『保守主義とは何か』『保守の真髄』
保守主義関連の本を2冊読んだので書きます。
①『保守主義とは何か』中公新書 宇野重規 著
保守主義を勉強してみようということで、時系列とともに、かつ他の思想との対比で内容が進んでゆく宇野先生のこの本を選びました。②が保守論客というのもあってバランスとるためにも。バランス取れてるのかはわかりまへんが。
②『保守の真髄』講談社現代新書 西部邁 著
2018年に自殺して亡くなられた保守の論客。存命中にもしかしたらテレビ等々で見たことがあるかもしれない。思想や文学や言語的な側面から論を展開する印象でしたが、案の定晦渋な文章。特に自分は文学にあまり関心がないもので… 手辺屁魯。
保守主義とは、その来歴は。
まず、保守主義というと、
「ネトウヨ排外主義みたいな?」
と連想する人はそれなりにいるかもしれない。もちろん自分が若者の代表値とは思わないが、自分たち若者が普通に接する情報からだとそのように感じてしまうことも多いのではないか。
もちろん本来の保守思想はそのようなものではないし、今回はその源流とされるエドモンド・バークの思想ももちろんそのようなものではなかったということを知った。
バークについての詳細は『保守主義とは何か』の1章にまとめられている。
アイルランド人でイギリスにいたバークはアメリカ独立に賛同した「自由の闘士」であった。そんなわけだからフランス革命の際にそれに賛同すると思われていた。
しかし、彼はフランス革命に反対した。
それはなぜか。
という問題がこの章の主眼である。
過去に回帰すべき範を求めるのではなく、抽象的な原理に基づいて未来へ跳躍すること―—バークが震撼したのは、そのような事態であった。(『保守主義とは何か』p.54)
「ポッと出の、『人権』という概念なんかで社会をつくろうなんざ…」
こんなところだろうか。
上記の引用で言えば、①「抽象性」と②「歴史との断絶」の2点をバークが否定した点が重要なのだろう。
ここでいう「抽象性」を理解する際に、本書2章で元LSE教授のオークショットに関する記述が理解を促すと感じた。
「自由」や「民主主義」、さらには「正義」といったものは、長い歴史的経験を抽象化して得られたものにほかならない。しかしながら、いったん得られたこれらの抽象的な原理は、ひとたび確立されると、あたかも経験から独立し、経験に先立って存在するものと捉えられがちである。…(中略)…人は抽象的命題からスタートすることはできない。人が何かを学ぶというのは、実践の場に参加し、そこでの行為や振る舞いに慣れ、そのルールを習得することにある。(同 p.105)
これを踏まえると、「社会に『人権』に関する具体的な慣行や習慣、コンセンサスがない中でいきなり抽象的な概念を移植してきても意味がない。」とバークは考えたということなのだろう。バークは「人権」に関する具体的な制度や慣行やコンセンサスが社会にしみこんでいくことを求めた。
そしてこうしてみると、2点目の②「歴史との断絶」を否定した点も理解できる。具体的な慣行の積み上げから抽象的な概念を確立させることを理想とするのだから、一歩一歩着実に、進んでいく必要があり、歴史と断絶したダイダラボッチ並みのクソデカ一歩ではあかんということだ。
(上記の引用から、「不法に対する一つ一つの闘争が、権利=法(レヒト)を生成する」という『権利の闘争』の議論を思い出した。)
なぜ「漸進的な」改革なのか
以下は、『保守の真髄』における西部先生の,、保守思想とは何かに関する記述。
一つに人間の認識と徳義がつねにインパーフェクト(不完全)であり、二つに社会というものが人間如きの合理では把握し切れぬコンプレキシティ(複雑性)を帯びており、三つに不合理が余程に目立たないかぎり、変化を作り出すに当たっては、グラデュアル(漸進的)であれ、というのが保守思想の極意だ。(『保守の真髄』p.40)
人間理性の限界を認め、その意味で人間は不完全であり、複雑な変数を持った社会を短期的に改良することなどできない、ということだろうか。
保守思想は元来、ただ単に「古いものを守る」ということではなく、改革を推進していく。しかし、それが漸進的であることを要求する。
自分は今まで、この「漸進的な改革」という意味がよくわからなかった。「難しいからゆっくりやりましょう。」くらいなものとしか考えていなかった。
しかし、オークショットに関する文章の引用の「抽象的な原理の移植」の話をみると、たちどころにその意味が理解されたように感じた。
具体的な慣習や制度、文化というものが「自然(ナチュラル)」になることが、変化において必要なのである。だからそれは必然的に時間を要するはずである。ということなのだろう。
平衡感覚としての伝統意識…
保守思想には「人間程度に社会の複雑性を把握し切れぬ」という感覚があることを見てきたが、ここで保守思想が重視するのが「伝統」という概念だろう。
まず、社会の複雑性とはどういうことかについてだが、フランス革命の例で西部は説明する。つまり、「フランス革命における『自由・平等・博愛・合理』の理想は、『秩序・格差・競合・情操』の現実が全く顧みられておらず、理想と現実の平衡を求める必要がある。そして、その平衡感覚こそ伝統に見出される。」というようなところだろうか。
つまり理想に狂舞したり、現実に凝固させられたりしてきた長い歴史の経緯から、両者の平衡の何たるかを洞察するということである。(『保守の真髄』P.44)
また、伝統とは「形式」であって「実体」としての文化(=慣習の体系)とは区別される。そして、慣習には良習も悪習もあり、それらを区別するものが平衡感覚の束としての伝統意識だということも述べられていた。
まぁただしかし、主に経済的に厳しい立場にいる人間が急進的になるのは理解できることだし、「中庸」を求めるのは酷だろうとも考えられる。「ものごとバランスだよね」という考えは強者の立場に安住している者の意見だと。
しかし、西部は「中庸(どちらかというと「平衡」という言葉を使うが)」と「折衷」を明確に区別する。
理想と現実のあいだの平衡というのは、けっして両者を足して二で割るようなエクレクティシズム(折衷)ではない。(『保守の真髄』P.43)
バランス(平衡)とは矛盾せる両方向への姿勢をそれぞれ最高度に保ちつつ、その間に生じる緊張を巧みに乗り越えていくということに他ならない。『保守の真髄』P.187
もし本来の保守思想がそうであればこそ、
現実に固執しがちな今の保守思想は、理想へのまなざしを忘れてはならない。
また、技術革新等々によって幾何級数的な爆速スピードの社会変動が起こる現代では、「適応:開放性と流動性を伴った保守思想(『保守主義とは何か』P.207)」と「抵抗:無限の開放への批判」の2つが検討されてしかるべきだ。
ここでいう「無限の開放」とはグローバリゼーションによる「人・モノ・金・情報」の無制限移動と独占を指す。
※そういえば、『リベリベ』の中で出てきた井上達夫の「我ら愚者の民主主義」と西部邁の「民主主義を疑う者たちによる民主主義」は同じなのかなと思いました、おわり。