雪組 フォルティッシッシモ-歓喜に歌え!-

「ベートーヴェンのような者」が観客の前に現前するということを再認識した作品。ナポレオンのような者、ゲーテのような者、そんなふうに見えた。これまでの歴史物のミュージカル作品では感じることのなかったファンタジー性。歴史上の人物そのものになることは決してできない、虚構が前提とされた舞台上において、あえてファンタジーに振り切った演出をした上田先生、さすがだなという気持ち。だがしかし、このコロナ禍において、オンライン演劇なるものが役者の二重性を担保できる媒介物がないと成立し得ないという事実を認識した今、生の舞台でファンタジーを観たいとは思えなかった。さらにやはり生オケでやるべき演目であった。コロナさえ無ければ…と思うが、コロナを踏まえた演出、作品にもっと振り切ることができていれば、現時点における完成度は高くなっていたのだろうと感じる。前々から上演作品が決まってしまっている、劇団という組織のデメリットかもしれない。

「私はゲーテ」でものすごく役者の二重性、身体を感じた。言った瞬間ゲーテになる。目の前の身体がゲーテになる。

謎の女の存在にモヤリがすごい。不幸の瞬間に訪れるとしたら、不幸というのは当事者ではなく第三者が決めているということにならざるを得ない。「私は雪の下に埋まった兵士」「私は親に見捨てられた子供」「私は敵陣に侵された女」などと最後に歌われることによって、不幸に立ち会う、もしくは不幸そのものという存在であることが明らかになってしまった。

不幸も運命だというメッセージだったということなのだろうか。。。

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