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わたしの生い立ち【母編】

前回の投稿で、わたしの生い立ちを書くのはちょっと疲れたので(早い)自分の母について書こうかなーと。

うちの母は世間様からみると完全に肝っ玉母ちゃん。
自分の友達からも敷布団の母ちゃん元気?
会いたいわー!と何故か仲良くなれる人。

たぶん、私の母ちゃんなんだけど私の周りの人からみても安心できるタイプの母ちゃんなんじゃないかとおもう。


前回の記事通り、私はほぼ一人っ子だった。
母はずーーーーーーーっと女の子がほしかったらしい。
念願の女の子に、それはそれは嬉しかったと。
お陰さまでしっかり箱にはいって育ちました。
でも、私がやりたいといったことは全て経験させてくれた。私が習うのに母も習っているかの如く共に闘う系の人。


幼い頃は母の存在は当たり前で、ありがたさも薄くて、むしろ鬱陶しくて、もっと若けりゃいいのに(兄と一回り違うんだからそれは無理)とかそんな感じだった。

だけど、父から守らないといけないから(前記事参照)、母を大事に大事にしてきた。私が悪さして母を泣かせることがあろうものなら自害したくなるほどだった。


私は大学卒業と同時に上京することを選択した。
これは親に相談しなかった。
なぜなら、逃げたかったから。
もっと楽になりたかったから。
そんなこと、母には言えなかった。


上京してみて、現実は違った。


離れて気づく親のありがたさ

これ、みんな言うよね?
本当に本当に本当にそうおもった。
当たり前が当たり前ではなかったこと、いつも感謝している気でいたこと。なによりも、上京して離れていてもいつまでも親が親であるということ。


私は元々から、うつの気質があったらしく実は上京前からうつをしっかり発症し引きこもった時期もあった。
上京してから元気に働いていた。看護師としてここで基盤を作るんだ!と意気込みも強かったし、なによりも良い仲間と出会えた。でも、うつは治ってなかった。
ある日夜勤明けから身体が動かなくなって、強烈な頭痛と吐き気、起き上がることのできないめまい、そして永遠と出る涙。簡潔に話すと、そのまま退職した。(簡潔すぎ?笑)


母にはほとんど言えなかった。
頑張ってることで安心しててほしかったから。
でも、母は勘が鋭い。すぐに東京にきてくれた。

そんなことが二度も三度もあった。

(結婚してからもあった)へへへ


産後は、しっかり産後うつになり今度は希死念慮も強かった。前夫はそんな私の状況に対して理解できないって感じだった。
もう限界だと感じ、母に相談したら数時間後には新幹線に乗ったから!と連絡がきた。
そして、私を連れて帰ると夫に言い、連れて帰らされた。
今思うと自分で判断できなくなっていたから帰るなんて選択肢がなかった。帰らせてくれた母ちゃんさすが。


いろーんなことがあって離婚すると決まったときも、離婚を決めてから親に話した。父は世間体や相手のことをあーだこーだ言っていたが、母は何があっても私の味方でいてくれると、ただそれだけ言ってくれた。


自分が母親になり、思うことがある。
親って偉大だ!とか、そんな言葉じゃ言い表せないほどの存在なんだと。いくらお金をかけて恩返ししてもなんの価値も生まないほどの深い愛情を幾つになっても注ぎ続けてくれる。


火の中、水のなかどこでもあんたを助けにいく。
どこにも居場所がなくてもここが居場所よ。
みんなが敵になっても私は死んであの世に行っても味方。

と摂食障害で苦しむ私にハグをしながらいつもいってくれる。


今の私には母がいないとだめだ。
長生きしてくれ。そう願うばかり。
でも、楽しい人生を送ってほしい。
母としても女性としても。

そのためには
私も早く自分の二本足でちゃんと立たないと。
親ってこんなに大変なのかと噛み締めながら少しずつ自分も親になっていかないと。いつまでも私が甘ちゃん娘じゃ我が子も育たんな。



さぁ、長い夜が来た。
ほぼ寝れなくて時間が経つのがやたらと遅い。
前は苦しかったけど、最近はもう苦しくない。
いつか、寝れて食べれて自分も肝っ玉母ちゃんになれるように、そろそろ布団に入ろう。


母の元に産まれてこれたことに感謝。
今も迷惑かけながらもそばで生活できて幸せ。
いつもありがとう。

今回はここまで。

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