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「べらぼう」 第4話 『雛(ひな)形若菜』の甘い罠(わな)

さて、昨日、大河ドラマ「べらぼう」の第4話が放送されました。

この第4話を見て思ったのですが、今回の大河ドラマは、時代考証が緻密で江戸時代ファンであれば、狂喜乱舞したくなる映像となっています。

江戸中期の話であり、根拠となる資料が多数存在しているのが最大の理由ですが、本ドラマは「江戸のメディア王」である蔦重の話なので浮世絵が絵コンテとなって映像が作られているようです。

ジャパンブルー

例えば、蔦重が平賀源内と偶然出会う場所が日本橋であり、これは歌川広重の「東海道五拾三次」の構図がそのまま利用されています。

下の浮世絵は、日本橋から参勤交代の列が出発する様子が描かれていますが、左下に江戸っ子が5人描かれています。

この5人の中の2人(右端と左端)が、来ているのが藍染の着物です。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

この藍染ですが、鎌倉時代以降、武士の間では「縁起の良い色」(勝色)として好まれ、日本人の生活に深く根付いており、特に、江戸中期には江戸っ子に人気でした。

この「藍染」は、植物染料「藍」を用いた染色技法そのもの、又は、染められた布地そのものを藍染と呼んでいました。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

藍の色素は不溶性(液体に溶けない、または溶けずらい)のため、他の染料植物と同じように煮ても色素は取り出せません。

まず、藍を甕(かめ)に入れて発酵(蒅/すくも)させた後に、還元剤(石灰や灰、小麦粉や糖、酒など)を使って藍液を作ります。この作業を「建てる」といいます。

こうしてできた藍液に糸や生地を浸し、その後、空気にさらすと直後は黄土色となり、徐々に酸化して青に発色していきます。

そして、この染の回数を変えることにより、藍色の濃淡を変えることができます。1回染めは甕をちょっと覗いた程度という意味で「甕覗(かめのぞき)」、3〜4回は「浅葱(あさぎ)」、7〜8回は「納戸」、9〜10回は「縹(はなだ)」、16〜18回は「紺」、19〜23回染めはもっとも濃い「褐色(かっしょく、かちいろ)」のように濃くなっていきます。

また、藍は染色の基本とされ、そこに他の染料を合わせることで様々な色を表現できました。例えば、藍で下染めしたものを、さらに黄蘗(きはだ)で染めると緑に、紅花で染めると薄紫など、染色のベースとして多用されていたようです。

この藍染が江戸時代中期以降に、武士のみでなく庶民一般に広まったのには理由があります。
その理由とは、藍染はどのような布地でもよく染まり、綿、絹、麻それぞれに特徴ある青を表現できること。中でも木綿との相性はよく、当時、木綿が庶民の衣類として定着していった中で、幅広く普及したようです。

この様に、庶民に人気のあった「藍色」(インディゴブルー)は、浮世絵にも多く使われることとなります。その代表的なのが、歌川広重が使った「藍色」です。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

上の浮世絵は、歌川広重の最晩年の代表作「名所江戸百景」シリーズの中の、江戸の芝居小屋の三座(森田座・市村座・中村座)が集められた猿若町の夜の風景を描いたものです。

この広重の浮世絵は、その構図及び広重が多用した「藍色」が、後に印象派の画家達に影響を与えており、広重の藍色が「広重ブルー」と呼ばれ、明治以降では、これが「ジャッパンブルー」と呼ばれるようなります。

日本代表のユニホームの色に、藍色(青色)が多いのは、江戸時代から馴染み深い色であったからではないかと思います。

火除け地

1657年(明暦3年)、江戸の6割が焼失した明暦の大火が発生、江戸の街は焼土と化します。明暦の大火後、幕府は今までにない防災視点の都市づくりを行うこととなります。

それまでは、江戸が軍事拠点でしたので、大川(隅田川)に架ける橋は、江戸の北の端にある千住大橋しか許可していませんでしたが、明暦の大火後、には、大名屋敷や寺社仏閣そして一般家屋までも大川を超えて本所、深川へと移駐させます。このため、交通の便を良くするために、新しく吾妻橋、両国橋、永代橋などを作ります。

そして、それらの橋を使って効果的な避難経路を確保するため、「広小路」という広い街路も設けられます。代表的な広小路には、両国橋のたもとの両国広小路、寛永寺参道の上野広小路などがあります。

ただし、火除地は単なる空地だったわけではなく、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に利用を許されていたそうです。このため、幕府の薬園や馬場、小規模な露店並びそして小規模な芝居小屋が設置されている例があります。

下の絵は、「東都両國橋夕凉之圖」という浮世絵で、この広小路の様子が描かれています。

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

中央に大川(隅田川)。左には両国橋があり、前方が西両国広小路となっています。
そして、中央には、屋台が並び、左下には、ドラマで描かれていたように芝居小屋の一部が描かれています。

因みに、隅田川対岸の東両国広小路の一角(現在の両国国技館付近)で勧進相撲が始まり、その後これが大相撲の元祖となっています。

江戸時代の食変化

もう一度、上の絵を見てください。上の絵の中段に書かれているのが、全て屋台となっています。

江戸時代の初期頃までは、庶民は1日に朝夕の2食を習慣としていました。朝早くから起きてひと仕事終えたあとに朝飯を食べ、仕事の合間に遅い昼飯を食べていたそうです。

それでも、大工などの力仕事の職人は間食していたようで、肉体労働をしていたのだから、2回の食事ではもたなかったようです。それを見た清少納言の驚いた様子が「枕草子」に書かれています。

「たくみの物食ふこそ、いと怪(あや)しけれ。寝殿を建てて、東の対(たい)だちたる屋を造るとて、たくみども居並(ゐな)みて、物食ふを、、、」

公家の世界では、もともと朝食をお昼くらいに、夕食を夕方4時頃にとっていました。其の為に、朝夕以外に間食をする大工たちが不思議に写ったのでしょう。

また、江戸時代の初期までは、まだ、外食の習慣さえもありませんでした。何故なら、戦国時代などでは、外で食事をした場合、毒を盛られる可能性があるからです。

しかし、これら食事事情が変化したのは、明暦の大火(1657年)以降といわれています。

この明暦の大火からの復興のために、各地から大工、左官、鳶(とび)などの職人、土方たちが集まってきました。そして、ここから食事事情が大きく変わることとなります。

これら職人や土方は、肉体労働であり、平安時代と同様に二食では足らずに、一日三食となります。また、仕事中に家に帰って食事を取る時間など無かった為に、江戸のあちこちに彼ら肉体労働者や、家財を失った被災者のために屋台や飯屋ができるようになりました。このようにして急速に外食産業が栄えました。

普段は絶対に他人に食をゆだねない武士も火災後の事情が事情なだけに、外食しました。そうなると、外食が特別なものでなく、一般的なものとして江戸中に抵抗なく広がっていったのです。

そして、これら屋台が、空き地であった広小路に集まり、上の絵のように飲食店街へとなっていきます。

この当時、江戸の四大外食といわれた料理は、蕎麦、寿司、天ぷら、そして鰻(うなぎ)です。また、変わった所では、鯣屋(するめや/焼き烏賊屋)や四文屋(四文(約50円)均一の飲食物を売る屋台で、串に刺した「おでん」のような食べ物を売っていたところです。外食の百均みたいな感じです。

よく寿司屋で「江戸前」という看板を見たことがあると思いますが、実はこの「江戸前」とは、深川沖で取れた鰻(うなぎ)を指して言う言葉だったそうです。

江戸時代、鰻の名産地は深川でした。深川は隅田川の向こう側です。その昔、川向こうは「江戸の前」ということで、深川産の鰻を「江戸前」と呼ぶようになり、この言葉は後に、おそらく幕末から明治期にかけて「東京湾で取れる魚」へと変化したようです。

土用の丑の日に鰻

「土用の丑の日に鰻を食べると良い」と言い出したのが、ドラマでもよく登場する平賀源内が、起源といわれていますが、これは確かに冬が旬の鰻を夏に食べてもらうために、平賀源内が鰻屋に頼まれて作ったキャッチコピーですが、実は、これは書物に書かれたものを、そのまま、パクって作ったものであると言われています。

実際、兼好法師の「徒然草」の第百二十二段に「食は人の天なり」と書かれている通り、食と医は、一体であり、古来より土用の丑の日に「う」の付く食べ物が良いとされていました。

「う」の付く食べ物の中で代表的なのが、「鰻」と「梅干し」。どちらも暑い夏を乗り越えるためのビタミンとクエン酸が豊富であるためです。

日本堤

「べらぼう」でよく出てくるシーンが、この日本堤です。

江戸時代初期では、江戸は葦が生い茂る沼地が広がっていましたが、埋立て等により人が住めるように都市が作られました。

其の為に、江戸は、火事と共に水害が多かったといわれています。治水事業の一環として、元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、荒川の川筋である浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から北西方向へ箕輪浄閑寺にかけて高さ7mある堤が作られます。これが「日本堤」です。

この「日本堤」の土手上は周囲を見渡せる見通しのよい街道となっており、両側には、松の木が植えられており、長さが6町あったことから「土手八丁」とも呼ばれていました。その中央部分に吉原があったために、吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わったそうです。

因みに、この「日本堤」の東側には、江戸の芝居小屋の三座(森田座・市村座・中村座)が集められた猿若町もあり、この地域が、吉原と共に江戸の一大娯楽街となっています。

以上、4千文字を使い説明してきた上の情報は、実は、「べらぼう」の第4話で、地本問屋・鱗形屋のある日本橋から、蔦重が平賀源内と偶然出会い、両国の西広小路を通って、日本堤を通り、そして吉原に到着するまでのシーンに言われないと分からないほど、それとなく登場しています。

次回は、第4話の半分を使って語られていた、江戸幕府内での権力闘争について書きます。





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