っていた。
「これ、兄さんがやってくれたんだよ」
「え、彼そんなこともできるの?」
「そ。私のために覚えてくれたの。カワイイよね」
「いいお兄さんだね」
「そう。自慢の兄貴」
 そこで紹興酒が運ばれてきたので、乾杯をする。通り沿いの二階席から見下ろす往来は観光客ばかりだ。自分もそうなのにもかかわらず「観光客が多くて嫌だな」なんて感想が出てくるのは、この国への滞在が長くなってきたからだろうか。
「キミとお兄さんって、どういう関係なの? どっちも美人だけど、外見が似ているとは言えないよね」
 まずはジャブとして質問する。すると翠雨は、グラスに口をつけたまま、鼻で「うーん」と声を漏らしてしばらく言葉を迷っているようだったが、喉を鳴らしたあと、「フツーの意味での血縁じゃないよ」と答えてグラスを置いた。
「同じ施設の生まれなんだよね。なんやかんやあって生き別れになって、再会したときに私が『兄さん』って呼び始めたから兄さんも一応弟として扱ってくれてるし、周りもそう認識してくれてる感じ」
 施設。たしか彼も親はいないと言っていたし、あのアンダーソンという男が父親代わりとも言っていたので、やはり孤児なのだろうか。
「他にそういうご兄弟的な関係の人は?」
「……いるねえ」
「へえ、身近にいる?」
「いるよ。カワイイ女の子がひとり。結構年下。でもそういう『ごっこ遊び』をしてるのは私と兄さんだけかもね」
「ふうん……その子紹介して?」
「それはイヤ」
「なんで? ハリエットの元カノとか?」
「……ねえ、突飛すぎてキモい」
「ごめんね? そういえば昔の女が年下って話してたなーって」
「いくら兄弟でもそういう話はしないよ。いや、それは嘘だな……。私は一方的に恋バナとかするから」
「あはは、ぽいな」
 会話中に運ばれてきた蟹粉豆腐と四喜烤麸を取り分けながら、僕は『恋バナ』をする翠雨とハリエットの姿を想像してみる。きっとあの男は聞いていないようでちゃんと聞いているのだろう。僕にそうしてくれたように。
「ねえ、ドレちは弟とか妹いるの?」
 唐突な『ドレち』呼びに、僕は口に運びかけた豆腐を笑った息で吹っ飛ばしそうになる。「ドレちって」「いいじゃん。カワイイよ」「いいけどさ……」そのまま一旦、レンゲに乗せた豆腐を口にする。業務用じゃないと一瞬で察することのできる風味豊かな蟹味噌に、胡椒が効いていて美味い。
「妹はいるけど、なんで?」
 紹興酒を飲む。
「いや、兄さんみたいだから。私の皿に、蟹の身を多めに盛ってくれたでしょ?」
 そう言って彼は、自分の皿の上の蟹の身をレンゲでつついた。
「偶然だよ」
「ほら、そういうとこ」
「キミの兄さんがキミにそうしたいってだけだよ。感謝しなね」
 すると彼は頬を膨らませて睨んできた。その仕草の可愛らしさに、僕は「弟だなあ」という感想を漏らす。きっと万人に受けるに違いないが、一応は兄という属性の僕にもよく刺さった。なんというか、王に近いものを感じるのだ。翠雨は白々しく「兄さんシュエシュエー」と間延びした声で天を拝むと、四喜烤麸にも箸を伸ばした。四角くカットされた烤麸カオフー(小麦粉でできたスポンジ状の食材だ)をひとつ口に放り込み、にこりと笑顔になるその姿につられて僕もそれを口にする。タレが烤麸の気泡部分によくしみ込んでいるのか、しっかりと甘辛くて、酒が進む。一緒に炒められたピーナッツとキクラゲの食感も好ましい。
「ハリエットはいま何してるの?」
「仕事じゃない?」
「近くにいる?」
「教えられるわけないじゃん? 仕事だもん」
「そりゃあそうか。じゃあ王って知ってる? 僕といつも一緒にいた白い子」
「監視されてたこと知ってるんだっけ? ……それぞれが担当してる任務の内容はある程度共有されるから知ってる。カワイイよね」
「どこにいるか知ってる?」
 沈黙。
「嘘吐きたいなら沈黙しないでよ」僕は笑う。
「嘘吐きたくないから黙ったんでしょ?」彼も笑う。
 なるほど、『はい』か『いいえ』以外でも答えるとはこのことか。
「王の印象は?」
「他人に気を遣うタイプ。たぶん、すごく疲れてる」
 まさかの返答に、僕ははっと黙り込んでしまう。てっきり『カワイイ』だとか『素直』だとか、そういう感想があると思っていたのだが、彼からするとそれは第一印象ではないようだった。
「……仮に、いま王がハリエットと一緒にいるとして、王は癒されてると思う?」
 彼の観察眼に、俄然興味が出てきた僕は、一番の気がかりである点を質問としてぶつける。すると彼はふっと笑って、
「そんなの、わかんないよ。結局知性体っていうのは誰といてもストレスがあるわけでしょう」と言った。空になったグラスを揺らしておかわりを強請りながら。「でも一個教えとくとね。兄さんって結構好きな子にはベタベタしたいタイプだよ。ドレちとおんなじ」
 またしても思わぬ返答をぶつけられ、僕はもうニヤニヤと笑うことしかできなくなる。自分の習性はまあ、監視されていたのなら知られていてもおかしくはないが、ハリエットがそうだとは見抜けなかった。王に対してグイグイくるタイプだとは思っていたのだが。
「いいの、それ、僕に言って」
「いいでしょ。いるよね、自分のオンナに触ってないと死ぬタイプ」
「言い方」
「あの人さみしがりやだからさ。……だから気を許すと早いよ、落ちるのが」
 どこか遠い目をして、翠雨は呟くように言った。そして箸を置き、二杯目の紹興酒を前に、じっと動かなくなる。
「そうなの?」
 僕は顔を窓に向けたまま、彼のそんなさまを横目に見る。
「ドレちに対してももうだいぶ落ちてると思うよ。心のドアを抉じ開けられたらもう、すぐ。ほんとすぐ。逆にガード薄いっていうか……」
「でもまだボクは開けられてないよ、そのドア」
「だから、ドアの向こうにいるってわかってるから、それだけでも嬉しいんだよ」
「……嬉しい?」
 彼の言葉に、僕は彼のその翠色の睛を見た。雪解けを迎えた春の湖のように澄んでいて、それでいて秋の緑のように思慮深い色。その透明なかがやきに僕は『彼』を視る。やっぱり血縁がなくても、ふたりはよく似ている。
「そう。アイツ今日も来たなって。俺の心の前まで、また来てくれたなって」
 こちらに向けた両手のひらのあいだからこちらを窺うジェスチャーをしながら、翠雨はニヤリと笑う。僕は同じことをしているハリエットを想像して、きょう何度目かもわからぬ笑い声を上げた。ああ、ちゃんと笑えるな、大丈夫だ……そう思うと腹の奥にぐっと力が入った気がした。
「でもこっちからは開けねーぜ」
「意地が悪いなあ……!」
 力の入った部分を笑いに揺らす。揺れると、熱を持つ。その熱にあてられた心が一瞬、かなしくなる。
「しかたないでしょ。シャイなんだよアレで。でも頭の中は忙しいの」
「嘘だあ」
「自分をクールキャラだと思ってるから似合わないことはしないだけ。ほんとはもっとちゃんと友だちとバカやりたいし、ちゃんとしないこともしたいんだよ。……だから、遊んであげてねっ」
 笑顔でそう締め括って、翠雨はようやく姿を現した八宝鴨の姿に両手を合わせて喜んだ。茹でた青梗菜の上には飴色の餡を纏ったアヒルが、丸々一羽。
「すごい見た目だな……」
 と僕が驚きの声を上げると、店員が得意げにその腹にナイフを入れてくれた。すると皮と身肉の中からもち米が覗く。「おお……」と驚いている僕の正面から不意にシャッター音がして、顔を上げると翠雨がこちらに向かってスマホを構えていた。一礼をして去る店員の背を視界に入れたまま、「なに、送るの?」と目的語なしに問うと、「顔はトリミングしまーす」なんて、送ることを否定をしない返事があった。
「あはは、驚いてもイケメン」
「そうだよ? キミはイケメンとデートしてるんだよ?」
 ウインクしてみせると、彼は「わー先生と同じタイプだー」と漏らして立ち上がると、箸とレンゲを使って切れ込みの入った鴨と米を器用に混ぜていく。「こうやって食べるんだよっ」……どうやら僕のウインクは効いていないらしい。そしてそのまま「ほら、お皿」と促されて取り皿を差し出すと、そこに八宝鴨が盛られる。「部位で全然印象が違うから、肉は好きに持っていってね」
「ありがとう。優しいね」
 とりあえず取り分けて貰ったぶんを食べようと、皿を置いた。
「兄さんの周りにいる人ってみんな優しいんだよねー。私もそう」
 得意げな目を伏せて、翠雨はふわりと椅子に座り直す。彼の仕草のひとつひとつは華やかで、見ていて心が動くようだ。
「そう思うよ。アンダーソンさんもそんな感じだよね」
「あ、アンダーソンに会ったんだ? そうそう、あの人パパみあるからさ」
「あー、わかる。いや、僕の父はパパみないから心から理解はできないんだけど……」
「私の親もパパみないよ。だからこそアンダーソンにパブリックイメージ的な希望を感じるのかもしれないけど。あ、親ってのは育ての親ね」
 そう言いながら翠雨は八宝鴨を口にすると、「んー、紹興酒!」とマリアージュ宣言をして、両頬に手のひらを押し当てた。「ほっぺた自由落下だよもう」……そのコメントの可愛らしさに癒されながら、僕もそれをレンゲに乗せた。中々見慣れない形態の料理だが、まあ肉と飯が美味くない訳がないと安牌を確信しながら口に運ぶ。するとまず、鴨が美味い。あらかじめ骨を抜いてあるらしいそれは食べやすく、ほろほろと柔らかかった。溶けだした鴨脂が甘辛い醤油味とともにもち米に染み込み、味が濃いのに円やかな印象がある。この濃厚な味つけは、たしかに紹興酒と合うだろう。八宝というだけあって、もち米と一緒に詰められた具材は八種類のようだ。まだすべてを把握しきれていないが、ハムとタケノコが酒菜として一等嬉しい。肉汁とタレを吸った添え物の青梗菜も十分メインとしての品格を備えている。……この席での食事はぜんぶ当たりだ。そのことが喜ばしくてひとり微笑むと、
「ん?」
 と、なぜだか疑問の声が喉奥から転がり落ちた。
「どうしたの? 骨でも残ってた?」
 鴨の頸肉をほぐしながら、翠雨が僕の声に反応する。
「なんだか、味がわかるなって……最近、美味しいとか、思ってなかったなって……」
 ひとり二七〇ドルする星付きレストランのコースですらぼんやり食べていたのに、僕は一体どうしたというのだろう。いや、今までの僕が、王と別れてからの僕が、どうかしていたのだ。
「スイちゃん、僕に魔法かけた?」
 ふざけて問うと、彼はにっこりと笑って、
「実はそう。友だちになる魔法」
 と言い、立てた人差し指を天に向けてくるくると回した。その『友だち』という単語に、僕はふと黙り込む。ハリエットとの食事はなんでも美味しかった。旅のなかで出会った人たちとの食事だって美味しかった。会社の皆との食事だってそうだった。それは、王とでも同じで。……つまり王と僕は、たぶん、きっと、親友同士でもあったのだ。恋人じゃないという言葉にだけ傷ついて、主従という関係を越えることばかりに固執して、僕は今そこにあったはずの友情を見落としていた。だってずっと一緒にいたのだ。関係性は一つや二つじゃなかった。主人。ビジネスパートナー。準恋人。妹。娘。そう認識して甘ったれていたはずなのに、僕は王が友人であるということだけを、どうしてか一個だけ、とりこぼしていたのだ。いつも僕の話をちゃんと聞いてくれて、笑って勇気づけてくれて、離れてもずっと心の中にいてくれるあなたを。
「……悔しいな」
 自分でも悔しそうだなと感じる声が漏れた。
「なにが?」
「友だちと友だちがくっつくの。友だちと、僕の好きな子がくっつくより悔しい」
「拗れてるね」
「言ってしまえばそりゃ別にいいんだけど、なんか……どっちに対しても、すごい……ジェラシーがある」
「ドレちはそういうタイプなんだ」
「ふっへっへ……そうみたい」
「まあ、どうでもいいけどさ。ハンカチは貸してあげる。洗って返して」
 そう言って彼はテーブルに身を乗り出して、僕の顔面にハンカチを押しつけてきた。ネロリがふわりと香って、その爽やかな香気に、一瞬で涙が引っ込む。それで、僕は泣いていたことに気づく。
「またデートしてくれるってこと?」
 渡されたブランド物のハンカチで、遠慮なく涙を拭いながらそう問うと、彼は、
「また遊んであげる。連絡先交換しよ」
 と、僕の表現を訂正してスマホを差し出してきた。「まあゲームの最中は越権はしないよ。雑談くらいなら付き合ってあげるけどねっ」と首を傾げて、可愛くウインクする。どうやら僕の魅了能力は、元々彼の魅力には敵いはしなかったらしい。スマホを寄せ合いメッセージアプリのIDを交換して、箸を持ち直す。美味い食事を楽しまなければ。
「ねえドレち」
 僕の皿に鴨の頸肉を盛りつけながら、翠雨はなにか訊きたいことがあるのかそう切り出してきた。なあに、と返事をしながら、追加の紹興酒を注文していると、僕がそちらに向き直ったタイミングで彼は切り出してきた。
「ピンク色の猫のこと、覚えてる?」


 翠雨を基地まで送ると、入口にはあのアンダーソンという男が立っていた。離れた位置からでも腕を組んで気難しい顔をしているのが窺えて、翠雨と顔を見合わせて「ヤバいかも」と苦笑していると、
「二時間遅刻だハーフムーン!」
 と威厳ある声が聞こえてきたので、途中から駈け足になって彼の元へと寄っていった。どうやらハーフムーンというのが彼のコードネームらしい。
「遅刻するって送ったもーん」
 そう笑って言いながら、翠雨は僕の隣から離れていく。
「遅刻する、だけで想定するのはせいぜい三十分だろう? 大遅刻だぞ」
「私は昔からそうでしょ。受け容れてよ」
「日々改善を期待してるんだ」
 そんなやりとりを聞きながら、僕はネクタイを締め直した。僕は今回、ハリエットではなく『彼』を目的としてここまでやってきたのだ。
「こんにちは、アンダーソンさん」
 営業スマイルを作ってそう呼びかけると、彼は笑顔で「こんにちは、ラドレくん」と答えてくれたが、「面会のお願いをしに来ました」というと、彼は表情はそのまま無言になった。これはきっと『なにも答えられない』という圧力だろう。翠雨に視線を向けると、彼は肩を竦めてアンダーソンを見上げた。彼も上官の意向に従うという意味のようだ。無意味と知りつつ、反応を確かめるために僕は続けた。
「以前あなた達は『SERTS』の監視をしていると言いましたが、それは今でも続いていますか?」
 するとアンダーソンは五秒ほど沈黙したあと、「敷地内だなあ」と言って足許に視線を向ける。それを追ってみると、確かに街路と工場との境目がそこにはあった。要はなにも教えてくれないという予測の答え合わせだ。僕は笑って「そうですね」と頷く。
「でも一応、アンダーソンとしてでも、オフの俺でもない立場からひとこと、いいかい」
 それは、どういう意味だろうか。怪訝に思いながら「どうぞ」と促すと、彼はそのタイル材の境目を足裏で踏むように一歩踏み出してきた。
「ラドレくん、お父さんは元気かい」
「え……?」
 言葉の意味がわからず、立ち尽くす僕に、彼は手を伸ばしてきた。なにをされるのかと身構える僕の頭上にその手のひらは翳され、そしてゆっくりと着地する。
「大きくなったね」
 僕は、いま彼に頭を撫でられているのだ。この歳になって大人の男から頭を撫でられる意味がわからず、僕は呆然と棒立ちを続行するほかない。
「おじちゃんは髪が短いほうが男前だと思うぞ」
「えー、アンダーソン、考えがふるーい」
「仕方ないだろう、旧いんだから」
 茶々を入れた翠雨を振り返るようにして、アンダーソンはボーダーラインの向こう側へと戻っていく。工場の入り口の扉が自動で開き、奥にある施設を一部開示するが、ただそれだけだった。
「それでは失礼」
 と言って、彼は翠雨と共に扉の向こうへと去ってゆく。締まる扉の内へ身体を滑り込ませることもできたはずだが、今はそれをすべきでないという悟りがあった。扉が完全に閉まるのを見届けて、僕はその基地に背を向ける。たぶんまた来ることになると、なんとなく察しながら。
 それからまた川沿いの遊歩道へと戻ってくると、僕は数時間前にウェディングフォトを撮っていた場所で、川向こうの外灘の街並みを撮った。なるほどここからだと上海らしい写真が撮れる。数枚撮って、選別した一枚を、僕は王へメッセージで送る。それから一筆。


 今日は上海でハリエットの弟くんとデートをしました。あ、言い訳するけどデートはこれっきりだから。彼と一緒に八宝鴨という面白い料理を食べました。美味しかったよ。王も美味しいご飯を食べて、ちゃんと美味しいって思えてるかな? だとしたら僕も嬉しい。今日も愛してるよ。


 またしても僕の懐で震える王のスマホ。その感触にぐわりと悲しくなって、ムカついて、笑えてきて、ぐにゃぐにゃのどれでもない顔で僕はハリエットとのトークルームを開いた。そして「返事をしてないのって、よくないよね、うん」と自らに言い訳をしながらメッセージを打ちこんだ。きっと、しばらくはこれっきりだ。送信して、僕は来た道を戻る。夜はひとりで食べ歩きをしてみようと眼鏡でルートを練りながら。


   *


 夜は情報共有をしながらサドーヴニクのチームと一緒に夕食を摂った。こちらに盗聴器を仕掛けていたわりには、誰の態度も普通だった。調理を担当することが多いらしいチェンは「おもてなし料理とは言えないんだが……」と言っていたが、お嬢ちゃんはその大鍋に仕込まれたプデチゲを見て非常に喜んだ。プデチゲとは、主に加工肉やインスタントラーメンなどの保存食で構成された韓国の庶民的な鍋料理のことである。鍋を囲みながら、「楽しい!」と喜ぶお嬢ちゃんの姿に皆でしんみりと癒されていると、サドーヴニクが「巡回に行ってくる」と席を外した。この男、実のところ自分が厳しさのあまり空気を悪くするという自覚があるな……と分析しながらその背を見送る。そして正面の玄関から彼が出て行った頃合いを見て、
「あの人、でかいけどロシア人か?」
 と、四人に向かって問うてみると、当然のように沈黙が返ってくる。
「別に誰が何言ったとか告げ口なんざしねーよ。ただ、あの人、話しかけづらいだろ。仲間の情報がないと俺たちも動きにくいからさ。コミュニケーションだよ、コミュニケーション」
 柄にもねえ、と思いながらも明るくそう言ってやると、四人は次第に笑顔になった。それから「正確にはサハ人だ。まあ、今の呼びかただが」と、ピンユーが返事をした。つまり、ロシア連邦のサハ共和国出身なのだろう。
「昔、戦争でこっちに移ったんだとか。なんでもそれで嫁さん亡くしたとかで……だからってわけじゃないけど、まああの態度でもしゃーないよなって」
「それからずっと独り身を貫いてるみたいだな。俺からしてみればとっとと女作っちまえばいいのにと思わないこともないね」そう彼を評したのはキンポーだ。
「遠征前もずっとそうだったのか?」俺は問う。
「いんや、前はもう少し話しやすい人だったよ。まあ誤差レベルだが」この証言をしたのはジンだ。
「こっち来てから徐々に冷たくなってきたんだよな。まあ、俺らに冷たいというか、なんかしんどそうだよな」とチェンも続ける。
 皆が順繰りに話すから、賑やかだ。彼らがおしゃべり好きなのは、現状のストレス由来というより元来の性格と、民族的特徴からなのだろう。
「寒いから故郷のことを思い出すんだろ?」
「バカ、元々いたハルビン基地のほうがよっぽどさみーよ!」
「あ、そういや知ってるか? 今ハルビンにも遠征組が来てるみたいでよ、ピンク髪のカワイ子ちゃんがいるって噂だぜ」
「マジ? どんぐらいカワイイ?」
「知るかよ! あ、ハティさんは知ってるんすか? ピンク髪の子。同じ遠征組でしょ」
 スルーを決め込むつもりだったのにいきなり話を振られて、俺は口に運ぼうとしていたスパムを取り落としてしまう。それを見てお嬢ちゃんは「あらあら」と声を上げてティッシュを手渡してくれた。
「いや……それだけだと誰だか……そもそも俺は第一次遠征組だから、後続部隊についてはわからない」
 俺は今、むちゃくちゃ嘘を吐いている。別に彼らに話してもいいのだが、お嬢ちゃんがいる手前では話しづらい……のは、そのピンク髪の娘というのが『彼女』のことだという確信があるからだ。仮に、ラドレにそれを問われていたのなら話せた。だが、お嬢ちゃん相手となると難しい。機が熟せば話そうかとも思ったことがあるが、今のところそのときを迎えてはいないというのが、俺の見立てだ。
「噂になるほどでしたらよほどかわゆいおなごなのでしょうねえ」
 鍋からインスタント麺を手繰りながら、唐突にお嬢ちゃんは会話に参加してくる。そして、
「会ったら求婚してしまうやも」
 と続けて、笑顔で麺をレンゲに乗せた。
 それは、かなり、よくない。いや、よくなくはないがよくない。……俺的に。繕うように「俺のことはどうするんだよ」と、ジェラシーで真意を隠して彼女を小突くと、四人が一斉にこちらを向いた。「えっ?」という驚きの声が四つ。まずい。うっかり墓穴を掘ってしまった。
「……ふたりは付き合ってんの?」ジンが問うてくる。
 俺はこれ以上墓穴を深く掘らない方法がわからず、走馬燈のように素早く、かつじっくりと己の今までの恋愛経験の浅さを恥じる。こういうときどう躱すのが正解なのかまったくもって見当がつかない。もっと恋愛映画を観ておくべきだったのだろうか。内心冷や汗をたっぷりかきながら、曖昧な唸りを上げて固まっていると、
「しーっ、ですよ」
 と言って、お嬢ちゃんが人差し指を唇に当てる仕草をした。
「彼の上官がとても怖い方なので隠しているのです。なので皆さんも内緒にしてくれると嬉しいです……」
 なるほど、秘密の共有をさせて引き込むつもりか。案の定、四人は「気持ちはわかるよ!」と謎の小声で同情心を示してくれた。「なるほど、だから距離感が近いのか」「そりゃこんなに可愛い子がいたら口説くよなあ」「なにもないほうが逆にヘンだよな」「やるじゃねえか」四人に代わる代わる肩や膝を叩かれたりしながら、俺は「うっす」と恐縮するポーズをとる。このままその作戦に乗じて、お嬢ちゃんの頭から求婚云々、ひいてはあの子の情報を忘れさせるつもりで「だから皆さん、リリは俺のだから狙わないでください」と、へりくだって続けた。そしてちらりとお嬢ちゃんに視線を向けてみると、彼女は口をもにょもにょと動かしながら耳まで赤くなっていた。
「なんなの、もう、なんなの……」
 彼女は震える吐息で遺憾の意を示して、それから誰からも見られていないとでも思っているのか、ソファの背凭れにかけていた俺の上着を頭から被って、その場から消えたふりをする。かわいい……と五人分の小声が密かに滞留する。そしてものすごい熱量の沈黙が発生しているのを感じながら、「そこまで照れなくても……」と唇だけ動かして悶えていると、他の四人から一斉に小突かれた。
「まったく、このナリで無自覚真っ直ぐかよ。萎えるわ」「こういうのが一番タチ悪いし一番モテるんだよな。ムカつくぜ」「でもリリちゃんも年上のお兄さんが好きなんだな。希望が持てる」「持つな持つな。今後一生奥手で行け」
「いや、ちゃんと俺、真正面から口説いたんですけど」
「そういうとこだよバカちん。それを本人の前で言うな」
 なにやら散々な言われようだが、これでこの四人が団結していて、サドーヴニクが外様だということは理解できた。であればこの中の誰かというより、彼が内通者である可能性が高いだろう。
「で、諸先輩方は何年彼女いないんすか?」
 サドーヴニクが戻ってくるまでもう少し探る必要があると、俺はちょっと生意気な後輩を装い、上着を被ったまま動かないお嬢ちゃんの腰を抱き寄せてそう問うた。
「こいつ女連れだからってよお……こちとらもう五年はいないんだぞ。見せびらかすなや」
「いないからお前も俺も遠征隊に抜擢されたんだろ?」
 なるほど。五年が遠征開始から経過した年数に近そうだ。
「俺は嫁さんいるぞー。うう、もう四年会ってないから浮気されてたと思うと……」
「大丈夫だろ、アンタの嫁さんなら」
「どういう意味だよ、チェン!」
 つまり、遠征開始から四年。四年も膠着状態を続ける理由はなんだ? 目ぼしい情報がなかった、或いは力不足で得られなかったのなら、本部に現時点で脅威となるほどの勢力ではないとでも適当に報告をして、さっさと引き揚げればいいものを、サドーヴニクは現時点に至るまでそれを是としなかった。
「そりゃあ、さっさと任務終わらせて帰りたいな?」
 俺がそう問うのとほぼ同時に、お嬢ちゃんも上着の中から顔を出す。彼女も既にゲームが始まっていることは察しているだろう。
「まったくだぜ。信じられねえよ四年も戦闘らしいことをしていないしな」
「退屈だろうな。そんだけ戦力差があるとか?」
「いんや、それが相手も俺たちくらいの人数っぽいんだよな。だから戦力の追加投入も長いこと認めれていなかった」
「ふーん……このチームで一番強いのは?」
「そりゃ、隊長だろうな。詳細は知らないがなんでも希少種らしい。上も重宝がって彼には甘いところがあるんだよな」
 希少種。人外族のあいだでは希少種であればあるほど強い、或いはレア能力を持っているという通説がある。鳳凰のリーユーなんかは一個体しか存在しないからかなり強いだろうと推測できるし、他にも『生き残り』であれば同族の遺志に守護され強くなるのだとか。俺が子供の頃に身内での殺し合いをさせられていたのもこの辺りの事情が関係しているのだろう。そのころ、『その集団』の中では俺が一番強かった。そして騎士シリーズが俺ともうひとりだけになったとき、俺たちの製造者のうちのひとりが待ったをかけた。その男は、俺と目線を合わせるようにしゃがみ込んで、「ダレス、学校へ行ってみないか」と持ちかけて、俺をその『戦争』から強制的に除外させた。つまり俺はその方法での強化をそれ以上望めなくなったわけだが……まあ、今となってはもうどうでもいいことだ。
「彼は水属性でしたね。……そう、水といえば。山頂には大きな湖があると聞きました。ぜひ実際に見てみたいのですが、サドきいは許してくれるでしょうか?」
 不意に、お嬢ちゃんが四人に向かってそう問いかけた。ゆっくりと両手をあわせるその仕草と笑顔からして、彼らは彼女が単純に観光をしたいのだと勘違いしたに違いない。「どうかな、訊いてみっか」とキンポーが顎を掻く。しかし俺は、彼女がまたなにかをする気なのだと察していた。
 サドーヴニクが戻ってくると、さっそく四人はお嬢ちゃんが天池を見たいというので連れて行ってもいいかと彼に申し出てくれた。彼らが全員で五人……奇数であるということは、一応多数決が通るようにしてあるのだろう。無論お嬢ちゃんはそれを見越しているだろうが、彼らの背後で「おねがいしまーす」と指を組んで、可愛らしく祈るようなジェスチャーをして多数決に加勢していた。まったく、人を使うのがとことん上手い。
「フン……どちらにせよこの一帯を案内するつもりだった。明日は全員で行くぞ。明朝出発だ。準備をしておけ」
 そう短く切り上げて、サドーヴニクは身につけていたツアー会社のロゴキャップとジャケットを脱いでから、再びオフィスを出て行った。すると四人はまた「イェイイェイイェイイェイ!」と、謎の円陣を組みながら喜ぶ。今度はお嬢ちゃんもそこに加わったので、二巡目の掛け声で「イェイ」の回数が一回増えたのが微笑ましい。俺はそれを笑って眺めながら、空になった鍋と食器の片付けをはじめる。


 宿に戻ると、お嬢ちゃんは「温泉に行きましょう」と言って、そのままフロントへと連絡して家族風呂の予約を取ったようだ。通話を終えた彼女に向かって俺は「そのくらい俺がやる」と主張したが、「そのくらいわたくしがしますよ」と、さらりと返された。そして着替えと水着を持ってそのホテルの離れにある浴場施設に移動し、それぞれ更衣室に入った。その途端に俺は、「水着だと……!?」と瞬時に張り詰めていた理性をほぐしてひとり気持ちを爆発させる。ラドレから『エロ水着』姿の写真は送ってもらったことがあるが(すごくすごかった)、あれをいま着てこられたら俺は非常に困るというか、真面目に怒るだろう。彼女の良識に期待しようと深呼吸をし、しかし一抹の期待を捨てきれないまま着替えを済ませると、洗い場を経て露天風呂へと出た。部屋にあったパンフレットが『最高の眺め!』と謳っていただけあって、長白山とそれに続く大自然を一望できる素晴らしい立地だ。夏だというのにきんと冷えた夜の空気のなか、冬に訪れたらもっと最高だろうなと思いながら石張りの浴槽に浸かる。すこし熱いくらいの湯温だ。外気との温度差で肌が数秒、じんじんと鳴るかのような反応をみせ、それからすっと馴染む。ああ酒が飲みたい……と思いながら大きく息を吐き、そのままぼんやりと景色を眺めていると、洗い場と露天風呂を隔てるドアの開閉音がした。特になにも考えず振り返ると同時に……俺は瞬時にその場から浴槽の中央へと向けて飛び退いた。激しい水飛沫が上がり、着水した直後に思わず獣型形態になってしまったらしい。「わおーん」とどこぞへと助けを求める遠吠えが喉を震わせた。
「なあに、どうしたの」
 俺の大袈裟な反応に、お嬢ちゃんは怪訝そうに眉を寄せながら湯の中に入ってくる。そして「おいで」と手をこちらに向かって伸ばしてくるが、俺は動けない。なにが『もうひとつは可愛い系』だ、ラドレの奴、俺を騙したな……と彼を恨めしく思いながら、目元を隠していた前肢をそっと下げる。うっ、だめだ、直視できない。再び目を隠して「きゅうんきゅうん」と情けない声を上げていると、お嬢ちゃんが立ち上がって近づいてくる。まずい、逃げ場がないというか、逃げちゃダメだ。俺の前でお嬢ちゃんが膝立ちになるので思わず、
「臍は……臍はちょっとまずい……」
 と命からがらの心地で申し立てる。すると彼女はワンピース型のロマンティックな水着の腹部を見下ろし、そこだけ露出している臍を確認して「ああ」と納得したような声を上げた。
「あなた、おへそを触ると殊更に硬くなりますものね」
「えっ」
「スキなのね。生殖器でもないのに。……こういうの、フェチって言うんでしょう。学習しましたよ」
 冷静に分析しないでほしいが、今の俺に反論する権利はない。お嬢ちゃんは真顔で俺の顔に触れ、奥歯をぐっと噛み絞めていたマズルを上下に揺らし、「むっつりさん」と言いながら、鋭い目で見下ろしてくる。
「あっ、ごめ、ごめんなひゃい……」
 イエイヌの躾のようなマズルコントロールをされて、俺はいくらか冷静になった。ぽんとヒト型に戻って、尚も俺の口許を擦っているお嬢ちゃんを抱き寄せる。
「へんなの。着てるのに」
「着てるからこそってのもありまして……」
「ほらほら」
「うっ。見せないでくれ……」
「ふふ。お部屋に戻ったらまたこれを着て抱いてあげますからね」
「えっいいんすか……じゃない。間違えた。間違えたぞー……」
「わほほ。これがちょろい、というやつですね」
 存分にイチャイチャしながらも、こんなに楽しくていいのかと、漠然と後ろ暗い思いになるのはなぜだろう。これはきっとラドレに対してじゃない。強いて言うのなら、自分自身かもしれない。
「間違いといえば、わたくしもひとつ間違えていたかもしれないですね」
 不意にお嬢ちゃんはそう切り出して、俺の膝の上から降りて隣に座った。「どういうことだ」と続きを促すと、彼女は自分だけに見えているらしいなにかを指先で空に描きはじめる。
「サドーヴニクさんは内通者ではない可能性が高いですね」
「どうしてだ? 明らかに彼が怪しいだろう」
 お嬢ちゃんの発言を怪訝に思いながら、一歩距離を詰めると、彼女は俺の胸に頭を預けて笑った。
「怪しいことと内通者ではない可能性は両立するでしょう」
「それはそうだが……」
「明日、それを確かめましょう。あなたは普段通りに」
「作戦は共有してもらわないと困りますよ、顧問」
「予め絵図を描いてもしかたがない状況なので、そうしていないだけですよ。先入観は瞬発力を鈍らせますからね」
 そう締めてお嬢ちゃんは空に指を走らせるのを止め、手を下ろした。まさかフィクションの天才キャラのように数式でも書いていたのだろうか……と思い、「なにを書いていたんだ?」と訊いてみると、
「む。あなたまでわたくしの絵はへたっぴだと言いたいのですか?」
 と言って、彼女は頬を膨らませた。
 部屋に戻ると、文字通りめちゃくちゃにされた。強制的に性癖の壁のブレイクスルーをさせられ、俺は常時「どういうことだ?」という感想しか抱き得なかったほどだった。最中お嬢ちゃんが「やさしく、やさしく……」と壊れ物を扱うかのように頑張っている様子だったのが恐ろしくて抵抗できず、「可愛いですね」と脳の奥が痺れるような声で何度も囁かれているうちに後に反撃しようとする気も失せた。
「うん、こういうのは、たまに……たまにに、しような……」
 ぐったりとベッドに伏しながら、水着を脱ぐお嬢ちゃんの背中にそう声をかける。すると新しく出した下着を身につけながら彼女は、「えー」と不服そうな声を上げた。
「えーじゃない……! 俺、マジで女の子になるぞ……!」
「それはわたくしが産んでから判断するので安心してください。大丈夫です、『わたくしの』は元栓がしっかりしているので、うっかりで孕ませたりしませんよ」
「くっ、理性的すぎて怖いぜ……」
 理解しているつもりだったが、お嬢ちゃんの生殖を体感するとなると、かなり怖かったというのが初見の感想だった。まさか「抱く」が『抱く』だとは思っていなかったので心の準備ができてはいなかったが、乗り越えることには成功したので結果良しとする。もう朝まで動けないぞ……と脱力してマットレスに身体をめり込ませる俺とは対照的に、お嬢ちゃんは俺のTシャツを着て、その上からカーディガンを羽織った。
「どっか行くのか……?」
 スマホとルームキーをポケットに入れる彼女をにそう問いかけると、
「ウォーウーラなので一階のコンビニに行ってきます。やっぱり上をやると体力を使いますね。動くからでしょうか」
 という、あけすけな返事があった。
「……ちょっと待て、なんだそのやっぱりって。経験則か……? ラドレか? なあ、アイツにもやったのか?」
 その『経験済み』とでも言いたげな言葉選びに、焦る俺に対して彼女たちは、
「さあ、どうでしょう。なにか欲しいものは?」
 と、話題をコンビニに固定する。俺はいまなにが一番欲しいかを数秒考えたあと、
「やさしさ……?」
 と首を傾げた。しかし、今現在心底欲しいものだった。
「やさしくしてあげたでしょ」
 そうさっぱり言い放って、お嬢ちゃんはなんの余韻もなく部屋を出ていった。彼女が恋人関係を結んでいる相手にもかなりドライな部分があることには薄々気がついていたが、ラドレはこういう存在と『百年と、ちょっと』を一緒に過ごしていたのかと思うと、アイツもアイツで淋しかったのだろうなと同情しそうになる。それと同時に、あんなに泣き虫だった『姫』がそういう精神性を身につけたことが心強くもあるし、悲しくもある。この複数の感情に自分の根幹を蹂躙されるような心細さを、肉体疲労が和らげてくれるのが今は有り難い。
 このまま寝落ちそうだなという予感のなか、サイドボードに置いてあったスマホに手を伸ばす。するとラドレからのメッセージ受信を報せるポップアップがあって、俺は一瞬目を剥いた。心臓がばくんと一度鳴って、そのまま止まりそうだったが緩やかにその拍動を取り戻す。そして意を決してその紫色のポップアップをタップするとそこには、
『絶対に会いにいくから』
 と、その上に表示された俺からのメッセージとはちぐはぐな、だけど力強い一文が記してあった。俺は「はっ」と声を上げて短く笑うと、スマホを置いた。なんでアレに返事するんだよ……と彼の空気の読めなさに脱力しながら、その一文を胸に刻む。刻んで、またたかせる。ベツレヘム・スターのように。それから目を閉じて、想像より一転して暗い視界の奥でちらちらと明滅する、その紫色のような、はたまたピンク色のような光を追いかけて、意識を手放す。ああ俺の、道標。俺はお前に誇れるような人生を……。

 翌朝は前日より厚着をして、駐車場に集合した。それからサドーヴニクを運転手に麓の管理センターまで移動し、観光客の長蛇の列に並んで入山料を支払った。その後、一定の基準を満たしたエコカーしか通れないという山道を、許可証を貼った彼らの車で進んでいくと、再び人でごった返している拠点にぶち当たった。なんでもここから入場規制があるらしく、降車したサドーヴニクがチケットを手に戻ってきたかと思えば、今度はマイクロバスの列の最後尾に車をつけた。軽く前方の様子を窺っただけでも、スムーズに動きそうにないことだけは理解できる。
「うへえ……秘境って感じがしないな」
「標高二千七百メートルちょっとだと、人の手が行き届いちまうレベルだしな」
 俺の呟きに返事をしてくれたピンユーが、「久々だなあ、登るの」と言いながら窓を開ける。ひんやりとした外気と、陽光のふわりとした暖かさが車内に入り込んできて、詰まっていた息が解放された。身体から若干の力を抜いて、昨晩の疲労を更に癒そうと目を閉じていると、お嬢ちゃんが「この辺りはどのくらい開発されているのですか?」と四人に問うのが聞こえてくる。
「もうほとんど企業が借り上げてるよ。スキー場やキャンプ場、あとはリゾートなんかがひしめいてる。トナカイパークなんてのもあるな。山頂の天池の五百メートル手前までは車で移動できるし……まったく、どこにいるんかね、仙人様は」
 つまりここは神秘の消えかけた山ということだ。在来の人外族が残っているとも思えないし、敵の拠点の存在も望めそうにないので、彼らが入山は久しぶりと言うのにも頷ける。そもそも調査対象から外しているのだ。
「まあトナカイ。かわいいですよね。知っていますよ、人の子らのあいだで昨今人気のクリスマスというイベントでは、赤いジャケットを着た老翁が、トナカイに乗って峠を攻めるのです」
 お嬢ちゃんは一見のんびりした態度で、嬉しそうにうんうんと頷いているが、口にした情報のなにもかもがズレていて心配になる。
「……攻めないよ?」
 と、チェンが心底心配そうにお嬢ちゃんの漏らした情報を若干、訂正した。しかしあまりに微修正すぎて、俺は彼の抜けている部分も指摘したくなったが、堪える。
「む? ではどのような騎乗スタイルなのでしょう」
「ヨーロピアンじゃないかな」
 ああ、ダメだ、チェンもお嬢ちゃんと同じタイプだ。
「ちょっと待て、どうしてトナカイの背に乗る想定なんだよ。ソリだろ。でないとプレゼント積めないだろ」
 慌ててジンが真っ当な訂正を挟む。俺は内心、「頑張れ!」と彼を応援した。
「ソリ? では傾斜があったほうがいいですね。となるとやはり峠攻めは正道です」
「いや見たくねえだろ峠攻めてるサンタさん」
 ダメだ。疲労回復に集中できない。トナカイで峠を攻めている赤いジャケットの老人を想像して笑いそうになっていると、やっと車が動き出した。その後もお嬢ちゃんの謎認識を四人が訂正しようとしては失敗している会話を聞きながら、途中から目を開けて景色を眺める。無数のヘアピンカーブを曲がり、じわじわと山頂へ近づくのを感じながら、ルームミラー越しにサドーヴニクの表情を窺う。相変わらずの鉄面皮でハンドルを握る彼は、時折缶コーヒーに口をつけること以外に特別な動きを見せずにアクセルを操っていた。
「なあ、帰り運転しようか」
 運転席と助手席のあいだから顔を出してそう声をかけると、彼は「結構だ」と短く答えたあと「後ろに括ったお前のバイクに乗って帰ってもいいなら譲るが」と続ける。確かに俺のバイクはこの車の後部に括られたままだったが、今朝確認すると光学迷彩シートで覆われていた。流石にバイクという盗まれやすい品を置いて行くことも、そのまま積んでチェックを突破することも憚られたのだろう。ここにきて初めて発せられたその軽口に、俺は「ふざけんな。貸さねーよ」と応じて笑う。しかし彼の横顔は極めて静かだ。その目はフラットラインの静寂を帯びて、瞳孔は真っ黒で微動だにしない。俺はその孤独に染まった目に覚えがあって、それはかつて毎日鏡の前で見ていた自分の顔に重なる。これは厄介だな……とひっそりと親身になりながらも、どこか他人事に思う、そんなあっけなく脆いシンパシー。それでも彼が睛に宿した地獄は、その色味からして現在地が『最低』ではないことを示していた。彼はきっと、水面を見ている。光を得ようとしている。あの頃の俺のように。そんな好転の雰囲気が、彼には漂っている気がしてならなかった。
 山頂付近の管理センターに到着すると、空気はまた一段と冷えていた。真夏でも若干雪が溶け残っており、駐車場内を蛇行する人々は口々に「寒い」「もっと着てこればよかった」と漏らしている。周辺には「あったかダウン揃えてます!」と宣伝している土産物屋や、「ホットコーヒーでのんびりしていきませんか?」と謳うカフェなどもあって、彼らの商魂の逞しさに感心しながら、サドーヴニクの降車を待った。
「まあ、ネッシー月餅に仙人茶ですって……」
「麓にも同じものはある。ここはぼったくり価格だ。買うな」
 ショップに寄っていこうとするお嬢ちゃんの肩を捕まえながら、サドーヴニクは車に鍵をかける。やっぱり案外優しいところがあるな……と思いながら、俺は彼の手から彼女を引き取り、子どもにするようにがっちりと彼女と手を繋いだ。これはラドレがやっていた繋ぎ方で、人差し指と中指で手首を挟んで固定するものだ。お嬢ちゃんもこの繋ぎかたに慣れているのか、これをするとすんなりと俺の親指を握ってくれる。それを見てサドーヴニクはなにか言いたげだったので、「仕方ねえだろ、逃げるんだから」と小声で教えた。するとこの小声の会話が聞こえてしまったのか、お嬢ちゃんはハッとした顔で繋いだ手を見下ろすと、「逃げないもん!」と言って、一瞬にして俺の手を振りほどいた。どうやら彼女がちょっと力を入れれば引っこ抜けてしまうらしい。
「子ども扱いしないで……! もう成体だもん……!」
 お嬢ちゃんは耳を赤くして、俺の胸を叩いてくる。この反抗はラドレにはできなかったんだろうなと察しながら、俺は彼女と手を繋ぎ直した。恋人繋ぎというやつだ。
「じゃあ逃げるなよなー」
「逃げてないです。色々見に行きたいだけ」
「行き先を告げていかないのは逃げているのと同じだぞ」
 そうだ。俺も彼女も、行き先を告げなかった。だから、ラドレから逃げているのと同じだ。それでも俺はいま彼女と一緒にいたいし、彼女は奴から距離を置きたいのだから、こうするほかない。
「信じて待て、です」
「……受け手の解釈によるなあ」
 そういえばラドレが現状をどう思って、どう捉えているのかについては、俺にはわからなかった。そもそも、俺とお嬢ちゃんが一緒にいることすら知らない可能性がある。……正直かなり心配だが、俺もあの男を信じるほかない。彼に「信じてくれ」と告げた責任として。
 人波に乗ってのろのろと山道へと出て、案内に従って整備された長い階段を進む。ちょっとした都市部の屋台通りくらいには人がいるので、まったくもって山頂という雰囲気はないが、景色は良い。遠近感覚がぐらつくだだっぴろい下界。障害物のない空と陽光。所々に可憐な野花が萌え、野鳥も伸びやかに餌を探している。車内に置いてあった観光パンフレットによると、虎や豹なんかも生息しているらしいが、開発の進んだ現在では数はだいぶ減っていそうだった。
「冬はかなり寒そうですね。天池という湖も凍るのですか?」
 管理センター前に掲げられていたコードを読み取っていたらしいお嬢ちゃんが、スマホでウェブパンフレットを広げながらサドーヴニクに問う。すると彼は、
「五月末までは凍っていることが多いな。いや、夏場しか溶けていないといったほうが正しいか……」
 と、やけに具体的な返事をした。まさか、彼だけは生き抜きに頻繁に登山に訪れているのだろうか。その言葉の違和感に俺が目配せをすると、お嬢ちゃんは、
「まあすごい。であれば堅牢な氷になるのでしょう。氷上で釣りができそうですね」
 と、俺に向けての頷きを、言葉に乗せて隠蔽した。
「するな、釣りは……。国境地帯だから湖の東側は隣国で、管理が厳しいんだ。逃げたり走り回ったりもするなよ。厄介なことになる」
「はあい」
 なにやらお嬢ちゃんは彼のいうことは素直に聞く姿勢でいるらしい。まあ外見はともかく、年齢はそれなりにいっていそうなので雰囲気を察してのことだろう。そうでなければこれも計略の一部なのかもしれない。
 俺たちのすぐ後ろでは、四人が『コルンバ・ツーリズム』の手旗を奪い合ってはしゃいでいる。久々の遠出で開放的な気分になっているらしい彼らを窘めることもなく、サドーヴニクはお嬢ちゃんの質問に時折答えてはすんと鼻を鳴らして何かを感じ取ろうとしている。俺も鼻を利かせるが、雪と緑の匂いだけが冷ややかに鼻腔を通るだけだ。
「まあ……なんて美しい景色でしょう」
 天池へと辿り着くと、まさしく天の池といった光景が広がっていた。直径四キロメートル、水深およそ四〇〇メートルのそのカルデラ湖は、まるで鏡面のように空の色を映し、深い青色を湛えて山頂に鎮座していた。仙境にも似た、ある意味非現実的な絶景に、お嬢ちゃんは軽く手を叩いて喜ぶ。記念撮影をする人だかりの順番を待つより先に、その光景をもっとちゃんと見せてやりたくて、俺はお嬢ちゃんを片腕で抱き上げた。すると彼女の拍手が大きくなる。「すごいわ……泳いだらとっても気持ちよさそう」
「泳ぐなよ。水着は宿だしな」
 そう言いながら振り返ると、あの四人は山頂の記念碑の前で写真を撮っていた。一旦お嬢ちゃんを下ろして「撮ってやるよ」と彼らの前へ寄っていくと、サドーヴニクも無理矢理画角に押し込んで、五人で写真を撮ってやる。
「いやあ、ありがとう! 最初に調査に来たきりでさ。普通に楽しいわ、今日」
「なんだよ、麓にいるのにオフで登らねえのか? いい気分転換になりそうだが」
 キンポーにカメラを返しながらそう問うと、彼は人波を指して言った。
「道中見ただろ? 手続きのダルさ。別にすり抜けて獣型形態で駆け回ってもいいけど、ユネスコの生活圏保護区だからさ。一応ルールは守ってやらねえとニンゲンたちが可哀想だし。新種の動物とかUMAと思われても嫌だし」
「まあ、数年に一度でいいか、ああいうのは……」
「だよなー? 休暇貰えるなら普通に家帰りたいし。でもまあ、来ちまえば楽しいんだけどな!」
 会話をしながら、今度はお嬢ちゃんを振り返る。撮影スペースの最前列で彼女は湖面にじっと見入っているようだったが、やがて他の観光客に場所を譲って、こちらに戻ってきた。
「深夜までここに待機しましょう」
 その可否の言葉すら寄せ付けない言い切り口調に、全員ではっとして黙り込んでいると、サドーヴニクが「無理だな」と、ひとりだけ当然の異論を唱える。
「夜になるとここは閉鎖される」
「ふふ、四六時中人がいるわけではないことの証左ですね。この山が怪しいです」
 お嬢ちゃんの言葉に、四人は任務に進展があるかもしれないという希望に目を輝かせた。口々に案を出してここに留まる策を練る。
「ハリエットさんのバイクを覆っているシートで車を覆います。山頂にゲートらしいゲートはなかったのでそれでヒトの目は誤魔化せるでしょう。車内に留まってもいいですし、あっちの……国境付近のひと際大きな岩陰に身を隠すのもいいですね。この岩の多い地形からして、わざわざあそこまでチェックはしないはずです。人の子も、『あちら側』も」
 彼女が提示した二択に、四人はリーダーに視線を向けて指示を待つ姿勢を見せる。「簡易ですがキャンプグッズは車に積んでありますよ」とチェンが続けた。すると彼は「いや……車にしよう。国境付近にいるのは危ない」と、留まること自体の拒絶はしなかった。それはきっと俺たちが彼らの本部からの依頼を受けてやってきた、無駄に権限のあるフォーリナーだからだ。きっとそれ以上でも以下でもない。

 その後は軽く散策したり、ぼったくりの土産物の値段を確かめたりしながら時間を潰し、チェンが持ってきていたカップラーメンを車内で食べてから皆で仮眠を取った。下山ラッシュに乗じて車を駐車場の端に移動できたので、夜まで車内で落ち着いていられる見通しだったが、運転席にいるサドーヴニクにとってはそうではなかったらしい。耳を澄ませていないと気付けないような細かい溜め息が増え、缶コーヒーの消費ペースにも変化がみられる。喉が渇いているのだろう。これは十中八九緊張からくるものだ。お嬢ちゃんは俺の膝に頭を預けて眠っているが、きっとただのポーズだ。おそらく彼の動揺も察していることだろう。
「それではそれぞれの持ち場を発表します。わたくしが状況ならびに環境を調査します。その護衛にはハリエットさん。隊長は周囲を哨戒。そのサポートをジンさんとピンユーさん。山道の見張りをチェンさんとキンポーさんにお願いします。単独行動は禁止です。異変があったらスマホで。勿論マナーモードですよ」
 四人の中では特に体格のよいジンとピンユーを、『対象』に付けたあたり、お嬢ちゃんはここで彼の正体を解き明かすつもりらしい。土壇場で彼らがどちらに味方をするかはわからないので、俺もそちらを気にしながら行動をすることに決めた。それぞれが暗視機能つきの双眼鏡を持ち、すっかり暗くなった車外へと出る。流石に夜に閉山となる場所が夜間照明をつけているはずもないので、原始の暗闇のなかを慎重に、かつ素早く進む。敵も少数と聞いたし、ここに全メンバーが揃っているという可能性も低いが、少数であるならば精鋭部隊とも考えられる。銃を一丁抜いた状態でお嬢ちゃんの半歩後ろを進む。いざというときに盾になれるように。そうして昼間に来たときよりずっと早く天池へと到着すると、全員が持ち場へと散った。
「さて。最終確認です」
「最終確認……?」
 ふたりきりになると、お嬢ちゃんは作戦開始直後にもかかわらず終幕を告げた。俺がその言葉を反芻し疑問符を添えると、彼女は「とりあえずあなたはここにいなさい。いいですね?」と言って、俺から半ば強引に肯定を引き出すと、満足そうに微笑んで、「よいしょお」と愛らしい声を上げたかと思えば、次の瞬間その足許に強力な魔力の磁場を発生させた。静かだが禍々しい圧力と、ささやかだが神々しい燐光。それらをアンクレットのように身に纏い、彼女はひらりと湖面に降り立った。そう、つまり浮いているのだ。
「ふふ。泳いではいけないと言われましたが、滑るのはダメとは言われていませんね」
 そしてそのまま、月光を受けて青白く輝く湖面をスケートリンクに見立てて、彼女は優雅に、華麗に水上を滑走する。短時間の観察でしかないが、これは足裏に集中させた魔力が極めて均一に整えられている状態だということが察せられる。丹念に研磨するが如く、魔力の平滑性を高く保ち、水自体が持つエーテルと波長を合わせて、その表面を『滑っている』のだ。いわば撥水加工と同じである。そして波や風に合わせて都度精度を微調整をして機動性を高めている。しかも防寒性のある厚手のジャケットを羽織った、空気抵抗のある服装でだ。空中や水上に足場を作ることぐらいは俺にもできるが、あの域に達するには何百年という鍛錬では足りないだろう。……まったく、恐ろしい才能の持ち主だ。
 プロフェッショナルなターンを決めながら彼女は湖の中央へと近付いていく。俺は背中に『寒気』由来の冷や汗が滲むのを感じながら、彼女の動向を注視していると、数百メートル先の湖畔で俺と同じことに驚いているらしいリーダー組の騒々しい様子がうっすらと確認できた。それから少しして、天池の中央でお嬢ちゃんは立ち止まった。その数秒後、スマホに着信があった。グループ通話になっているので、秘匿性があるものではないと判断し、スマホを胸ポケットに入れたままスピーカーで繋ぐ。すると、「見つけましたよ」と、白い息を吐いていそうなお嬢ちゃんの声が懐で響いた。
「この中です。彼らのアジトは」
「なんだと……?」
 俺も湖の中央へと目を凝らすが、当然ながら見えるはずもない。
「足裏からレーダーを放って捕捉してみました。ふむ、理論上可能だとは思っていましたが、いざやってみると便利ですねえ」
 その呑気な言葉に、他のメンバーから勝鬨を確信した驚愕の声が上がる。「道理で見つからねえわけだ……!」「それで、どうする。潜水して攻め込むか?」「いや、水中から出入りするわけじゃねえだろ」「他のルートを特定して出入口を制圧しよう」……一瞬騒がしくなるが、その中にサドーヴニクの声は聞こえない。
「その必要はありません」
 お嬢ちゃんの凛と通る声に、一瞬静寂が呼び込まれる。
「わたくしでしたらここからの一撃で防衛プログラムごと拠点を砕くことができます。この規模なら地形への被害は最小限にできますね。一瞬で終わりますよ」
「マジかよ……」と、俺以外のメンバーも呟いたはずだ。
「即断即決。速さこそ最善への近道です。やりますよ。衝撃に備えてください」
 俺は咄嗟にサドーヴニクを見た。彼は動いてはいないようだ。
「まずは防衛プログラムから……そのまま一気に拠点施設を貫きます。カウント、3」
 彼は内通者ではない可能性があるとお嬢ちゃんは言った。であれば。……俺はお嬢ちゃんの元へと駆けだす。他のメンバーがしゃがみ込むのが見えるなか、サドーヴニクだけが立ち尽くしている。
「2」
 彼は動かない。動かないならそれはそれでいい。俺は仲間を撃ちたくはない。 
「1」
 そのとき、サドーヴニクが叫んだ。
「逃げろ! アナスタシア!」
 水が、盛り上がった。
 波? いや、なにかがいる。お嬢ちゃんならば瞬時に後退できるはずだが、問題は彼だ。俺は全力で水上を突っ込んでいき、静かに隆起する水を眺めているお嬢ちゃんの前に転がり出た。そしてそのまま上方向へとアッパーを叩き込む。敵はいない。でもそれは俺のほうがコンマ一秒速かっただけのこと。僅かに遅れてその場に現れ、お嬢ちゃんにナイフを突きつけようとしたサドーヴニクの顎に、俺の拳がクリーンヒットする。硬い。重い。しかしそのままなんとか殴り飛ばす。「隊長!」……誰かが叫んだ。突き上げられるようにして彼の身体が浮く。──今だ。銃を構えて、打ち上げられた彼に照準を合わせる。
「……やめてやってくれないか」
 ふと背後に気配を感じて、俺はそちらに回し蹴りを入れ、空振りを察知した瞬間にバックステップで距離を取った。お嬢ちゃんを背に隠すようにして、水の動きが激しい地点からも退く。そのとき、湖が内部から発光した。兵器の可能性を疑ってお嬢ちゃんを抱きかかえようとすると、
「なに、水中哨戒用のサーチライトだ」
 と先ほどの男の声。見るとそこには、昨日娘を連れて歩いていた髭の男の姿があった。そしてその背後、水中から現れたのは……ネッシー、だった。
 いや、場所柄ネッシーという呼称を使ってしまったが、見た目は恐竜と称するのが妥当だろうか。体長二十メートル前後。首の長さは十メートル弱。こちらから窺える前肢には水掻きのようなものがついている。そして、照明に照らされたことで、それがピンク色に近い外皮を纏っていることが窺えた。……こうなると、やはり。
「ふふ。ネッぴいちゃんですね」
 お嬢ちゃんがのんびりとした声で俺の想像を補強する。であればこれが、かの未確認生物である『ネッシー』なのだろう。だとすると、能力がわからない。どうやって攻撃したら通るのか、なにが無効なのか……なにもわからない。俺たちのデータベースにも、ヒト族のデータベースにも『情報がない』のだ。
「パパ、こいつらやっちゃえばいいの?」
 ネッシーは少女のような愛らしい声でそう言って、俺とお嬢ちゃん、それから慌てて集まったらしいジン、ピンユー、キンポー、チェンの四人を睨みつける。それ……いや、彼女が髭男を「パパ」と呼んだということは、彼女はあのときの少女なのだろう。攻撃すべきだし、する覚悟もあるが、若干躊躇われてしまってお嬢ちゃんを見ると、「まあ待ってください」としずかな声をかけられた。その波長に慰められるようにして、俺もいくらか落ち着いてくる。
「なにもしなくていい。元に戻れ」
 男がそう呼びかけると、『ネッシー』は予想通りにあの少女の姿へと変化した。そして『パパ』の袖を引いて、
「ねえ、なんであのおじさん、私の名前知ってるの?」
 と子供らしい空気の読めなさで疑問を口にする。父親と同じ、組織の制服と思しきジャケット姿だが、彼女の未成熟な肉体に対してジャケットはかなりのオーバーサイズで、ちぐはぐだ。
「……ふう。これまでだな、ハイール」
 髭男の口から新たな名前が出てきたことで俺は周囲を警戒するが、それに「ああ」と返事をしたのはサドーヴニクだった。彼は俺のアッパーで舌でも噛んだのか、口から血を何度も吐き捨てながら起き上がると、その少女を庇うようにして俺たちの前に立ちはだかった。少女だけは事態を理解していなうようで、「ねえなんで?」と繰り返して水面をぴょんぴょんと跳ねてこちらを窺おうとしてくる。
「まずは俺たちに敵意はないことはご理解いただきたいな」
 まず、髭男が両手を挙げてそう宣言した。お嬢ちゃんが「理解しました」と返事をするので、俺も構えていた銃を僅かに下げる。
「俺はリンジー。この山の神仙の息子っつうか、弟子だ。そしてそこのチビの養父」
 リンジーと名乗った彼は、親指で背後の少女を指し、それから、
「で、こっちがハイール。アナスタシアの実の父親だ」
 と言って、傍らのサドーヴニクの肩を叩いた。
「えええ? パパ、パパじゃないの……?」
 娘の動揺は、俺と向こうで様子を窺っている四人にも伝播する。彼が、敵対組織の構成員の父親だと……?
「はは、どうにものんびりした性格に育っちまってねえ……アナ、よく見ろ。お前、そもそもパパと顔似てないだろー?」
 リンジーは明るく言うが、アナスタシアと呼ばれた少女は、「え? え?」と細い声を漏らしながら、目に涙を充填し始める。落ち着かなくなってきたのか、その場で何度も足踏みをして、縋るように男の袖をつよくつよく掴んだ。その様子はあまりにも哀れで痛々しく、思わずその話は後にしろだのなんだの言いたくなったが、今ここが決別の時だと、彼らはもう決めてしまっているのだろう。ふたりの男は優しく、強い目をしていたので、俺はもうなにも言えなかった。
「ホントのパパはこっちの顔が怖いおっちゃんだ」
「えっ、えっ? おじさん、お顔見せて?」
「まったく、細いんだか太いんだか……ハイール、娘を見てやれよ」
 するとそれまで苦悶の表情を浮かべて俯いていたハイールが少女を振り返った。照明によって照らされるふたりの横顔。確かに、並んでみると、親子そっくりだった。
「ほんとだ、顔こわい……」
 溜まった涙をボロボロとこぼしながら、少女は呟く。
「いやそっちかい」
 養父は笑いながら、少女の頭に手を置いた。ゆっくりと撫でて、それから意を決したかのように拳を作って、離れた。それからリンジーは、誰に聞かせるつもりなのか優しい声でぽつりと呟いた。
「この男が口下手なのは知ってんだろ。俺が話すぜ」


   *


 戦争でな。戦火を逃れて国境を越えてきた男がいた。男はその道中に妻を亡くし、三つの国境を越えて死に物狂いで南下して、海へ出てそのまま日本へと逃げようとしたらしい。しかし男はお尋ね者。ヒトの姿で不法な越境に越境を重ねた謎のUMAともいえる存在だ。追われて逃げるのは普通に逃げるよりも辛く苦しい。身分証なんてものもない。ただ追われ、ただ逃げた。それでもヒト型形態を選んだのは、元の自分があまりに大きいからだった。
 そうこうして男はこの山に辿り着いた。自分が生まれた湖よりも遥か大きな湖のあるこの山に。
 俺はその日、修行をサボって天池にいた。まあ偉大なる神仙の弟子にも、ひとりくらいは不勉強な出来損ないがいるもんでね。オヤジはその日、泳ぎに行こうとする息子に言ったのさ。「今日起こることをすべて受け容れなさい。それをこれからのお前の修行とする」と。俺はなにがなんだかわからないまま、いつものようにヒトのいない時間帯を狙って泳ぎにきた。すると、北のほうから誰かがやってくる。見るとボロボロになり今にも死にそうな男が、水怪……ネッシーの姿になるところだった。彼はこの湖を突っ切ろうとしているようだったが、少し泳いだところで脇に逸れていき、再びヒトの姿になって……ちょうどあそこに倒れ込んだ。今お仲間が立っているところ、国境付近だよ。俺は初めて見る生き物の姿に心躍らせながら好奇心で男に近づいた。すると彼は着ていたぶ厚い外套の内側から、ちいちゃなちいちゃな赤ん坊を覗かせて、
「どうしたらいい」
 と血を吐くような声で俺に訊ねた。
「海を越えたい。でももうこの子は限界だ。俺も赤ん坊を連れて逃げるのは厳しい……乳も出ないしな」
 男は力なく笑うと、手袋を歯で引き抜いて、素手でやさーしく、赤ん坊の頬に触れた。
 いきなりのことで、俺は声が出なかった。彼は恐らく北から来た人外族で、明らかに希少種。戦火から逃れてきたことは察せられたが、それに乗じて希少種の動向を把握しにかかり、ハントする連中がいることは知っていた。現に開発の手に連動して、この山の仙気を纏った虎や豹が何頭がいなくなっていることも察していたし、オヤジも悪い気の精霊種が動きはじめていると占っていたしな。だから、この男はここにいたらいけないということは充分に理解できた。しかし、この乳飲み子は残り千キロの道程を越えられそうにない。
「……俺が、その子を預かるよ」
 頭が決断を下すより先に、声が出ていた。
「名前は?」
「……アナスタシアだ」
「違う、アンタの」
「ハイールだ」
「ああ、北の湖の名前か。随分、遠くから来たんだな……」
 それから男は傅くようにして、娘を差し出してきた。もうすんげえ怖い顔して、殺されるかとも思ったけど、多分ありゃ泣くのを堪えていたんだな。今ならわかるよ。……そうして俺は、娘を受け取ったんだ。
「いつか落ち着いたら、会いに来いよ。そんとき返してやる。それまでなんとか育ててみっから……」
 男は頷くと、それからもうなにも言わなかった。彼は再びネッシーの姿になると国境へ向かって天池を泳いでいって、そのまま見えなくなった。
 で、俺の修行が始まった。とりあえず死にかけの赤ん坊をどうにかしないといけない。俺は仙女の姉さんたちに頭下げて赤ん坊の世話の仕方を教わった。「私たちだってネッシーは育てたことないよ!」って尻叩かれながらな。オヤジはアナを孫のように可愛がったし、アニキたちも姪っ子だって喜んで優しく仙術を教えてくれた。俺にはスパルタだったのにな。アナはゆっくりだが着実に、大きくなった。つってもまだガキだが……。
 まだまだのんびり一緒に暮らせると思っていた。そろそろ街で暮らしていけるように準備を整えてやろうって考えていた矢先、奴らが攻めてきた。それを事前に察知していたオヤジは「山を移るぞ」と俺たちを急かしたが、俺は躊躇った。アナが安心して泳げるのなんて、ここぐらいしかねえ。だから俺は戦うと決めた。オヤジはまた占って、それから「これも修行だな」って言って笑った。俺は迎撃準備を整えた。アナは天池に隠した。思えば、少しのあいだでもオヤジたちに預かってもらえばよかったんだが……既に預かっていたものだから、また預けるなんて発想が出てこなかったんだ。
 結果は、不戦敗だった。この地には霊脈があるから、奴らはそれが目的だと踏んでいたんだが、そこを押さえるんじゃなく、頂上から攻めてきた。いや、基地を投下した・・・・・・・んだ。いきなりのことだったよ。それはあっという間に天池の底に根を張って、この山は実質、奴らに支配された。俺とアナは捕まって、身の安全と引き換えに奴らの仲間にならざるを得ない状況に追い込まれた。まあ俺は見た目が……仙人にしちゃアウトローだ。だいたい丘サーファーみてえなもんだしな。だから反抗期のコブつき仙人もどきとして振る舞って、なんとか奴らと打ち解けた。え、そのまんまのキャラだって? 言うなよ。このナリだと似合うモンが限られてくるってことだよ言わせんな。……で、どんな悪行をさせられるのかとも思ったんだがな、当面はこの山を死守すればいいらしい。俺は土地勘があるってことでそれなりに重宝されたし、アナは巨体だし泳げるから基地を防衛する役目を仰せつかった。俺はこの調子で上層部に揉み手揉み手で擦り寄って、そのうちこの山から注意を逸らせて別の霊脈に目を向けさせようとでも思っていたんだ。そうしたら、オヤジたちを引き込んで一気に反撃だ……。
 って、まあ上手くいかねえよなあ。俺は麓の街で、あの男に会っちまった。ハイールに。アナの父親にだ。まったく、アナがネッきいと写真を撮りたがらなきゃこんなことには……。で、『俺たち』はたぶん、互い同時に悟った。
 敵同士になっちまった……ってな。
 俺はこのジャケットを着ていたし、アイツは青い腕章をしていた。俺たち『アナトミー』の敵対組織『SGJ』のトレードマークのな。おそらく、長白山占拠の情報が入って、向こうが精鋭部隊を遣わしてきたのだということはすぐに理解できた。ハイールもハイールで、望み薄なりにまだ娘がいたら嬉しいくらいには思って遠征部隊に志願したんだろう。だから俺は、いつでもまた『不戦敗』をする気でいた。その頃にはこの基地の責任者になっていてね。といってもまあ少人数の中の大将だが……。ハイールたちが攻めてきたのなら、俺は投降すると決めていた。アナはまだガキだ。捕虜だとかなんとか言って実の父親に押しつければいい。そうして、これでやっと綺麗に俺の子育てが終わると思っていた。
 でもよお。コイツ、バカでよ。なんにもしてこないんだ。たまに麓で俺たちを見かけるたび、なんともまあ切ない顔でこっちを見てくるんだが、それだけなんだよ。それも四年のあいだずっとだぜ。バカだろ? そりゃあお仲間さんたちが可哀想ってもんだぜ。長期間、屋内で待機させられてるし。とっとと俺を討って、娘も取り戻して、帰ればよかったんだよ。でもそれをしないから、俺たちもなにもできずにただ時間だけが経過してさ……。


   *


「バカだろお、この男。マジで。信じらんねーよ。なあハイール。お前、俺にただ言ってくれればよかったんだよ。娘を返してもらいにきたって」
 リンジーは穏やかな微笑を浮かべてそう言うと、それからすっと息を吸って、
「返すぜ、アンタの娘」
 と決意を口にして彼の肩を叩くと、両手を挙げながら俺の元へと歩いてきた。俺は照準を逸らしているだけだった銃をゆっくり下ろすと、彼の手首をそっと掴んだ。すると娘が俺に駆け寄ってきて、俺の顎に思いっ切り頭突きをしてきた。俺はされるとわかっていてそれを受けたが、流石は仙力をも操る希少種である。思わず呻き声が漏れたし、目の奥がチカチカするが、体勢を立て直して、彼女が腕に咬みついてくるのにも耐える。流石は恐竜(推定)だ。かなり痛い。
「パパを離せ!」
「おいバカ! このお兄さんなんにも悪くねえだろ!」
 リンジーは娘を止めさせようとするが、俺に拘束されているのでままならない。
「知るかっ! ねえお兄さん! 新婚さんなんでしょ! 子どもはまだっていってたけど! 答えてよ! パパってふたりいちゃいけないの!」
 言いながら、アナスタシアは俺の肩を殴り、叩き、引っ掻き、咬みついてくる。
「ほーりつで、決まってんの? 私、山奥育ちの田舎娘だからわかんない! ガッコウも行ってない! だから教えてよ! 子どもって貸し借りできるの? 家族って減るの? 家族じゃなくなることってあるの? たとえ死んでも家族のままなんじゃないの?」
 ぎゃんぎゃんと泣きながら、彼女はとうとう俺の肩に額を押しつけて動かなくなった。ううう、と細く掠れた泣き声が聞こえてくる。俺はお嬢ちゃんをちらりと見てから、痛みに噛み締めていた口を開いた。
「ぜんぶ、どの可能性も、有り得る」
 ひっぐ、と少女がしゃくりあげる音が響く。
「だからキミが決めろ。家族をやめるか、やめないのか。キミが決めるんだ。どう選んでも、誰にもキミを咎める権利はない。それは、俺が保障する」
 よく聞こえ、理解できるように、ゆっくりはっきりと、教えてやる。すると彼女は「じゃあ!」とひと際大きな声を発した。
「こっち、パパ! あっちのおじさん、お父さん! どうだあっ!」
 どうだ。それは問いながら、誇る言葉。ふたりの男をそれぞれ指差して叫んだ彼女に、俺は「いいと思うぞ」と応えながら、リンジーを解放する。拍子抜けしたように「はあ?」と漏らして俺を振り返った彼に「逃げろって言ってんじゃない。もう逃げないだろ? って意味だ」と言い含めて、俺は岸へ向かって歩いて行く。
「俺、こういうの苦手だわ。顧問、後は頼みますよー」
 途中、お嬢ちゃんを振り返ってそう伝えると、「まあ勝手な人」と呆れた声が聞こえた。そのまま陸地へ一歩踏み込むと、事態を静観してくれていた四人が駆け寄ってきて、「なあ隊長のこと一発殴ってよさげか?」などとはしゃいだ問いを投げかけられた。「さあ……よさげではあるんじゃねえか?」と適当に返事をして、彼らが「イェイイェイイェイイェイ!」ともうお馴染みの円陣を組むさまを眺める。
「なんで相談してくれなかったんすか、隊長! 四年娘眺めるくらい別にいいっすよ! 相談してくれれば、どうするか五人分の頭で考えられたんすよー!」
 ふと、ジンが湖を振り返って声を張った。するとサドーヴニクは、なにかもごもごと言い訳をしたさそうにしていたが、やがて「ひとり一発だぞ! 一年分ずつ!」と声を張りながらこちらに戻ってくる。パパと娘は手を繋いでそのすぐ後ろに続いた。それからお嬢ちゃんが、「と、いうことですので、大人しく出てきてください」と手を叩く。すると岸辺の岩陰から、残りの構成員たちが三人、姿を現した。どうやらずっと気配を殺して様子を窺っていたらしい。
「わたくしは投降者に危害を加えませんし、SGJの規則によりますと彼らもそういうスタンスのようです。今なら人手不足ですし、再就職の面倒まで……は、まあアンダーソンさんとハーフムーンちゃんにお願いしましょう。どうでしょう、『一からやり直す』……悪い条件ではないと思いますが」
 その言葉に彼らは両手を挙げて俺の傍まで近寄ってきた。彼らの手首に、逃げ出したり抵抗しようとすれば電撃が奔る拘束用のパッチを貼りながら、「種族は?」と問う。すると「虎」「虎」「豹」と返ってきたので「惜しいな」と思わず呟いた。すると「奇襲はしねえよ。坊ちゃんを見てただけだ」とその中で一番体格の大きな男が答えた。
「ねえ、パパ。お腹減った」
「お前なあ……その図々しさは誰に似たんだ?」
「お父さんじゃない? 知らないけど。ねえ、お父さんお腹減った?」
「……む、うん……」
「それ何語? ていうか、お父さん何人?」
 新しい家族ではサドーヴニクだけがぎこちない。これから彼らがどうなるかは現時点ではわからないが、まあ最悪なことにはならないに違いない。
「ねえ、私、パパの菌菇鍋ヂィングーグオ食べたい」
「菌菇鍋だあ? どこでどうやってだよ」
 アナスタシアの唐突な提案に困り果てているリンジーに、チェンが「あ、鍋なら車にあるぞ。キャンプセットがあるんだ」と笑顔で話しかけている。それから軽く話し合った結果、駐車場に戻って全員で鍋を囲むことになった。いつぞやの防衛戦のあとも鍋を食べたな……と数カ月前の出来事を懐かしく思いながら、俺は虎虎豹の三人が「肉なら基地にある。このまま腐らせても肉に悪いしな」と言うので、キンポーとともに彼らに帯同し、食材を持ち帰ることにした。その間お嬢ちゃんとチェン、それからピンユーは戻って道具の準備。「家族水入らずの中に入るの、気まずいんだけど……?」と漏らすジンは、三人家族とキノコ狩りという割り当てとなった。確かに外してやりたいような状況だが、万が一があってはいけないので、ジンの肩を叩き、「最重要任務だぞ」と送り出す。まあ、誰も逃げないことはわかりきっているが、念のため。



 菌菇鍋ヂィングーグオというのは正式な料理名というよりは俗称であるらしい。蘑菇鍋モーグーグオと呼ぶ場合もあるし、要はキノコの火鍋であるので菌菇火鍋《ヂィングーフーグオ》と呼ぶこともあるのだとか。キノコ鍋なら雲南省のものが有名で、この鍋も雲南の影響を受けたものらしいが、それがここ吉林省でもよく食べられているわけは、ずばり長白山で美味しい天然キノコが採れるからであると、調理をしながらリンジーは語る。南下してきたサドーヴニクとは反対に、北上してきた料理なのだ。
「まあ、俺たち仙人はキノコ狩りが得意でね。アナも昔からキノコ料理に親しんできたっつうわけだ」
 そう言って鍋と向き合う養父の後ろで、娘は「ねえ、お母さんの話して」と実父にせがんでいる。サドーヴニクはまたしても「むうん……」と新種の鳴き声を上げながら、胸元から取り出したロケットペンダントを開いて、娘に妻の話をし始めた。それを聞いているのかいないのか、リンジーは薄く微笑みながら、水から火にかけた骨付きの鶏肉を数分で取り上げて、残った出汁にどっさりと大量のキノコを入れて火加減を調節しはじめた。
「ポイントはふたつ。ネギやショウガといった香味野菜を入れないこと。最初はキノコだけを楽しむこと。これだけだ。チビのとき、俺がすぐに肉を突っ込むもんで、オヤジによく怒られたよ……」
 この説明に聞き入っているのは普段調理担当であることが多いチェンだ。スマホでメモを取りながら、熱心に聞いている。
「よし。これでニ十分ほど煮たら、塩で味つけして終わりだ」
「え、塩だけなのか?」そこにチェンは食らいつく。その反応のトーンからして、どうやら嫌々料理番をしていたわけではないようだ。
「そうだよ。天然キノコだからな。スーパーで売ってるヤツじゃあ味は変わるぜ。まあその場合は乾燥キノコを多めに入れておけ。前日から水で戻すんだ。そして天然の場合、二十分は必ず煮ろよ。身体に悪いやつが紛れていた場合の対策だ」
「わかった。キノコ狩りを勉強しないとな……」
「サバイバルじゃあ役に立つぜえ。……で、キノコが粗方なくなってから、肉だ。麺もうまいぞ。個人的には米粉麺がおすすめだ」
 全員の穏やかな声を聞きながら夜空の真上に照る月をぼんやり眺めていると、しばらくして鍋ができあがったことを告げる呼び声がした。アナスタシアが飛びつこうとするのを宥めながら配膳するリンジーを、サドーヴニクが手伝うのを見て、娘も大人しくその輪に加わる。俺がアナスタシアから椀を受け取り礼を言うと、彼女は「咬んでごめんね」と殴ったり叩いたり引っ掻いたり、はたまた頭突きをしてきたことも含まれているのかいないのか、よくわからない謝罪をしてきた。俺は笑いながら、「パパと父ちゃんの言うことよく聞けよ」と返す。すると「それはできるかわかんない」と真面目な顔で宣言された。「そうか……」娘の反抗期。これはおそろしい予感がする。
 それからお嬢ちゃんと並んで車のドアを開けたところのステップに座り、一緒に鍋を食べた。出汁とキノコと塩のみという、精進料理のような組み合わせに若干及び腰になっていたが、スープをひとくち飲んだ瞬間にそのイメージは覆された。「これ、なんかやべえキノコ入ってないか……?」と、つい漏らしてしまうほど、美味い。滋味深いのもそうだが、風味が動物性の出汁に負けないほど強く、芳醇だ。微かな土の香りに、菌類のパウダリーな芳香が合わさって、野趣を感じるのに上品でもある。
「む。キノコは葉っぱですか?」
 お嬢ちゃんのその言葉は、きっと『ハオチー』を表すに違いない。「葉っぱじゃないな、菌だ」と教えてやると、「ならばよし」とひとりなにかに納得した様子である。
 キノコは種類が豊富なだけあって、どれも味と食感が違って面白かった。お嬢ちゃんは特にぬめりを纏った大きなキノコを気に入ったらしく、ちゅるちゅると景気よく食べてはニコニコ笑顔になるので俺の椀からそれを選び取って分けてやった。
「これがお父さんが取ってボロボロになったキノコだね。こっちはパパ。見て、ぜんぜんちがう。ぜんぜんヘタ」
「む、うん……それは、初心者だからしかたがない……」
 親子の会話に、俺たちまでつられて笑う。それからすっかりキノコの消えた鍋に、リンジーが肉を入れる。それが煮えるのを待っていると、
「なあ、知ってるか。隊長が俺たちをチームに選んだワケ」
 と、ステップの下に座っていたジンが声をかけてきた。その内容に、俺とお嬢ちゃんの足元に円を成して座っていた他の三人もこちらを振り返る。
「なんだよ。想像つかねえな」
「へっへっへ……それはな、ズバリ、隊長と雑談したことがあるからだ」
「はあ? 雑談?」
 それがどうして隊の編成に関係があるのか、皆目見当もつかなくて、俺は四人に声音で回答を促した。
「そうだよ。まあ考察に考察を重ねた結果、導き出した俺たちの共通認識なんだけどよ……ハルビンにいた頃に別の任務で五人一緒になってさ、まあそのときはそれだけなんだが、その後話しかけられるようになったんだよ。わかるか? つまり、友だちだと思われてんだよ俺ら!」
 な? とジンは他の三人に同意を求める。すると、
「俺は一回一緒にランチ食ったぜ。ほぼ無言だったけどな」と、キンポー。
「俺は嫁さんの話聞かれたな」と、ピンユー。
「自分は夕食なににするって話」と、チェン。
「さりげなさすぎねえか……?」と、俺が指摘。
「バッカ、いいんだよ。あんな鉄面皮がその実おしゃべりだったらそのほうが怖いだろ。適量だよこんぐらいが」と、ジンが俺の膝を叩く。
 そして飛び出した、「お父さんってツンデレなの?」というアナスタシアの指摘に、皆で腹を抱えて笑う。彼には悪いが、ツンデレというタマでもない。なんてったって、わかりやすいデレがないのだ。
「俺にはデレたからツンデレで合ってるだろうが」
 腕を組んだジンリーはひとり誇らしげ。しかし本人に「アレはデレではない」と指摘され、「いやそういうことにしとけよ」と言葉を返している。彼らだって数えるほどしか言葉を交わしていないはずだが、もう家族として馴染んできているようだ。
 肉が煮えた。上品さに力強さが加わって、それまでほんのりとした塩味が僅かに強く感じられる。確かにこれは麺だなと思っていると、鍋に麺が投入されたので内心ガッツポーズをする。絶対に美味い。肉のパートになったことで元気になった虎虎豹たちが、「呂先生の味だな」と漏らして笑う声が聞こえて、お目付け役も大変だな、と俺も密かにその苦労を想う。そして、骨付き肉を嬉しそうにほぐしながら、それまでずっと静かにしていたお嬢ちゃんが、「ねえあなた」と俺を振り返った。すこし眠そうな瞼が可愛くて、「ん?」と返事をしながらその頬をつつく。すると彼女は真面目な顔で、
「あなたの娘が『パパってふたりいちゃいけないの?』って言ってきたら……どうする?」
 と、史上最大の難問をぶつけてきた。
「あー……うーん……ああー……」
 言葉を濁しながら、俺は考える。考えて考えて考える。
 ああ、まだ見ぬ俺のベイビー。絶対に可愛くて絶対に宝物の俺のベイビー。もしキミが「こっち、パパ! あっちのおじさん、お父さん! どうだあっ!」と言ってきたのなら……。その指差す先に、あの男がいたら。俺は……。
「あー……ごめん、保留で!」
 長考を濁すだけ濁して、回答すらも濁して、俺は「麺くれ!」と言いながら座っていたステップを降りる。背中でお嬢ちゃんが「あらまあしかたのないひと……」と漏らすのを聞きながら、俺は麺を求める列に並ぶ。並びながら、まだ考える。
 もしそんなことがあったとしたら。未来はわからない。それでも、そのとき俺が言うことは最初から決まっていた。
──キミが決めるんだ。どう選んでも、誰にもキミを咎める権利はない。それは、俺が保障する。
 でもまだ声にはできない。現時点でキミが生まれていないという以前に、まだ覚悟なかみが決まっていない。だって、絶対に嫌だよ今のところ。あの男だぞ? ……でもまあ「パパ、結婚を前提にお付き合いしている人がいるの……」よりはマシだ。そしてどっちも最悪ではない未来だ。なんとかなる。俺がなんとかすると保障する。ああ、俺のベイビー……。まだ産まれてもいないのに、俺を困らせないでくれ。




 End.


氷解の季節を何度逃しても
私が決めるこれが春風











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